演習場へと続く薄暗い通路。
外から漏れ聞こえる観客の喧騒を背に、五条悟と夏油傑は横に並んで歩いていた。
「……なぁ傑。準決勝でだいぶ消耗してるみたいだけど、大丈夫? 棄権するなら今のうちだぜ」
五条がサングラスの奥からニヤリと笑いかける。
夏油は軽く肩を回し、不敵に返した。
「心外だな。悟こそ、直哉君に鼻血を出させられた顔でよく言うよ。……勝負の前に、少し話を詰めようか。勝った方の特権についてだ」
「おっ、いいぜ。受けて立つ。……じゃあ、俺が勝ったら傑もパシリな!直哉に加えて、お前も一ヶ月。呪霊使ってメシのデリバリーさせようぜ。楽でいいわ、それ」
「相変わらず品がないね、悟。……いいだろう。なら私が勝ったら、悟には一ヶ月間、私の呪霊狩りに付き合ってもらおうかな。もちろん、見つけた呪霊を私が取り込む寸前まで、無傷でお膳立てしてもらう。君の精密な呪力操作なら、最高の効率でストックが潤うはずだ」
「……げっ、そっちの方がパシリよりキツくねーか? 呪霊を殺さないように加減してボコるとか、一番肩凝るわ」
五条は顔をしかめたが、すぐに楽しげな笑みを浮かべて、夏油の肩を強く叩いた。
「いいよ、乗った! どっちが勝っても、一ヶ月間は地獄だな!」
「ああ。……全力で行かせてもらうよ、悟」
二人は通路を抜け、眩いばかりの光が差す演習場へと足を踏み出した。
この賭けが、自分たちを最強のその先へ引き上げるきっかけになるとは、この時の二人はまだ、完全には理解していなかった。
演習場の砂塵が舞い上がる中、最強の二人が対峙する。
観客席の熱狂は頂点に達していたが、その中心に立つ二人の間には、鼓膜が痛くなるほどの静寂が横たわっていた。
「……悪いけど傑、今の俺は昨日までとは一味違うよ。直哉のおかげでさ、無敵に甘えるのはやめたんだ」
五条がサングラスを懐にしまい、その鮮烈な青い瞳を露わにする。
その眼差しには、親友への情けも、慢心による隙も一切ない。
ただ純粋に、目の前の強敵を完封するという絶対的な意志だけが宿っていた。
「準決勝、決勝戦――始め!」
合図と同時に、五条が弾丸のごとく踏み込んだ。
「術式順転・蒼」
演習場の中央に、空間の歪みが現れる。
夏油は即座に残された精鋭の呪霊を数体展開し、自身の周囲に強固な防壁を築くが、五条の蒼は容赦なくそれらを吸い込み、圧壊させていく。
「くっ……!」
夏油は地面を蹴り、後方へ跳ぶ。
だが、五条の追撃はそれを上回る速度だった。
五条は無下限呪術を攻防一体の武器として運用し、自身の拳に最小限の蒼を纏わせることで、防御不能の打撃を繰り出す。
「どうした傑! 呪霊が足りないんじゃないのか!?」
五条の拳が夏油のガードを突き破り、その胸部を捉える。
ドォン!という鈍い衝撃音と共に、夏油の体が後方の壁まで吹き飛ぶ。
夏油の放つ呪霊たちは、五条に触れることすら許されず、次々と蒼によって消滅していく。完全に五条の独壇場だった。
直哉戦を経て、五条は六眼による情報処理を限界まで引き上げ、自身の周囲に展開する無限の膜をコンマ数秒単位で最適化していた。
(……ストックが、削られる)
夏油は壁に背を預け、荒い息を吐き出す。
手元に残った呪霊は、もはや三桁を切ろうとしていた。
七直との戦いで受けた精神的疲労も相まって、視覚が微かに歪む。
「……傑。もう終わりにする? お前のストック、あと何体も保たないでしょ。パシリの一ヶ月、今なら二週間にまけてあげるよ」
五条がゆっくりと歩み寄る。その余裕は、かつての慢心ではなく、確かな実力差からくる結論の提示だった。
だが、夏油はうつむいたまま、静かに笑った。
