七直の部屋には、西日の名残が障子越しに柔らかな橙色の光を投げかけている。
「おっと用事の時間だった。これから人と会うんだよねー。じゃ、あとは若いお二人で~」
つい数分前まで五条悟がニヤニヤしながら、それでいて絶妙なタイミングで茶化すように出ていったばかりだ。
「全く、気が利くのか利かないのやら」
夏油の苦笑混じりの言葉が、誰もいなくなった部屋に静かに溶けていった。
二人の間にあるのは、夏油が街まで走って買ってきた、地元で評判だという老舗の豆大福。そして、七直が丁寧に淹れた、少し濃いめの緑茶だった。
「悟らしいわ。あいつ、ああいう時だけ鼻が利くのよね」
七直は湯呑みを口に運び、ふぅ、と小さく息を吐いた。
戦いの熱気はすでに去り、今はただ、穏やかな静寂が心地よい。
「……直哉の様子はどうだい?」
「寝てるわ。反転術式で傷は治したけれど、脳の疲れはすぐには取れないから。……でも、寝顔は案外スッキリしてた。あんなにボロボロになったのに、なんだか満足そうだったわ」
七直がそう言うと、夏油は自分の右拳をそっと握りしめた。
まだ残る、あの黒閃の衝撃。
「彼は強くなったね。……あの一撃がなければ、今頃私は君の部屋でこうしてお茶を飲むどころではなかったかもしれない。……正直に言おう。一瞬、本当に死を覚悟したよ」
夏油の言葉は冗談めかしてはいなかった。
特級術師としての傲慢さを削ぎ落とし、一人の男として、一人の術師として、全力でぶつかり合った敬意がそこにはあった。
「……ありがとう、傑。あの子の相手をしてくれて。……あの子、ずっと誰かに認めて欲しかったのかもしれない。禪院の呪縛じゃなくて、自分自身の力を」
「認めるさ。……君が大切に思っている弟だ。それに、あんなに熱い黒閃を叩き込まれて、認めないわけにはいかないだろう?」
夏油は穏やかに微笑み、それから少しだけ真剣な面持ちで七直を見つめた。
「……七直。君は、今の禪院家をどう思っている?」
唐突な問いに、七直は少しだけ首を傾げた。
「そうね……。かつてのあの場所は、私にとって呼吸をするのも苦しい檻だった。でも今は、直哉がいて、門徒たちがいて……みんなが自分の価値を信じようとしている。更地から始めたけれど、ようやく、私の好きな花を植えられる土壌になってきた気がするわ」
「……そうだね。君が変えたんだ。そして、私も救われた」
夏油は湯呑みを置き、七直の手に自分の手を重ねた。
その掌は、先ほどまでの激闘を感じさせないほど温かく、そして微かに震えている。
「九十九さんに言われたんだ。全人類を術師にすれば、呪霊は生まれないと。……一瞬、それが唯一の救済に思えた。非術師を切り捨てれば、私はもう、あの泥のような味を啜らなくて済むのではないかと」
七直の指先が、ぴくりと跳ねる。
夏油の告白は、彼が抱えていた闇の深さを物語っていた。
「でも、思い出したんだ。君が飴をくれる時の顔を。……そして、直哉くんや七海くんたちが、必死に灰原くんの命を繋ごうとしていた姿を。……才能があるとかないとか、術式があるとかないとか、そんなことよりもずっと大切なものが、あの中庭から始まった今の禪院家にはある。……私は、それを見捨てたくないと思った」
「傑……」
「わがままを言わせてもらえるなら……これからも、私の隣にいてくれないか。……君がいないと、私の喉は……いや、私の心は、すぐに乾いてしまいそうなんだ」
夏油の瞳には、特級術師としての強さではなく、弱さを分かち合おうとする、剥き出しの誠実さが宿っていた。
七直は、重ねられた夏油の手に、もう片方の手をそっと添えた。
「……ズルいわね、やっぱり」
七直は少しだけ瞳を潤ませて、けれど最高の微笑みを浮かべた。
「私の喉だって、もうあなたの淹れるお茶じゃないと満足できなくなってるのよ。……お砂糖は入れないって言ったけれど。……やっぱり、少しだけ甘いわね、今日のお茶は」
