高専の医務室は、消毒液の匂いと、窓から差し込む西日の熱に満ちていた。
蝉の声が遠くで鳴り響き、それがかえって室内の静寂を際立たせている。
「……ん」
七直がゆっくりと瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは見慣れた天井だった。
全身が重く、感覚が麻痺したような倦怠感があるが、甚爾に叩き込まれた際に負った内臓を抉るような激痛は、跡形もなく消えていた。
「……起きたか、姉貴」
隣のベッドから、低く掠れた声がした。
直哉だ。
彼は失った左腕の袖を丸め、包帯の巻かれた断面を虚ろな目で見つめていた。
その表情には、いつもの傲慢な輝きはなく、ただ燃え尽きた後の灰のような静けさが漂っている。
二人の間に言葉はなかった。
少し前まで、夏油傑と天内理子が付き添っていた気配が残っていたが、今は二人を休ませるために席を外しているようだった。
その時、静かに扉が開いた。
「よぉ。お目覚め?」
入ってきたのは、五条悟だった。
ボロボロになった制服のまま、彼は以前とは決定的に違う最強の気配を纏ってそこに立っていた。
「悟……。終わったのね、全部」
七直の声は震えていた。
聞かなければならない。
だが、聞くのが恐ろしかった。
五条は七直のベッドの横にある丸椅子に腰を下ろし、サングラスを少しずらして青い瞳を覗かせた。
「ああ、全部終わったよ。……天逆鉾は回収したし、盤星教は壊滅状態。……甚爾は、俺が殺した」
わかっていた。
あの瞬間、彼が生き延びる余地などないことは。
それでも、五条の口から直接、殺したという事実を突きつけられると、七直は胃の底が冷たく凍りつくような感覚に陥った。
七直は何も言わず、ただシーツを強く握りしめた。隣で直哉も軽く顔を伏せた。
「……で、理子ちゃんはどうなるの。同化を拒否して、天元様とも決別した彼女を、上層部が許すはずがないわ」
七直は震える声で、術師としての現実を問いかける。
五条はふんと鼻で笑い、傲慢なまでに不敵な笑みを浮かべた。
「決まってんだろ。俺と傑の名のもとに、高専で保護する。文句があるなら俺を殺してからにしろって、ジジイ共には叩きつけてやったよ。……まあ、俺ら二人だけでも十分だけどさ」
五条はそこで言葉を切り、七直と、そして直哉を交互に見た。
「七直や直哉、お前らも加わってくれると、よりやりやすい。……俺らだけじゃなくて、お前ら禪院の力も、理子ちゃんを守るための盾にさせてもらうぜ」
「……勝手なこと言わんといて。俺は腕一本持ってかれて、それどころやないわ」
直哉は毒づいたが、その瞳には五条への、そして死んだ甚爾への屈折した執着が、理子を守るという新たな目的に結びつこうとしている光があった。
「わかったわ。……理子ちゃんは、私の友達だもの。今度こそ、誰も彼女に触れさせない。…夜蛾先生も苦労するわね」
七直の決意を聞き、五条は満足げに頷いた。
「話が早くて助かる。……あと、そうだ。あいつから七直あてに、伝言があったんだった」
七直の肩が、びくりと跳ねる。
五条は甚爾の最期の瞬間を思い返すように、天井を仰いだ。
「『七直にも言っておけ。……趣味じゃねぇってな。……俺なんかには、もったいねぇ良い女だ』……だとさ。あんな化け物に言わせるなんて、お前、大したもんだよ」
「…………っ」
七直の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「……バカね」
七直は、溢れ出す涙を拭おうともせず、掠れた声で笑った。
その笑みは悲痛で、それでいて、十年越しの「返事」をもらったことへの、救いようのない歓喜が混じっていた。
死に際に、自分のことを思い出したのか。あんなに自分勝手に去っておきながら、最期にそんな、呪いのような祝福を残して逝くなんて。
「あんな……あんなにボロボロになってまで……。最後まで、自分勝手なんだから……」
彼女は、甚爾が自分を一人の女として認めていたことを、彼を失ってから知らされた。
それがどれほど残酷なことか、彼は分かっていたのだろうか。
五条は、泣き崩れる七直を慰めるようなことはしなかった。
ただ、静かに椅子から立ち上がり、扉の方へ向かう。
「理子ちゃんたちが、お粥作って待ってるよ。……食えるようになったら、来いよ」
五条の手がドアノブにかかった時。七直は、シーツを握りしめたまま、その背中に問いかけた。
