「……はぁ。あんたたち、加減って言葉を知らないの?」
学校の医務室。
夕刻の西日が差し込む室内で、家入硝子が呆れを通り越して無表情なまま、ベッドに横たわる二人に反転術式を施していた。
五条は頬に大きな絆創膏を貼られ、夏油は全身を包帯で巻かれている。
「いいじゃん硝子。傑がマジで殺しに来るからさ、俺も全力出すしかなかったんだよ」
「……どの口が言うんだ。先に無下限を押し付けてきたのは君だろう、悟」
口を動かすたびに痛むのか、二人は顔をしかめながらも、どこか楽しげに言い合っている。そこへ、扉が乱暴に開かれた。
「――姉貴! 姉貴、どこや!悟くんと傑くんは!?」
直哉が包帯だらけの顔をさらに歪ませて飛び込んでくる。
その後ろから、凛とした足取りで、しかし素の口調を隠そうともしない七直が入ってきた。
「うるさいわよ直哉。ここは医務室よ、静かにしなさい」
七直は二人のベッドの間に立つと、夏油の包帯姿をまじまじと見つめた。
「……傑。あんたのあの戦い、悪くなかったわよ。私の術式をあんな風に料理するなんて、正直、予想外だったけれど」
「七直……。ありがとう。君がいなければ、私は今日、悟に触れることさえできなかった」
夏油が少しだけ神妙に、けれど晴れやかな顔で礼を言う。
七直はフンと鼻を鳴らすと、隣でニヤニヤしている五条に冷たい視線を向けた。
「さて、五条。あんたが優勝ね。おめでとう。……傑の約束通り、今日から私はこの忌々しい言葉遣いをやめさせてもらうわ。……まぁ、あんたがそのボロボロの体で、いつまで優勝気分に浸れるか知らないけれど」
「……ニシシ! 最高! やっぱそっちの方が喋りやすそうだね」
五条が笑うと、硝子が処置の手を止め、気だるげに七直の方を振り返った。
「ねぇ七直。私一人じゃこのバカ二人を完治させるのに時間かかるから、あんたも手伝って。反転術式、いけるでしょ?」
「……ええ。いいわよ、硝子。……傑、あんたは私が診てあげる。悟の方は、勝者の特権で硝子にたっぷり絞られなさい」
七直が夏油の傍らに立ち、その手に正の呪力を灯す。
その手さばきを見ながら、五条が思い出したように顔を輝かせた。
「あ、そうだ! 忘れてた。直哉は俺のパシリ確定だったよね! じゃあまず、コーラ。一番冷えてるやつ、買ってきてよ。俺と傑と硝子の分……あ、七直はお嬢様だからいらないよね?」
「……ほら直哉。悟様がコーラをご所望よ。……行ってきなさい、振ってから渡してあげるのよ」
「えっ、姉貴!? ほんまに行くん!? 僕、禪院家の次期当主候補やで……! 五条家にこき使われるとか禪院の恥や……もうおしまいや……」
直哉は「地獄や、ここは地獄や」とぶつぶつ呟きながら、魂が抜けたような足取りで部屋を出ていく。
「……はは、賑やかだね。……痛っ、七直、少し手際が荒いんじゃないかな」
「……うるさいわね。あんたが無理な術式反転なんてやるから、術式がズタボロなのよ」
ぶっきらぼうな口調で言いながらも、七直の指先は優しく、夏油の傷を丁寧に癒していく。 窓の外では、騒がしかった演習場が嘘のように静まり返っていた。
五条と夏油、そして硝子と七直。
夕闇が迫る医務室の中で、四人はようやく訪れた穏やかな時間に身を委ね、絶え間ない笑い声に包まれていた。
◆
夕闇が完全に高専を包み込む頃、校長室では夜蛾正道が一人、机に積み上がった書類の山と格闘していた。
「……これだけの被害を出しておいて、よくもあんな晴れやかな顔で笑えたものだ」
夜蛾はこめかみを押さえ、一枚の書類を手に取った。
