初夏の暑さが迫ってくる頃。
高専の教室は、外の爽やかな晴れとは裏腹に、極寒のマイナス気温のように冷え込んでいた。
教壇に腰掛け、仏頂面で腕を組むのは夜蛾正道。
その目の前では、最強と謳われる問題児二人、五条悟と夏油傑、そして何食わぬ顔の家入硝子が並んで正座させられていた。
夜蛾の隣には、同じく腕を組んだ七直が立っている。
彼女の頬や腕には数枚の絆創膏が貼られていた。
反転術式を使えば瞬時に消える程度の掠り傷だが、あえてそれを残しているところに、彼女の静かな、しかし苛烈な怒りが透けて見える。
「……いいか、この中に、『帳は自分で降ろすからいい』と言って補助監督を置き去りにしたやつがいる。そしてあろうことか、帳を忘れた。……名乗り出ろ」
夜蛾の低く地を這うような声が響く。五条は気まずそうに視線を逸らし、夏油は「やれやれ」といった風に目を閉じた。
「先生! 犯人探しはやめませんか!? 」
五条が、まるで道徳の授業のような口調で開き直る。
「……悟だな。七直、殴っていいぞ」
「ありがとうございます、先生。喜んで」
七直は迷うことなく一歩踏み出した。
呪力は一切籠められていない。
だが、そこには純粋な怒りという重圧が乗っていた。
ゴッ!!
「いってーな!! 脳震盪起こすだろ!!」
脳天に拳を落とされた五条が頭を抱えてのけぞる。
七直は冷ややかな瞳で五条を見下ろす。
先日の任務、行方不明者の捜索で歌姫や冥冥と合流していた七直だったが、後から来た五条と夏油が面倒くさいとばかりに大規模な術式をぶっ放し、館を粉砕したのだ。
「七直は強ぇんだから問題ないだろ!」
「何が問題ないよ。……私や冥さんはともかく、歌姫先輩が腰を抜かしてたわよ。あんたたちが洋館ごと吹き飛ばしたせいで、私は瓦礫の下敷き。危うく歴史ある土御門の血筋が、バカの不始末で途絶えるところだったわ」
「瓦礫なんて、お前だったらでどうにでもなったじゃんか!」
「そういう問題じゃないって言ってるの。……傑、あんたもよ。悟を止めるどころか、一緒になって笑いながら競い合ってたわね?」
七直の視線が夏油へ移る。
夏油は「しまった」という顔をしながら、少しだけ申し訳なさそうに視線を逸らした。
「……すまない、七直。少し、任務の効率を優先しすぎたかな」
「効率じゃなくて、ただのストレス発散でしょう。硝子からも言ってやって」
振られた硝子は、正座したままぷいと横を向いた。
「無理。私もこいつらに連れ回されて、洋館のホコリで喉痛めたし。五条、あとで高級な喉飴買ってこい。直哉にパシらせていいから」
「ざーんねん、便利屋直哉君はもう閉店しちゃったよ」
五条が喚くが、夜蛾の拳が机を叩く音で全員が静まり返った。
「……悟、傑。お前たちが強くなったのは認めよう。だが、強者は弱者を守るためにある。帳を忘れるなど論外だ。……七直、追加で傑の分も頼む」
「わかりました」
「……待ってください、先生。私は悟とは違って理性的に――」
夏油の弁明が終わる前に、七直の二発目が空を切って、彼の頭上へと正確に振り下ろされた。
◆
夜蛾の長い説教がようやく終わり、解放された四人は、自販機前のベンチにいた。
空気はまだ少し刺々しい。五条は頭のたんこぶをさすりながら、冷えたコーラを当てている。
「……あー痛て。七直、お前マジで容赦ねーのな。なんで呪力乗ってなくても骨に響くんだよ」
五条が愚痴をこぼしながら、不機嫌そうにコーラのプルタブを弾いた。
「当然でしょう。あんたたちのせいで、私の制服は砂埃まみれ、歌姫先輩は泣きべそよ。少しは反省なさい」
七直はベンチに深く腰掛け、足を組んで言い放った。
その横では夏油が、冷めた紅茶のペットボトルを見つめながら、夜蛾の言葉を反芻するように独りごちる。