「……ねぇ、悟」
「ん?」
「……あなたは、あの日から……ずっと、私の恩人よ。理子ちゃんを、救ってくれて、ありがとう」
五条の背中が一瞬、硬直した。
七直は、五条を責める言葉を一つも口にしなかった。
彼は仲間を守り、理子を救い、術師としての正しさを全うした。
だが、その正しさが、七直にとって唯一の光であった甚爾を消し去った。
彼女の感謝の言葉には、五条への信頼と同時に、もう二度と以前と同じようには笑い合えないというような、決定的な断絶が混じっていた。
「……ああ。おやすみ、七直」
五条は振り返らずに部屋を出た。
扉が閉まる音だけが、虚しく響く。
医務室に残されたのは、腕を失った少年と、愛を失った少女だけだった。
七直は、自分の右手に残る、甚爾から教わった生き残るための暴力を確かめるように、何度も何度も、空を掴むように握り直した。
「……っ、ぁ……」
最初は、肺に溜まった熱を吐き出すような、小さな漏らし声だった。だが、一度溢れ出した感情の濁流は、もう誰にも止められなかった。
「う、あぁぁぁぁあああ……ッ!!」
七直は顔を覆い、ベッドの上で身体を折り曲げた。
喉の奥が焼けるように熱い。視界は涙で完全に遮られ、呼吸の仕方を忘れたかのように、激しい嗚咽が彼女を揺さぶった。
嬉しい。
死ぬ間際に、あの人は私のことを考えてくれた。
悲しい。
あんな言葉を残して、もう二度と、私の名前を呼んでくれない。
感謝している。
悟が間に合わなければ、きっと皆死んでいた。
憎い。
どうして、あの人を殺したのが、よりによって、私の大切な仲間でなければならなかったのか。
「……あ、あああああ……っ!!」
ぐちゃぐちゃだった。
正しさと、愛しさと、憎悪と、安堵。
それらすべてが心の中で高速回転し、鋭い刃となって彼女の内側を切り刻んでいた。
「なんで……なんでよ、甚爾さん……ッ!勝手すぎる……こんなの……っ!!」
叫んでも、返ってくるのは蝉の声だけだ。
そして、七直を何よりも追い詰めたのは、自分の手足に流れる感覚だった。
(……この血のせいだ)
甚爾を猿と蔑み、追い出し、怪物へと変えたのは、自分と直哉の中に流れる禪院の血そのものではないか。この家が積み上げてきた腐敗した呪いが、巡り巡って、自分の愛した人を、自分の弟の腕を、そして自分の心を奪った。
「うぅ……っ、うわぁぁああああん……ッ!!」
七直は、自分の両腕を掻きむしるように抱きしめた。
甚爾に叩き込まれた、生き残るための体術。
それが今、自分の身体に馴染んでいることが、何よりも恐ろしく、呪わしかった。
隣のベッドで、直哉は微動だにせず、ただ姉の慟哭を聞いていた。
彼は、泣けなかった。憧れを失い、腕を失い、己の血の傲慢さを思い知らされた。
だが、七直のように愛としてそれを昇華することもできず、ただ自分の血の冷たさに凍えていた。
「……姉貴」
直哉の、感情の死んだような声が響く。
「もう……ええやろ。……甚爾くんは、笑っとったんやろ。……それで、ええやんか」
「……っ、そんなの、わかってるわよ……!!」
七直は叫び、顔を上げた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその顔は、もはや神童の面影などなかった。
ただの、恋人を失い、家族の業に焼かれた、一人の少女の顔だった。
「……わかってる、けど……っ、それでも……っ……!!」
七直は再び顔を伏せ、シーツを噛んで声を殺した。
医務室に満ちる、耐えがたいほどの生への執着と、死への絶望。
彼女はこの日、本当の意味で最強という言葉の残酷さを知り、そして禪院という名の檻が、屋敷の外にいても自分を縛り続けていることを悟った。
夕闇が室内に忍び寄り、二人の影を長く、黒く引き伸ばしていく。七直の泣き声が止まるまで、夏の日はまだ、長く残っていた。
◆
医務室へと続く廊下は、西日に照らされて長く伸びる一つの影だけが揺れていた。
夏油は、お盆に乗せた二つのお粥の器を慎重に運びながら、医務室の前で立ち止まっている親友に目を向けた。
その表情は、戦いの中で見せた最強の昂揚感は消え失せ、深い憂いと影を落としている。
「……悟。七直は?」
夏油の問いに、五条は答えなかった。
ただ、扉に背を預けたまま、虚空を睨みつけていた。
「……中、入らなくていいのか。お粥、持ってきたんだが」
「……今は、無理だろ」