演習場の被害報告書だ。
コンクリート外壁の全壊、地盤の過度な陥没、仮想怨霊の顕現による呪力的土壌汚染。
羅列された文字は、もはや学生同士の演習で出すべき数値を超えていた。
「悟と傑……それに禪院七直。あの二人だけでも手に負えないというのに、さらにもう一人、理論と術理で彼らを底上げするような問題児が増えるとはな。いや、直哉も含めて四人か…」
夜蛾はため息をつきながらも、その口角はわずかに上がっていた。
夏油が見せた術式反転の獲得。五条の、慢心を捨てた絶対的な防御の洗練。
そして、それらを引き出す種を蒔き、かつ自身もまた一級に届き得る実力を見せつけた七直。
かつて五条と夏油の二人が最強と呼ばれ始めた頃、夜蛾は彼らの孤独を危惧していた。
強すぎるがゆえに誰も届かない、孤高の頂。
だが今日、演習場で見せた彼らの姿は違った。
互いに殴り合い、血を流し、泥臭く笑う。
そこには、互いを高め合う仲間の熱量があった。
「成長は喜ばしい。……ああ、心から喜ばしいとも。だがな……」
夜蛾は、窓の外から聞こえてくる五条の「コーラ遅いぞ直哉ー!」という叫び声を聞き、再び深く項垂れた。
「実力に比例して、しりぬぐいの規模も、上層部への言い訳の回数も、私の胃の痛みも倍増していく。……あの三人が組んで任務に出るなど、想像しただけで、この学校が物理的に保つかどうか……」
夜蛾は、傍らに置いていた呪骸・キャシィの頭を無意識に撫でた。 最強の二人が最強の三人あるいは四人となった。
それは呪術界にとっての希望であると同時に、担任である彼にとっては、終わりのない頭痛の種が増えたことを意味していた。
夜蛾はペンを握り直し、報告書の最後に今後の教育方針として、力強く一言だけ書き加えた。
――道徳教育の徹底
「……無理だな」
自嘲気味に呟きながら、夜蛾は次の、さらに金額が膨れ上がった面の修繕見積書へと手を伸ばした。
◆
禪院家本邸。
静謐な庭園を望む広間で、当主・禪院直毘人は届いたばかりの報告書を肴に、大杯の酒を煽っていた。
「ガハハハハ! 壊したか、演習場を! それもあの五条の坊主と噂の呪霊使いを相手に、そこまでやり合ったか!」
直毘人の豪快な笑い声が、歴史ある廊下にまで響き渡る。
手元の報告には、七直が五行の術理と投射呪法で夏油を極限まで追い詰めたこと、そして直哉が五条に一矢報い、最後には顔面を腫らしてパシリにされていることまでが克明に記されていた。
傍らに控える門弟たちは、家の次期当主候補が他家のパシリにされているという不名誉な事実に顔を青くしているが、直毘人だけは愉快でたまらないといった様子だ。
「良い、それで良い。直哉の鼻っ柱など、今のうちに五条にへし折られておいた方が身のためだ。あやつの狭い視野では、あの最強たちの背中は拝めんからな」
直毘人は酒を飲み干すと、ふと目を細めた。
彼の関心は、息子以上に娘である七直に向けられていた。
夏油と戦い、彼に術式反転の種を与えたという彼女の才覚。
「七直の奴、とうとう猫を被るのをやめたか。五行を術式に従えるなど、理屈は分かっても実践できる者はこれまでにおらん。あやつは禪院の血に、土御門の理を完全に混ぜ込みおったわ」
直毘人は満足げに髭を撫でる。
土御門家の血を継ぐ京子を迎え入れた際、一族の鼻つまみ者たちは落ちぶれた血筋などと嘲笑った。
だが、その混じり合った血が今、禪院の歴史に類を見ない異質の才能を開花させたのだ。
「高専という場所は面白い。あそこには、血筋や家柄などというクソ食らえな重圧を、笑い飛ばして壊す異常者たちが揃っておる。七直も直哉も、泥にまみれて強くなれ」
