直哉のお姉ちゃんになっちゃった…。   作:ザボン漬け

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玉…⑤

高専の校門前、張り詰めた緊張感が陽炎を震わせていた。

七海から届いたのは、冷静な彼からは想像もつかないほど切迫した、焦燥をも含んだ嘆願だった。

 

「長野の山奥……ここからじゃ私の呪霊でも最速で一時間はかかる。間に合わない。…だから頼んだよ悟」

 

夏油が苦渋に満ちた表情で拳を握りしめる。

特級という座にありながら、距離という物理の壁に阻まれる無力感。

だが、その隣でサングラスを懐へしまい、青い瞳に高度な演算を走らせている男がいた。

 

「任せとけ。長野はあっちだな。傑、お前はここにいろ。何かあった時のために七直に連絡しとけ」

 

五条が硝子の腰を無造作に、荷物でも扱うような手つきで脇に抱え上げた。

 

「ちょっ、緊急なのはわかってるけど、この持ち方何とかなんないの? 」

 

「仕方ないだろ、あんまりやったことないんだし! 長野なんて長距離、今回が初めてなんだ。途中で置いていかれたくなかったら、大人しく抱えられてろ。絶対に離れんじゃねーぞ」

 

「は? お前、マジで言って……」

 

硝子の抗議が最後まで紡がれることはなかった。

次の瞬間、世界が、そして物理法則がねじ曲がる。

 

ドォォォン!!

 

耳を劈くような衝撃音と共に、二人の姿が校門前から消滅した。

圧縮された空間を跨ぎ、五条悟という概念が長野県の上空へと強制的に転移する。

長距離瞬間移動——まだ完全に制御しきれていない力が、想定よりわずかに軌道を変えた。

 

「うおわっ!?」

 

次の瞬間、視界を埋め尽くしたのは青い水面だった。

轟音と共に、諏訪湖の中央に巨大な水柱が上がる。

五条は無下限呪術を常時展開していたため、服一丁濡れることはなかったが、脇に抱えられた硝子は、内臓をひっくり返されるようなGと、突然の湖への着水に、目を回していた。

 

「……てめ、殺すぞ……っ」

 

「悪い悪い! やっぱ座標指定がムズいわ。高度が足りなかったな」

 

五条は硝子の襟元を掴み直すと、再び空間を跳ねた。

長野の山奥というあまりに抽象的な目的地。

ナビなど役に立たない。

五条は上空数百メートルから眼下の連峰を見下ろし、六眼で探知する。

再び空間を圧縮し、視界を点で繋ぎ合わせるようにして長野の険しい連峰を飛び越えていく。

 

「一回目、……二回目、ここも違う」

 

瞬きをするたびに、景色が雪山から針葉樹林へと、万華鏡のように切り替わる。

一瞬で数十キロを移動するその衝撃は、抱えられた硝子の三半規管に限界を強いていたが、五条に躊躇はなかった。

六眼は、この広大な山脈の中に潜む、直哉たちが交戦したであろう呪力の残穢を探り続けている。 

 

「三回目……チッ、遠いな」

 

苛立ちが混じる。

座標指定の精度を上げるため、五条は全神経を六眼に集中させた。

脳に負荷がかかるたび、反転術式がそれを即座に修復し、新鮮な思考を強制的に提供し続ける。

四回目の跳躍。

着地した瞬間、空気が変わった。

五条の六眼に映ったのは、直哉たちが戦った御射軍神様の領域によって播き散らされた残穢と、現在進行形で発動している投射呪法の歪な運用の呪力反応。

 

「……見つけた」

 

視線の先、山の斜面が巨大な爪で抉られたように崩落している。

五条は硝子を抱え直すと、その破壊の跡をなぞるようにして、一足飛びに境内の跡地へと降り立った。

着水からここまで、わずか五分。 神の歩みにも等しいその速度が、生と死の境界線を強引に引き戻した。

 

「おい、死んでねーよな!?」

 

五条の怒号が響く。

そこには、片膝をつき、右腕を後輩の胸に当てて全身から湯気を立てている直哉と、その横で必死に灰原の止血を続ける七海の姿があった。

 

「……っ、さと……くん……」

 

直哉の声は、もはやかすれた空気の音に近かった。

投射呪法による強制フリーズ――秒間二十四回の精密な操作を数分間にわたって維持し続けた彼の脳は、限界を超えてショート寸前だった。

直哉の右目は結膜下出血で真っ赤に染まっている。

 

「硝子!!」

 

五条が呼びかけるより早く、硝子が五条の手を振り払って灰原の元へ滑り込んだ。

「どきな、二人とも。ここからは私の仕事だ」

 

