マジカルパージ 作:メールの返信は2営業日以内
吐いた息の白さに逆らえぬ出勤の憂鬱さを感じながら、ありふれた道を歩く。春の訪れを告げる日差しを浴びていれば、それほど気にならないぐらいの寒さだ。日陰には未だに冬が潜んでいて、野良猫の昼寝姿もそこにはなかった。ともすれば、すり切れた心の癒しは何に求めよう。答えは視界の中に、既にあった。
太陽が二つあった。
一つは小さく左の方にあって、直視すると目が痛くなった。
一つは頭上、飛行機の後ろにあって、見上げると首が痛くなった。
機能美が凝縮された機体の影が、その強烈な熱に乗せられて輪郭を持った。如何にもそれらしい、情緒的な光景だった。心を治すわけではないが原動力にはなる、そんな光景だった。
どうやら知らぬ間に見入ってしまったらしく、私の足は止まっていた。直立するときに重心を片方に寄せてしまう生来の姿勢の悪さと躾のなってなさは、数年前に両親に責任を追求してみたはいいものの、十三回忌を超えたあたりで数えるのを辞めた法事における対親族用の鉄板ネタの域を脱していない。
気付けば、いつの間にか隣に来ていたカメラを持った冴えない若人が、人生の転機を今この瞬間であると心得たように汗を垂らしながら、必死にピントを合わせようと試みていた。なるほど当然である。私も今しがた太陽が二つ存在するという事実を初めて受容したのだから。その影響についてまで考察することはしない。ただあるがままの現状を認識する以上の労力は無駄だと知っていた。
衝撃の清算が頭の中で完了した頃、往来の人々はまだ魅了された状態で突っ立っている。試しに、道沿いに佇んでいる老舗と呼ぶのがふさわしい渋みを醸し出しているカフェの、テラス席で新聞を広げている男の対面へおもむろに座り、少しぬるくなったコーヒーを一息に飲み干してみたが、彼はこちらへ目を向けることもしなかった。
手持ち無沙汰になってしまったので、目の前の新聞を覗き見る。
───魔法党と国民の会、連合へ。東西問題解決にむけて協調路線か。
どうやら、世間では我が国の政治が注目されているようだ。魔法党は超自然的主義を掲げる保守層だ。主に魔法的特権階級が支持層になっている。他方、国民の会は民主主義派閥の最大手だ。現在の与党ではあるものの、戦時下の一党独裁体制を源流に持つ彼らには資本主義と社会主義が混在している。故に国政の軸は定まらず、官僚も利害調整に苦労しているというのは国民の常識だ。
その両者が手を組むというのは、非常に印象的な出来事になるはずだ。基本的に、魔力を持つ人間は絶対少数でありながら権力者であることが多く、先天的な優位を弁護する諸理論は教育制度の発展とともに効力を失っている。今日、魔法的特権階級の代名詞とされているのは「意思を持った暴力」で、反魔運動のプロパガンダとして見かけない日はない。早い話、資本家よりも魔法使いの方が嫌われていて、恐れられていて、石を投げられているのだ。
だがしかし、これまで魔法使いに石を投げられた平民はいない。生きていけないからである。戦争になれば彼らは国防の要となる。自然と超自然は一方的な関係だ。こちらに石は効かないが、向こうに魔法は効く。無論、魔法はこちらにも効くが、それはお互い様だ。先に殺せばよい。
この歪んだ構造にメスを入れたのが、先の大戦だった。国家同士の総力戦は、国民意識と平等を標榜する理想論を発芽させた。それまで、超自然として別の枠組みに当てはめていた魔法使いを、あろうことか同じ人と定義してしまったのである。
制度として保障されていた特権のほぼすべてを政府は廃止した。資本家たちは、資本主義自由経済に脳を焼かれ、金銭報酬がそれに代替すると信じて疑わなかった。国家の首輪を解かれた犬畜生が、何をしでかすかなんて、私たちはわかっていたのに。それでも、あちらは地獄への道を進んだ。まずいとは思ったのだろう。有史以前、彼らがどのような生活を送っていたかを考えれば、この政変を結末は容易に想像がついた。
協調路線は悪くない。与党に抱き込むことで、国政における最大の障壁は緩和でき、内内での利害調整も容易になる。これ以上無い政策だった。これしかない政策でもあった。
惜しかったのは、超自然主義派閥、所謂魔法使いたちの中でも、とりわけタカ派は伝統と歴史に固執していたことだ。たった一度の失敗を許すぐらいの度量を身に着けるには、それなりの時間が必要だ。そして、タカ派の旗振り役はまだ若かった。
