直哉のお姉ちゃんになっちゃった…。   作:ザボン漬け

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懐玉⑧

孔時雨が運転する車の後部座席で、甚爾は深くシートに背を預けていた。

さらに後ろの荷台には、重々しい沈黙を湛えた死体袋が横たわっている。

 

「お前が迎えを寄越せだなんて、珍しいな。いつもの道具入れはどうしたんだよ」

 

孔時雨がバックミラー越しに、不機嫌そうに窓の外を眺める甚爾へ問いかけた。

 

「壊れちまったよ。おかげで大半の呪具は高専に置き去りだ。……クソ、思い出しただけで腹が立ってくるぜ」

 

甚爾は手元に残った数少ない獲物、天逆鉾の鈍い輝きを指先で弄ぶ。

あの場にいたガキ共——五条、夏油、直哉、そして七直。

揃いも揃って自分を術師の理屈で追い詰めようとした連中の顔が脳裏をよぎる。

格納呪霊を失った損失は、報酬を差し引いても痛手だった。

 

「五条家の神童に、禪院家の麒麟児二人を相手に道具入れ一つで済んだなら安い方だろ。……あとお前、なんかいい香りがしねぇか。甘ぇ香りだ」

 

「あぁ、ガキが死に際にぶちまけた香水の匂いだ。鼻がバカになりそうだが、死臭が漏れるよりはマシだろ。……しばらくは、ガキの相手なんざゴメンだぜ」

 

甚爾が吐き捨てるように言った、その時だった。

ガキという言葉が、自身の脳内の奥底に沈んでいた記憶の断片を釣り上げる。

 

「…………あ、そうだ」

 

「ん? どうした?」

 

孔時雨が怪訝そうに聞き返す。

甚爾は天逆鉾を弄ぶ手を止め、自嘲気味に口角を上げた。

 

「思い出したぜ、恵。……ほら、前言ってただろ、『恵は元気か?』って」

 

「ああ、お前の息子の事か。今更思い出したのかよ」

 

「名前を付けたのは俺なんだけどな。……アイツも、あそこにいたガキ共と同じくらいの歳になれば、あんな風に生意気になるのかねぇ……ま、どうでもいいか。俺には関係ねぇ話だ」

 

彼の独白は夕暮れのアスファルトに吸い込まれていった。

 

 

盤星教本部の奥深く、冷ややかな空気が張り詰める謁見の間。

代表役員の園田茂は、満足げな笑みを浮かべながら甚爾が差し出した死体袋を覗き込んだ。

 

「ほらよ。星漿体・天内理子の遺体、五体フルセットだ」

 

甚爾が無造作に死体袋を広げると、中から血塗れの少女が転がり出た。

純白だったはずのセーラー服はどす黒い鮮血に染まり、顔もまた返り血でべっとりと覆われている。

 

「フム、どれ……」

 

盤星教代表役員、園田茂が満足げな笑みを浮かべ、確認のために遺体の髪をかき上げた。 だが、その瞬間、園田の動きが止まる。

 

「……ん?」

 

違和感。

血の汚れの隙間から見えたその肌の質感、そして骨格。

園田がさらによく見ようと顔を近づけた、その刹那だった。

 

――カッ、と少女の眼が、力強く見開かれた。

 

その眼は、天内理子が持っていた無垢で丸い瞳ではない。

冷徹な理知と、獲物を逃さない鋭利さを湛えた、禪院家特有の鮮やかな切れ長の瞳。

 

「だ、誰だ!? お前、星漿体・天内理子じゃないぞ!?」

 

園田が悲鳴に近い声を上げ、腰を抜かすように後退ろうとする。

だが、それよりも速く、死体であったはずの七直の身体が、バネのように跳ね上がり、園田の腕を捻り上げ拘束する。

 

