駆け抜けた廊下の先、視界が開けた瞬間に直哉の足を止めたのは、凄まじい鉄の臭いと最強の崩壊だった。
かつて美しい庭園だった場所は、もはや見る影もない瓦礫の山へと変貌している。 その中心で、直哉は見てはならないものを見てしまった。
喉元を特級呪具「天逆鉾」で深く貫かれ、そのまま肉体を袈裟切り、左太ももをめった刺しにした後、倒れ際に頭を貫き、五条悟を殺してみせた。
あの無下限呪術を誇った五条が、ただの肉の塊のように蹂躙されている。
最強の神話が、ただの物理法則によって上書きされた瞬間だった。
「……なっ……、あ……」
直哉の喉が鳴る。
信じられなかった。
自分や姉貴がどれだけ逆立ちしても届かなかったあの五条悟が、今、目の前で死んだ。
男がゆっくりと立ち上がり、血塗れた刃を無造作に振って血脂を払う。
「……ふぅ。少しは勘が戻ってきたかな」
甚爾は、五条の死体にはもう興味がないと言わんばかりに背を向けると、瓦礫の山に立つ直哉へと視線を投げた。
「……なんだ。戻ってきたのか、坊主」
その声には、敵意すらこもっていない。
ただ、道端に転がる石ころを見つけたような、圧倒的な無関心。
直哉は震える膝に力を込め、一歩、前に踏み出した。
「僕は禪院直哉や、甚爾くん。……忘れたとは言わせへんで」
「忘れてねぇよ。
甚爾は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「僕は、アンタを止めなあかん。……ここでアンタを仕留めるんが、次期当主になる僕の責任や」
直哉の声は、自分でも驚くほど低く響いた。
甚爾は、この腐りきった禪院家が生み出した怪物だ。
呪力がないというだけで彼を虐げ、その魂を歪ませたのは、紛れもなく自分の血筋だ。
だとしたら、その呪いを清算し、彼をここで終わらせることは、家を継ぐ者としての逃れられない義務。
この男を倒さなければ、自分は一生、禪院という檻の中で甚爾の影に怯える凡夫のまま終わる。
「当主、な……。ハッ、くだらねぇ。なりてぇなら勝手になってろよ。そんな腐った椅子のために命捨てるか? お前も、あの姉貴も」
「黙れや。アンタに……何がわかるんや」
直哉が構える。
視界を24フレームに分割し、自らの動線を固定する。
恐怖はある。
絶望もある。
だが、それを上回るほどの高揚が、直哉の胸を突き上げていた。
自分を作ったのは甚爾だ。
体術も、考え方も、そして呪術師としての飢えも。
「行くで、甚爾くん」
「……いいぜ。少しは遊んでやるよ」
甚爾が、かつて道場で見せた獲物を狩る瞳で笑った。
直哉の体が、音を置き去りにして加速する。
瓦礫の更地を、目視不可能な速度の火花が駆け抜ける。
甚爾は格納呪霊から刃の長い太刀を引き抜くと、一切の予備動作なく直哉の喉元を薙いだ。
「――ッ!!」
直哉は投射呪法を起動し、間一髪でその軌道を逸れる。
横っ飛びに回避した勢いをそのまま加速に変換し、甚爾の死角へと潜り込もうと肉薄した。 だが、加速の最中、直哉の背筋に冷たい氷柱が差し込まれたような悪寒が走る。
(……さっきから目が合う。幾度も、正確に……!)
