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再起動の灯火
2038年 6月12日
──特異災害対策機動部二課 職員棟廊下―――
二課に配属されてから、もう半年が経つ。
『特異災害対策機動部二課』
政府直属の新設組織。だが実態は、旧風鳴機関の延長線に過ぎなかった。
オフィスの片隅では、蛍光灯の
目を閉じても、耳の奥でノイズが鳴り止まない。
『聞いたか?風鳴司令の
『あぁ‥‥本家放蕩息子の帰還だとさ、噂に違わぬ
そんな噂は、壁越しにでも聞こえる。だが、聞き流す技術だけはもう身についていた。代わりに残ったのは、ただ沈黙を積み重ねる毎日だけだ。
「―――おい、翔、どうせ色々鬱憤がたまってるだろ?久し振りに組手でもするか?」
仕事終わりにいつもの赤いシャツを着た兄貴は、自分の肩を叩いて敢えて気さくに話し掛けてくる。日頃の振る舞いから武骨で鈍感な性格だと思われがちだが、自分が実家にいた頃から兄貴は兄貴なりに考えて気を遣ってくれている。
「‥‥‥俺を■すつもりか?」
「‥‥馬鹿言うな、可愛い弟を苛めるつもりはないよ、ただお前を二課の一員として鍛えあげるだけだ‥‥‥
自信満々に腕を組み、太陽が煌めくような明るい眼差しで自分を見つめている。
(―――あぁ、
だがその眩しいほどの期待の視線が本当は嫌いではなかった。それはまだ自分には価値があると思わせてくれる優しい視線だからだ‥‥‥。
「‥‥‥はぁ、分かったよ!行くよ、兄貴が満足するまで付き合うよ!」
思わずため息を吐いて覚悟決める。確かに今の自分には何もかもが足りてないのは事実だ。今はそれを受け止めなければならない。
「本当か?よし!先に俺はトレーニング室で待ってるからな‥‥‥‥」
満足いく返答を貰った兄貴は足音をカツカツと鳴らして奥に消える‥‥‥やはり逃げるべきだっかもしれない。
それから1時間後、弦十郎の兄貴の『稽古』と称する一方的な『蹂躙』を終えると、自分はトレーニング室の中心で天井を仰いでいた、指先一つ動けないほどに疲労困憊して、筋繊維は悲鳴を超えてもはや沈黙を貫いている。
「‥‥‥‥‥オエッ」
稽古を終えてから間抜けな声だけが漏れ、唇は動かす気力もない。まさに満身創痍とはこの事だろう。
「ふぅ‥‥‥久し振りに良い鍛錬になったな、感謝するぞ、翔」
一方、元凶である当人は少し汗を掛けながらも、まだまだ余裕ある様子でシャツの袖で汗を拭いている。
「うん‥‥‥やはりお前は筋が良い。今の組手の中でもお前は自身の『感覚』を活用して、お前の場合は特に『聴覚』だな‥‥‥」
そして兄貴も久し振りの組手が嬉しかったのだろう。此方が聞いてもいないのに冷静に解説を始めている。
「―――無意識か知らないが、技から繰り出される僅かな音の違いを感じ取り、目で合わせて俺の攻撃を避けていたように感じた‥‥‥感心したぞ、流石アーティストなだけある」
(‥‥‥馬鹿兄貴め、あれは生命の危機を感じた本能の領域だ、なんで基礎的な技の『衝拳』や『挿脚』で命の危機を感じないといけないんだ‥‥‥あと最後は
稽古の開始と同時に自分の耳を掠めた兄貴の衝拳は、自分の生存本能を掻き立てるには充分過ぎるほどの音だった‥‥‥あんなのは人類が出していい領域の音ではない。
「‥‥‥‥‥」
自分はただ首を僅かに横に振り、せめてもの抵抗の意思を示した。
―――それから数時間後、ようやく身体が動く様になり、稽古の汗を流す為にシャワー室へ向かっていた。
「‥‥‥やっと着いた」
夜更けの廊下は、人の気配を忘れたように静まり返っている。引きずった足でシャワールームに入ると、タイルの冷たさが裸足を刺した。ノズルを捻ると、湯気が音もなく立ち上り、鏡の中に自分の顔がぼやける。かつて兄貴に憧れて染めた赤い髪は仕事で目立たなくする為に黒に戻した。
―――それは歌手の名残を隠すように。過去の自分を、湯に溶かすように‥‥‥もう捨てたつもりだったものがふと甦るときがある。
それからシャワー室から出て身を整えると、迷わず自分の部屋に戻り、そして死んだようにベッドに沈んでいった‥‥‥。
