密約から数日後、時刻は深夜一時を過ぎていた。
寂れて誰も寄り付かなくなった道場には、埃と静寂、そして緊張感に包まれていた。
七直は既に、甚爾に約束の五百万を払い終えている。
札束を確認した彼は無造作に道場の端へ放り投げた。
ここから二人の特訓が始まろうとしていた。
「んじゃ、始めようぜ。お嬢様。流石に顔は勘弁してやるよ」
「はい、よろしくお願いします。甚爾さん」
「先に言っておくが、俺とお前じゃ才能や体格から、何から全く別もんだ。俺の体術を教えるっつうよりも俺という暴力からどう立ち回るかだけを考えろ。お稽古で身に着けた綺麗な型で凌げるなんて思うなよ」
「わかりました」
そこからは七直にとって阿鼻叫喚の地獄となる。
彼の指導は、彼女の想像を遥かに越えるほどの過酷さだった。
甚爾が教えるのは、力の抜き方、重心の移動、体幹を使って攻撃を受けとめる、致命的な攻撃の受け流しなど、より実戦的で泥臭い戦い方。
それは、術師が呪力で防御を固めて戦う常識とは真逆の、生命そのものを晒す戦い方だった。
「呪力に頼ってんじゃねぇ!術式を発動する瞬間に殺られるぞ。もっと地面を踏みしめろ!」
甚爾の指導は、言葉と共にあらゆる方向から飛んでくる掌底だった。
全身を滅多打ちにされ、体中が悲鳴をあげる。
ドスッ、という鈍い音と共に、七直の腹部に甚爾の掌が叩き込まれる。
呪力は全く込められていないが、それは熟練された体術の、純粋な暴力だった。
七直の肺から一気に空気が押し出され、腹から何かがせり上がるのを、感じると彼女は嘔吐した。
「…おぐぁ…ヴぉえ…」
胃の中は空だったため血が混じった胃液を吐くばかり。
いつの間にか口を切っていたらしい。
痛みは皮膚ではなく、内臓を直接掴まれるような激痛だった。
「…っはぁがッ…!」
七直は呼吸を求めて床に倒れ込む。頭の中が白く霞み、意識が急速に遠のいていく。
このまま、全ての痛みから解放されたい。
七直の意識が途切れそうになった、その刹那。
甚爾は七直の倒れた身体を、髪を掴んで引き起こした。
「寝てんじゃねぇよ。呪霊はお前が痛えからって待ってくれねぇぞ」
次の瞬間、甚爾は七直の顎を掴む。
グワン!と一瞬で揺さぶり、彼女の脳を揺らして、意識を戻させた。
気絶さえ許されない。
七直の意識は、痛みによって強制的に現実に繋ぎ止められた。
彼は取引に乗っ取り、ただ役割を遂行しているに過ぎない。
彼女を鍛え、限界のその先へ連れて行こうとしている。
だが、彼女の精神が先に崩れてしまった。
「いや...もう、やめて…」
幼い少女の声が、道場の静寂に虚しく響く。
彼女は両手で顔を覆い、しゃがみ込んだ。
これまでの人生で、七直は「弱音」を吐いたことがなかった。
常に「かの直毘人の娘」として振る舞い、周囲の期待に応え、屈辱には「強さ」で対抗してきた。
しかし、甚爾の暴力は、その強固な精神を根元から引き裂いた。
「…ひっぐ、うぅぁあ……」
七直は声を上げて泣きじゃくり始めた。
それは、修行の痛みによるものではなく、ただの無力な六歳の少女に戻ってしまったことへの、羞恥と恐怖の涙だった。
そして、身体が極限の恐怖と痛みで限界を超えたとき、さらなる屈辱が七直を襲った。
彼女の袴の下から、制御できない生暖かい水が漏れ、道場の埃っぽい床に広がる。
失禁。
その生理的な現象に、全身の血の気が引くのを感じた。
(う…そ……)
甚爾の前で、最も隠したかった弱者としての醜態を、全て晒してしまった。
禪院家で尊厳のない弱者の姿が、今、自分自身なのだ。
甚爾は、失禁して泣き崩れる七直を、嘲笑もせず、ただ冷めた目で見下ろした。
「そのざまが、お前の今の『強さ』だ。呪力と、甘やかされた環境で作り上げた、張り子の虎の強さだ」
彼の言葉には、一切の感情がなかった。
それは、七直の存在価値を完全に否定する、冷たい現実だけだった。
彼女の頭の中で、甚爾の言葉が木霊する。
その時、彼女の口から、無意識のうちに最も弱く、最も大切な言葉が漏れ出た。
「……助けて、お母さん……」
その瞬間、七直の意識は、自分がなぜこの地獄にいるのか、なぜこの屈辱に耐えなければならないのかを、明確に思い出した。
京子は、この家の中で唯一、七直が守りたいと願う大切な存在だ。
この程度の痛みで意識を失うようでは、呪霊の不意打ちも防げず、京子を再び守れなくなる。
「綺麗事を捨てろ」と甚爾は言った。
しかし、母を守りたいという想いだけは、七直にとって「強さ」の根源であり、捨てるべきものではない。
七直は濡れた袴のままで、地面に手をついた。
全身は痛みで震え、さらに屈辱で顔は泣き腫れていたが、その瞳に宿る光は、以前よりも強く、純粋な炎になっていた。
「ごめんなさい…私が未熟でした……まだ、やれます」
七直は絞り出すような声で言った。
涙も、失禁も、恥も、全てを捨てた。
甚爾の前で、一度全ての尊厳を失った七直は、「母を守る」という純粋な目的だけを掲げ、再起した。
甚爾は、その変わり身を見て、初めて口角をわずかに上げた。
「……いい目だ。じゃあ、次」
彼の指導は、一切緩むことはなかった。
七直は、その夜、尊厳の喪失と引き換えに、真の強さへの第一歩を踏み出した。
この七直に興奮しなかった者だけが作者に石を投げn((投石))三
質問コーナー
A.七直は小学校に行っているの?
Q.いいえ、行ってません。家の教育係が勉強などを教えています。禪院家ほど大きな呪術的家系なら自分の家でやった方が効率的だろうという判断です。術師としての修行もあるので、通わせる時間がもったいないですし。勉強の範囲は小学校~中学生を履修し、十六歳から呪術高専へ入学する形になるかと思います。
皆さま、いつも誤字報告ありがとうございます!
おかげでこの小説がまた一歩良くなります!