夕闇が迫る部屋の中で、二人はどちらからともなく距離を縮めた。
一年前のあの星空の下、すべてを失い燃え尽きた少女は、もういない。
隣で共に歩み、共に泥を啜り、共に甘味を分かち合う、かけがえのない半身を見つけたのだから。
「……冷める前に、大福を食べましょう?傑が選んだんだから、きっと美味しいはずよ」
「ああ、そうだね。……君と一緒に食べるなら、どんな味でも最高のご馳走だよ」
外では、夏の終わりを告げる秋の虫の声が、微かに響き始めていた。
最強の二人が守り抜いた日常は、これからも騒がしく、そして優しく続いていく。
二人の間に流れる空気は、淹れたてのお茶のように、どこまでも温かく、香ばしく満ち足りていた。
◆
数日後、高専の教室。
窓から入り込む日差しは、以前よりも心なしか柔らかさを帯びていた。
それでも、五条悟の放つデリカシーのない言葉の熱量だけは、真夏の盛りと変わらなかった。
「いや~七直さん。先日はお楽しみでしたねぇ。どうだったの?傑とは?あの後、二人きりでさ」
五条は椅子を逆さまにして座り、背もたれに顎を乗せて、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。
その瞳には、親友の恋路を観賞用コンテンツとして楽しむ、最悪な好奇心が満載だった。
「茶化さないで頂戴。……お茶を飲んで、お菓子を食べただけよ。まだそこまで進んでないわ」
七直は手元の資料に目を落としたまま、平然を装って答える。
だが、耳の端が僅かに赤くなっているのを、五条が見逃すはずもなかった。
「お茶にお菓子ねぇ!何だよつまんねぇな!せっかくこの俺様が、空気を読みすぎて窒息しそうになりながら気を利かして去ってやったのによー。もっとこう、特級同士の熱い合体技とかあっても良かったんじゃねーの?」
「あなたね……。術式の話じゃないんだから、下品なこと言わないで。あと私、特級じゃないし」
「ほら硝子も気になるだろ?何か言ってやれ!こいつ、傑のことになると途端にガードが固くなるんだぜ!」
五条に振られた家入硝子は、煙草の代わりに棒付きのキャンディーを舐めながらジト目で返す。
「嫌だよ。こっちに話を振るな。……馬に蹴られて死ぬつもりはねぇよ。不用意に首突っ込んだら、後でどんな呪霊に追い回されるか分かったもんじゃない」
「硝子まで、変なこと言わないでよ」
「気になる!気になるわナナ!夏油とはどうなのよ!あの、なんというか……こう、ガバッと!いかれたわけ!?」
天内理子が身を乗り出し、机をバンバンと叩きながら詰め寄る。
一年前、死の運命から救い出された少女は、今や高専のお騒がせ妹分として、五条に勝るとも劣らないデリカシーの欠如を発揮していた。
「理子、あなたまで……!ガバッとって何よ。あなた、最近変な雑誌読みすぎじゃない?」
「ふふん、ナナこそ、顔が真っ赤よ!あ!わかった!二人の男に奪い合われる私的な状況に酔いしれてるのかしら!」
「誰がそんな安いヒロインよ!もう……九十九さんが来るまで静かにできないの!?」
七直が資料で顔を隠すようにして叫ぶが、教室のボルテージは上がる一方だ。
五条はヒュ~!と指笛を鳴らし、理子とハイタッチを交わしている。
そんな喧騒の中、硝子が気怠げにキャンディーを口の中で転がし、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、噂の彼氏はどうしたのさ?遅刻?……あいつ、七直がいる場所に遅れてくるなんて珍しいじゃない」
七直は隠していた顔を上げ、少しだけ眉をひそめて時計を見た。
「任務で遅くなるみたいよ。地図にも載ってないような田舎の方まで行ってて。……なんでも、古い慣習が残ってる村で、神隠しが続いてるんだとか」
「へぇ、傑一人で?珍しいね。最近はお前を連れ回すのがセットメニューになってたのに」
五条がサングラスを少し下げ、六眼に一瞬だけ真面目な光を宿す。