「……弱きを助け、強きを挫く。呪術は非術師を守るためにある。それが社会のあるべき形だ。……悟、先生の言うことはもっともだよ。力を正しく導くための『理性』こそ、我々術師には必要なんだ」
夏油のその言葉に、五条が鼻で笑った。
「ハッ、またそれかよ傑。正論だよ。大っ嫌いな正論。弱者に配慮して、一々帳の有無で神経擦り減らすなんて疲れるんだよ。強い奴が弱い奴に合わせるのが『正しい』なんて、そんなの、ただの不自然だろ」
「……悟」
夏油の眉間に深い皺が寄る。
その場の空気が、パチパチと静電気を帯びるように重くなっていく。
一触即発の気配。それまで無言でアイスを齧っていた硝子が、面倒くさそうに立ち上がった。
硝子はそそくさとその場を離れた。
残されたのは、不敵に笑う五条と、峻厳な顔の夏油。
そして、その二人をどこか冷めた目で見つめる七直だけだ。
「傑。あんたの理想は立派だけどね……少し独善的だわ」
七直の声が、二人の睨み合いを断ち切るように割って入った。
「どういう意味だい?七直」
夏油の視線が向けられる。
そこにあるのは、自分を律しているがゆえの攻撃的な自負だ。
「『強者は弱者のためにある』。それは美しい言葉だけれど、現実はそうじゃない。非術師は守られる対象であると同時に、呪いを生み出し、術師をすり潰す原因でもあるのよ。傑、あんたは彼らを神格化しすぎ。その責任感はやめておきなさい。いつか、自分自身がその重みに耐えられなくなるわよ」
「……私は、自分を律することができないほど弱くはないさ」
「いい加減にしろよ。傑の堅苦しいのも、七直の説教臭いのも、どっちもゴメンだね」
五条が立ち上がり、空のコーラ缶をゴミ箱へ投げ捨てようとした、その時。
「お前たち、ここにいたか。硝子はどうした?」
「あら、いつの間にかいないわね」
背後から夜蛾正道が現れた。
先ほどまでの説教モードとは明らかに違う、重苦しく、そして厳かな気配を纏っている。
「先生……まだ説教の続き?」
五条が茶化そうとしたが、夜蛾の表情を見て言葉を飲み込んだ。
「……いや、まぁいい。至急の任務だ。お前たち三人に、天元様から直々の指名が入った」
夜蛾の言葉に、七直が眉を動かす。天元からの直々の指名。
それは呪術界の根幹に関わる事態を意味していた。
「任務内容は、二つ。星漿体――天元様との適合者である少女の、『護衛』と『抹消』だ」
「少女の護衛と抹消ォ?」
五条が、まるで出来の悪い冗談を聞かされたかのように口を尖らせる。
「そうだ」
夜蛾の重々しい返答に、五条は呆れたように鼻を鳴らした。
「ついにボケたか」
「春だしね。次期学長に内定して、少し浮かれているのさ」
夏油が軽口で畳みかけると、隣に立つ七直が冷ややかな視線を送った。
「あんたたち、さっき説教されたばかりだっていうのに、よくもまあそんな口が叩けるわね。」
「……冗談はさておき。天元様の術式の初期化ですか?」
「冗談で済ますかどうかは俺が決めるからな」
夜蛾がこめかみをピクつかせながら促すと、夏油は少しだけ表情を引き締め、本題を切り出した。
「で、何ソレ?」
五条の間の抜けた問いに、夏油、夜蛾、そして七直の三人が、一斉に「お前は知っているだろう」という無言の視線を突き刺す。
「なんだよ。……七直、そんな『信じられない』って顔すんなって」
「五条家の神子様ともあろうお方が、呪術界の根幹すら理解していないなんて。呆れて言葉も出ないわ。……いい? 悟。天元様は不死の術式を持っているけれど、不老ではないのよ。ただ老いるだけならいいけれど、一定以上の老化が進むと、術式が肉体を強制的に創り変えようとするの」
