九歳で禁忌の頁を開いてから、二年の月日が流れた。
十一歳になった七直は、かつてない壁にぶつかっていた。
書庫に籠もり、「昼」「晩」の術理を解析し、自らの呪力回路に組み込もうと試行錯誤を繰り返すが、結果は芳しくない。
属性式神を排し、この根源的な二柱にリソースを全振りした弊害で、彼女の目に見える戦力は完全に頭打ちとなっていた。
この二年の月日は、直哉にとっては羽化の季節であり、七直にとっては冬眠のような停滞の季節であった。
十一歳になった直哉の投射呪法は、もはや禪院家の若手の中では敵なしの状態にまで磨き上げられている。
対して十二歳の七直は、かつて道場で見せた鮮烈な五行の使い分けをすっかり見せなくなっていた。
労力のすべてを、父に秘した禁忌「昼」と「晩」の構築に注ぎ込んでいるせいだった。
結果として、これまで使えていた五行属性式神の出力も伸び悩み、むしろ精度は落ちているようにさえ見えた。
ある日の夕暮れ。道場での手合わせの後、直毘人は忌々しげに酒瓶を置いた。
「……七直。貴様、最近のその様は何だ」
「……申し訳ありません、お父様」
「属性の切り替えが遅い。呪力の練りも以前より雑だ。……期待していたがな。やはり女の身では、若いうちに早々に限界が来るということか」
その言葉は、道場の隅にいた直哉の耳にも届いていた。
「現状のままでいるような奴じゃないのは分かっておる。だが、いつまでもこのままなら、お前の待遇も考え直さねばならんぞ?七直」
「はい、…分かっています」
直毘人は吐き捨てるように立ち去り、静まり返った道場には、汗を拭う七直と、彼女を射抜くような視線で見つめる直哉だけが残された。
「……聞いたか。父ちゃん、あぁ言っとったぞ」
直哉が木刀を引きずりながら、七直の前に立つ。かつては自分より頭一つ分高かった姉の視線が、今は自分とほぼ同じ高さにある。
「聞こえていたわ。耳は腐っていないもの」
「なら、なんで言い返さへんのや! 限界やなんて言われて、反論もできんほど腑抜けになったんか! あんた、最近まともに属性すら喚ばんやないか!」
直哉の怒声が道場に響く。
それは七直への蔑みというより、自分の信じていた理想が勝手に崩れていくことへの、幼い恐怖に近いものだった。
「私のことはいいの。直哉、あなたは自分の訓練に集中しなさい」
「……っ、そんなん、分かっとるわ!」
直哉は苛立ちをぶつけるように、床を強く踏みつけて去っていった。
◆
だが、その夜、 根を詰めすぎ、父の言葉による精神的な消耗も重なった七直は、ついに自室で倒れた。
激しい悪寒。
そして発熱。
全身から玉のような汗が吹き出し、息が苦しくなる。
意識の端々で、解読した古文書の文字が呪いのように明滅する。
「お母様……ごめんなさい……。もう少し……、あと、少しなのに……」
うわごとが漏れる。
激しい頭痛と、焼けるような熱。
白檀の香りが鼻につき、意識が朦朧とする中で、廊下から聞き慣れた足音が近づいてくるのが分かった。
七直は反射的に目をつぶり、寝たふりを装う。
襖が静かに開き、誰かが枕元に座り込む気配がした。
「……相変わらず匂いきついなこの部屋は。鼻が曲がりそうや」
毒づきながらも、直哉がそこにいた。
彼は京子から「七直が倒れた。薬を運んでほしい」と頼まれ、断りきれずにここへ来たのだ。
直哉は乱暴に薬の盆を置くと、布団の中で小さく震えている七直を見下ろした。
「……なぁ、姉貴。起きてんのは分かってんぞ」
七直は返事をしない。
熱に浮かされているのも事実だが、今の情けない姿を弟に見られたくないという意地が、彼女を狸寝入りにさせていた。
「……。父ちゃんは限界や言うてたけど、俺は信じてへんからな。あんた、絶対なんか隠しとる。昔のあんたは、もっと……ギラギラした火ぃみたいな眼ぇしとった」
直哉は座り込み、不器用な手つきで七直の乱れた髪を指先で避けた。その手は、かつてよりもずっと大きく、力強くなっている。
「……はよ起きろ。あんたが後ろにおらんと、なんか……調子狂うんや」
「……何が、よ……」
掠れた声で、七直が呟いた。
目を開ける力はないが、意識ははっきりとその言葉を捉えていた。
「はっ、生きてたんか。……そのままの意味や。あんたに嫌味言われながら訓練せんと、俺がどれだけ速くなったか分からんようになる。世界が、止まっとるみたいで……退屈なんや」
「……生意気、ね。……私は、あなたに抜かれたつもりは……ないわよ」
「口だけは達者やな。……ええから、はよ治せ。お母はんも心配しとる」
直哉はそう言い残すと、逃げるように部屋を出ていった。
静まり返った部屋で、七直はゆっくりと目を開ける。
霞む視界の中で、枕元に置かれた水と薬を見つめた。