「星漿体、天内理子は、同化を拒否したわ。彼女はもう、あなたたちが崇める天元様の一部にはならない。これ以上の追撃は無意味よ。今すぐに、暗殺の依頼を取り下げなさい」

 

「……やってくれたな、七直ッ!!」

 

甚爾の怒声が広間に響く。

彼は一瞬で距離を詰めると、七直の喉元を掴み、人質の園田ごと床へ叩きつけた。

園田が悲鳴を上げて転がる中、甚爾はそのまま七直を床に縫い付け、顎を強引に掴み上げる。

 

「おいおい、依頼主は丁重に扱えよ……」

 

孔時雨が呆れたように声をかけるが、甚爾の耳には届かない。

 

「お前のせいで、賞金がパァだぜ。……いやそれどころか大赤字だ」

 

甚爾の目が、獲物を狙う獣のように細められる。

 

「……そもそも、なんでお前が生きてる。あの時、二人まとめて確実に心臓を貫いたはずだ」

 

「……反転術式よ。……貫かれた瞬間に、自分と理子の傷を同時に修復したわ」

 

七直は苦痛に顔を歪めながらも、途切れ途切れに答える。

 

「馬鹿な。あの至近距離で、一瞬の隙もなかったはずだ。……それに、いつ入れ替わった」

 

「……あなたが、傑と戦っている間よ。……血だらけの服を交換し、お互いに顔が判別できないよう返り血を塗りたくった……。五感の鋭いあなたを欺くために、白檀の香水をありったけ振り撒いてね」

 

甚爾は鼻を鳴らした。

確かに、車内でもあの匂いに苛立っていた。

だが、まだ納得がいかない。

 

「……体温はどうした。俺が担いだ時、その体は確かに冷たかったぞ」

 

「……私の術式は『五行想術』。……火属性の術式を反転させれば、身体から熱を奪い、一時的に死後硬直に近い状態を偽装できる……。あなたは、セーラー服と香水の匂い、そしてその冷たさで、私を理子だと確信して連れてきた……。違う?」

 

「…………チッ。ハメやがったな、ガキが」

 

七直の細い顎に甚爾の指が食い込み、骨が軋む音が聞こえる。

甚爾の眼に宿るのは、理性を焼き切った苛立ちだ。

だが、その激昂の最中、彼の頭が冷徹に、そして最悪の方向へと冴え渡る。

 

「……あぁ、そうか。そうだ。まだやりようはあるな」

 

甚爾の口端が、歪な三日月のように吊り上がった。

 

「賞金がねぇなら、身代金を貰えばいい。……てめぇを人質に、あの腐れ切った禪院家(いえ)を揺すってやる。直哉も死んだとなれば、家系図の穴埋めに躍起になってる連中だ。お前一人の命に、いくら積むだろうなぁ?」

 

「……は、直哉が……死んだ……?」

 

甚爾の言葉が、七直の思考を真っ白に染め上げた。

喉元を締め上げる力よりも、その事実が彼女の心臓を物理的に握りつぶす。

生意気で、傲慢で、けれど誰よりも自分を慕ってくれていた弟。

禪院という泥沼の中で、共に背中を預けて歩んできた最愛の弟。

 

「嘘よ……あの子が、そんな、簡単に……っ」

 

「嘘じゃねぇよ。お前らとつるんでた、六眼の坊主も、呪霊操術の使いも一緒に、まとめて冥土に送ってやった」

 

甚爾の言葉には、慈悲も、かつての教え子に対する感傷も微塵もなかった。

絶望が波のように押し寄せ、七直の瞳から熱い涙が溢れ出す。

かつて自分を導いた背中。

戦いのいろはを教わり、その強さに焦がれ、人知れず淡い想いを抱き続けた。

だが、目の前にいるのは強き師でも憧れの人でも初恋の人でもない。

ただ金を、利を、弱者の生を貪るだけの死神に成れ果ててしまった。

 

「どうして……どうしてなの、甚爾さん……っ! あなたは……、こんな……こんな人じゃなかったはずよ……!」

 