再び大杯に酒を注ぎ、直毘人は夜空の月を見上げた。
息子がパシリにされているという屈辱さえ、彼にとっては最高の酒の肴でしかない。
直毘人の笑い声は、夜の禪院家を賑やかに揺らし続けていた。
◆
「真依、手が止まっているわよ」
誰もいない離れの広間。真希が静かに、けれど厳格な口調で指摘する。
真依は即座に姿勢を正し、一寸の乱れもない動作で茶を点てた。
「……ごめんなさい、真希。少しだけ、外の風の音が気になったの」
「お姉様たちの噂でしょう。……ふん、あの直哉がパシリにされてるなんて、傑作じゃない」
真希は口元に微かな笑みを浮かべた。
七直に教え込まれた淑女の所作。そして直哉に叩き込まれた、理不尽を叩き伏せるための暴力。
それらは今、二人の血肉となり、禪院家という名の怪物と対峙するための強固な鎧となっていた。
そこへ、一人の年嵩の門弟が無作法に襖を開けて入り込んできた。
「おい、真希、真依! 当主がお呼びだ。高専からの報告を聞かせてやるから、面を貸せと――」
言いかけた門弟の言葉が、凍りついたように止まった。
真希が、茶碗を置く所作の途中で、ただ視線だけを向けたからだ。
七直直伝の、相手の眉間を射抜くような、感情を削ぎ落とした静かな眼差し。
「……何か? 仰々しく襖を開けるのが、当主の命を受けた者の作法なのですか?」
真希の声は冷徹で、凛としていた。
門弟は思わず気圧され、一歩後退る。
「……な、何だ、その目は! 術式も持たないくせに生意気な――」
「真希の問いに答えなさい。不作法ですよ」
今度は真依が、扇子の先でスッと門弟の喉元を指し示すように構えた。
それは直哉に教わった急所の指摘。
術式はなくとも、その一突きの鋭さを予感させる真依の指先に、門弟は冷や汗を流した。
「……ッ、失礼した! 当主が、広間でお待ちだ!」
門弟が逃げるように去っていく。 二人はそれを見送り、同時にはぁ、と小さく息を吐いた。
「……お姉様たちがいないと、やっぱり不作法な人ばかりね、この家は」
真依が困ったように笑う。
「ああ。でも、お姉様と直哉が外で暴れてくれてるおかげで、あいつらも迂闊には手出しできないみたい。……最強と並び立つ姉弟の妹を、誰が殺せるっていうのよ」
真希は窓の外、東京の空が広がる方向を見つめた。
「パシリにされてる直哉はともかく、七直お姉様は……きっと、私たちが一番憧れた気高い術師として、あそこに立ってるんだろうな」
「ええ。……私たちも、負けてられないわね。次に二人が帰ってきた時、完璧な淑女として、そしてこの家を内側から食い破る獣として、驚かせてあげましょう」
二人は再び、静かに向き合う。
七直が残した淑女の誇りと、直哉が残した生存の暴力。
その二つを抱えた雛たちは、いつか檻を壊して飛び立つその日のために、今日もまた、誰よりも気高く自分たちを磨き続ける。
「お姉様、直哉……見てて。私たちは、もう折れないから」
禪院家の冷たい闇の中で、二人の少女の瞳だけが、高専にいる二人と同じ、不敵な輝きを放っていた。
◆
その日の夜、高専の食堂は、交流戦の優勝を祝う賑やかな熱気に包まれていた。
卓上には直哉が買ってきた一番冷えたコーラに、夏油が呪霊で運ばせた大量の出前とピザが並んでいる。
「いやー、いい飲みっぷりだね、夜蛾センセ! 苦労人の味?」
五条が、自分のパシリとなった直哉に給仕をさせながら、夜蛾にコーラのコップを差し出す。
夜蛾はそれを複雑な表情で受け取りつつも、教え子たちの無事な姿に、どこか安堵した様子で喉をならした。
