華やかな婚姻を経て、それから数年後。
禪院家はかつてないほどの全盛期を迎えることになる。
京都のとある一角、竹林に囲まれた禪院の本邸。
かつて「非に非ざれば術師に非ず、術師に非ざれば人に非ず」と嘲られた呪いの殿堂は、今や呪術界の地殻変動を象徴する大規模な教育組織へと変貌を遂げていた。
正門に掲げられた看板には、古色蒼然とした家紋の傍らに、現代的な書体で大々的に書かれている。
『禪院道場』
その門戸は一族の血筋を超えて開放され、才能を渇望する若者たちが、全国からこの門を叩く。
道場の中枢を担うのは、かつての私設兵団から、最高意思決定機関へと昇華した「炳」の面々だ。
定員九名のこの称号は、今や単なる武闘派の証ではない。
一級術師であることは最低条件。
さらに門徒生からの厚い支持と、組織運営への高い貢献度が求められる、術師の到達点の一つとなった。
現在、その席に座るのは六名。
当主代理として内部の実務的な采配を振るう七直。
その隣で、呪霊操術という圧倒的な物量と知略を組織に還元する夏油傑。
かつての傲慢さを次代を育てる矜持へと昇華させ、若手の指導に当たる直哉。
そして、旧来の武の象徴でありながら、新しい風を認めた甚壱、長寿郎、伸朗。
炳は理事会として機能し、当主・直毘人の決定に対してさえ、過半数の合意があれば否決できる特権を持つ。
直毘人は依然として禪院の頂点として君臨しているが、その役割は組織の象徴、あるいは若者が超えるべき巨大な壁としての隠居に近いものへと移行していた。
禪院一派が上層部から一目置かれ、同時に恐れられる最大の理由は、その徹底した術師保護にある。
数年前、灰原雄が等級不相応な任務で命を落としかけた一件以来、七直と夏油は独自の任務査定システムを構築した。
情報に齟齬あれば即撤退、等級以上のリスクには炳が介入すること。
この術師ファーストの徹底により、禪院道場に所属する術師の生存率は、他を圧倒しており、遥かに凌駕している。
さらに、術師としての才能が振るわなかった者たちへの支援も手厚い。
彼らは「窓」としての情報収集、呪具のメンテナンス、あるいは組織の財務やロジスティクスを担う専門職として再教育され、禪院という巨大な歯車を回す不可欠なパーツとして誇りを持って生きている。
かつては一族の秘伝であった対領域術式「落花の情」や、高度な呪力操作の理論。
これらは一定の実力と忠誠を示した門徒には惜しみなく開示される。
技術の独占は衰退を招く、七直のその方針により、忌庫に眠っていた特級呪具さえも、任務の重要度に応じて貸し出されるようになった。
教育と装備、そして安全の保証。
この三本柱が、高専とは異なる術師の理想郷としての禪院一派を形作っている。
◆
竹林を抜ける風が、規則正しく響く竹刀の音と、練り上げられた呪力の奔流を運んでくる。かつての禪院家が放っていた、湿り気を帯びた圧迫感はない。
そこにあるのは、研錬を尊ぶ清々しい熱気だ。
「そこまでや!灰原、今の打ち込みは悪うないが、呪力の残し方が甘いわ。シン陰の歩法を意識しすぎて、自分の懐が空いてんぞ」
道場の中央で、腕を組んで鋭い声を飛ばしているのは直哉だ。
その左袖は風に舞っているが、義手を感じさせない精緻な身のこなしと、投射呪法による速さの極致を知る指導は、門下生たちにとって畏怖と憧れの対象だった。
「わかった!直哉に組手を頼んで正解だったよ!もう一回よろしく!」
灰原雄が、汗を拭いながら満面の笑みで応じる。
彼は卒業後、直哉の強引な誘い、という名の執拗なスカウトを受けて禪院道場に籍を置いた。
術式を持たないというハンデを、彼は持ち前の膨大な呪力量と、並外れた身体能力、そして門戸を開放した禪院が提携したシン陰流の簡易領域で補っている。
かつて任務で死にかけた自分を直哉や七直、他の皆がどれほどの執念で救い上げたか。
その恩を返すために、彼は今、禪院という新しい組織の盾として、若手たちの先頭に立っている。
「……灰原、少しは休んだほうが良い。君の体力に付き合わされる門下生の身にもなってください」
