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吾輩は竜である。名前はまだ無い。
朝日が差し込む折、吾輩はふと背中のあたりに痒みを覚えた。竜というものは鱗を持つゆえ、時折むずむずとするのである。そこで何の気なしに、窮屈になってきた小屋の柱へ鱗をこすりつけてみた。
――ばきり。
やや大げさではあったが、吾輩の感覚では確かにそう聞こえた。
次いで、がらがら、どしん、と耳障りな音が続き、気が付けば小屋全体がゆっくりと、しかし容赦なく崩れ落ちていった。
木片のひとつが運悪く吾輩の翼膜をかすめ、ちいさな裂け目を残していった。痛いというほどでもないが、ひどく情けない。お気に入りであった小屋は瓦礫と化し、おまけに怪我までするとは、まったく踏んだり蹴ったりである。
魔女殿がやってきて、瓦礫に埋もれてピィピィ鳴く吾輩をしばらく眺めておったが、やがて肩をひとつ落とした。
どうやら再建は諦めたらしい。その代わりに、泉のような清らかな水を引いた飲み場と、木陰に草を山のように積んだ寝床をこしらえてくれた。
なるほど、いっそこちらのほうが竜には向いているのかもしれん。
吾輩はうつらうつらと横になり、思った。
とはいえ――腹が減った。
怪我を癒すには栄養がいる。それなのにあれ以来何も口にしていない。
すると魔女殿がふらりと姿を見せ、無言のまま兎をぽんと放り投げていった。
毛がむしられ、実に食べやすい。吾輩はありがたくいただいたが、しかしその一匹くらいで満腹になるはずもない。
むしろ空きっ腹の虫は勢いづき、怒涛のごとく暴れ始めた。
さて、何を食べようか。
悩むまでもなかった。
吾輩の首の届くところに、実に都合よく柔らかい肉があるではないか。
――と、そこで吾輩は一応思いとどまった。
「しかし、どうなのか」
一瞬の逡巡の後、腹の虫に突き動かされ吾輩はそろりと魔女殿へ頭を伸ばした。
その瞬間である。
ひやり、と。
鼻先に小さな霜がぱっと生み出され、吾輩は思わず顔を引っ込めた。
口をもごもごとさせた魔女殿は、やれやれと言わんばかりに家のほうへ引っ込んでいった。
吾輩は鼻先をぺろりと舐めながら、静かに思った。
「どうにも、この家では魔女の方が強いらしい」と。
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吾輩は竜である。依然として名前はない。
小屋が崩れて以来、吾輩は新たな寝床――木陰の草山――で暮らしている。
最初こそ「鹿や猪の寝床ではあるまいか」と怪しんでおったが、この草山というやつ、なかなかどうして悪くない。
寝返りを打つたび、ほどよくふわりと沈み、背の鱗の隙間にちょうどよく風が通るのである。
ただし一点、誤算があった。
やたら虫が多いのである。
とくに朝方、むずむずと背中が痒くなる。
鱗の間をちょろちょろと走り回る小さな黒い輩が、どうにも気に入らん。
吾輩はしばしば唸りながら寝返りを打ち、尻尾を振り払う。
そのたび草山がぶふっと舞い上がり、虫どもが右往左往する。
竜も人生、いや竜生、楽ではない。
◆
魔女殿はといえば、相も変わらず吾輩の炎にご執心である。
何か言いたげに口をもごもごと動かすが、言葉というより呪文の切れ端か、独り言の蒸気のようなものが漏れるだけであった。
朝・昼・夕と決まった時間になると、狩りの獲物をぽすんと放り投げ、それを吾輩が食べているあいだ、口や喉をちょいちょいとつついたり、鼻をくすぐったりしていた。
どうにも好奇心旺盛な魔女である。
そんな折のことだ。
吾輩は水飲み場の前でふと違和感を覚えた。
水面に映る吾輩の姿が、どうにも“以前より大きい”のである。
胸の鱗は広がり、翼にはわずかに厚みが増し、尾の先は前より太く見える。
成長期というやつだろうか。竜は大きくなる生き物だが、ここ最近の伸びはなかなかのものである。
ふむ……と吾輩は思った。
吾輩は無駄に体が大きく、鼻息ひとつでも木の葉を舞わせるのだ。
この調子で大きくなれば、寝床どころか森のほうが悲鳴を上げるかもしれぬ。
視線を動かすと、魔女殿が木陰からこちらをちらりと覗いていた。
そして、ほんのわずかに目を細め、口をもご、と動かした。
その表情は、恐怖でも困惑でもない。
どちらかといえば――
「ああ、また大きくなったのね」と言いたげな、落ち着いたものであった。
吾輩は少し胸を張った。
竜というものは、大きくなるほど環境に収まりづらくなる。
だが魔女は、不思議とそれを受け入れておるようだった。
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吾輩は竜である。やはり名前はない。
ある時のことである。
うつらうつらと寝ていると、尻尾のほうがどうにもむずむずする。
虫でも這っておるのかと思い、軽く払ってみたが、少しするとまたむずむずが始まる。
むう、と首をもたげて目を開けると――
こちらを覗き込む魔女殿と、ばっちり目が合った。
魔女殿は吾輩の尻尾の先っちょ――あの鋭いところから、何やら液体めいたものを小瓶に詰めておるらしい。
痛くもないので、まあよかろうと再び目を閉じていたところ、ぽすぽすと口元に兎が何匹か投げ込まれた。
「ほう、これは気が利く」
などと思いながら、吾輩はそれをもごもごと食み、再び眠りへ沈んだ。
◆
それからしばらく、魔女殿は家に籠りきりになった。
何やら忙しげではあるが、吾輩としては特に気にする理由もない。
ほどよく空を飛び、ほどよく狩りに出、竜らしい日々を送っていた。
ある日、ちょうど鹿を生きたまま咥え、えっちらおっちら持ち帰ってきたところである。
まるで待ち構えていたかのように、魔女殿が家からひょっこり現れた。
「おや、なんだろうか」
と吾輩が逃げようとする鹿を押さえつけていると、魔女殿は懐から何やらきらきら光るものを取り出し、吾輩のほうへぽいと放った。
それは鹿の足もとに落ちるや、ぴんと乾いた音を立てて割れた。
次の瞬間――
むわり、と吾輩の尻尾の匂いがあたり一面に撒き散らされたのである。
「おや?」
と吾輩が不思議そうに匂いを嗅いでいると、
鹿が突然びくんと悶え、どさりと倒れた。
どうやら魔女、吾輩の尻尾から採ったあの何かで、面白いものをこしらえたらしい。
吾輩は鹿の死骸を前にしばし考えた。
「ふむ……これは食べられるのだろうか?」
匂いがついただけで、特に変わらなかった。美味である。
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