七直が、幼稚園児に教えるような口調で解説を始める。
「ふむ?」
「『進化』よ。人でなくなり、より高次の存在となる」
七直の言葉に、五条は「じゃあいいじゃん。カッコいい〜」と、まるで映画の進化モンスターでも見るような気楽な感想を漏らした。
「天元様曰く、その段階の存在には『意思』がないらしい」
夏油が静かに補足する。
「天元様が天元様でなくなってしまう。高専各校、呪術界の拠点となる結界、補助監督たちの結界術。そのすべてが天元様によって強度が底上げされている。あの方の力添えがなければ、防護セキュリティも任務の消化もままならなくなる。最悪の場合、天元様が人類の敵となる可能性すらあるのさ」
「だから五百年に一度、天元様と適合する人間――『星漿体』と同化し、肉体の情報を書き換える。肉体が一新されれば術式効果も振り出しに戻る。『進化』は起こらないというわけよ」
七直の流れるような説明に、五条はポンと手を打った。
「成る程。メタルグレイモンになる分にはいいけど、スカルグレイモンになるのは困る。だから、コロモンからやり直すって訳ね」
「えぇ……まぁいいや、それで。デジモンで理解できるなら」
夏油が疲れたように息を吐くと、夜蛾が声を一段と低くし、事態の深刻さを告げた。
「その星漿体の少女の所在が漏れてしまった。今、少女の命を狙っている輩は大きく分けて二つ! 天元様の暴走による呪術界転覆を目論む呪詛師集団『Q』。そして、天元様を純粋に崇拝するがゆえに同化を拒む盤星教、『時の器の会』だ」
夜蛾が地図を広げ、三人を鋭く見据える。
「天元様の同化は二日後の満月! それまで少女を護衛し、天元様の下まで送り届けるのだ! 失敗すれば影響は一般社会にまで及ぶ! 心してかかれ!」
◆
夜蛾によるブリーフィングが終わった直後。
高専の校門前には、すでに送迎の車が待機していた。
初夏の陽光がアスファルトを焼き、セミの声が遠くで鳴き始めている。
五条は気だるげにサングラスを直し、夏油は自身の呪力を整えるように目を閉じていた。
「もし……その星漿体の少女が、同化を拒んだら、どうする?」
ふとした沈黙を破り、夏油が問いかけた。
その瞳には、一人の少年としての揺らぎが微かに混じっている。
「あぁ? そん時は同化はなし。それだけでしょ」
五条が、まるで昼飯のメニューを決めるような軽さで即答した。
夏油は少し驚いたように目を見開く。
「……随分と、あっさり言うね」
「だってさ、本人が嫌だって言ってんのに無理矢理食わせるなんて、趣味悪ぃじゃん。そんなの最強の俺たちがやることじゃねーし」
五条の真っ直ぐすぎる、ある種の傲慢さを含んだ優しさに、七直がクスリと笑った。
「そうね。私も悟に同意見だわ。……彼女の意思は尊重されるべきよ、傑」
「七直まで……。いいのかい? 彼女が同化を拒めば、世界がひっくり返るかもしれないんだよ」
夏油が念を押す。
土御門の理と呪術界の均衡を誰よりも知るはずの七直の答えに、彼は意外さを感じていた。
「平穏は、誰かの犠牲の上に築かれるべきものじゃないわ。一人の少女を生贄にして明日を迎えるなんて、あまりに寝覚めが悪すぎる。土御門の術理は調和を重んじるけれど、それは誰かを踏みにじることとは違うのよ」
七直は懐の扇子を弄びながら、夏油を真っ直ぐに見据えた。
「傑。あんたこそ、さっきの『弱者を守る』っていう理屈なら、彼女を守るべきなんじゃないの?」
「……そうだね。……もし、彼女を守ることで、天元様と戦うことになっても?」
「ハッ、何ビビってんの? 傑。大丈夫っしょ。俺たち最強だしさ」
五条が夏油の肩を叩き、不敵に笑う。 その言葉に、夏油の憑き物が落ちたように笑みがこぼれた。
