直哉のお姉ちゃんになっちゃった…。   作:ザボン漬け

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玉…⑫

教室を出て行く五条の背中は、いつものように傲岸不遜で、どこまでも最強の余裕に満ちているように見えた。

だが、その足取りがいつもより少しだけ速いことを、付き合いの長い硝子や七直が見逃すはずもない。

 

「……行ったわね」

 

七直が小さく息を吐くと、硝子が手元の灰皿に視線を落としたまま、鼻を鳴らした。

 

「あいつ、ああやって騒いでないとアレなんだろ。……まぁ、一番堪えてるのはあいつだよ」

 

硝子の言葉に、七直は何も言い返せなかった。

一年前、理子を救い出したあの日から、五条悟という男は最強に成った。

周りも、彼に喰らいついていけるほどの傑物ぞろいだが、各々の方向性は違っていたのだ。

 

夏油は七直という隣人を見つけ、自分の呪いとの向き合い方を変えた。

七直は禪院家という泥沼に咲く花として、己の庭を耕すことに心血を注いだ。

硝子は医務室という高専の心臓部に根を張り、医者となるべく籠り気味。

 

そんな中で、五条の精神的な遊び相手を全力で務めていたのが、他ならぬ天内理子だった。

 

理子と五条の精神年齢は、驚くほど合致していた。

護衛と称しては、新宿の最新スポットでクレープを頬張り、原宿で意味のわからない服を選び合い、ゲーセンで本気の呪力操作を駆使した格ゲー対決を繰り広げる。

理子にとって五条は、運命から救い出してくれたヒーローである以上に、唯一対等にガキの喧嘩ができる悪友だった。

 

五条は直哉を煽りに行くと言って廊下へ消えたが、向かったのは医務室ではなく、高専の屋上だった。

コンクリートの照り返しが、傾きかけた西日に焼かれている。五条はフェンスに背を預け、サングラスを外して深く目を閉じた。

六眼から流れ込んでくる膨大な情報は、今の彼には少しばかり騒がしすぎた。

 

「……眩しいな」

 

独りごちた言葉は、熱を帯びた風に吹かれて消える。

一年前、高専で理子を守るために戦った。

それから一年。

あのアホみたいに元気な声が、明日からはもう校内のどこからも聞こえなくなる。

最強になれば、何もかもを自分の手の内に収めておけると思っていた。

だが、現実は皮肉だ。

彼女を運命から救い出した結果、彼女は自分の意志で、五条の手が届かない広い世界へと飛び出していく。

背後で扉が軋む音がした。

足音で、それが誰かはすぐにわかった。

 

「……直哉のところへ行くんじゃなかったのかい?」

 

静かな声。

夏油傑が、少しだけ乱れた髪をそのままに、五条の隣へと歩み寄ってきた。

五条は目を開けず、不敵な笑みだけを作った。

 

「……傑との戦いの疲労が戻ってないみたいだからな。今日は止めといてやった。俺ってば優しいからさ」

 

「悟にしては殊勝な心掛けじゃないか。明日は槍が降ってきそうだ」

 

夏油は五条の冗談を軽くいなし、同じようにフェンスに身を預けた。

二人の間に、一時の静寂が流れる。蝉の声が遠く、空の青は少しずつ濃紺へと溶け込み始めていた。

 

「疲労なんて嘘だろう。直哉くんなら、君が顔を出せば這ってでも噛み付いてくるさ」

 

夏油は視線を落とさず、前を見据えたまま言った。

 

「理子がいなくなって寂しいんだろう?図星かな」

 

五条は一瞬、眉を動かしたが、すぐに鼻で笑った。

 

「……は?寂しい?この俺が?まさか。あんな賑やかなのがいなくなって、ようやく静かに昼寝ができるってもんだよ」

 

「……耳が赤いよ、悟」

 

「逆光のせいだろ、バーカ」

 

五条は乱暴に髪を掻き回し、ようやくサングラスをかけ直した。

レンズ越しに、夏油の穏やかな横顔を盗み見る。

隣の男は、一年前とは違う。

七直という、自分の魂の欠片を預けられる相手を見つけた。

それは五条にとって、親友が壊れずに済んだという安堵であると同時に、自分が踏み込めない聖域の誕生でもあった。

 

「……傑。お前、さっきのガキどものこと、どうすんだよ」

 

