特訓はさらに苛烈さを増した。
七直は、直哉の純粋な憧れと並んで訓練を受けることで、自身の強さへの動機に甚爾の傍に居たいという私的な熱源が加わっていることを自覚し、切なさを抱えながら日々を過ごしていた。
そして直哉が加わって、二ヶ月が過ぎようとしていた頃。
ついにその時がきた。
ある深夜、いつものように三人が激しい体術の訓練を終えた後のことだった。
道場の隅には、七直が支払った、今日の指導料分の鞄がおいてある。
甚爾は、七直が差し出した冷えた水を受け取りながら、その鞄を一瞥し、そして静かに、しかし有無を言わさぬ口調で告げた。
「おい、七直」
「はい?どうしましたか?」
七直はすぐに返事をした。
「金が目標額に達した。これっきりで、この取引は終了だ」
七直の耳が、甚爾の言葉を瞬時に認識できなかった。
彼女の頭の中で、その言葉は何度も反芻され、ようやくその意味が浸透した瞬間、全身の血が一気に冷えるのを感じた。
「……何を、言っているんですか」
七直の声は震え、か細く掠れた。
甚爾は、その動揺に全く関心を払わず、淡々と続けた。
「そのまんまの意味だ。お前が金を払って、俺がお前に強さを売る。俺の目的は、この家から二度と関わらずに済むだけの金を稼ぐこと。その目標が達成された。これで終わりだ」
甚爾の表情には、喜びも、別れを惜しむ感情も一切ない。そこにあるのは、事務的な手続きの完了という、冷たい事実だけだった。
直哉は、七直以上に混乱した。
「はぁ!?何言うとんねん、甚爾くん!俺の稽古はまだ終わってへんやろ!まだ全然、強くなるってのに!」
直哉は、憧れの対象との時間が奪われることに、子供のように憤慨した。
「うるせぇぞ直哉。お前との契約は、七直の安全確保のおまけだ。本体の契約が終われば、当然、全て終了だ」
甚爾は、直哉の熱狂的な憧れを、おまけという、最も侮蔑的な言葉で切り捨てた。
七直は、直哉の癇癪を、まるで遠い場所で聞いているかのように感じていた。
彼女の瞳は、甚爾の無関心な横顔に釘付けになっていた。
(この人は、本当に……私たちがこの数ヶ月、命を晒して繋いだ時間を、ただの金銭取引としてしか見ていなかった)
七直が抱いていた特別な客としての自負も、直哉が加わることで初めて自覚した初恋も、全てが甚爾の自由という強い願いの前では、泡沫のように消え去るものだった。
七直は、直哉を止めることもせず、その場に立ち尽くした。
「……じゃあ、もう二度と、この家には戻らない、ということですね」
七直が絞り出した言葉は、契約の確認ではなく、報われない初恋の終焉を問うものだった。
甚爾は、その問いの裏に隠された七直の感情に気づくこともなく、あっさりと答えた。
「当たり前だ。二度と、こんな呪われた場所に近寄る気はねぇよ」
その瞬間、七直の心臓は、甚爾の掌底を受けた時よりも深く、激しく、打ち砕かれた。
彼女が、母のために力を得た代償として、甚爾を失うという現実が、冷たい刃となって彼女の胸を貫いた。
「じゃあな。十分稼がせてもらったぜ。あばよ」
甚爾は、鞄から金銭を抜き取り、懐へしまう。
「俺がこの家から出るまでは、このことは黙ってろ。それ以降は好きにすりゃあ良い。お前らの身に何があっても知らんがな」
甚爾は、一切の未練も残さず、冷たい夜明け前の闇へと姿を消した。
七直の初恋は、彼の去った後の道場に、冷たい埃となって残されたのだった。
先に沈黙を破ったのは、肺の痛みよりも心臓の怒りが勝った直哉だった。
「ふざけんな!勝手に終わりとか、どういうことや!俺の憧れはこんなもんちゃうわ!」
直哉は、顔を真っ赤にして道場の壁を拳で叩いた。
直哉の怒りは純粋な憧れの拒絶に向けられていた。
彼の夢は、強くなることだ。
だが、それを手に入れる前に踏みにじられたのだ。
「姉貴!なんで止めへんのや!金払ってたんやろ!金を追加すれば、甚爾くん、また来てくれるんちゃうんか!?」
