シャワーを浴び、ラフな服装に着替えた夏油は、濡れた髪を拭うこともせず、廊下のベンチに力なく座り込んでいた。
「……落ち着いた?」
不意に横から差し出された、冷たいペットボトルのお茶。
顔を上げると、そこにはいつもの凛とした、けれど少しだけ眉を下げて心配そうに彼を見つめる七直が立っていた。
「ああ、ありがとう、七直。……あの子たちは?」
「一応、大丈夫よ。外傷は硝子が治したわ。今は理子があの子たちを見てくれてる。……でも、ひどく怯えていたわ。あの様子だと、体以上に心の傷が深刻なのは明白ね」
七直は夏油の隣に腰を下ろし、自分も緑茶のキャップを開けた。
夏油はペットボトルの冷たさを手のひらで転がしながら、重い口を開いた。
「……七直。私は、あの村で、自分が特級だということを一瞬だけ忘れたよ」
夏油の声は、乾いた砂が擦れるような響きだった。
彼は、地図にも載っていない閉鎖的な村で見た、術師を忌み子として檻に閉じ込め、家畜以下に扱う非術師たちの醜悪な欲望と、無自覚な残虐さを、吐き捨てるように語った。
「気づいたら、村の男たちの胸ぐらを掴んでいた。……殺してはいない。だが、手加減ができるほど、私は大人ではなかったらしい。さっきの返り血は、その時に浴びたものだ。……呪霊を祓う指先が、人間を殴るために動いた時、私は自分の中に、どうしようもない獣がいることを自覚したよ」
「……そ。人を殺めたりはしなかったのね」
七直はペットボトルのお茶を一口飲むと、暗い廊下の先に視線を投げた。
「……私だったら、殺しはしないけど、家の一つや二つは吹き飛ばしてるかもしれないわ」
「ふふ、流石、禪院家を更地にしただけはあるね。……過激な解決策だ」
不意に漏れた夏油の微かな笑いに、七直はハッとしたように自分の口元を片手で隠した。
「……っ。やっぱり今の無し。忘れて。……例えが悪かったわ。あの時の私はちょっと…おかしかったから…」
「いいや、忘れないさ。あの時の星空を思い出した……少し、救われたよ」
悲しくも透き通った、星空の領域に想いを馳せる。
夏油は少しだけ伏せていた顔を上げた。
七直の言葉は乱暴だったが、それは間違いなく、彼の心の中に澱んでいた人を傷つけたことへの忌避感を、もっと単純な悪意への怒りという形に変換してくれた。
「傑。こっち向いて」
七直の静かだが拒絶を許さない声に、夏油はゆっくりと顔を上げた。
次の瞬間、七直の細い指先が、夏油の頬を包み込むように触れた。
「傑、あなたは間違ってないわ。……あのまま彼らを放置して帰ってきたら、私はあなたを軽蔑した。あなたは自分の心が壊れる音よりも、あの幼い子たちの泣き声を選んだのよ。……それは、呪術師としてじゃなく、人として一番正しい選択だったわ」
「……七直。だが、私は非術師を……」
「弱者生存っていう大義名分が、あなたの首を絞めているのね」
七直は夏油の言葉を遮り、さらに一歩踏込んで、彼の額に自分の額をそっと合わせた。
至近距離で交わる視線。
夏油の瞳に宿る暗い影を、七直の強い光が焼き払おうとする。
「いい?傑。あなたは最強だけど、神様じゃないの。……汚いものを見て、腹が立って、殴り飛ばしたくなる。そんなの、当たり前じゃない。……もしあなたが、あの状況で微笑んでいられるような聖人君子だったら私は……あなたを好きになったりしなかったわ」
「……っ」
夏油の息が止まる。
好き、という初めて明確に投げかけられた言葉。
それは、彼が今最も必要としていた、この世への繋ぎ止めだった。
「あなたの正しさは、私と、あの子たちが証明するわ。……これからは、あの二人の親代わりでも何でもやってあげなさい。……もちろん、私も手伝うわ。あの子たちと年が近い双子を見てたもの、力になれる」
「……ふ。君が母親代わりなら、彼女たちは世界一、気の強い術師になりそうだね」
夏油の口元に、ようやくいつもの皮肉めいた、しかし穏やかな笑みが戻った。
彼は七直の手をそっと握り、その温もりを確かめるように強く力を込める。
「……ありがとう、七直。……君がいると、私はまた、明日もこの忌々しい世界で笑える気がするよ」