五条は話題を変えるように、夏油が連れ帰ってきた双子のことに触れた。

 

「高専で保護し続けるのは無理がある。上層部のジジイ共は、身寄りのない子供、それも呪力持ちとくれば有効活用することしか考えねーぞ」

 

夏油の目が、一瞬だけ鋭く、冷たく細まった。

 

「させないよ。……既に七直と話はついている。禪院家が後ろ盾になる形で、彼女たちの籍をあそこの門下生として置く。実質的には、私が面倒を見ることになるけれどね」

 

「……へぇ。パパやる気満々かよ」

 

「父親代わりか、あるいは兄か。……どちらにせよ、あの檻の中で死を待っていた彼女たちを、また別の檻に入れるつもりはない」

 

夏油の言葉には、以前の弱者救済という危うい理想論ではなく、目の前の命を絶対に離さないという、泥臭い責任感が宿っていた。

 

「九十九さんが理子を連れて行くのも、ある意味では好都合なんだ。彼女たちがこの場所で新しい生活を始める間、理子の不在は、上層部への目眩ましにもなる」

 

「……あー、なるほどね。九十九の姉御を盾に使うわけか。傑も悪よのぅ」

 

五条がようやく、いつもの調子で夏油の肩を肘で突いた。

夏油もまた、少しだけ肩の力を抜いて微笑む。

 

「悪いのは、この世界のシステムだよ。……私たちはただ、飴を食べるための場所を、少しだけ広げようとしているだけだ」

 

夏油の脳裏には、数日前、七直の部屋で飲んだ苦いお茶と、彼女が隣にいてくれた穏やかな時間が去来していた。

自分が地獄の淵で踏み止まれたのは、七直が待っていてくれたからだ。

 

「……悟。これからは忙しくなるよ」

 

「言われなくてもわかってるって。……理子がいなくなっても、俺の遊び相手はまだここに一人、傑パパが残ってるしな」

 

「私は君のお守りをするほど暇じゃないんだが」

 

「いいじゃん、美々子と菜々子のシッターなら俺がやってやるよ。蒼で高速メリーゴーランドとか超喜ぶぜ」

 

「……絶対にお断りだ。彼女たちを殺す気かい」

 

二人の笑い声が、夕暮れの屋上に響く。

天内理子が羽ばたき、九十九由基が動き出し、夏油傑が二人の少女の運命を背負った。

そして禪院七直は、その中心で全てを繋ぎ止めている。

 

「……行くか。七直が下でお茶菓子はどうしたってキレてる頃だ」

 

「ああ。彼女を待たせると、直哉くんより恐ろしいからね」

 

二人は並んで屋上の扉へと向かう。

沈みゆく太陽が、二人の影を長く、長く廊下へと伸ばしていた。

物語は終わるどころか、この夏を境に、さらに激しく加速し始めようとしていた。

 

 

理子の旅立ちが夏休みの終わりと決まったことで、高専の面々にとって、その一分一秒はこれまで以上に愛おしく、騒がしいものとなった。

五条の「傑の呪霊で一っ飛びだ」という言葉通り、彼らは残された夏休みを惜しむように、北は北海道から南は沖縄まで、文字通り日本中を駆け巡った。

理子の希望で訪れた海では、五条と直哉が「どちらが早く水平線まで行けるか」という子供じみた競争で高波を起こし、七直に拳骨を落とされるのが日常茶飯事となった。

夏油が村から連れ帰った美々子と菜々子も、最初は怯えていたものの、理子の屈託のない笑顔と、七海や灰原が買ってくるお菓子の山に少しずつ心を開いていった。

美々子が理子の髪を三つ編みにし、それを見た菜々子が夏油の長い髪にも手を伸ばし、されるがままの彼を、五条が大爆笑するという、一年前には想像もできなかった光景がそこにはあった。

一方、七直と夏油の距離も、この慌ただしい喧騒の中で確実に変化していた。

任務の合間、夕暮れの縁側で並んで座り、理子たちが庭で花火に興じる姿を眺める時間。

夏油が「わがままな喉」を癒やすために、当たり前のように七直の差し出す飴を受け取り、その指先が触れ合うたびに、二人の間には言葉以上の約束が積み重なっていった。

理子は九十九から「旅の予習」として、基礎訓練を叩き込まれ、夜には七直の部屋で、その日あった出来事を夜通し語り合った。

 