「……悟。君は本当に、最高の呪術師だ。……だからこそ、私は君を越えなければならない」
夏油の脳裏に、七直との死闘で感じたあの感覚が蘇る。 七直の式神・昼から放たれた、あの正のエネルギー。
呪霊という負の存在を、根源から打ち消したあの輝き。
(……負を負で掛け合わせるだけじゃない。負の存在そのものを、別の位相へと流転し、昇華させるような……)
夏油の掌に、震えるような呪力の胎動が宿る。
彼は、手元に残った強力な呪霊の一体、その核を指先で強く握りしめた。
「術式……反転」
夏油の声が、演習場の空気を震わせた。
五条の六眼が、異常な数値を捉える。夏油の全身から溢れ出していた澱みのような負の呪力が、一瞬にして、眩いばかりの、そして熱い別の何かへと変質していく。
「……なっ、傑、お前……!?」
五条の言葉が終わるより早く、夏油が動いた。
先ほどのダメージを物ともしない機動力。
夏油の右腕が、正の呪力を帯びて白く発光する。
彼は真っ向から、五条の懐へと飛び込んだ。
「無駄だって、傑! 無下限は――」
五条が咄嗟に無下限の出力を最大に引き上げる。
夏油の拳が、五条の顔面数センチ手前でピタリと止まった。
だが、いつもならそこで虚しく静止するはずの衝撃が、止まらない。
ジジッ、と空間が軋むような異音が鳴り響く。
夏油の拳から溢れ出す正の呪力が、五条の展開する負の無限と真正面からぶつかり合い、激しい火花を散らしていた。
「……中和、してんのか……!?」
五条の瞳が驚愕に細まる。
夏油の拳は、止まったまま小刻みに震えている。
いや、震えながら進んでいた。
正の呪力が負の術式を食い破り、無限という計算式を端から順に塗り潰していく。
一ミリ、また一ミリ、本来なら決して到達することのないはずの距離を、夏油の執念が強引に縮めていく。
「――おおぉぉぉ!!」
夏油が咆哮を上げ、さらに呪力を注ぎ込む。
次の瞬間、粘りつくような空間の抵抗を突き破り、塞き止められていた力が一気に動き出し、夏油の拳が五条の頬を真正面から捉えた。
ドォォォォォン!!
今度は五条の体が、演習場の地面を滑るように吹き飛んでいく。
観客席は、先ほどの直哉の時以上の、言葉にならない叫びに包まれた。
砂煙の中から、夏油がゆっくりと立ち上がる。
その腕からは、未だに正の火花が散っていた。
「……さて。ここからが本番だよ」
夏油の瞳には、七直との激闘を経て辿り着いた、新たな強者の自負が宿っていた。
反転術式の獲得。
それは最強の二人という均衡が、さらに高い次元で崩れ、再構築される瞬間だった。
五条は吹き飛んだ勢いのまま地面を蹴り、空中で体勢を立て直すと、信じられないものを見るような目で夏油を凝視した。
「……ッ、お前マジかよ! 無下限を力技で抉じ開けるなんて、頭おかしいんじゃねーの!?」
頬に刻まれた赤みを掌で拭い、五条が戦慄と歓喜の混じった声を上げる。
それに対し、夏油は白銀の輝きを纏った拳を構え直し、静かに言い放った。
「……ようやく君に届きそうだ、悟」
夏油は残った数体の主力級を除き、他の呪霊を一切展開しない。
呪霊操術という数の暴力を捨て、すべてのリソースを無下限の不安定化と自身の肉体強化に一点集中させた。
中距離からの蒼による吸引と斥力を、夏油は正の呪力による中和で強引に突破し、超至近距離での肉弾戦に持ち込む。
五条の拳が無下限を纏い重質量と化して襲い掛かるが、夏油もまた、反転した呪力特性を腕に凝縮し、それを真正面から叩き落とした。
だが、代償は大きい。
反転術式の継続的な行使は、夏油の呪力を猛烈な勢いで食いつぶしていく。