硝子の両手に、淀みのない白光――反転術式が宿る。 直哉が指一本動かさずに守り抜き、七海が魂を削って繋ぎ止めた灰原の止血された時間が、硝子の癒やしの力によって、一気に再生へと向かい始めた。

 

「……繋がった」

 

硝子の短い一言。

その瞬間、直哉の術式が解け、灰原の胸が大きく、深く、酸素を求めて上下した。

それを確認した瞬間、直哉は支えを失った人形のように、地面に崩れ落ちた。

 

「直哉!!」

 

七海が叫ぶが、直哉は泥にまみれた顔を上げることすらできない。

ただ、荒い呼吸を繰り返しながら、赤い目を見開いて五条を睨みつけた。

 

「……遅い、ねん……クソ……最強、なんやろ……」

 

「あぁ、悪かったよ。でも、お前が頑張ったおかげで間に合ったぜ」

 

五条は直哉の隣にどさりと腰を下ろすと、懐から取り出した携帯を操作し始めた。

 

「おう、傑。こっちは大丈夫だ。間に合ったよ。今、硝子が治してる……灰原も、七海も、直哉も生きてる」

 

五条が通話を切ると、隣で虫の息になっている直哉に視線を向ける。

境内には再び蝉の声と、硝子が術式を回す微かな呪力音だけが残った。

 

「聞いたか、直哉。七直も高専に戻ったみたいだぜ。傑も安心してる。……お前の姉貴もかなり心配してたってよ」

 

五条が話しかけるも、直哉からの返答はなかった。

限界を超えて術式を運用し続けた脳は、五条から全員の無事と姉の安否を聞いた瞬間、張り詰めていた最後の糸を切らしたらしい。

直哉は泥にまみれた顔で、泥のように深い眠りに落ちていた。

 

「……あーあ、気絶しちゃったよ」

 

五条は呆れたように笑い、それから少しだけ真面目な顔をして、横たわる直哉の頭に手を置いた。

 

「俺に一発いれた投射のペナルティを、まさか延命治療に応用するなんてな」

 

グシャグシャと、大きな手で直哉の髪をガシガシと乱暴に撫でる。

五条は去年の姉妹校交流会で直哉と戦ったことを思い出していた。

自分に一泡吹かせた、投射呪法のペナルティ。

直哉の性格や術式の性質上、また呪術とは大抵は人を傷つけるものでしかない。

だが、彼はそれを人の命を繋ぐために使った。

そこには、同級生の弟に対するそれではなく、死線を共に越えた術師への、最大限の敬意が込められていた。

 

「本当、よくやったよ。直哉」

 

最強の男に頭を撫でられながら、直哉は誇らしげな、それでいてどこか幼い寝顔のまま、静かに呼吸を繰り返していた。

背後では、灰原の顔に赤みが戻り、それを見届けた七海が膝から崩れ落ちて顔を覆っている。

長野の山奥に傾きかけた夕陽が、激闘の跡を橙色に染め上げていた。

 

 

反転術式を受けた灰原は、その後長野の病院へ搬送され、輸血と適切な処置を施してもらった。

その後、高専の医務室へ運ばれ経過を看たが、未だに灰原は眼を覚まさないままだ。

今は、灰原の腕を繋ぐため、七直と家入が二人がかりで治療している。

彼の腕は、鞭のような物で切断されたため、傷口がズタボロで繋ぐためには家入の医学的知識と七直の長時間の反転術式が不可欠だった。

廊下では、七海、直哉、五条、夏油の四人が灰原の回復と彼女らの施術が終わるのを待っていた。

 

「先輩方のおかげで、助かりました。今回の任務は私や灰原の二級に務まるものじゃなかった。直哉がいなければ、きっと灰原は助からなかった。…自分は何もできなかった」

 

「そんなに自分を責めるな七海。君が迅速に連絡をくれたから、悟と硝子が間に合ったんじゃないか。むしろ君も欠けてはならない存在だったんだよ」

 

夏油の言葉に、七海は深く首を垂れたまま拳を震わせた。

理論と効率を重んじる彼にとって、現場で祈ることしかできなかった時間は、あまりに重い挫折だった。

 

「……そうですか。ですが、術師に『もしも』はない。今回は、直哉のあの異常なまでの執念が、全ての結果を分けた。私は……ただそれを見ていただけです」

 

七海の硬い声が、白く無機質な廊下に響く。

その隣で、右腕を吊り、頭に包帯を巻いた直哉が、壁にもたれかかったまま鼻を鳴らした。術式の過剰運用による脳のダメージは、まだ完全には癒えていない。

 