「当たり前でしょう。……さ、いつまでも湿っぽくしてないで、戻りましょう。九十九さんを長く待たせるわ。」
七直が立ち上がり、夏油に手を差し伸べる。
夏油はその手を借りて立ち上がり、服についた僅かな埃を払った。
まだ喉の奥には呪霊の不快な味が残っている。
けれど、握った彼女の手の熱が、今はどんな甘い飴よりも確かに、彼の心を温めていた。
二人が歩き出した廊下の先からは、理子の賑やかな声と、不慣れながらも小さな子供たちの笑い声が、微かに響き始めていた。
呪術界の歪みも、非術師の悪意も、消えてなくなったわけではない。
それでも、彼らは独りではなく、共に歩むべき明日を見据えていた。
◆
九十九由基は、教室の教卓に腰掛けたまま、戻ってきた二人を細められた瞳で迎えた。
「お帰り。さっきよりは顔色が良くなったね、夏油君」
「遅れたうえに、待たせてしまい申し訳ない。もう……大丈夫です」
夏油の声には、先ほどまでの悲壮感はない。
隣に立つ七直が、彼の制服の袖をさりげなく、しかししっかりと掴んでいるのを見て、九十九は満足げに口角を上げた。
「いいよ。愛の力は特級の呪いより強いって言うしねぇ」
「……九十九さん、茶化さないでください」
夏油が苦笑しながら教室の中ほどへ進むと、そこには既に処置を終えた硝子と、居心地が悪そうに椅子をガタガタさせている五条がいた。
硝子は棒付きキャンディーを指に挟んだまま、夏油と目が合うと、少しだけ気まずそうに視線を逸らしてから、ぼそりと呟いた。
「……さっきは犯罪者なんて言って悪かった。あの子たちの傷を治しているうちに、ちょっと……申し訳なくなったよ。あれは、人間がやっていいことじゃない」
硝子の言葉は短かったが、医者の卵として医療を学ぶ彼女にとって、あの双子の幼い体に刻まれた虐待の痕跡は、何よりも饒舌に事の凄惨さを物語っていたのだろう。
「いや、いいんだ。……実際、あの時の私は自分でも制御が効かないほど殺意に満ちていたからね。君の指摘は、ある意味では正しかったよ」
「……ふふ、あんたが本当に一線を越える時は、私が真っ先に通報してやるから安心しなよ」
硝子なりの不器用な慰めに、教室の空気がわずかに和らぐ。
と、その時。それまで黙っていた五条が、長い足を投げ出したまま、乱暴に髪を掻きむしって口を開いた。
「……俺も。からかったりして悪かったわ。普通のガキの怯え方じゃねーよな、あれ。……てかさ、俺に一切懐かないの何なの?俺が近くに行くだけで、あいつらこの世の終わりみたいな顔して震えるんだけど!」
五条の言葉に、七直が吹き出した。
「当たり前じゃない、悟。あなたは存在が派手すぎるのよ。それに、そのサングラス。怪しさの塊だわ」
「はぁ!?これが最新のクールな呪術師スタイルだろ!傑のその怪しい前髪の方がよっぽど教育に悪いだろーが!」
「前髪は関係ないだろう。……恐らく、君のその圧倒的な呪力量を、あの子たちは本能的に恐怖として感じ取っているんじゃないかな」
夏油の冷静な分析に、五条は唇を尖らせる。
五条は不満げに椅子を揺らし、サングラスの奥で不貞腐れたように唇を尖らせた。
「納得いかねー。硝子や理子には速攻で懐いてんのによー。解せねーぜ。これでも街歩けば結構モテんだぜ?あのガキ共、見る目ねーわ」
「顔だけは一丁前だものね」
七直が資料をトントンと机に叩きながら即座に切り返すと、夏油もようやく肩の力を抜き、親友のいつもの無作法に微笑を漏らした。
「ははは、そうだね。悟の顔の良さは呪いみたいなものだから、子供には刺激が強すぎるのかもしれない」
「あぁん?傑、お前それ喧嘩売ってんの?」
「そういうところが、怖がらせる原因なんじゃないのかい?」
夏油がいつもの調子で言い返すと、教室にはようやくこの学年らしい、どこか締まりのない安堵感が戻ってきた。
五条と夏油が軽口を叩き合い、硝子がそれに呆れ、理子が子供たちの世話に焼く。
その光景を、九十九由基は特等席で見守るように眺めていた。
「いやぁ、本当に良いチームだねぇ」
九十九はポンと手を叩き、座り直した。
その瞳には、先ほどまでの豪快な笑みではなく、呪術界の深淵を見つめてきた特級術師としての真摯な光が宿る。