道場の隅、書類の束を片手に溜息をついたのは七海建人だ。
彼は卒業後、一度は一般社会の不条理と呪術界のクソさを天秤にかけ、数ヵ月だけ「労働はクソ」と社会に引きこもりかけた。
だが、禪院家が提示した徹底したリスク管理と、労働に見合う正当な報酬・保障という契約書を見て、彼は一番マシな地獄としてこの場所を選んだ。
七海の担当は、主に難易度の高い一級任務の執行と、道場全体のロジスティクス管理だ。
彼の十劃呪法による精密な解体作業と、定時退勤を尊ぶ徹底した効率主義は、杜撰な任務管理が横行していた旧来の呪術界に一石を投じた。
「七海か。ちょうどええところに来た。例の補助監督たちの配置換え、お前に任せてええか?僕、これから傑くんと任務の打ち合わせがあるんや」
「承知しています。それと直哉。来月の炳の理事会、議題に私の昇格が含まれているそうですが、給与体系と業務内容の確認を先にお願いします。責任が増える分、それ相応の……」
「わかっとるわ!お前、炳入りする前から仕事の話ばっかりしおって。……ま、お前が席に座れば、あのジジイ共も数字で黙らせられるしな」
直哉はニヤリと笑い、七海の肩を叩いた。
七海建人。
彼こそが、血筋に縛られず、実力と管理能力だけで炳の座を勝ち取ろうとしている、新生禪院の象徴だった。
道場の奥、一段高い上座。
そこでは七直が、夏油傑と共に並んで座り、若手たちの立ち合いを静かに見守っている。
七直の膝の上では、いつの間にか道場に馴染んだ美々子と菜々子が、真希や真依とおやつを分け合いながら、灰原の動きに歓声を上げていた。
「……いい光景だね、七直。学生時代では想像もできなかった」
夏油が、自身の魂の一部を分かち合った妻……七直の横顔を見て、穏やかに微笑む。
彼の呪霊操術は、今や任務の安全保障の要だ。
危険な区域にはあらかじめ夏油の呪霊が配置され、異常があれば即座に道場本部へ情報が飛ぶ。
彼が独りで呑み込んできた孤独な苦みは、今や組織を守るための強固な目へと昇華されていた。
「ええ。でも、これがゴールじゃないわ。……上層部の老人共は、私たちが力を持ちすぎることを嫌がっている。五条先生の教え子たちが卒業してくる頃には、もっと大きな波が来るはずよ」
「悟は悟で、育てているみたいだしね。……私たちは、ここで彼らの帰る場所を広げ続けるだけよ」
七直が立ち上がると、道場中の視線が自然と彼女に集まる。
そこにはもはや、家の名に怯える少女の面影はない。
「灰原くん、七海くん。休憩は終わりよ。……次の任務は、私と傑も出るわ。新しい呪具や編成のテストも兼ねてね」
「「はい!!」」
灰原の元気な返事と、七海の静かな頷きが重なる。
林のざわめきと共に、新生禪院家という巨大な歯車が、かつてない力強さで回り始める。
◆
ナポリの抜けるような青空の下、地中海を見下ろす高台のテラスに、二人の女性の姿があった。
テーブルには飲みかけのエスプレッソと、現地の術師から回収したばかりの不気味な呪物の残骸。
だが、その場の空気は任務の終わりを感じさせないほど、どこか浮ついた熱を帯びている。
「あー……いいなぁ。ナナ、本当に素敵だったなぁ。あの白無垢、綺麗だったなー。傑も、なんだかんだ言って凄く幸せそうだったし」
天内理子は、一時的に日本に戻ったときに撮った、七直と夏油の婚礼の写真を見つめて溜息をついた。
肌に離さず持っていた写真は擦れて少しボヤけていたが、それでも彼女の憧れの火を灯し続けていた。
かつての星漿体としてのあどけなさは消え、九十九の過酷な修行に裏打ちされたしなやかな肢体と、知的な光を宿した瞳。
綺麗な花嫁姿に瞳を輝かせる姿は、年相応の女の子そのものだ。
「そうだろうねぇ。式の最中も、きっと会場全体が当てられちゃうくらいの呪力を放っていたはずさ」
九十九由基は、長い脚を組んでバイクのヘルメットを弄りながら、面白そうに目を細めた。彼女たちの活動範囲は今や世界全土。
呪力の最適化、あるいは呪霊の発生しない世界の構築という九十九の悲願のために、世界各地を転々としていた。