「私、強くなって帰ってくるからね。そしたら、ナナと傑の結婚式、私が一番いい席でプロデュースしてあげるんだから!」

 

そんな理子の冗談交じりの宣言に、七直は赤面しながらも、旅立つ妹分の背中を頼もしく見つめるのだった。

 

慌ただしい夏休みの喧騒から離れ、静寂な空気が包む静かな森の中。

理子が「旅立つ前に家族に会いたい」と言い、九十九由基と二人で小さな霊園を訪れていた。

墓石に刻まれた「黒井家」の文字を、夏の終わりの柔らかな風が撫でていく。

代々星奬体の世話係を生業とした一族が眠る墓。

線香の煙が細く、真っ直ぐに九十九のライダースーツの匂いをかすめて空へ消えた。

 

「……そう。君の家族か」

 

九十九はヘルメットを抱えたまま、一歩下がって理子の背中を見守る。

特級術師としての鋭い気配を消し、今はただ、旅立つ教え子の矜持を静かに受け止めていた。

 

「うん。お父さんとお母さんが死んじゃってから、ずっと一緒だった。私のわがままを全部聞いてくれて、一緒に笑って……私が死ぬ時も、一緒にいてくれるはずだった人」

 

理子は墓石に置かれた瑞々しい花に触れる。

その指先からは、あの日、七直に救い出された時に宿った、星の祈りの淡い光が無意識に漏れ出していた。

理子の声は震えていない。

 

「ナナが、悟が、傑が…皆が、私のために本当に命を懸けて戦ってくれた。……黒井が守りたかった私を、みんなが繋いでくれたの。だから私は、もう黒井のために泣くんじゃなくて、黒井が見られなかった世界を見るために笑うって決めたんだ」

 

理子は顔を上げ、眩しそうに空を仰いだ。

その瞳には、かつての悲劇を飲み込み、力に変えようとする強固な意志が宿っている。

 

「……九十九さん。私、自分の術式が少しだけ分かってきた気がする」

 

「ほう?聞かせてごらん」

 

九十九は興味深げに目を細める。

 

「私の力は、魂の傷を濾過する力。……でも、それは『消す』ことじゃない。傷ついた過去も、死んじゃった人の想いも、全部その人の魂の一部として正しく編み直して、また歩き出せるようにすること。……きっと、黒井も私の心の中で、そうやって新しく編み直されてるんだと思う」

 

理子がそう言って笑うと、墓前の花が、まるで彼女に応えるようにふわりと揺れた。

 

「……最高だね。君の感性は、私が何年もかけて学術的に導き出そうとしていた答えの、ずっと先を行っているよ」

 

九十九は豪快に笑い、理子の頭をガシガシと撫でた。

 

「いいかい理子ちゃん。呪術師ってのは、死者の呪いを背負って生きる。でも、君がやろうとしているのは『呪い』を『祈り』に書き換える作業だ。それは、これまでの呪術界の歴史には存在しなかった、全く新しい戦い方になる」

 

九十九はヘルメットを被り、バイクのキーを回した。

重厚な排気音が、静かな霊園の空気を震わせる。

 

「さあ、お別れは済んだかな?黒井さんも、君が特級の女に連れ回されて、世界一わがままに強くなっていく姿を、特等席で見守ってくれるはずさ」

 

「うん!……黒井、行ってくるね。寂しくなったら、夢の中で叱りに来てよ!」

 

理子は最後にもう一度墓石に向かって大きく手を振ると、駆け足で九十九の背中へ飛び乗った。

バイクが加速し、霊園の入り口を抜ける。

その背後で、理子の放った青白い光の粒子が、まるで黒井美里が手を振っているかのように、夏の陽光に溶けてキラキラと輝き続けた。

 




九十九由基も黒井という世話係がいたのだろうか…。

質問コーナー

Q.高専編も終わりが近いのでしょうか?

A.はい、そうです。ここまで長くなるとは想定していませんでした。あと数話くらいで、高専編が終わると思います。その後、次に進む予定です。
七直の存在によって、大きく変わるところも多いため、今後の進行の練り直しで、遅くなるかもしれませんが何卒宜しくお願い致します。


久々の祝日。遊んでたら書く時間ありませんでした。

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お陰様でまだまだ熱を保っていられます。
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