「さて、夏油くん。さっき君が連れてきたあの子たちのことだけど。……君はこれから、どうするつもりかな?」
夏油は一瞬、隣に座る七直の横顔を見た。彼女は静かに頷き、その手を夏油の膝の上にそっと置いた。
「……まずは、この高専で保護します。ですが、それだけでは足りない。彼女たちのような、理不尽な迫害を受ける幼い術師は、きっとあの村以外にも数え切れないほどいるはずだ。私は、七直が禪院家で始めた底上げ……あれを、もっと広い世界で形にしたい」
夏油の言葉には、かつての弱者救済という危うい義務感ではなく、目の前の命を繋ぎたいという切実な願いが籠もっていた。
「非術師を淘汰するのではなく、術師が術師として、真っ当に笑って生きていける居場所を作る。……仲間を救い、仲間として迎える。それが、私が今日、あの檻の中から彼女たちを救い出した時に見つけた、新しい大義です。七直が変えた禪院家を、私は外側から支える柱になりたい」
「……熱いねぇ。最高にわがままで、最高に素晴らしいよ」
九十九は感銘を受けたように大きく息を吐いた。
「全人類を術師にするのも、全人類から呪力を無くすのも、容易なことじゃない。百年、二百年かかるかもしれない大事業だ。だがね、君たちのやっていることは、小さいけれど……呪術界という古い皮膚を脱ぎ捨てるための、決定的な最初の一歩になる」
九十九はそう言って満足げに頷くと、次に視線を窓際で外を見ていた天内理子に向けた。
「ところで、理子ちゃん」
「……え、私?」
不意に名前を呼ばれ、理子が不思議そうに振り返る。
九十九は教卓から下り、理子の元へと歩み寄った。
「君はもう、天元との同化という役割からは解放された。今の君は、ただの天内理子だ。……だがね、君の存在そのものが、呪術界の均衡を崩す可能性はまだ残っている。上層部の連中が、いつまた君を別の道具として利用しようとするか分からない」
「……それは、わかってる。だからナナや五条や夏油が、こうして守ってくれてるんでしょ?」
理子の言葉に、七直も五条も僅かに表情を硬くした。
事実、彼女の生存は最高機密であり、綱渡りのような平穏の上に成り立っている。
「そこでだ。……本人が良かったらなんだけど」
九十九はいたずらっぽく笑い、しかし言葉には抗えない重みを乗せて言った。
「天内理子を、私に預けてくれないかい?」
教室が再び、水を打ったように静まり返った。
「……預けるって、どういうことよ」
七直が真っ先に声を上げた。
その瞳には、大切な妹分を奪わせまいとする強い警戒心が宿っている。
「言葉通りだよ。来年には一年生として高専に入るんだろうけど、ここの狭い箱の中に閉じ込めておくには、彼女の未来は眩しすぎる。……私と一緒に世界を回らないか?外の世界には、上層部のジジイ共の目が届かない場所なんていくらでもある。そこで見聞を広め、君が天元でも星漿体でもない、本当の自分を見つけるための旅に出るんだ」
九十九は理子の目を真っ直ぐに見つめる。
「もちろん、無理強いはしない。でも、特級術師である私が隣にいれば、どんな追手からも君を守り抜いてみせるよ。……どうかな、理子ちゃん。広い世界を見てみたくはないかい?」
理子は目を見開き、言葉を失った。
五条はサングラスを上げ、隣の夏油は七直の震える肩にそっと手を置いた。
「……九十九さん、本気で言ってるの?」
七直の声が、静かな教室に震えて響いた。
物語は、救われた命のその先の選択へと、大きく動き出そうとしていた。
どーもお待たせしました。
質問コーナー
Q.灰原の術式について。
A.読者感想から頂きました質問に答えたいと思います。結論から言うと彼の術式はない、ということで話を進めていきます。期待してくださった人には申し訳ありません。
ですが、二年生時点で二級術師だったのでそこそこ腕はあるようなのです。呪力量が普通の術師より多いのではと思ってます。あまり詳しく言えませんが、強化はするつもりなので、これからもお楽しみにして頂ければ。
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