「ねぇ、師匠。……師匠は、結婚しないの?師匠くらい綺麗なら、寄ってくる男の人なんて山ほどいるでしょ。あ、もしかして、密かに想ってる誰かがいたりして?」
理子の茶目っ気たっぷりの問いに、九十九は一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにクスクスと肩を揺らして笑った。
「はは、手厳しいねぇ。……残念ながら、私の理想に叶う男には、まだ世界を三周しても出会えていないよ」
九十九は立ち上がり、テラスの柵に寄りかかって遠い水平線を眺めた。
「それにね、理子ちゃん。術師ってのは、基本的には稼ぎが良いのさ。特に特級ともなれば、一生遊んで暮らせるだけの財を独りで築ける。誰かに頼る必要がないっていうのは、自由である反面、孤独に強い理由にもなる」
彼女の言葉には、特級術師という孤独な頂に立ち続けてきた者特有の、乾いたリアリズムがあった。
「あとは、いつ命を落とすか分からない。……朝、隣で寝ていた人が、夕方には物言わぬ肉塊になっている。そんな日常が当たり前の世界で、誰かを家族にするってのは、それだけで呪いになりかねないのさ。だから独身を貫く術師も多い。……傑と七直ちゃんの方が、稀有な例外なんだよ」
「……呪い。……そっか」
理子は写真の中の、幸せそうに笑う七直の指先をなぞった。自分を守るために死にかけた七直。
その彼女が、今や一族を背負い、愛する人と共に新しい時代を作っている。
「でも、私はいいと思うな。いつ死ぬか分からないからこそ、誰かと一緒にいたいって思うのも、一つの強さじゃないかな」
「……そうだね。君みたいな子がそう言ってくれるのは、この世界にとっては救いかもしれないよ」
九十九は優しく理子の頭を撫でた。
天元と同化することを拒否し、自らの足で歩き始めた少女。
彼女が今、こうして誰かの幸福を願い、自身の未来を夢見ていること。
それこそが、九十九がこの数年間の旅で得た、何よりも価値のある研究成果だった。
九十九はエスプレッソを飲み干すと、少し意地悪な、けれど姉のような優しい眼差しで理子を覗き込んだ。
「そういう君はどうなんだい、理子ちゃん。いつまでも私の修行に付き合わせるわけにもいかないしね。結婚したいのかな?どんな男が好みなんだい?」
「えー、結婚……。そうだなぁ……」
理子は空を見上げ、真剣に指を折り始めた。かつて星漿体として未来を奪われていた頃には、想像もできなかった贅沢な悩み。
「……まずはイケメンでしょ!それから、私を養ってくれるくらいのお金持ち!それに、私よりもずっと強くて、一緒にいて気が合う人!……かなっ!」
満面の笑みで答えた理子に、九十九は一瞬呆然とした後、堪えきれずに吹き出した。
「おやおや、随分な欲張りセットじゃないか。理子ちゃん、私の知る限りじゃあ、そんな条件をすべて満たしている男なんて……世界に一人、五条悟くらいしか思いつかないよ」
「……えっ!?悟!?」
理子の顔が、ナポリの夕焼けよりも赤く染まった。
九十九の言葉に、理子の脳裏には数年前、日本を離れる前の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
あの頃、七直と夏油が急速に距離を縮め、二人の世界を作り始めていた。
置いてけぼりになった五条は、不貞腐れるどころか「おーし、じゃあ俺たちは俺たちで遊ぶか!」と、護衛という名目で理子を連れ回していたのだ。
原宿のクレープ、銀座の高級和菓子、隠れ家のようなパンケーキ屋……。
五条は最強の術師としての威厳などどこへやら、理子と同じ目線で、あるいは理子以上に目を輝かせて甘味を貪っていた。
(……そういえば、あいつ……。私の行きたいところ、全部連れてってくれたっけ)
人混みで理子が迷わないように、ぶっきらぼうに制服の袖を掴ませてくれた大きな手。
「理子、これ食ってみろよ、飛ぶぞ!」と、自分が一番美味しいと思った一口を無理やり押し付けてきた、子供のような笑顔。夏油と七直が「守る者と守られる者」として深い絆を築く傍らで、五条と理子は、まるで放課後の悪ガキ仲間のような、飾らない時間を過ごしていた。