「…勝手に…言ってくれるわね…」
(調子が狂う、か……。直哉、あなたはまだ……私を必要としてくれているのね)
属性が疎かになったのではない。
属性という枝葉を剪定してでも、直哉という光を繋ぎ止めるための根、すなわち「昼」と「晩」を育てなければならない。
「……見てなさい、直哉。お父様が言ったことが、いかに間違いだったか……私が、証明してみせるから」
七直は震える手で薬を飲み込み、再び意識を沈めた。
この時、彼女の深層心理で「昼」と「晩」の輪郭が、初めて明確な光と影を結び始めていた。
◆
それから三日後。
七直の部屋を包んでいた澱んだ熱気は引き、代わりに冬の朝の、澄み渡った空気が流れ込んでいた。
「あら、もう動いて大丈夫なの?」
縁側で日向ぼっこをしていた京子が、着替えを済ませて出てきた七直を見て、驚いたように声を上げる。
その顔には、心底ほっとしたような笑みが浮かんでいた。
「ええ、もう平気よ。お母様、看病ありがとうございました」
七直の顔色は、倒れた時とは見違えるほどに明るい。
頬には健康的な赤みが差し、その瞳には、霧が晴れたような鋭い光が宿っていた。
「直哉さん、毎日様子を見に来ていたんですよ。あなたが寝ている間、ずっと難しい顔をして枕元に座り込んでいて……。本当は、お薬を運ぶのも自分からやりたいって言ったんじゃないかしら」
京子が茶目っ気たっぷりに教えると、七直は少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らした。
あの熱の最中に聞いた、弟の弱々しくも切実な独白。それは今、彼女の心の中で何よりも強い
「……ふふ、あの子らしいわね」
七直がふと呟いた。
「お母様。私、少しだけ『寄り道』をしていたみたい」
「寄り道?」
「ええ。直哉に追いつこうとして、自分の持ち札をどう強くするかばかり考えていたわ。でも、そうじゃない。私がすべきなのは、あの子の隣を走ることじゃないの」
七直は、自身の掌を見つめた。 そこに呪力を集中させると、以前よりもずっと滑らかに、澱みなく力が巡るのを感じる。
属性式神をおろそかにしたことで落ちた精度は、逆に言えば呪力そのものの扱いを極限までシンプルに、研ぎ澄ます結果に繋がっていた。
「私は、あの子を繋ぎ止める杭にならなきゃいけない。あの子がどこまで速くなっても、決して見失わないようにするための……」
彼女が静かに印を組むと、目には見えないが、彼女の左右で陽炎のような二つの渦が巻いた。
完全な顕現には至らないまでも、「昼」と「晩」の循環が、彼女の呼吸に同調してゆっくりと回り始めている。
「……おはよう、直哉。随分と気合が入っているじゃない」
七直が道場へと歩み寄ると、直哉は一瞬だけ動きを止め、驚いたように肩を揺らした。だが、すぐにいつもの不遜な笑みを張り付ける。
「……なんや、もう起きてきたんか。もっと寝とけばええのに、ほんま……しぶといな、姉貴は」
「寝不足の弟に、退屈な世界を見せておくわけにはいかないもの」
七直が不敵に微笑むと、直哉は「ッち、なんのことや」と顔を背けた。
二人の間に流れる空気は、数日前までの重苦しさが嘘のように、凛として張り詰めていた。
「さあ、始めましょうか。あなたのその速さ、どこまで私を退屈させないか……見せてちょうだい」
回復した七直の背中は、倒れる前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
七直ももう11歳かぁ…
質問コーナー
Q.前回の、七直の式神を持たない発言はどういうことですか!?
A.言葉通り、式神の召喚・調伏・使役をあえて、切り捨てるという選択です。
彼女は現在、属性の核だけで戦う道をもがいています。その理由は、ひとえに直哉の存在です。直哉の速さに対処し、姉として彼より強くあらねばならないという、ある種の強迫観念が彼女を突き動かしています。
直哉はすでに七直を認め、尊敬を抱いているのですが……七直もまた、かなりのブラコンなんですよね(笑)。直哉を守り、導くために、あえて五行想術としてのアイデンティティを捨て、古文書の禁忌「昼・晩」と「泰山府君祭」の構築に全リソースを割くという、茨の道を選びました。
本来、土御門家で健やかに育っていれば、現代最強クラスの式神使いとしてテンプレ通り前衛に式神を配する、強い術師になっていたはずです。
彼女も強力な式神を期待してくださった皆様には申し訳ありませんが、今作の七直が選んだ禪院家の中の、歪で孤独な進化を、どうか最後まで見届けていただければ幸いです。
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