正直な話、与党は運がなかったと思う。やるべきことはやっていたのだ。ただ、絶対にやってはいけないことをしてしまっただけなのだ。
頭上で、何かが爆ぜる音がした。遅れてやってきた衝撃波は辺りを強かに殴りつけ、支えのないすべての物を吹き飛ばした。
人はおおよそ、5メートルから6メートルほど飛んだようだ。上手く力を逃がせなかった人は大なり小なり傷を負っている。当たり所が悪かった人は意識を失っている。
例にもれず、遠くへ飛んでいった写真家ないし記者と思われる少年は、ハッと何かに気付いたかと思うと、震える手を歯を食いしばって抑えながらレンズをこちらに向けてきた。
何の被害も無く立っている私に、周囲の視線も自然と集まっていた。その中に一人、周りとは雰囲気の違う若い女がいた。彼女もまた、この惨劇にあって何も異変のない様子だ。
いや、まだ若いとは言える容貌だが、少々痛々しい服装をしていた。非常に淡い色彩にフリルの多いファッションを、前世では何と言ったか。正直なところ、それを思い出したとて、彼女に対する悪口を補強する材料にしかならないだろう。魔法を行使する少女が着ていそうな、超自然的な過程を経て換装される戦闘服のような装いだ。極めて似合っていないが、本人はすでに振り切れている様子で私がわざわざ口に出す必要はなかった。満面の笑みを浮かべてすらいる。
「我々を舐めるからこんなことになるんだよ!指先から火すら出せない劣等種は、家で大人しくマッチ棒でも擦っていろ!」
……随分ご立腹のご様子だ。
けれど、そんな汚い罵倒に気を取られる人間は誰もいなかった。そのような余裕はなかったのである。
皆一様に空を見上げていた。普段は厭世的な目をしている癖に、今日はやけに瞳が輝いていた。単に、あてられた光が強すぎるだけだが。
戦後復興期は今や過去の話。軋轢ばかり増していく国内の対立と、超大国に振り回されて疲弊する世界。不満のはけ口として利用されてきたこちらとしては、憎まれるまでは慣れていたが、実害が出てしまっては対処せざるを得ない。私はどちらかと言うと、ハト派である。あくまでお互いを尊重して、共に善く生きましょうとこれから議会で語ってくる予定だ。予定だったのだ。
「タカ派って本当に有言実行するもんなんだなぁ」
思わず、しみじみと感じ入ってしまった。想起されるは、数々の面倒くさい仕事とその処理に追われる自分の姿であった。
苦し紛れに首を回すと、パキッと空気の抜ける子気味良い音と時を同じくして、もう一度爆音が鳴り響いた。
何をどう考えても、音の出処は飛行機である。不運にも、太陽とぶつかってしまったようだ。私の常識では、太陽は中々遠い印象だったのだが、案外近かったようだ。
黒煙を吹き出しながら、機体の一部が市街地へと降り注ぐ。果たして、これは大丈夫なんだろうか。落下地点に人がいたら危ない。仮に命が奪われなかったとしても、大火事になれば大変だ。今すぐ、警察に伝えなければならない。これだけの一大事であれば既に多くの通報が行われているはずだが、それはそれだ。差し当たり、自分の見たものを伝えることにした。
「墜ちてるね」
そう、飛行機が。
「そうです!ついに我々は墜としたのですよ!」
痛い女は、何故か敬語で私に反応してくる。こいつの言う「我々」に自分が含まれているだろう事実に吐き気がするが、それでも聞かなければならないことが一つだけあった。
「あれに乗っていた人は死んでしまったのかな」
「もちろんです!三年を超える作戦の立案と準備、関係者への根回し、選抜された実行係。失敗は万に一つもありません!」
さも当然であるかのように、凶悪なテロへの関与を認めているこの女は、正気なのだろうか。
「それで、誰が乗っているんだい?」
「魔女様も趣味が悪い。そんなの決まっているじゃないですか」
あるいは、魔法使いという人間、人種。それを軽視する平民、資本家、政治家。暴力によって革命を為そうとする思想。そのすべてが、どうにも私には受け入れられないのだ。
「首相ですよ。あの憎きコウモリ野郎を、天上から落としてやったのです」
絶叫、悲鳴、怒号、警鐘、その他、この世のありとあらゆる非日常と結びつく音が交差するこの地獄で、あなたは何を見出すだろう。
遂に始まった暗黒の時代を前にして、人はきっと後悔する。でも、もう遅い。誰が悪いかなんて、誰も自覚することさえしないのだから。堕ちたら最後、できることなんて精々、予後への涙ぐましい努力しかないのだ。