超高速移動の合間、瞬きほどの刹那に、甚爾の虚無な瞳と何度も視線がぶつかる。
読まれている。
自分の描いた24枚の静止画の軌道が、あの男にはスローモーションのように見えているのだ。
「ほんま、化けモンやんけ……っ!」
直哉は恐怖を振り払うようにさらに加速を重ねた。
最高速。
もはや空気の壁が物理的な質量を持って直哉の肉体を削る。
最短距離。
最短時間。
直哉は甚爾の胸元へ、一直線に飛び込んだ。
「正面突破か? いいぜ、こいよ」
甚爾がニィと口角を上げる。
彼は動かない。
ただ、直哉が突っ込んでくるであろう未来の定位置に、静かに太刀の切っ先を置いた。
時速数百キロで自ら刃に貫かれにいく自滅の特攻。
だが、直哉は甚爾の刃が鼻先に迫る直前、直哉は最後の加速秒数を0.5秒12フレームで完結させ、動きを変更した。
「――っ!?」
甚爾の予測をわずかに上回る不規則な静止と加速。
直哉の右頬を甚爾の刃が薄く裂くが、直哉の指先は、確かに甚爾の肩を捉えた。
「捕まえたで……甚爾くん!」
勝った、と直哉は確信した。
投射呪法によるフリーズのペナルティ。
術式の内容を知らぬ者、あるいは知っていてもその超精密な動きを再現できない者は、1秒間、板状になって完全に無防備となる。
たとえ天与呪縛の怪物であっても、理に縛られれば隙が生まれる。
しかし、その直後。
直哉の目の前で、甚爾の肉体がカクッと不自然な、だが淀みのない動きを見せた。
「……24回だろ、その動き」
「な……っ!?」
甚爾は止まらなかった。
フリーズするどころか、直哉が術式で規定したはずの動きを、その超人的な反射神経と筋肉制御だけで完璧にトレースしてみせたのだ。
「
甚爾の太刀が、逆袈裟に跳ね上がる。
加速の余韻で体が流れていた直哉には、避ける術などなかった。
「あ、が――ッ!!」
鮮血が舞い、直哉の左腕が二の腕から無残に切り飛ばされた。
瓦礫の上に、ボトリと重い音が響く。
「……センスは悪くねぇ。だが、お前には決定的に場数が足りねぇんだよ、坊主」
甚爾は、血を流しうずくまる直哉を見下ろし、ゴミを払うような動作で再び刀を構え直した。
「勝負あったな」
甚爾は興味を失ったように、太刀に付いた血脂を振り払う。
そのまま瀕死の直哉を路傍の石のように放置し、星漿体の待つ薨星宮へ向かおうと背を向ける。
直哉は、瓦礫の上に崩れ落ちた。
切断された左腕の断面から、熱い血が噴き出す。
激痛、だが、それ以上に彼を支配したのは、生まれて初めて味わう本物の死の恐怖だった。 視界が脂汗と涙で歪み、震えが止まらない。
薄れゆく意識の底で、走馬灯のように過去が駆け巡る。
(……怖いことなんて、何度もあったはずや)
初めて姉、七直に会ったあの日。
父・直毘人の関心を独占する異母姉の存在が疎ましくて仕方なかった。
自分こそが天才だともてはやされ、将来の当主だと疑わなかった幼い自分にとって、彼女に試合で二度も叩き伏せられた時の恐怖は、居場所を奪われるという絶望そのものだった。
慕っていた七直の母、京子が服毒して意識を失った時もそうだ。
京子だけが、直哉の七直に認められたいという歪な承認欲求を、優しく会話で掬い上げてくれた。
その彼女が二度の暗殺未遂に遭い、今も眠り続けているという事実は、直哉の心の拠り所を奪い去った。
そして何より怖かったのは、姉に見放されそうになったあの日だ。
呪力のない真希や真依をいたぶっていたところを七直に見つかり、彼女はかつてないほど激昂した。
『直哉、あんたがやっていることは、かつて甚爾さんを追いやった、この家の汚くて卑怯な奴らと全く同じよ!』
あの時の姉の、芯から冷え切った瞳。それ以来、直哉は反省し真希と真依に謝罪し、姉と同じ高みを目指すと決めた。
直哉の人生の片隅には、いつも七直と甚爾がいた。
気高く、母を守るために呪力を磨き続けた七直が、直哉にとっての誇りだった。
そして圧倒的な暴力で全てをねじ伏せる甚爾が、直哉にとっての憧れだった。
(なのに……なんでや、甚爾くん……)
自分も姉も、あの男の強さに焦がれて、あの日々を生き抜いてきた。
その憧れが今、理子という弱者を踏みにじるために、かつての弟子を壊し、誇りを傷つけようとしている。
「……あ、う……ああああッ!!」
直哉は叫びを上げ、残った右腕で地面を叩いた。
痛みで意識が飛びそうになるのを、怒りで繋ぎ止める。
憧れた男が、ただの術師殺しに成り下がっている。それを認めることは、自分たちが積み上げてきた時間さえも否定されることと同義だった。
「待てや……甚爾くん……っ!」
血溜まりの中から、直哉が這い上がる。 右腕一本、術式はもはや精度を欠いている。だが、その瞳には恐怖を焼き切るような、混じり気のない憎悪と執着が宿っていた。
「しつけぇな。そのまま寝とけば助かったかもしれねぇのに」
甚爾は忌々しそうに吐き捨て、振り向きざまに飛来する肉の塊を切る。
切り捨てられたのは、直哉自身が放り投げた、先ほど自ら欠損したはずの左腕だった。
(……腕を投げた? いや、消えた――!?)