「私は九十九さんに会うために残ったのよ。傑は一回会ってるし、すぐ帰ってくるわ」
七直は五条の揶揄をいなすように、淡々と答えた。
実際、夏油は数日前に九十九と一度言葉を交わしており、その毒の強さを身を以て知っている。
だからこそ、彼女が再び高専を訪れるこの日に合わせて自身のスケジュールを調整していたはずだった。
「あ、そうそう。その九十九由基って人、私に用があるんだって?どんな人なんだろ」
理子が首を傾げ、興味津々といった様子で尋ねる。
天元との同化という宿命から解き放たれた理子にとって、自分に興味を持つという特級術師の存在は、警戒心よりも好奇心の対象だった。
「さぁな。ろくに任務を請け負わず、世界中放浪してるんだとよ。特級様様だね」
五条が椅子をガタンと鳴らし、椅子の背にもたれかかったまま皮肉げに唇を吊り上げる。
呪術界のシステムに縛られ、日々任務をこなす彼らにとって、自由奔放を絵に描いたような九十九の在り方は、羨望と反発が入り混じる特殊なカテゴリーの人間だった。
「まぁ、傑があれだけ警戒するんだから、相当食えない人なのは確かでしょうね」
七直が溜息混じりに付け加えた、その時だった。
教室の扉が勢いよく開かれ、その場の空気が一気にライダースーツの革の匂いと、圧倒的な呪力の奔流に塗り替えられた。
九十九由基は、長い金髪をなびかせながら、モデルのような歩取りで教室の中央へと陣取った。
その背後には、以前夏油が話していた通り、特大の排気音を残してきたであろう風格が漂っている。
「やぁみんな揃っているかな!みんなはどんな女が好みかな?」
教室の空気が、その一言で一気に塗り替えられた。
「へぇ、あんたが九十九由基?ずいぶんマブいねーちゃんじゃないの。にしては、物騒な
五条がサングラスをずらし、六眼の蒼い光を九十九に向けた。
その視線は、単なる好奇心を超えて、九十九の本質を的確に射抜いている。
「コラコラ、五条くん。レディの秘密を覗き見るなんて感心しないな。質問に答えたら許してあげようじゃないか」
九十九は悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうに五条の視線を真っ向から受け止めた。
世界を放浪する特級術師の余裕が、最強の高校生の無作法を軽やかにいなす。
「うーん、そーだな」
五条が、待ってましたとばかりに椅子をガタンと鳴らして身を乗り出す。
その表情には、特級同士の共鳴というよりは、遊び相手を見つけた子供のような無邪気な邪気が宿っていた。
「傑みたいに捻くれてなくて、七直みたいにヒスらなくて、硝子みたいにヤニ臭くないやつかな」
「おい、ぶっ飛ばすぞ」
硝子が低い声で即座に反応し、手元のキャンディーの棒を五条に投げつける。
「一言、余計よ」
七直もまた、手元の資料を丸めて五条の頭を叩こうとしたが、五条はひょいと首を傾げてそれをかわし、ケラケラと愉快そうに喉を鳴らした。
「あっはっはっは!仲がいいじゃないか。青春だねぇ」
九十九は、その光景を眩しいものを見るように眺め、豪快に笑い飛ばした。
彼女の笑い声は、教室の重苦しい呪術的な気配さえも霧散させてしまうような不思議な力強さがある。
「私は……ナナみたいなカッコいい女性が好き。憧れなの!」
理子が真っ直ぐに九十九を見上げ、胸を張って答える。
一年前、命がけで理子を守り、死の淵で自分を抱き締めてくれた七直という存在は、彼女にとっての最強そのものだった。
「おっと、異性のタイプを聞いたつもりだが、悪くないじゃないか。……じゃあ、そこの気怠げな反転術式使いさんはどうかな?」
九十九が、どこか面白そうに硝子へ視線を向ける。
「んー。そこの
硝子が吐き出した言葉に、教室に一瞬の沈黙が流れ、直後に五条の「おい!」という抗議と、九十九の今日一番の爆笑が重なった。