血の混じった涙を流しながら、七直は必死に叫んだ。

あの日、裏納屋道場で短期間だが秘密の共有をした男。

あの背中に、自分は希望を見ていたのだ。

だが、甚爾は冷え切った眼差しのまま、七直の顎をさらに強く、乱暴に揺さぶる。

 

「……何言ってんだ。俺は最初からこうだったぜ」

 

甚爾の低い声が、七直の耳元で残酷に響く。

 

「術師共が勝手に俺に幻想を見て、勝手に絶望してるだけだ。……七直。俺を人間だと思ってんなら、そいつはお前の買い被りだ。俺は、お前らみたいな本物に値段をつけるだけの猿なんだよ。いまでも、あの時もな!」

 

「……、っ……!」

 

喉を潰さんばかりの力で壁に押し付けられ、七直の視界が火花を散らす。

だが、肉体の痛みなど、今彼女が感じている絶望に比べれば塵に等しかった。

 

「……嘘。……そんな言葉、信じない……!」

 

七直は溢れる涙を拭おうともせず、掠れた声で、けれど真っ向から甚爾を睨みつけた。

 

「私が、見ていたのは……幻想なんかじゃない。あの時、あなたが教えてくれたのは……ただの殺し方じゃない! 才能だけで生きるなと、足掻いて、泥を啜ってでも、自分の足で立てと言ってくれた! それが……それが全部、偽りだったなんて……言わせない!」

 

「足掻いただろうよ。俺はいつだってそうだ。……出来ることをやっていくしかねぇんだからよ。今この瞬間も、お前という商品を使ってな」

 

「……悲しい人……。そうやって……否定し続けなければ、この世界に立っていられないのね……」

 

「あ?」

 

「直哉を……弟を殺して、かつての弟子まで売り飛ばして……それで手にする大金で、あなたは何を埋めるつもり? 何を買えば……あなたの心は満たされるの……っ!?」

 

「黙れ!クソがッ!もうガキの相手はうんざりなんだよ!」

 

甚爾の怒号が広間の空気を震わせる。

掴んだ七直の身体を、壁の石材が砕けるほどの力で叩きつけた。

だが、七直は苦悶に表情を歪めながらも、その視線を一度たりとも甚爾から逸らさない。

 

「……黙らないわ……。あなたが……そうやって怒るのは、私の言葉が図星だからでしょう……?」

 

七直は口端から垂れる鮮血をそのままに、残酷なほど優しい微笑を浮かべた。

 

「あの時、私の才能を認め、同時に危うさを叱ってくれた……。あの方はどこへ行ったの? 禪院を捨て、名前を捨て……今度は、誇りまで捨てて、ただの猿として死ぬつもり……?」

 

「誇りだと? 笑わせんな。そんなもんに一銭の価値もねぇことを、俺はあの家(クソ溜め)で嫌ってほど教わったんだよ!」

 

甚爾は七直の喉を締め上げる手をさらに強める。

彼の瞳には、かつての教え子に対する情など欠片もない——はずだった。だが、七直の瞳に映る自分を見るたび、胸の奥で何かが燻る。

 

「……お前も、あの坊主共も、結局は持ってる側の人間だ。反転術式だの、術式反転だの……泥を啜るふりをして、高みから俺を憐れんでんじゃねぇ……!」

 

「憐れんでなんていない…! 私は……っ、私は、あなたになりたかった……! 才能なんて呪いに縛られず、自分の腕一本で、運命をねじ伏せる……そんなあなたの強さに、救われていたの……!直哉だってそうだった!あなたがいなくなった後も必死にあなたの強さを真似て追いかけてた!あの禪院家(いえ)で私と直哉はあなたの味方だった!」

 

七直の叫びが、冷え切った謁見の間に木霊する。

甚爾の眉間が、これまで見せたことのないほど深く、醜く歪んだ。

 