鮮血を撒き散らす腕に一瞬視線を奪われたその隙に、眼前にいたはずの直哉の姿が掻き消える。
甚爾は即座に周囲を索敵するが、死角から握り拳大の瓦礫が弾丸のような速度で飛来した。
「術式拡張・『閃』……!」
直哉は血塗れの口角を釣り上げた。
かつて五条悟に一泡吹かせた、術式拡張。
一秒分割という精緻な操作に加え、彼は術式の解釈を広げ、自分以外の物体に対しても一秒間、一方向、一定距離という制約下で投射呪法を付与する拡張術式を編み出している。
(腕が無いとバランス悪ぃな……いや、逆や! 腕一本分、身体が軽くなったわ!)
左腕を失った重心の狂いを、直哉は狂気的なまでの加速への意志でねじ伏せる。
甚爾を中心に円を描くように超高速移動を維持しながら、瓦礫に呪法をかけて次々と投擲する。
(できるだけ、時間を稼ぐ……。姉貴が、星漿体を送り届けるまで……!)
「チッ、うぜぇな」
甚爾は飛来する瓦礫を太刀で叩き落とすが、一発一発の瓦礫にかけられたフレームが異なり、弾道の緩急が甚爾の反射神経を攪乱する。
だが、怪物は止まらない。甚爾は最速で飛んできた瓦礫を切り伏せると同時に、その影を縫うように地を蹴った。
(最速の瓦礫の後は、お前自身の加速がわずかに遅くなる……そこだ!)
放たれた瓦礫の出処を特定し、移動中の直哉の懐へと瞬時に急接近する。
「来よった――ッ!」
直哉は右腕一本で瓦礫を盾にし、再び至近距離での死闘が幕を開けた。
太刀と、呪力を込めた右拳に握った瓦礫が火花を散らす。
しかし、甚爾の動きは直哉のさらに一歩先を読んでいた。
「お前、加速を重ねる瞬間は真っすぐだな。それが最短だもんな。最初の3回……踏み込みの瞬間は、ほぼ直線だろ」
甚爾は事も無げに言い放ち、直哉が加速しようとする地点に正確に膝を叩き込んだ。
(……なんでや。なんでそないなことまで視えんねん!?)
直哉の戦慄が加速する。
自分は24分割された静止画を1秒に繋ぎ、現実を追い越して動いている。
普通の術師なら残像を追うのが精一杯のはずだ。
なのに、この男は加速の癖どころか、加速する前の意志まで見透かしている。
「直線は読みやすいんだよ。言っただろ場数が足りねぇってな」
再び接近戦が始まる。
「しつけぇな」
甚爾の言葉通り、もはや1秒24フレームの定規では、この怪物には通用しない。
直哉は本能で理解していた。
加速を重ねれば重ねるほど、甚爾の瞳に自分の未来が鮮明に写り込んでいく。
(……一秒は長すぎる。0.5秒、12フレームで刻むんや!)