「……悟。これ以上の被害報告は、私の心臓が保たん。今日だけは、静かに祝わせろ」
「まぁまぁ、学長。今日くらいはいいじゃないですか。ね、七海!」
「まだ夜蛾先生は学長じゃないでしょう」
灰原がいつもの屈託のない笑顔で、隣の七海に肩を組む。
七海は「食べ辛いですよ」と毒づきながらも、どこか満足げにカツサンドを口に運んでいた。
「……準決勝の夏油さんと禪院さんの戦い、それから決勝の五条さんと夏油さん。呪術師として、あるべき矜持を見せていただきました。そこだけは、尊敬に値します」
「……七海にしては、最高の褒め言葉だね。ありがとう」
夏油が包帯越しに苦笑いする。
その横では、ようやくお嬢様言葉をかなぐり捨てた七直が、豪快にピザを頬張っていた。
「……はぁ。やっと普通に喋れるわ。あの言葉遣い、肩が凝って仕方なかったのよ」
「姉貴……。人前でそんなガサツな食い方して……。禪院の女として終わっとるで」
直哉が、五条にコーラを注ぎながら忌々しげに吐き捨てる。
しかし、七直はピザを飲み込むと、不敵な笑みを浮かべて異母弟を射抜いた。
「あら、直哉。あんたこそ、五条家のパシリなんてやってていいの? 私もあんたと同じ、直毘人を父に持つ当主候補よ。……今の立ち振る舞いを見て、お父様がどちらを次期に選ぶかしらね」
「……ッ、それはそれや! 僕は次期当主候補やぞ! こんな……パシリなんて、本来なら末代までの恥や……!」
「じゃあ、俺が禪院のおっさんに言っておこうか? 『直哉はコーラの買い出しの才能がある』ってさ」
五条がニヤニヤしながら追い打ちをかけると、直哉は「余計なことすな!ボケカスが!」と顔を真っ赤にして叫んだ。
「でも、本当によかった」
灰原がふと、真剣な顔で言った。
「五条さんも夏油さんも、そして七海も七直さんも。みんながボロボロになりながら笑ってるのを見て、僕、この学校に来てよかったなって思いました。最強の皆さんが揃ってるなら、どんな任務も怖くないですよ!」
灰原の純粋な言葉に、一瞬だけ、その場の空気が柔らかく緩んだ。
最強の一人歩きではなく、並び立つ者たちの群像。
「……灰原、あんた少しは危機感を持ちなさい。この人たちが組むと、任務先が物理的に消滅する可能性があるのよ」
七直の冷静なツッコミに、夏油が「それは否定できないな」と肩をすくめ、五条が「全壊は傑のせいだろ」と笑う。
夜蛾は、その騒がしい光景を眩しそうに見つめていた。
最強の二人に、それをも食い荒らす知性と術理を持つ少女、そして彼らに食らいつく後輩たち。 この異常なまでに輝かしい世代が、呪術界の暗雲をどう払っていくのか。
「……夜蛾センセ、そんな暗い顔すんなよ! ほら、直哉! 先生のコップが空だぞ。次はメロンソーダな!」
「ざけんなや!自分で注げや!悟くん!」
結局、宴は深夜まで続いた。
窓の外には満月が昇り、宿舎の食堂からは、いつまでも若者たちの不遜で、けれど希望に満ちた笑い声が響き渡っていた。
こういう青春が一番ほのぼのする。
質問コーナー
Q.七直って犬派?猫派?
A.七直はそこそこ動物は好きですが、犬も猫も同じくらいです。ホントに好きなのは鳥類です。ペンギンとか好き。夏油に話したら、鳥の呪霊を見せてくれましたが、あまりに呪霊が醜悪だったため「キモイ」と言い放ち、夏油の心を砕きました。
直哉「姉貴…人の心とかないんか…」
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