「味方だぁ? ……笑わせんな。あんな場所で、誰が誰の味方だって?お前も直哉も、ただ俺という『珍獣』を見て、自分たちの退屈を紛らわしてただけだろ」

 

「違う! 私が……私たちが、どんな思いで……!」

 

七直は喉を締め上げられ、視界がチカチカと明滅する中で、震える手で甚爾の太い腕を掴んだ。

そして、覚悟を決めたように、その瞳の奥を真っ直ぐに見据える。

 

「……私、あの時、甚爾さんのことが……」

 

「――ッ!!」

 

その言葉が紡がれようとした瞬間、甚爾の脳裏に、今は亡き彼女の面影が一瞬だけ、鮮烈に弾けた。

 

(これ以上、こいつの言葉を聞かせるな)

 

本能が警鐘を鳴らす。

これ以上、この少女の人間としての情愛を受け入れれば、自分が築き上げてきた術師殺しの死神という偶像が、内側から完全に瓦解してしまう。

それは、彼にとって死よりも耐え難い敗北だった。

 

「……黙れ」

 

甚爾の声は、低く、地這うような殺意に満ちていた。

彼は七直の細い首に、一切の手加減なしで力を込める。

言いかけの言葉は、無理やり喉の奥へと押し戻された。

 

「ゴホッ……、ぁ、……っ!」

 

「……気持ち悪ぃこと言ってんじゃねぇよ、ガキが。お前が何を見てようが、俺が何を教えてようが……そんなもんは全部、ただのまやかしだ」

 

甚爾の眼が、冷酷な獣のそれに塗りつぶされる。

喉元を締め上げる圧倒的な力。

酸素が遮断され、七直の顔から血の気が引いていく。

掴んでいた甚爾の腕から、七直の力が、指先から一本ずつ、力なく解けていく。

 

「そのまま眠ってろ。……禪院家(いえ)に売り飛ばすまで、てめぇの声を聞くのは御免だ」

 

視界が黒く染まり、意識が遠のく中、七直は最期に甚爾の瞳の中に、拒絶とは正反対の、激しい怯えを見た気がした。

ガクン、と七直の身体から完全に力が抜け、気絶する。

 

すると、地響きのような、あるいは巨大な怪物が這い寄るようなズズズ……という不気味な震動が、建物の深淵から伝わってきた。

その微かな揺れは、秒を追うごとに激しさを増し、謁見の間を支える太い柱を震わせ、床の塵を跳ね上げさせていく。

 

(……あぁ? 何が来てやがる)

 

甚爾が気絶した七直から手を離し、視線を向けたその先。

 

ドゴォォォッ‼‼

 

轟音と共に壁が内側から爆ぜ、巨大な粉塵の向こう側から、血塗れの、だが信じがたいほどに澄んだ呪力を纏った男が姿を現した。

 

五条悟。

彼は六眼で七直の微かな呪力を探り当て、最短距離で彼女の元へ辿り着くべく、無下限呪術を物理的な質量として展開し、文字通り行く手を阻む壁をすべて粉砕しながら突き進んできたのだ。

 

瓦礫の山の上に立ち、狂気すら感じさせる多幸感に満ちた笑みを浮かべ、五条は甚爾を指差した。

 

「よぉドンキーコング! お姫様を返してもらうぜ!」

 

その声は、死の淵を覗いた者だけが持つ異質な明るさを帯びて、盤星教の静寂を完膚なきまでに叩き潰した。

 

 

薨星宮の薄暗い回廊に、鉄錆の匂いが立ち込めていた。

夏油傑の視界は、もはや正常な色彩を失っている。

頸動脈を浅く、腹部を深く貫いた魂を斬る刃の残響は、反転術式による自己再生すらも拒絶し、彼の生命を内側からじわじわと削り取っていた。

 

(……ああ、ここまで、か……)

 