直哉は脳に負荷をかけ、世界をさらに細切れに認識する。
甚爾の連撃をミリ単位の回避で凌ぎながら、再びその肉体に触れようと指先を伸ばした。
「それはもう通じねぇって言ったろ」
甚爾は避けることすらしない。
直哉の手が届くよりも早く、手にしていた太刀をあえて下段に構え直し、無防備な胴体を晒した。
カウンターを狙うその余裕。
だが、直哉の狙いは甚爾の肉体ではなかった。
「……ひっかかったな、甚爾くん!」
伸ばした指先が掠めたのは、甚爾の胸元ではなく、彼が握る太刀の柄頭、だった。
「ッ!?」
直哉の術式拡張が、甚爾の手にある武器を強制的に上方へ射出する。
凄まじい加速力に、さしもの天与呪縛も、握りしめていた得手を上空へと弾き飛ばされた。
「素手なら、いける……!」
直哉は弾かれた太刀を追って空へと跳ねた。 残った右腕で太刀を掴み、その重力を、加速を、そして自らの怒りのすべてを乗せて、甚爾の脳天へと振り下ろす。
「死にさらせやぁ――ッ!!」
加速した鋼の刃が、大気を切り裂き、甚爾の頭頂部へと吸い込まれていく。
確実な手応え。
これを防げる人間など、この世にいるはずがない。
――パシィンッ
乾いた音が更地に響いた。 直哉の瞳が、驚愕に染まる。
甚爾は、一歩も動いていなかった。
振り下ろされた白刃を、両の手のひらで、寸分の狂いもなく挟み込んでいた。
――真剣白刃取り
あまりに古風で、あまりに絶望的なまでの実力差を示す防御。
「……今のは、良かったぜ」
甚爾が浮かべたのは、かつて裏納屋道場で良い一撃を入れた時にだけ見せた、酷く獰猛で、それでいてどこか楽しげな笑みだった。
だが、直哉がその笑みに歓喜する暇はなかった。
「だが、これで終わりだ」
甚爾の両手に力が込められる。
挟まれた刀身が悲鳴を上げ、直哉の細い身体ごと、木の葉のように空中で振り払われた。 直哉の右手に残っていた得物は無慈悲に奪い返され、再びその所有者の元へと戻る。
「あ、が――ッ!」
空中で体勢を崩した直哉が、地面に叩きつけられるよりも速く、甚爾の黒漆の太刀が閃いた。
狙いは、直哉の移動の要――右の足首だった。
ドシュッ、という鈍い音と共に、直哉の右足の脛から下が、履いていた足袋ごと更地に転がった。
「が、ああああああああああああッ!!!」
絶叫が瓦礫の山に木霊する。
左腕を失い、そして今、唯一の機動力であった右足の自由を奪われた。
投射呪法は、地に足が着く感覚、そこから生まれる踏み込みがあってこそ成立する。
バランスを完全に失った直哉の肉体は、もはや加速することすら叶わず、泥のように地面へと沈み込んだ。
「……はぁ、はぁ……っ、あ……」
視界が急速に狭まっていく。
失血と激痛、そして何よりも、追い求めた憧れに完膚なきまでに叩き潰された絶望が、直哉の意識を闇へと引き摺り込んでいく。
もはや、指一本動かすことすらままならない。
甚爾は、血を流し続け、もがくことすらできなくなった直哉を見下ろし、淡々と刀の血を払った。
「……最初から足を切っとくべきだったな。無駄に時間を食った。じゃあな当主様」
その言葉には、直哉への怒りも賞賛も、もう残っていなかった。
ただ効率の悪い手順を踏んだという、作業的な反省と皮肉のみ。
直哉は薄れゆく意識の端で、甚爾の足元を見た。
自分が命を懸けて刻んだ頬の傷。
それさえも、この男にとっては取るに足らない掠り傷に過ぎないのだという現実が、涙となって溢れ出す。
(……ごめん、姉貴……。僕……ここまで、や……)
持って行かれた!
質問コーナー
Q.直哉が命がけで稼いだ時間は?
A.多分2~3分くらいです。こんな濃密な戦闘をして、たったそれだけです。お互い高速戦闘が出来るので、仕方ないですね。