(……限界か。いや、まだだ)
夏油の呪力残量が底を突きかける。
視界がかすみ、膝が折れそうになる瞬間、彼は自身の中に眠る術式の裏を無理やり引きずり出した。
「呪霊操術・術式反転――昇華」
呪霊操術は呪霊を取り込み使役する。
その反転は解体、分析、変換、まだ先があるかもしれないが今の夏油には余裕がない。
手元に残した主力級以外の、数百に及ぶ呪霊のストックを一瞬にして自身の内で解体し、呪力へと変換する。
夏油の体内で、異なる個体だった呪霊が純粋なエネルギーへと精製され、爆発的な呪力となって全身を駆け巡った。
五条の六眼が、夏油から溢れ出す絶望的なまでの呪力量を捉える。
「……マジか!? 呪霊をまるごと自分の呪力へ変換したっていうのかよ……!」
「治癒に回す余裕はない。……これ、全部ぶつけるよ」
夏油は増幅された呪力のすべてを正へ変換した。
眩いばかりの白光が演習場を白く染める。
夏油は文字通り正の呪力の塊と化し、五条の無下限という障壁を、飽和するほどの出力で無力化させた。
もはや、そこには術師の洗練された戦いなどなかった。
無下限を封じられた五条と、呪霊を捨てた夏油。
ヤンキー漫画の喧嘩さながらに、二人の拳が互いの顔面に突き刺さる。
「……あはは! 届いてんじゃん、傑!」
五条の拳が夏油の鼻を砕き、夏油の拳が五条の顎を跳ね上げる。
彼の、五条の胸中には、初めて自分に届き得る存在を目の当たりにした焦燥と、それ以上に、親友が並び立ったことへの震えるような期待が渦巻いていた。
対する夏油は、一撃を繰り出すたびに届いているという確かな手応えに、魂が震えるような達成感を覚えていた。
「ハッ……当たり前だ。……独り歩き、させるつもりはないよ!」
全身に痣を作り、服はボロボロに裂け、血を流しながらも、二人は笑っていた。
最強の二人が、ただの少年として拳を交わす。
演習場の中心で、青と白の火花が散るたびに、周囲の瓦礫が砂塵へと変わっていった。
◆
演習場を揺るがす轟音と、視界を焼き切るような白銀の閃光。
観客席の最前列で、七直は手すりを握りしめたまま、眼下で繰り広げられる、神域の喧嘩を凝視していた。
「……嘘でしょう」
思わず漏れた声は、周囲の歓声にかき消される。
彼女が驚愕していたのは、五条の無下限が破られたこと以上に、それを成し遂げた夏油傑という男の進化の速度だった。
「私の見せた術を……あんな短時間で、自分なりに解釈して形にするなんて」
七直は知っている。
反転術式の習得がいかに困難か。
彼女自身、式神・昼という特殊な式神を介してようやく制御しているその力を、夏油は実戦の最中に、それも死線を潜り抜けた直後の極限状態で掴み取った。
「傑は、自分を癒すためにそれを使ったんじゃない。……無下限を殺し、悟に拳を届かせるためだけに、呪力の極致をねじ伏せた」
その才能は、もはや秀才という言葉では括れない。
七直の見せた正の呪力という「種」は、夏油の中で呪霊を解体し、自分自身を正のエネルギー体へ変えるという、呪霊操術の常識を覆す暴力的な「芽」へと進化を遂げた。
「……いけずどころの騒ぎじゃないわね。とんでもない化け物よ、貴方は」
七直の口角が、微かに上がる。
隣で目を皿にして試合を凝視いてる直哉や、呆然としている他の生徒たちとは対照的に、彼女の瞳には深い感銘と、同級生としての誇らしさが宿っていた。
ふと隣を見ると、硝子が煙草を咥えようとして、火をつけずに手の中で弄んでいた。
「……ねぇ、七直。あいつら、明日からもっと手が付けられなくなるんじゃない?これ」