冷たくなっていく石畳に頬をつけ、遠のく意識の中で、夏油は自分の方へ駆け寄ってくる足音を聞いた。

 

「…………っ、……」

 

血の汚れにまみれた、見覚えのある制服。

凛としたその佇まい。 霞む視界の先、自分を覗き込むその影を、夏油は迷わず彼女だと思った。

 

「な……なお……。よかった……無事、だったんだね……」

 

震える唇で、安堵の言葉を漏らす。

自分が死ぬことよりも、仲間が生きていること。

その事実に、夏油は微かな微笑を浮かべた。

だが、彼の手を握りしめたその少女から返ってきたのは、七直の落ち着いた低めの声ではなかった。

 

「夏油! 私! 理子だよ! 死んじゃだめ!!」

 

高音で、必死で、まだ幼さを残した叫び。

夏油の思考に、冷水を浴びせられたような衝撃が走る。

 

「り……こ、ちゃん……?」

 

見開かれた夏油の瞳が、必死に焦点を合わせる。 目の前にいるのは、七直の黒い制服を纏い、顔を血で汚した天内理子だった。

 

「なんで……君が……。七直は、どこに……」

 

「ナナは、私を助けるために……入れ替わったの! あいつを、甚爾を騙して、自分から連れて行かれたのよ!」

 

理子の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、夏油の頬に触れる。

その瞬間、理子の脳裏に、かつてないほどの熱量が奔った。

七直が自分を救った時に注ぎ込まれた反転術式の残滓。そして星漿体として天元と、ひいては世界の理と適合し得る彼女の魂が、死にゆく夏油の魂に触れ、激しく共鳴する。

 

(嫌だ。死なせない。この人を、ナナが守りたかったこの世界を、壊させない……!)

 

理子の胸の奥で、何かが弾けた。

それは器としての受動的な力ではなく、自らの意思で世界を書き換える術師としての産声だった。

理子の全身から、夜空の深淵を切り取ったような、青白く瞬く呪力が溢れ出す。

 

「……私の、中に……何かが、ある……。これなら、あんたを治せる……っ!」

 

「理子ちゃん……やめるんだ、それは……」

 

夏油が制止するよりも速く、理子は自らの胸を、そして夏油の傷口を同時に強く抱きしめた。

 

―――術式展開――『星の祈り』

 

その瞬間、夏油は信じがたい感覚に襲われた。

釈魂刀によってバラバラに解けようとしていた自らの魂が、理子の温かな呪力によって強引に繋ぎ止められ、編み直されていく。

 

「あ、がぁあああぁっ!!」

 

悲鳴を上げたのは、理子だった。

夏油の魂に刻まれた裂傷、その激痛と死の恐怖を、術式の縛りによって理子がそのまま肩代わりしたのだ。 理子の白い肌に、夏油と同じ箇所から鮮血が噴き出す。

 

「り、理子ちゃん! だめだ! 君が死ぬ!!」

 

「だまってて……っ! 私は……死なない……! 私が、自分を治しながら……あんたも、一緒に治してあげるわ……!!」

 

理子は血を吐きながらも、その手を決して離さなかった。

同化という宿命を背負わされた少女が、初めて自らの意思で、他者の魂と一つになる。 それは自己犠牲という名の、あまりにも気高く、残酷な救済だった。

 

理子の「星の祈り」が放つ青白い光が収まった時、薨星宮の回廊には静寂が戻っていた。 夏油の傷は、頸動脈も、魂を削った腹部の裂傷も、跡形もなく消え去っている。

対照的に、理子は肩代わりしたダメージに喘ぎ、肩で息をしながらも、夏油の胸元に顔を埋めたまま離れようとしなかった。

 

「……終わったよ。ありがとう理子ちゃん、もう大丈夫だ。君は凄い術師だ」

 

夏油は自身の掌を握り、失われていた呪力の循環が、以前よりも遥かに澄んだ形で再構築されていることを悟った。理子が同化の資質を転用して編み直した魂は、以前よりも強く結びついている。