直哉の怒りの声が、七直の心に突き刺さる。七直は、直哉のように怒りを爆発させることもできず、ただ、その場に崩れ落ちた甚爾の冷たい背中が焼き付いた空間を見つめていた。
「…もう、終わりよ。直哉」
七直の声は、信じられないほど静かで、虚ろだった。
「なんでや!姉貴だって、あの人の指導が欲しかったんちゃうんか!母親んために!姉貴、甚爾くんにあれだけ媚びへつらって…!」
七直は立ち上がった。
その顔は、極度の疲労と、堪えきれない感情の波に晒され、血の気が引いて青ざめていた。彼女の瞳は潤んでいたが、涙腺は強く張られ、一滴の涙もこぼれていなかった。
「媚びてなんかないわ!私は、必要な対価を払っただけ!お母さまを守るために、あの人の強さが必要だったのよ!」
言葉は強いが、七直の目線は、暗い影を落とすかのように動かなかった。
彼女の全身から発せられるのは、強がりという薄い膜の下に隠された、途方もない喪失感だった。
それは、直哉が想像できる、稽古を失う痛みとは全く異なる種類のものだった。
直哉は、目の前の姉の姿を見て、一瞬、呼吸を止めた。
(あ?…この顔…)
直哉は、七直が甚爾に特別な感情を抱いていることを、特訓中に何度も察していた。
それは憧れを独占されている悔しさ程度のものだと、自分に言い聞かせてきた。
しかし、今、目の前で感情を押し殺している姉の顔は、あまりにも悲痛で、まるで一番大切なものを永遠に奪われたかのようだった。
「……姉貴」
直哉の問いかけに、七直は反応しない。
「……まじか…」
直哉は、自分が最も憧れた強者に対し、姉が恋という形で執着し、それが無関心という、最も残酷な形で終わったことを悟った。
「…姉貴……甚爾くんのこと……」
直哉の言葉は途切れ途切れになったが、七直は答えなかった。
ただ、唇を固く結び、甚爾が消えた暗闇を見つめていた。
直哉は、自身が憧れを失った怒りよりも、姉が報われない初恋を失った切なさに、一瞬だけ、胸を締め付けられるのを感じた。
◆
甚爾が道場から去った日の朝。
禪院家で騒ぎが起きていた。
甚爾が扇を半殺しにし、忌庫からいくつかの呪具を持ち去ったのだ。
扇は全治数ヶ月の怪我を負い、しばらく家にはいなくなったが、七直にとってそんなことはどうでもよかった。
七直の心には大きな穴が開いたかのような喪失感だけがあった。
そのせいで、いつもの昼間の訓練にも身が入らずにいた。
「姉貴、聞いたか?甚爾くんが扇のおっさんボコして出て行ったらしいで。やっぱ甚爾くんはすごいなぁ」
直哉は、甚爾の強さを学べなくなったことに、憤りを感じていたが、それは尊大な憧れに上書きされ、再び理想へと昇華していった。
「…そう」
七直は心ここにあらずといった表情で返した。
いつものお小言が飛んでこない今の七直を少々気味悪がった。
「なぁ、いつまでもしょぼくれてると、こっちまで嫌んなるで」
「…そうね」
「はぁ…これやから女は嫌いやねん。振られたからってそんなんなるか?はよシャキっとせえや」
「…」
直哉は甚爾から指南してもらったにも関わらず、それを誇りに思わずただただ悲しんでる七直を見て、嫌な気分になった。
「もうええわ。姉貴がそんなんなら一生、そうしてたらええ。こっちも楽やしな」
直哉は言い捨てると、七直から離れ、別の人物と組み手を始めた。
甚爾から学んだ、技をひけらかしたくてしょうがないのだろう。
それとは対照的に、七直はあまり調子が良くないということで、午後は休みになった。
◆
昼間の訓練を体調不良で切り上げた七直は、その足で母の部屋へと向かった。
禪院家の広大な敷地の隅に位置する母の居室は、良く日が当たり、庭の木々を優しく照らしていた。
七直が扉を開けても、母はいつものように静かに座り、庭の苔生した石を眺めている。
母の顔には、この家での長年の苦労が影を落としていたが、七直が最も安らぎを感じる場所だった。
「お母さま」
七直は、そう呼んだ瞬間、直哉の前で張り続けていた強がりの仮面が、一瞬で溶け落ちるのを感じた。