「……あぁ。そうだね。君たちがそう言うなら、それが正解なんだろう」
「よし。じゃあ決まり。まずはその星漿体様にお会いして、美味しいもんでも食わせに行こうぜ!」
五条が車に乗り込もうとした時、七直が「少し待って、先に行ってて」と制した。
◆
建物の陰、自販機の横で七直は素早く私物の携帯を取り出した。 数回のコールの後、少し騒がしい背景音と共に、聞き慣れた生意気な声が響く。
『……もしもし、姉貴? 何や、こんな時間に。』
「ちょっとね……耳を貸して頂戴、直哉。これから二日間、大きな任務で学校を空けるわ」
『任務? また悟くんらと暴れに行くんか。……今度はどこの建物を壊すつもりや』
直哉の呆れた声に、七直は微かに苦笑した。
「失礼ね、今回は『護衛』よ。天元様の星漿体――その少女を守り通すのが仕事。呪詛師集団や盤星教が相手になるわ。かなり大規模な抗争になるでしょうね」
電話の向こうで、直哉が息を呑む気配がした。
『……星漿体……? 姉貴、それ、呪術界の根幹に関わるヤバい案件やないか。親父が聞いたら腰抜かすで。……ほんまに大丈夫なんか。相手は手段を選ばん連中やろ』
「ええ。だからこそ、私と悟、傑が指名されたのよ。……それで、あんたに言っておきたいことがあったの」
七直は照りつける太陽を仰ぎ、声を少しだけ低くした。
「もし、万が一……私たちが戻れなかったり、高専の状況が混乱するようなことがあったら、真希と真依のこと、お母様のこと頼んだわよ。あと何が起きてもあの子達を禪院の駒として差し出さないこと。いいわね?」
『……。何を縁起でもないこと言うてんねん、姉貴らしくない。……あんたら最強の三人が揃ってて、遅れを取るわけないやろ』
直哉の声が、珍しく真剣な響きを帯びる。
『……わかった。お母はんと妹らのことは心配せんでええ。僕が責任持って、あの老害共から守り抜いたる。せやから……姉貴は、さっさとその任務終わらせて帰ってこい。悟くんのパシリはもう御免やけど、姉貴の説教なら、少しくらいは聞いてやるから』
「ふふ、殊勝な心がけね。……わかったわ、ありがとう。コーラ、冷やしておきなさいよ」
『……誰が冷やすか、アホ!』
毒づいて電話を切る直哉だったが、その声には姉を案じる響きが混じっていた。 七直は携帯を閉じ、待機していた車へと歩き出す。 「お待たせ。行きましょう」
眩しい初夏の光の中、三人を乗せた車が高専を走り去る。 守るべきものが増えるほど、刃は鋭くなる。 地獄へと続く道のりへ、彼女は静かに自身の呪力を研ぎ澄ませた。
ついに始まってしまった…あとは突き進むだけです。
質問コーナー
Q.七直は冥冥や歌姫と知り合いだったの?どのくらいの付き合い?
A.高専入ってからの付き合いです。なのでまだ知り合って一年も経ってないですが、礼儀正しい七直は歌姫からすぐ好かれました。冥冥はお金の付き合い、ビジネスライクな関係がある意味わかりやすくて良いと思っています。あと術式が烏を扱うのでお金出して、烏と戯れたりしてます。(後に神風させられることをこの時の七直はまだ知らない)
歌姫「七直!あんな二人になっちゃだめよ!」
七直「オホホホ、ならないですわ。あの子供(クソガキ)共には。」
誤字脱字報告いつもありがとうございます!五条が僕だったり俺だったり、現代と過去を行き来してて申し訳ないです。あと術式反転か反転術式がゲシュタルト崩壊してもうわけわからん。いつも助かってます。
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訂正とお詫び。懐玉・玉折編を見返していたら、任務受けたのち即現場に行ってたので、時系列を修正しました。申し訳ございません。(1/20)