 

「……はぁ、はぁ……。よかった、夏油……生きてる……」

 

理子が顔を上げると、その瞳の奥には星屑のような燐光が宿っていた。

夏油は彼女を抱き寄せ、その震える肩を支えながら立ち上がる。

 

「行こう。七直が……あいつを、甚爾を騙して連れて行かれた。盤星教の拠点にいるはずだ」

 

「……うん、行こう。ナナを助けなきゃ」

 

二人は重い身体を鼓舞し、回廊を駆け出した。

だが、その途上、甚爾と夏油が激突した戦いの痕跡が残る広間で、夏油の足が止まった。

床には、持ち主を失った呪具がいくつか、無造作に転がっている。

甚爾が格納呪霊を失い、さらに孔時雨の車へ急ぐために不要と判断して打ち捨てていった獲物たちだ。

 

「……これは」

 

夏油は膝をつき、その中から数振りの呪具を拾い上げた。

呪霊操術を封じられた際、身一つで戦うことの限界を痛感した夏油にとって、それは今の自分に欠けている牙そのものだった。

 

「これを持っていくの?」

 

理子が問いかけると、夏油は血に汚れた刃を鋭く見つめ、頷いた。

 

「ああ。皮肉なものだが、今の私たちが奴に届くには、奴の残していった『力』さえも利用しなくてはならない。……それに、これ以上あいつの好きにはさせないという、私なりの決意だ」

 

夏油は特級呪具とまではいかずとも、高い呪力を帯びた短刀と鎖を、即座に自身の制服の帯へと滑り込ませた。

それは、術師としての矜持を捨ててでも、仲間を救うために勝機を貪るという夏油の静かな狂気の表れでもあった。

その後、二人は薨星宮の出口へと続く石階段の麓で、黒井を見つけることになる。

 

「……あ」

 

理子が小さく声を漏らす。

そこには、崩れた瓦礫に埋もれるようにして、一人の女性が横たわっていた。

 

「黒井…………?」

 

理子が駆け寄ろうとするが、夏油はその肩を強く掴んで引き止めた。

術師としての鋭敏な感覚が、残酷な現実を突きつけていたからだ。

夏油の制止を振り切り、理子は黒井の元へ膝をついた。

 

「黒井? 冗談はやめてよ、黒井! ほら、私だよ、理子だよ……!」

 

理子がその冷たくなり始めた手を握る。

その穏やかだった表情は苦痛に歪んだまま固まっていた。

甚爾にとって、彼女は殺す価値さえない路傍の石として扱われたのだ。

その無造作な暴力の結果が、この無惨な沈黙だった。

 

「……どうしよう…!なんで!?術式が……出ない……っ。星が、見えないの……!お願い、夏油……! なんで出ないの!? 私、さっきはできたのに、なんでっ!」

 

理子は狂ったように呪力を練ろうとするが、指先からは虚しい火花が散るばかりで、あの青白い輝きは一向に現れない。

黒井の手に触れているその掌は、ただひたすらに冷たさを吸い上げるだけだった。

 

「星が……見えないの……。ねぇ、夏油! 夏油は凄い術師なんでしょ!? 呪霊でもなんでも使ってよ! 黒井を、黒井を助けて……っ!」

 

理子が夏油の衣類を掴み、泣き叫ぶ。

その必死の形相は、先ほど術師として覚醒した時の凛々しさはなく、ただ家族を失いかけている、一人の無力な少女のそれだった。

夏油は無言のまま、理子の肩に手を置いた。その掌は温かかったが、同時に逃れられない現実の重みを伝えていた。

 

「理子ちゃん……」

 

「嫌だ、嫌だよ! 誰か、誰か助けてよ……ッ!」

 

「理子ちゃん、落ち着くんだ。……もう、彼女の中に魂はない」

 

