直毘人から譲り受けた巻物を抱え、七直は自身の部屋で深く溜息をついた。
机の上には、書庫から持ち出した山のような参考資料と、現代語訳の辞書が広げられている。
しかし、それらをいくら捲ったところで、呪物と化した巻物の文字は、一向にその意味を明かそうとはしなかった。
(……やっぱり、全然わからない。文字の形はなんとなく追えるのに、意味が滑り落ちていくみたい)
土御門の血筋により、封印を解き、文字を「視る」ことは叶った。
だが、そこに記されているのは平安の世の理であり、現代を生きる六歳の子供が理解するにはあまりに乖離した言語体系だった。
焦燥感に駆られ、七直が眉間に皺を寄せたその時、襖が静かに開いた。
「七直、まだ起きていたのですか?」
灯りを持って現れたのは、母・京子だった。
病から快復しつつある母の足取りは以前より確かだが、その瞳には夜更かしをする娘への心配が色濃く滲んでいる。
「お母さま……。ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「いいえ。……あら、それは…」
京子の視線が、机の上に広げられた禍々しくも美しい巻物に止まった。
直毘人が言った通り、土御門の血を引く者でなければ、この巻物はただの煤けた棒にしか見えないはずだ。
しかし、京子の瞳は確かに、そこに躍る文字を捉えていた。
「お父様から頂いたものです。お母さまの生家、土御門家から取り寄せたものだと。歴代の『五行想術』使いが残した解釈書だって。でも、私……古文が読めなくて。辞書を引いても、術式独特の言い回しがあるみたいで、なかなか進まなくて…」
情けなさに唇を噛む七直。
その隣に、京子が静かに腰を下ろした。
京子は細い指先で、直接触れることのできない巻物の上の空間をなぞるように動かす。
「天の巡りは五行を成し、地の理は相生に宿る……懐かしいわ。土御門の家では、これらは呪術としてではなく、教養としての学問でしたから」
「お母さま、読めるの……!?」
七直が驚きに目を見開くと、京子は少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「ええ。土御門の娘として、家の嗜みで嫌というほど叩き込まれましたから。当時は何の役に立つのかと思っていましたけれど……まさか、こんな形であなたの力になれるなんて」
京子は七直の隣に寄り添い、難解な文言を一つ一つ、噛み砕くように読み解き始めた。
「この一節は、呪力を練る際の変化について書かれているわ。火の性質を金に変えるのではない。火が燃え尽きた後に残る灰が、やがて土となり、その奥底で金が育まれる……その流れを意識せよ、と」
「……流れ。形を変えるんじゃなくて、移り変わるのを待つっていうこと?」
母の言葉を聞きながら、七直は己の中に眠る呪力を動かしてみる。
無理やり形を作ろうとしていた時よりも、ずっと自然に、熱が静謐な硬度へと変容していく感覚があった。
「そうよ、七直。あなたはいつも、独りで背負いすぎてしまうけれど……この文字たちは、千年以上前の先祖からの贈り物。そして、今こうして読み解くのは、私とあなたの共同作業。あなたは、決して独りではないのですよ」
母の穏やかな声が、訓練と焦燥で乾ききっていた七直の心に、染み渡るように広がっていく。
甚爾との特訓で得た生存のための暴力が冷たく鋭い刃だとするならば、今、母と共に紐解くこの叡智は、その刃を収めるための鞘であり、正しく振るうための道標だった。
「お母さま、ここも教えて。……『巌を穿つ水は、柔にして剛なり』。これは、どういう意味?」
「ふふ、それはね――」
夜が更けるのも忘れ、二人は灯火の下で言葉を重ねた。
禪院家という歪な箱庭の中で、この部屋だけが、土御門の血が繋ぐ静謐で知的な時間に満たされていた。
七直は、母と共に強くなれるこの作業が何よりも好きになった。
そして、守り抜くために、この知識を余すことなく継承してやろうと、心の中で誓った。
◆
解読は順調に進んでいた。
今日も書庫に籠って、読み進める作業をしていると、誰かが近づく足音がした。
勢いよく襖が開けられ、入って来たのは、父、直毘人だった。
書物を渡して数日経った七直の様子を見に来たのだろうが、七直だけでなく、京子も一緒にいたことに意外そうにしていた。
「ほう、京子と一緒だったか、七直」
七直は直毘人から自力で学べと言われていたが、実際には母の力を借りて解読していたことに気まずそうにした。
「お父様…申し訳ありません…私では…」
「直毘人様、勝手ながら私が七直の手伝いをさせてもらっております。この書物は少々、七直の手にあまります」
「ほう、どれ見せてみろ」
直毘人は、七直と京子が書き連ねた解釈図や注釈の紙を、指先で無造作に捲っていく。
全てを解析したわけではないにもかかわらず、それは呪術の深淵の一部ともとれるほど深いものだった。
もはや、この紙切れにすら莫大な価値がつくほどのものだ。
時折、ふんと鼻を鳴らし、あるいは目を細めて、その膨大な情報量を精査する。
室内には、紙が擦れる乾いた音と、直毘人のまとう圧倒的な強者の圧迫感だけが満ちていた。
「京子、お前の土御門家の教育がこれほどはな。ただの血筋の器としか思っておらなんだが、知識の継承だけは腐っても名家というわけだ」
「……恐縮です、直毘人様。家の務めとして、身体に染み付いておりましたので」
京子は静かに頭を下げるが、その背筋はかつてのように怯えて丸まってはいない。
娘を支えているという自負が、彼女に微かな、しかし確かな芯を与えていた。
直毘人はニヤリと口角を上げると、次は娘に向き直る。
「七直、たしかに自力でやれと言ったが、お前はそれを、京子の教養を利用してここまで解読を進め、応えてきた。その判断、術師として優秀だ。使える物は何でも使え」
「…お叱りにならないのですか?」
恐る恐る七直は尋ねる。
「叱る? 冗談を言うな。この数日でこれだけの量を、しかも術理の本質を外さずに読み解いたのだ。むしろ褒めて遣わすべきだろう。……七直、お前が今感じているその流れ、それは頭で理解するだけでは足りん。次はそれを呪力として、この現実の世界に引き摺り出してみせろ」
直毘人は懐から扇子を取り出し、パチンと音を立てて閉じた。
「京子が文字を読み、お前がそれを力に変える。……ふん、案外悪くない共同作業だ。土御門の知と禪院の力。お前の中で、ようやく二つの家系が混ざり合い始めたようだな」
直毘人の言葉には、いつもの冷徹な評価だけでなく、初めて一個の術師として娘への興味が混じっているように聞こえた。
「京子、お前のその教養に一億を投じてやる。病の治療も薬も最高のものを用意しよう。引き続き、七直と共に解読を続けろ」
「承知いたしました。直毘人様」
「期待しておるぞ」
直毘人はそう言い捨てると、翻した羽織の裾を揺らしながら、悠然と部屋を後にした。廊下を遠ざかっていくその足音は、以前よりもどこか満足げな響きを帯びているように感じられた。
室内には、彼が放っていた重苦しいまでのプレッシャーが霧散し、代わりに静謐な空気と、書き連ねられた紙の束だけが残された。
親子仲良し。良いことです。
Q.七直の顔立ちって誰に似てる?
A.顔の輪郭とか口元は母親似ですが、目元は直毘人似です。ぱっと見はもう禪院顔ですね。直哉と並んでも、ほんとに母親違う?ってくらい似てる。禪院の血が強すぎました。
ちなみに母親は丸目、垂れ目です。乙骨みたいな感じ。
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