「あっはっはっは!最高だね君たち。今後とも仲良くしたいほどにね。……それで、君が夏油君の彼女かな?彼から直接紹介してもらいたかったけど」
九十九は長い足を組み、机に腰を下ろすと、興味深げに七直を覗き込んだ。
その瞳は研究者としての冷徹さと、一人の女性としての茶目っ気が絶妙に混ざり合っている。
「初めまして、禪院七直です。傑から話は伺っています。……それと、彼女ではありません。まだ。……一応、ね」
七直は努めて冷静に、禪院家の次期当主としての凛とした佇まいで応じた。
だが九十九の、「夏油君の彼女」という直球すぎる表現に、心臓が跳ねるのを止められない。
「『まだ』か!いい響きだねぇ。夏油君もあんな怖い顔して好みのタイプを熱烈に語っていたけど、なるほど、実物はそれ以上の逸材だ」
「……あいつ、私のいないところで何を喋ったのよ」
七直がこめかみを押さえて呻くと、五条が待ってましたとばかりに横から口を挟む。
「あー、それがさぁ!『凛として自分を律することができて、でも隣に立っていてくれる芯の強い人』だってさ。もう名前呼んでるのと変わんねーよな!なぁ理子!」
「そうそう!『気が強くても誇り高い証拠だと思える』とも言ってたわよ!完全にナナに骨抜きじゃない!」
五条と理子のコンビネーションに、七直はついに手に持っていた資料を丸めて二人の方へ投げつけた。
「静かにしなさいって言ってるでしょ!……九十九さん、あまりこいつらの言うことを真に受けないでください。傑は、その、少し疲れているだけですから」
「ふふ、謙遜しなくていいよ。……さて、七直ちゃん。君には少し、専門的な話をしたいと思ってね。君が今、この禪院家でやっている『底上げ』……全門徒の術師化。それが私の目指す『原因療法』の、これ以上ないモデルケースになるかもしれないんだ」
九十九の表情から、先ほどまでの軽薄な色が消えた。
彼女は理子の方を一度見やり、それから七直の目を真っ直ぐに見据える。
「天元との同化という歪なシステムを破壊し、一人の少女を救った。そして、呪いを生む土壌そのものを変えようとしている。……夏油くんから聞いたとき、震えたよ。高専という狭い箱の中に、私と同じ夢を、もっと現実的な形で追っている者がいるなんてね」
教室の温度が、一気に数度下がったような錯覚。
特級術師・九十九由基が放つ世界を変えるという意志の重圧が、その場の全員にのしかかる。
九十九の言葉は、教室にいた若者たちの胸を借りるように、重く、そして鋭く響いた。
だが、七直はその圧に屈することなく、むしろ深く、静かに息を吐き出すと、ゆっくりと首を振った。
「九十九さん。……買い被りすぎよ」
七直は机の上の資料を丁寧に整え、九十九の真っ直ぐな視線を真っ向から受け止めた。
「私は……『呪霊の生まれない世界』とか『全人類の術師化』とか、そんな大層なことを考えて禪院家を変えたわけじゃありません。もっとありふれた理由……非術師の、母と普通に暮らせればそれでよかった。術師や才能といったものに縛られない、誰もが虐げられることなく、過ごせる場所を作りたかっただけなんです」
七直の声は淡々としていた。
しかし、その言葉の裏側にある、泥水を啜るような一年間の歩みを知っている五条や硝子は、茶化すのをやめ、静かに彼女の横顔を見つめた。
「才能があるから守るんじゃない。術式がないから捨てるんじゃない。……ただ、明日も一緒に生きていたいと思う人たちが、笑っていられる場所。私にとっての禪院家は、もう、呪術界を支えるためだけの道具じゃないの」
「……」
九十九は意外そうに目を丸くし、それから面白そうに唇を尖らせた。
「動機は極めて個人的、か。最高だねぇ。イデオロギーで動く人間より、よっぽど信用できる」
「個人的すぎて、あなたの壮大な計画のモデルケースにはならないわ。……門下生たちに戦い方を教えているのも、呪霊を生まないためじゃない。降りかかる呪いから自分の身を、自分で守れるようになってほしい。それだけだから」