夏油の声は、酷く静かだった。優しく、そしてこの上なく残酷に、理子の淡い希望を断ち切る言葉。

 

「…………え?」

 

「君の術式は、命を繋ぎ止めるものだ。けれど、黒井さんは……肉体の限界を超えてしまった。器から中身が零れてしまえば、もう、繋ぐべき形が存在しないんだ。彼女は……死んだんだよ」

 

理子の瞳が大きく見開かれる。 夏油の言葉は、理解したくない現実を論理的に脳へ流し込んでくる。

あの時は、夏油の時は「まだ間に合う」という熱狂が彼女を突き動かしていた。

だが、目の前の黒井には、理子の術式が入り込むには空っぽ過ぎたのだ。

 

「う、そ……嘘よ。そんなの……。私、やっと……やっと自由になれたのに。黒井と一緒に、いろんなところに行くって……決めてたのに……っ!」

 

理子は黒井の胸元に顔を伏せ、慟哭した。

これが、呪術師の世界。

才能に目覚め、誰かを救う力を手にした瞬間に突きつけられる、救えなかった命の重み。

夏油は空を仰ぎ、奥歯を噛み締めた。 理子にこんな覚悟を強いることへの自己嫌悪。

けれど、立ち止まることは許されない。

甚爾という暴力の嵐は、今もなお大切な仲間を蹂躙し続けているのだ。

 

「理子ちゃん。……彼女を、ここで終わらせてはいけない」

 

夏油が理子の背中にそっと触れる。

 

「彼女が命を懸けて繋いだ君の命だ。それを無駄にする権利は、君にも私にもない」

 

理子は唇を噛み締め、黒井の動かない身体に額を押し当てた。

ひとしきり震えた後、彼女は顔を上げる。

その瞳の燐光は、先ほどよりも鋭く、深く、暗い色を帯びていた。

 

「……分かった。……行こう」

 

理子は自分の手で、黒井の乱れた後れ毛を整えた。

幼さを残していた少女の顔から、迷いが消える。

それは、一人の人間が「呪術師」という修羅の道へ足を踏み入れた、決別の儀式だった。

 

「ナナを……私の家族を、皆を傷つけた奴を、絶対に許さない」

 

夏油は短く「ああ」と頷くと、虹龍を召喚した。

巨大な呪霊の背に理子を乗せ、二人は薨星宮を飛び出す。

目指すは、すべての元凶が待つ、盤星教本部。

 

(ごめん、黒井。もう少しだけ、待ってて)

 




この展開を予想できた人ってどのくらいいるんだろ。

皆さまいつも感想ありがとうございます!
楽しく読ませていただいてます。普段は感想返信するんですが、今凄い良いところなのであえて返信せずにいます。すみません。気の利いた返信が出来なくて…皆様の予想や反応を見たりしてモチベーションにつなげています。今後ともこの作品をよろしくお願いいたします。

質問コーナー

Q.理子の術式について。

A.術式『星の祈り』。肉体だけでなく、釈魂刀などで傷ついた魂の形すらも元の状態へ編み直す、自己完結型の術式。

また縛りを科すことで他人も施すことができる。理子が星漿体だからこそできること。
① 接触の維持: 治癒の間、対象に直接触れ続けなければならない。
② 苦痛の共有: 相手が負っている激痛を、理子もリアルタイムで体感する。
③ 傷の肩代わり: 相手の傷を一度自分の肉体・魂へ引き写してから治すため、治癒が追いつかなければ理子が先に限界を迎える。

理論上で言えば真人の無為転変をも治せる力ですが、魂の修正中に肉体の限界を超えないことが肝になります。また、あくまで元の形に戻す力なので、真人の様に魂を自在にこねくり回すことはできません。

おしらせ。
エナドリがぶ飲みして無理矢理、詰め込み、間に合わせました。おかげで頭が痛いので明日の投稿はお休みします。ご了承ください。
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