「ええ。……でも、少しだけ安心したわ。あの二人が最強として並び立つのなら、この狂った呪術界も、少しはマシな場所に変わるかもしれない」
七直は再び戦場へ視線を戻す。
そこには、泥臭く、しかし誰よりも眩しく笑いながら拳を交わす、二人の少年の姿があった。
◆
頭突きを喰らわせ、互いの脛を蹴り飛ばし、呪術師の誇りさえかなぐり捨てた泥仕合の果て。
重い衝撃音と共に、演習場の中央で二人の巨躯が同時に崩れ落ちた。
巻き上がった土煙が風に流され、静寂が支配する空間。
誰もが息を呑んで見守る中、ガレキの山を押し退け、ゆっくりと、だが確かな足取りで立ち上がる一人の影。
それは、五条悟だった。
「…………ははっ」
五条の姿は、観客席の誰もが見たことのないほど凄惨だった。
端正な顔は痣だらけに腫れ、制服はぼろ布のように裂け、全身から血が滴っている。
最強と謳われ、無下限の壁に守られて生きてきた彼にとって、それは生まれて初めて体験する生命の危機に届くほどの痛みだった。
痛ましい、という言葉が喉まで出かかる。
だが、その表情を見た瞬間、誰もが言葉を失った。
五条の顔には、そのボロボロな外見とは裏腹に、雲一つない秋空のような、どこまでも晴れやかな笑みが浮かんでいたのだ。
「……こんなに殴られたのは、生まれて初めてだぜ、傑」
五条は、地面に伏したまま動けない親友を見下ろした。
戦いそのものは、完全に対等だった。
夏油の昇華による正の呪力は、最後まで五条の無下限を無力化し続け、その拳は確実に五条の身体を削り抜いていた。
だが、勝敗を分けたのは技術や才能ではなく、単純な余力の差だった。
直前の七直戦で精神を極限まで摩耗させていた夏油には、もはや立ち上がるための筋肉を動かす呪力さえ、残っていなかった。
「……あー、クソ……。膝が、笑って……動かないよ、悟」
夏油は仰向けに倒れたまま、血の混じった唾を吐き出し、力なく笑った。
その瞳にもまた、敗北の悔しさを塗りつぶすほどの、深い充実感が宿っていた。
「傑。お前、マジで最高だわ」
五条はふらつく足取りで夏油の側まで歩み寄り、自身の腫れ上がった手を見つめた。
そこに残る痛みこそが、自分が独りではないことの証明であり、対等な隣人がそこにいるという確信だった。
「勝者――五条悟!!」
夜蛾の震えるような宣言が、演習場に響き渡った。
夏油強化入りました。マジ戦闘大変。もう引き出しないよ…。
質問コーナー
Q.夏油の術式反転について詳しく。(注意、作者的解釈が入ります。異論は認めるが今後これで進めていきます。ご容赦ください)
A.簡単に言うと、呪霊を解体、分析、変換、再構築、つまり呪霊の創造することにあります。
「呪霊は人々の負の感情の澱みから生まれる」と夏油本人も言ってたので、その澱みを解くこと、解体が呪霊操術の反転につながるという解釈です。また一級以上の術式持ち呪霊の解体にも、術式の抽出が発生します。これを取っておいて、再構築した新呪霊に備え付けることも可能です。ですが新呪霊自体には生得術式は持っていません。
等級の高い呪霊ほど呪力の還元も大きいですが、逆に再構築するときの呪力も大きくなります。特級レベルはピンキリでばらつきが酷いですが、目安として。
特級呪霊Ⅰ(一級より少し強い)=一級呪霊10体分
特級呪霊Ⅱ(宿儺の指を取り込んだ呪霊)=一級呪霊100体分
特級呪霊Ⅲ(御三家レベル)=一級呪霊1000体分
(書いててヤバいなって思った)
いつも応援ありがとうございます!感想お気に入り登録高評価とても励みになっております!まだの方は是非とも今作をよろしくお願いいたします!