2037年 2月3日
―――東京 湾岸テレビスタジオ 第2控え室―――
「―――
「―――あ、はい。すぐ行きます!」
呼ばれて顔を上げる。時計の針は、予定通りのリハ入りの時間を指していた。
気づけば、自分は『
その事実を胸のどこかでまだ信じきれないまま、俺は立ち上がり、仕事用の声と表情を顔に貼りつけてスタジオに入る。
あれから数年、自分は『
そして夜に書いた詞は、昼間に公園などで歌い上げる。夜になれば色々な人が、この歌声に耳を傾けてくれるのが嬉しかった。
そんな中、偶然にも自分の歌を今の音楽プロダクション会社のプロデューサーが聴いてくれていた。全くの無名な自分に名刺を差し出してくれたのだ。
「―――貴方の歌、すごく素敵だったわ。私と一緒に
突然の事に呆然としたが、プロデューサーの言葉に胸が熱くなりその言葉に二つ返事で了承した。
こうして自分は歌手デビューを果たした。最初はトレンドに合わせた楽曲を作っていたが、鳴かず飛ばずでなかなか売れなかった。そんな中、レコーディング中にプロデューサーは自分に対してこう言ったのだ。
「私が求めているのは
その言葉で自分は目が覚めた。今まで自分なりにやってきたことは間違っていなかったのだと証明してくれたのだ‥‥。
自分はそこからは本当に自分の伝えたいことを形にすることに専念していった。日常の何気ない風景、誰かに伝えたい想いや愛とノイズのない平和への願いなど‥‥ありのままの自分を歌詞に
ただ自分の歌詞が古臭いのか世間では『庶民派シンガー』『親近感の湧くアーティスト』等と紹介され、皮肉にも昔の自分とは真逆の評価を受けるようになってしまったのだが‥‥それもそれで悪くはないと思っている。『身近でいてほしい』と言ってくれる人がいるという事実は、かつて誰にも必要とされなかった自分には、それだけで救いだったからだ。
最近は街を歩けば時々自分の事を知っているファンの方に声をかけられる。
『―――いつもあなたの曲を聴いてます!最近辛いことがあったんですけど‥‥でもあなたの前向きな曲に励まされました!』
「‥‥あぁ、ありがとう」
それは明るい普通の女子高生だった。彼女はただ笑顔で握手を求めてきた。
『―――那須さんの曲、僕は好きなんですよ。田舎の母親を思い出して‥‥今度実家に帰ろうと思えました』
「‥‥‥それは、よかったです」
それは少し疲れた顔のサラリーマンだった。恥ずかしそうに家族のことを話すと、自分のサインを頼まれた。
彼が最後に丁寧にお辞儀をして去っていく、その瞬間、自分の歌はちゃんと
「―――あとライブまで一ヶ月か‥‥」
ふとカレンダーを見て気が付く。「初めての大型単独ライブ」それは
『自分の歌を多くの人の前で歌って、
そんな母に話した夢が現実のものになってきたのだ。だがまだ自分は夢の途中であり、ここで満足してはいけない事を自覚している。
「那須さーん!巻きでお願いします!」
急かす声に焦りを覚えながらも自分の仕事を成し遂げていく。まだまだこれからだ‥‥こんなところで立ち止まってはいられない。自分の歌詞が人々の元に届き、みんなの心に染み渡れば、きっと笑顔を咲かせることが出来る。その事が嬉しくて自分は今日も声を張り上げて歌うのだ。
「疲れたぁ‥‥少し張り切りすぎたか。」
曲の収録を終えて楽屋へ帰って来た自分は床に倒れ込み、ぐったりと脱力する。スケジュールの都合で三十分程休憩出来るため、その間に栄養補給をしたり体を休ませたりするようにしている。
今日も朝早くからスタジオで練習があり、終わった後はラジオに出演し、現在は深夜に放送している音楽番組に生出演するという過密な一日だった。疲労の余りこのまま眠りに落ちそうになった時、ふと自分に宛がわれている机に置かれている物に目をやった。
それは何処にでもあるゴシップ記事が刷られた週刊誌である。
「‥‥誰かの忘れ物か?」
何気なく手に取ってみる。中身はよくある芸能人の不倫記事やスポーツの結果の記事なんかが書かれているだけだ。あまり好きではないものではあるが、流し読みしていくとあるページに書かれている見出しを見て手が止まった。
《庶民派シンガーソングライターN氏の出自は有名武家Kの
「‥‥は?」
目に入った瞬間、胃が一気に冷たくなるのが分かった。そして自分の手が震えてくるのを感じた。その手で開いた次のページにはこう書き出しされていた。
『庶民派として親しまれているシンガーソングライターのN氏。その歌詞に共感できる人は多く、SNS等では非常に好評を博している模様だが、だが実際はファンを裏切る出自であるようだ‥‥。』
「‥‥‥嘘だ」
『”市井の味方“や”庶民の代弁者”を気取るその素顔は──実は名家の血を引く特権階級の
そこには俺の生い立ちが、写真付きで、飾り立てられていた。
―――俺が本当に知ってほしかったのは、指が切れるまで弾いていた
並べられていたのは『
『第78回全国音楽コンクールにて
『某世界的音楽家
『兄弟は
次から次に
それからこの記事は
――
あれはただの嫌味や
逃げたつもりでも、舞台の上に立った瞬間に「
その日以降、歌う前にいつも感じていたあの胸の
「.....お前は
収録を終えると廊下ではスタッフが自分について笑っている声が聞こえた。
「―――ねぇ、あの人が.....本当なの?」
「―――静かに、聞こえるわ‥」
この前まで自分に向いていたはずの明るい声が、まるで別の世界の音みたいに遠く暗く感じる。
そしてある日、自分の体に異変が訪れた。最初はただの喉の痛み程度であったが、症状は徐々に悪化していきレコーディング中に激痛が襲ってきた。
「‥‥!?」
(―――声が出ない!)