「……っち、湿気たツラすんなや、七海。僕は僕のメンツのためにあのアホを死なせんかっただけや。貸しにしとくから、次からはしっかり僕をサポートせえ」

 

ぶっきらぼうな、直哉らしい言い草。

だが、その声には以前のような棘はなく、どこか身内を気遣うような響きが含まれている。

その時、病室の重い扉が開き、七直と家入が静かに廊下へ出てきた。

眠っている灰原の様子を見ていた二人の瞳には、長時間の反転術式の運用と、精密な施術による集中力から、疲労の色が見える。

額に汗を滲ませていた様子だが、それ以上に安堵と、それ以上に深い慈しみが湛えられている。

 

「彼の腕、繋がったわ。しばらくはリハビリが必要でしょうけど、よかった」

 

七直はそう言って硝子に視線を送り、それから、ボロボロになりながらも立っている弟の前へと歩み寄った。

 

「……直哉」

 

「なんや。説教なら、もうええわ。死なせんかったんやから、文句ないやろ」

 

直哉は姉の直視を避けるように顔を背ける。

七直は何も言わず、ただ一歩踏み込んで、怪我をしていない方の直哉の肩を、包み込むように抱き寄せた。

 

「……え、姉貴……!?」

 

「よく頑張ったわね。……本当に、立派だったわ。灰原くんを守ってくれて、ありがとう」

 

耳元で囁かれたその言葉は、直哉が人生で最も欲していた承認だった。

 

『七直は、あなたの才能を誰よりも認めています。認めているからこそ、あなたの速さがいつか孤独にならないように、自分も別の理を極めて、隣に立とうとしていたのです』

 

昔の記憶、七直の母の京子の言葉が頭をよぎる。

かつて甚爾という最強の影を追い、誰かを踏みつけ、強くなる事でしか己の価値を証明できなかった少年が、初めて自分の手で誰かの命を守り抜き、その価値を愛する姉に直接、認められた瞬間だった。

直哉は反転術式を使えるが他人を治すことはできない。

それでも、彼は自身の術式と向き合い、灰原の命を繋ぎとめた。

七直にとってこれほど誇らしいことはない。

 

「……当たり前やろ、禪院の男なんやから」

 

直哉は一瞬、目を見開いて硬直したが、やがて絞り出すように呟き、姉の肩に顔を埋めた。

五条はその光景を、少しだけ茶化すような笑みを浮かべて眺めていたが、隣に立つ夏油の表情は、より複雑で、より深い感慨に満ちていた。

 

(……ああ。そうだ。これなんだ)

 

夏油は確信した。

九十九由基が提示した非術師を殺すという極論が、いかに浅はかで孤独な道であるか。

直哉が七海を守り、七海が情報を繋ぎ、五条と硝子が空間を跳ねて、七直がそれを迎える。 誰かが欠ければ終わっていた、この奇跡のような連鎖。

それは強者が弱者を救うという一方的な慈悲ではなく、互いの欠けた部分を補い合う、血の通った術師たちの在り方そのものだった。

 

「……傑、変な顔してるぜ。七直に見惚れてんのか?」

 

五条が肘で夏油を突く。

 

「……いや。ただ、この場所が、去年のあの更地から続いているんだと思うと、少しね」

 

夏油は視線を自販機の方へ向ける。

あの時、灰原と交わしたお土産の約束。

そして九十九に語った自分の好みの正体。

そのすべてが今、この温かな廊下の空気の中に、答えとして集約されている。

 

「七海、君の冷静さは、今回の救出劇の要だった。直哉がいくら時間を稼いでも、君の連絡がなければ空論で終わっていたんだ。自信を持ちなさい。君たちは三人で、一つの呪いに勝ったんだ」

 

七海は、夏油の真っ直ぐな瞳を見て、ようやく小さく息を吐き出した。

 

「……そう、ですね。ありがとうございます、夏油さん」

 

七海の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

真夏の夜。

病室の窓の外では、まだ蝉の声が微かに響いていたが、廊下を流れる空気はどこまでも澄み渡っていた。

 




灰原五体満足。

質問コーナー

Q.直哉は夏油のことをどう思っているのか?

A.術師としてかなり認めています。呪霊を使役するだけでなく、自身も格闘術を学び自己研鑽を怠らない姿勢を評価してます。
ただ、七直の事になれば話は別。直哉にとって七直は禪院家で共に戦ってきて、かつ自身に術式を預けている、いわば半身にも近い関係です。頭では、これ以上にないほど理想の相手ではありますが、感情がまだ追いついていない状態。
あれですね、娘は嫁にやらん!と意地を張る、頑固親父のような感覚かと。

直哉「悟君?論外や」


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