九十九は机の上で組んでいた足を解き、すとんと床に降り立つと、七直の目の前まで歩み寄った。
その圧倒的な呪力の威圧感は鳴りを潜め、代わりに一人の女性としての、親しみやすさと鋭さが混在した眼差しが七直を射抜く。
「……面白いねぇ。君は『世界を救う』なんて大義名分を、あえて地べたまで引き摺り下ろして見せている。でもね、七直ちゃん。結果として君がやっていることは、私が頭の中でこねくり回していた理想論よりも、ずっと残酷で、ずっと優しい『変革』だよ」
九十九は七直の肩にポンと手を置いた。
「自分の身を自分で守れるようにする。それがどれだけ難しいか。でも、君はそれを禪院家という呪術界の縮図で証明しつつある。夏油くんがね、誇らしそうに語っていたよ。『彼女のやり方こそが、飴を一番美味しく食べられる結末だ』ってさ」
「……飴、ね。あいつも本当に、私の前以外でもそんなこと言ってるの」
七直は呆れ顔を作りながらも、胸の奥に灯った確かな熱を自覚していた。
夏油傑。
が自分の活動を、単なる組織改革ではなく、彼自身の救いとして受け止めてくれていること。
それがどれほど今の彼女の支えになっているか。
「でも、九十九さん。理想だけで飯は食えねぇよ。実際、上層部のジジイ共は七直のやり方を苦々しく思ってる。いつ反逆のレッテルを貼られるか分かったもんじゃない」
五条が窓枠に背中を預け、冷めた声で現実を突きつける。
最強の六眼は、その先の血生臭い未来さえも視界に捉えていた。
「だからこそ、私みたいな『ろくでなし』の特級が必要なんだろ?五条くん」
九十九は不敵に笑い、親指を自分に向けた。
「私が世界を回って集めた知見と、君たちの若さと行動力。そして、七直ちゃんの『庭』。これらが噛み合えば、高専なんて古臭い箱、内側からひっくり返せると思わないかい?」
「……。あんた、本当に高専っていうか上層部が嫌いなんだな」
「大っ嫌いだよ。でも、ここにいる君たちは……まぁ、嫌いじゃない」
九十九はそう言うと、今度は後ろに控えていた理子に視線を移した。
「さて、本命の理子ちゃん。君のその後について、ゆっくり話を聞かせてもらおうか。運命から降りた星漿体が、今何を思い、どんな風に笑っているのか。それは私にとって、全人類の未来を知るよりずっと価値のあることなんだ」
九十九が理子へ歩み寄ろうとした、その時だった。
教室の扉が、今度はバタン!という乱暴な音を立てて開く。
「遅くなってすまない。かなりの田舎で交通が不便でね……。硝子、七直、悪いがこの子たちを診てもらえないか」
入ってきたのは、任務から帰還した夏油傑だった。
だが、その姿はあまりに異様だった。
いつもの整った前髪は乱れ、制服は泥と返り血で汚れ、何よりその両腕には、怯えた表情の幼い双子の少女——美々子と菜々子を、まるでお米の袋でも抱え運ぶような無造作な、しかし決して離さないという固い意志を感じる手つきで抱え上げていた。
「「…………」」
教室が、静まり返った。
特級術師の九十九、現代最強の五条、次期当主の七直、そして家入と理子。
呪術界の若人たちの視線が、一斉に夏油と、その腕の中の子供たちに注がれる。
「……うわ、ガチの犯罪者じゃん」
静寂を切り裂いたのは、硝子の乾いた、しかし容赦のない一言だった。
彼女は手に持っていたキャンディーの棒をゴミ箱へ放り投げ、白い目で夏油を見る。
「傑。……あんた、山奥の村でついに理性が飛んだの?それ誘拐。あるいは拉致」
「違う!話せば長くなるんだが、この子たちは村の連中に不当な扱いを受けていて…」
夏油が必死に弁解しようとするが、その腕の中で震える少女たちの姿と、泥まみれの夏油のビジュアルが、どう見ても山から子供を攫ってきた怪異にしか見えない。
「ちょっと傑!説明は後でいいから、その子たちを降ろしなさいよ!怯えてるじゃない!」