母は、娘の顔を一目見ただけで、昨夜からの尋常ではない出来事、そして七直の心に起こった変化を察したようだった。
「七直……お入りなさい」
母は、七直を近くに招き入れ、自身が座る座布団の隣を軽く叩いた。
七直は、それ以上、一歩も進めなかった。
目の前の母は、自分が全てを賭けて守ろうとしてきた唯一の守るべきもの。
その母の無償の愛を前に、甚爾への報われない恋慕という、個人的で、俗っぽい熱源のために泣くことが、許されない裏切りのように感じられた。
しかし、七直のこの気持ちは齢七歳の子供が内内に留めて置くには、あまりに辛く大きすぎた。
「お、母さま……っ」
七直は、堪えきれず、その場で膝から崩れ落ちた。
「あの人が……行ってしまいました……」
彼女は、声を上げることもできず、ただ激しく嗚咽した。
昨夜からずっと張り詰めていた涙腺が、ついに決壊したのだ。
玉のような雫が七直の頬を濡らしていく。
「うっ……うあああぁ……!」
七直が泣いたのは、甚爾との契約が破綻したからではない。
自分の個人的な気持ちが、彼の人生にとって、なんの価値もなかったという、残酷な事実が苦しかった。
「私……私は、お母さまを守るために強さが欲しかったのに……いつのまにか、あの人、甚爾さんの傍にいることが、嬉しくて……」
七直は、母の胸に顔を埋め、幼子のように泣き崩れた。
「でも甚爾さんはっ!……私を見ていなかった!私を見てくれたことなんて、一度もなかったのに!私が金を払う、ただの客でしかなかったのに……!」
七直は、自分の初恋が、取引というあまりにも冷たい土台の上で、無残に散ったことを嘆いた。
母は、何も聞かず、何も責めなかった。ただ静かに、震える娘の頭を抱きしめた。
「七直……お前は、本当に、よく耐えました」
母の静かな声は、七直の背中を優しく撫でる。
その温もりは、甚爾の冷たい掌底や、直哉の苛立ちとは全く異なる、無償の愛だった。
「お前は、この家で生きるために、私を守るために、どれほどのものを捨てて、汚いものに手を染めたか……母は全て知っています」
母は、七直の恋という、叶わぬ感情を否定しなかった。
彼女の涙が、甚爾への愛情だけでなく、強くなるために全てを賭けた娘の、報われなかった努力と犠牲の全てを洗い流していることを知っていたからだ。
「七直。その気持ちは、決して忘れてはいけません。失ったものがどれだけ大きくても、今はとても辛く、悲しいものだとしても」
「そして、あなたが手に入れたその強さは、決して裏切らない。それは、あなたが命を賭けて得た、あなた自身のものです」
母は、そう言って娘の顔をそっと持ち上げた。
七直の目は真っ赤に腫れていたが、そこには、甚爾との特訓によって得た、確かな強さと冷たさが宿っていた。
「だから今は、思いっきり泣きなさい。私は全て受け止めてあげます」
七直は、母の腕の中に顔を埋めた。
その涙は、初恋の終わりに対する悲しみであり、報われない喪失感であり、そして、母の無償の愛という最も安全な場所で初めて泣けたという安堵の涙でもあった。
母は、ただ黙って、娘が涙を流し尽くすまで、その小さな身体を抱きしめ続けた。
見てるこっちまで辛くなる。
甚爾と特訓するだけの話に一週間もかけてしまった。もうちょっとテンポ良く、場面を変えて先に進まないといけないなと思いました。でも、キャラの心理描写も詳しく書きたい。悩ましい…。
Q.七直って扇叔父のことどのくらい嫌い?
A.めっちゃ嫌いです。大が着くほど大大大嫌い。本当に父の直毘人の弟?って言うくらい卑屈で卑怯だと思ってます。叔父様と敬称したくないほどで、七直のもつ権利をことごとく無視し、あまつさえ邪魔してきて、家の悪習を振りかざす…好きになる要素が皆無です。
直哉の「扇のおっさん」発言を指摘しないくらいで、いつかボコして黙らせたいと考えていますが、自分からは吹っ掛けないでしょう。失恋メンタルじゃなかったら内心喜んでました。
一部訂正しました。