喉から先が、なくなっていた。叫ぼうとしても、声がどこにも見つからない。息だけが漏れる。俺じゃないみたいな、空回りする呼吸音だけがスタジオに転がった。
痛みに耐えかねて、膝から崩れ落ちた自分の姿を見て現場の人間が慌ただしく動きだす。口を大きく開け、懸命に歌を紡ごうとするが自分の口から出るのは掠れて空気だけが漏れた音のみだった。
それから救急車で病院に搬送されるも、原因が分からないことから数日にわたる精密検査を行うも依然として原因は分からなかった。そしてそのまま医師から告げられる現実を直視出来ずにいた。
「―――
白衣の男は、カルテから目を離さないまま淡々と言った。
(―――は?)
「―――
そこから先の説明は、もう耳に入ってこなかった。それ以前に目の前の医者の言葉が衝撃的過ぎたのか理解する事が出来なかった。歌うことが
‥‥
‥‥どうして?
自分はこれまで歌いながら多くの人々を喜ばせながら幸せを
『貴方が夢を諦めなければ、
『―――お前なら
母との約束は? 兄貴達の期待はどうすればいいというのか‥‥。
『―――翔逸おじさん!』
翼は、
でも、唯一母との繋がりを感じることが出来た
「
あの人は「
飛んだつもりの愚かな
―――
その瞬間、もう一度あの父の言葉が再び脳の中で鳴り響く。父はこの事を見越して‥‥いや、
だからこそあの時、自分に敢えてこの過酷な選択を許したのだ―――!
自分は、また一人ぼっちになった。もう誰も頼れる相手がいない。兄貴からのメールが来るが返事は書けていない。歌えなくなった自分など、誰も愛してくれないと思っていたからだ。
本当は、『助けて』って一言だけでも打ちたかった。でも送ってしまったら、
―――だから送らなかった。結局、自分は
いつの日か完全に話すことが出来なくなり、誰からも見放され存在すら認知してもらえなくなるのではないかと考えただけで身震いし絶望を覚えた。そして、自分の心が壊れる音が確かに聞こえてきた‥‥。
その音はまるで何かが粉々に砕けて崩壊してしまったかの様な物悲しいメロディだった‥‥。
「―――ふふふっ‥‥ははは‥‥はははははは!!」
笑っているはずなのに、音になっていない。喉から出たのは、壊れかけたスピーカーみたいな掠れだった。笑いが止まったとき、部屋には何も残っていなかった。
声も、拍手も、約束も、誰の名前も、残っているのは、
『ビリビリに破かれたライブのチラシ 』『かつて母のために書いた歌詞ノート』
―――ああ、本当に馬鹿みたいだ‥‥俺は一体、
‥‥‥急に目の前が真っ暗になり全てがどうでもよくなった。
それから自分は
何かから逃げるように、全てを捨てて、遠い街へと消えた。
―――もう『
――KEYWORD 用語·設定解説――
【ドームライブ】
那須英嗣(風鳴翔逸)が歌手として活動していた頃に掲げていた、最大の夢のひとつ。
「自分の歌を多くの人の前で歌い、多くの人を幸せにしたい」という願いの集大成として位置付けられており、彼にとっては“歌手としての終着点”でもあった。
しかし、風鳴家の血筋を暴くスキャンダル報道をきっかけに心因性の失声と芸能界引退へ追い込まれ、このドームライブは実現することなく潰えてしまう。
その会場は後の数年後、原作第一話においてツヴァイウィング(天羽奏・風鳴翼)が歌う舞台と同一であり、「歌えなかった男の夢の場所で、天羽奏が『絶唱』をする」という、皮肉で象徴的な対比を成す場所となっている。