七直が慌てて駆け寄り、夏油の腕から美々子を、続いて菜々子を優しく引き取る。
子供たちは最初こそ身を強張らせたが、七直から漂う穏やかな呪力と、その温かな抱擁に触れた瞬間、堰を切ったように泣き出した。
「……あーあ。傑、お前ついにやったな。警察呼ぶ?それとも補助監督に連絡して『特級術師、村を滅ぼして幼児を誘拐』って号外出す?」
五条が椅子をガタンと鳴らして立ち上がり、ニヤニヤとしながら携帯を取り出すフリをする。
「悟、冗談を言っている場合じゃない!彼女たちは術師の素養があるというだけで、あそこの住人たちに監禁されていたんだ!私が……私が行かなければ、この子たちは……!」
夏油の声は、怒りと悲しみで微かに震えていた。
その切実な響きに、教室の空気から冗談の色が少しずつ抜けていく。
彼は、九十九に語った全人類術師化という理想の裏側にある、最も醜悪な現実を目の当たりにしてきたのだ。
「……なるほどね。呪霊よりよっぽど悍ましいモノを見てきたってわけか」
九十九が、長い脚を組んだまま、鋭い視線を夏油に向けた。
彼女の瞳には、夏油が抱えた怒りの正体を見透かすような、深い知性が宿っている。
「夏油くん。君がその子たちを連れてきたのは、慈悲かい?それとも……復讐の代わりかな?」
「……。九十九さん。……分かりません。ただ、あの檻の中に彼女たちを置いておくことだけは、どうしてもできなかった」
夏油は泥のついた手で顔を覆い、深く、長く、地を這うような溜息をついた。
その背中は、最強の一角でありながら、あまりに危うく、脆い。
「……傑。もういいわ、分かったから」
七直は泣きじゃくる少女たちの背中をあやしながら、夏油の前に立った。
彼女の視線は厳しく、しかしその奥には揺るぎない慈愛がある。
「硝子、応急処置をお願い。理子、この子たちの着替えと温かい飲み物を用意してくれる?……傑は、とりあえずシャワーを浴びてきなさい。汚れと一緒に積もったものも流してきて。それでもだめなら、お茶しながら聞いてあげるから」
「……ああ。そう、だな。すまない、七直」
夏油は力なく頷き、ふらふらとした足取りで教室を出ようとする。
そのすれ違いざま、七直は夏油の耳元で、誰にも聞こえないほど小さな声で囁いた。
「……よく連れて帰ってきたわね。偉かったわよ、傑」
「っ……」
夏油の肩が、一瞬だけびくりと跳ねた。
彼は振り返らず、ただ足早に廊下へと消えていったが、その耳の端が、泥の汚れ越しにも分かるほど赤くなっていた。
「……今の聞いた?硝子」
五条がサングラスをずらし、六眼をキラつかせる。
「聞こえてない。……けど、あのバカの呪力が一瞬でピンク色になったのは分かった」
硝子が呆れたように溜息をつき、美々子の傷ついた足元に手をかざす。
反転術式の白い光が、村で受けた酷い虐待の痕跡を、一つずつ丁寧に癒していく。
「あっはっはっは!いやぁ、本当に退屈しないねぇ、この学年は!」
九十九が机を叩いて笑い、それから満足げに立ち上がった。
「夏油くんの精神がどうなるかと思ったけど、大丈夫そうだね。……あんなに甘い飴を持った飼い主がいるんじゃ、彼は一生、地獄へは落ちられないね」
「……誰が飼い主よ」
七直が頬を赤くして反論するが、理子はすでに子供たちを囲んで大はしゃぎしている。
長野の山で命を繋いだ直哉たち。
そして、人里離れた村から新しい命を連れ帰った夏油。
一年前のあの夏、更地になったはずの彼らの周りには、いつの間にか新しい家族の形が、歪で、しかし強固に出来上がりつつあった。
「さて、五条くん、七直ちゃん。……そして理子ちゃん。少し落ち着いたら、お喋りの続きをしようか。この子たちの将来も含めて、ね」
九十九の言葉を合図に、夕暮れの教室には、呪術界の未来を左右する、しかしどこか放課後の雑談のような温かな時間が流れ始めた。
し…しんどい…区切るタイミングを逃した。
質問コーナー
今日はお休み。ごめんなさい!