◇◇
「はぁ‥‥駄目だ‥‥全く集中できない‥‥」
キーボードを叩く手を止めて一息つく‥‥慣れない仕事、周りからの評価、そんなものより自分を悩ませるものがあった。
―それは研究記録のファイルの中に、見覚えのある名前 ―
【第一号聖遺物適合者
久し振りにその名を見た瞬間、胸の奥で古い弦が
それは先日、数年ぶりに翼と会う機会があった時のことだ。聖遺物の調査に関係して、彼女は一時的に二課を訪れていた。
『‥‥‥‥
最初に会った頃は、まだ幼い少女だった。八紘兄上の後ろに隠れて恥ずかしそうに顔を出していたのを今でも覚えている。それが今や、背を伸ばし、凛とした目で前を見据える大人になっていた。彼女の成長ぶりに胸が熱くなるのを感じていた。
(‥‥何を今更恐れてる。昔のように振る舞えば‥‥‥いや、それは図々しいか、でもな‥‥)
自分の心のなかで何度も再会の言葉を繰り返しながらゆっくりと近づく
そして覚悟を決める。恐る恐る声を出した瞬間、喉の奥がひどく痛んだ。まるで使われずに錆びついた楽器の弦を無理に弾いたように。
「―――つ、翼‥‥元気だったか?‥‥俺のこと、覚えてるよな?」
色んな感情が渦巻きながらも、気丈に振る舞う様子が自分でも酷く滑稽に感じる―――身長も高くなり顔つきも何処か大人びていた翼は自分の方を振り返り、笑顔の表情を見せると
「―――
翼はそう言って軽く頭を下げるだけで、それ以上の会話を交わすこともなく立ち去っていったのである‥‥。
「‥‥‥‥‥」
自分は先ほどまでの出来事が理解が出来ずただ茫然としていた。
大人びた笑顔に翼の声は、澄んでいるのに冷たかった。
感情を削ぎ落とした、刀のような言葉。
その声色の奥に、防人の血が確かに流れていることを、
あの頃の想い出が遠い昔のように思えてくる‥‥‥。
「―――あぁ、やっぱりこうなっちまったか‥‥」
廊下の突き当たり、薄い蛍光灯の下に弦十郎兄貴の姿があった。彼は腕を組み、いつものように肩をすくめていた。
「だが、お前の自業自得でもあるんだぞ?」
「‥‥‥ま、待ってくれ、俺が何をしたって言うんだよ」
「―――何もしなかったんだろう。あの子に
―――そうだ翼に何も言わずに出ていった。
《‥‥‥あの子の顔を見ると、きっと決意が鈍ってしまうから‥‥悪いけど、
彼女の未来を守るために黙って行ったつもりだった。だが実際は、翼とは向き合わず黙っていたことで大事な
「兄貴の言う通りだ、俺は‥‥‥」
――その時、また塞ぎ込んだ自分を励ますように強烈な『
「‥‥‥効いたか?」
「―――ッ、あぁ、よく効いたよ、俺の悪い癖だな‥‥‥」
また以前のように後ろ向きな考えに陥るところだった。その直前で兄貴は上手く引き戻してくれた。
「‥‥‥安心しろ、きっと翼はお前を恨んでるわけじゃない。きっと内心はまだお前の言葉を待っている‥‥今は難しいかもしれんが、翼のことは諦めるんじゃなくて、自分自身でケジメをつけろ‥‥いいな?」
兄貴なりの慰めの言葉が、静かに自分の胸を打ったのを覚えている。
「‥‥‥分かった、なんとかやってみるよ」
◇◇
時計の針は、いつの間にか深夜十二時を指していた。パソコンのモニタに映る自分の顔はひどく疲れて見える。
「……もうこんな時間、少し休むか」
書類のすれる音とキーボードを叩く音が、ゆっくりと子守唄に変わっていく。
やがて限界を迎えた自分は椅子に身を預け、目を閉じる。
―――眠りに落ちる寸前、耳の奥で微かに誰かの『歌声』がした気がした
『―――~♪ ~♪ ~』
それは、母の声か、翼の声か、自分自身の残響か
もう確かめる気力もなく、意識は闇に沈んだ。
それは、
あの日の夏の匂いがノイズの向こうから―――そっと流れ込んでくる。
――KEYWORD 用語·設定解説――
【子守唄】
赤ん坊や幼い子どもを寝かしつけるために歌われる歌。穏やかな旋律と繰り返しの多い歌詞が特徴で、世界中の文化に存在する。翔逸にとって亡くなった母からの子守唄は安らぎの記憶であり、彼も時々その夢を見ることがある。