五条が、廊下の影に顔を伏せたまま低く言った。その時だった。
「う、あぁぁぁぁあああ……ッ!!」
扉の向こう側から、獣の咆哮のような、喉を掻き切るような激しい号哭が響いてきた。
夏油の足が止まる。お盆の上のスプーンが、カチカチと小さく音を立てた。
それは、感情の制御をすべて失った、剥き出しの悲鳴。
甚爾への愛惜、彼を殺した五条への歪な感情、そして自分たちの血への呪詛。それらが綯い交ぜになった地獄の叫びだ。
「……七直」
夏油は唇を噛んだ。
理子は救った。
しかし、その代償のように、理子の唯一の家族のような存在であった黒井は死に、今は高専の安置所で冷たくなっている。
理子もまた、そこから動こうとしない。
そして扉の向こうでは、自分たちを救った恩人の少女が、自分たちには決して救えない深淵で泣き叫んでいる。
五条は扉に後頭部を預けたまま、絞り出すような声で呟いた。
「なぁ……傑。俺等って、最強だよな」
その問いは、自分自身に言い聞かせるような、どこか縋るような響きを含んでいた。
夏油はお盆を握る手に力を込め、真っ直ぐに親友を見つめて応える。
「あぁ、そうとも。君が覚醒し、私たちが力を合わせた。だからこそ、あの怪物に……術師殺しに打ち勝ったんだ」
それは紛れもない事実だった。
理子を護り抜き、盤星教の野望を挫き、不可能を可能にした。
これ以上の戦果など、術師の歴史を探してもそうはないだろう。
しかし、扉の向こうから響き続ける、魂を削り取るような七直の叫びが、その勝利の味をひどく苦いものに変えていた。
「……でも、それだけじゃダメなんだな」
五条がゆっくりと顔を上げた。サングラスの奥にある六眼は、世界をあまりにも克明に映し出しすぎる。
「救いたい奴を救って、殺すべき敵を殺した。最高の結末のはずだろ。なのに……。なんであいつ、あんな声で泣いてんだよ。最強の俺が全部片付けたのに、なんで誰も笑ってねぇんだよ」
五条の言葉は、全能感の頂点に達した者が初めてぶつかった、分厚い絶望の壁だった。
呪力を極め、空間を支配し、生殺与奪の権を握った。
それでも、目の前で泣き崩れる少女の心を、指一本分も救い上げることができない。
「……悟。私たちが手に入れたのは、あくまで『力』だ」
夏油が静かに、自分自身にも言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「力があれば、命を繋ぎ止めることはできる。だが、その後の『心』の面倒までは見てくれない。最強であっても……万能ではないんだ。私たちは」
五条は自嘲気味に口角を上げたが、その瞳に笑みは一切なかった。
「……クソだな。最強なんて、ただの文字だ」
扉の向こう、七直の号哭が少しずつ、掠れた喘ぎへと変わっていく。
五条は、二度と戻らない「昨日までの自分たち」を葬るように、重い腰を上げた。
「……お粥、そこに置いとけよ。冷めても、あいつなら食うだろ。……生きるために、食うしかねぇんだから。あいつは……俺なんかより、ずっと強いよ」
五条はそれだけ言うと、影の伸びる廊下を、安置所にいる理子のもとへと歩き出した。
その歩調は力強いが、どこか深い孤独を纏っている。
夏油は言われた通り、お盆を扉の脇の台に置いた。
医務室の中では、七直が自分の腕を掻きむしりながら、まだ見ぬ明日を呪っている。
廊下では、最強の少年たちが、守ったはずの世界の重みに耐えかねて立ち尽くしている。
「……おやすみ、七直」
夏油が小さく零した独白は、蝉の声に掻き消されて誰にも届かなかった。
10年越しの初恋は、あまりにも残酷な形で終わりを告げ、後に残ったのは、冷めかけたお粥と、夏の終わりのような虚無感だけだった。
一応、懐玉はここまでになります。
質問コーナー
お休み!ごめんなさい!
皆さま、いつも感想頂きありがとうございます!いろいろ思う所があるでしょうが、懐玉編はここで終わりとなります。玉折編は三年生の話なのですがその間に、別の話が入るのでまだ先になりそうです。これからもこの小説をよろしくお願いいたします。
また、誤字脱字報告も沢山ありがとうございます。より分かりやすい表現に直してくださったりして本当にありがたいです。おかげで、また一歩この小説が良くなりました。
お知らせ。
2/4,5ごろまで用事で作業環境に身を置くことが出来ませんので、そこまでまたお休みします。ご了承ください。