「……悟は、ないない!?あいつ、性格最悪だもん!くっそ我儘だし、デリカシーないし、甘いものばっかり食べてるし!」
「ははは!随分な言い草だ。でも、君がそうやってボロクソに言えるくらい、彼と『気が合っていた』のは事実だろう?」
九十九は理子の反応を楽しみながら、確信犯的に付け加えた。
「最強の五条悟を相手に、物怖じせずに怒鳴り散らせるのは、世界中で君と、あとは七直ちゃんくらいのものだよ」
理子は反論しようとして、言葉に詰まった。
確かに、五条悟という男は、理子にとって憧れの英雄でも恐ろしい最強でもなかった。
ただの、騒がしくて、頼りがいがあって、一緒にいると最高に楽しい、世界一贅沢な友人だった。
「……あいつ、元気かな。今頃、先生なんてやってるんでしょ?絶対、生徒泣かせてるに決まってるわ」
理子は、ナポリの空の向こうにある、遠い日本の空を想った。
自分も、あの頃よりはずっと強くなった。
九十九の厳しい特訓を耐え抜いた今の自分なら、あの最強の男の隣に立っても、護衛対象とは呼ばせない自信がある。
二人の笑い声が、地中海の風に乗ってどこまでも広がっていく。
因果の鎖は、今や二人を縛るものではなく、新しい時代を切り拓くための絆へと、形を変えようとしていた。
◆
禪院道場の一角、竹林に囲まれた屋外訓練場では、今日も鋭い木刀の打撃音が響き渡っていた。
中学生の年齢に差し掛かり、その肢体に野生動物のようなしなやかさを宿し始めた真希が、一筋の閃光となって直哉の懐へ飛び込む。
「直哉!勝負しろ!今日こそ一発入れてやるからな!」
真希の振るう木刀は、風を切る音さえ置き去りにするほどの速度と、天与呪縛に似た、圧倒的な質量を帯びている。
かつての旧い禪院家なら、呪力を持たぬ彼女のこの一撃は無駄な足掻きと切り捨てられていただろう。
だが、今の道場において、彼女の身体能力は正当に評価されていた。
「またかいな。毎日よう飽きんなぁ、真希」
直哉は薄笑いを浮かべたまま、最小限の動きでその一撃をいなす。
彼はまだ、自身の投射呪法を使っていない。
足捌きと、左腕の義手を巧みに使った防御だけで真希の猛攻を捌き切っている。
「術式を使うまでもない……と言いたいところやけど、お前、また腕上げたな。今の、並の術師やったら首が飛んどったで」
「ヘッ、当たり前だ!いつまでも子供扱いしてんな!」
真希の瞳には、かつての反骨心に加えて、今の環境で得た強さへの純粋な渇望が宿っていた。
その二人の訓練を、少し離れた日陰から冷静な眼差しで見守る少女がいた。
真希と同じ顔立ちをしながらも、その手には木刀ではなく、直哉の義手の図面が握られている。
禪院真依だ。
彼女の手元にある図面には、無数の注釈が書き込まれている。
開発初期の義手は、直哉の激しい気性に合わせ、ただひたすらに壊れないことを目指した鋼鉄の塊だった。
重く、無骨で、投射呪法の超高速移動に耐えるのが精一杯の盾に過ぎなかったのだ。
けれど、数年の月日と、真依が技術班で磨き上げた構築術式の解釈が、その鉄塊を一流の武器へと変えた。
「……お兄様、一旦止まってください。内部のテンションを確認します」
「お、助かるわ。真希、ちょっとタイムや」
直哉が肩を回しながら歩み寄る。
真依は図面を脇に抱え、直哉の義手——今や人間の腕と見紛うほど洗練されたシルエットを持つ、黒銀の四肢——に触れた。
表面は滑らかなマット仕上げだが、その内側には精緻な絡繰りが凝縮されている。
真依が考案したのは、電源を一切必要としない呪力感応型ワイヤー駆動機構だ。
呪力を流し込むことで、内部に仕込まれた特殊な極細の糸が伸縮し、滑車を通じて人間の筋肉と同等以上の反応速度で関節を動かす。
「……はい、大丈夫です。投射呪法の加速の衝撃にも、この糸の弾性なら耐えられるはず。シンプルにした分、現場での換装も楽にしました。ストックもあと3本は作ってあります」
「相変わらず頼もしいなぁ真依。これなら炳の連中相手に大立ち回りしても、修理代で姉貴に怒られんで済むわ」
直哉が楽しげに義手を握り込み、空を突く。
駆動音はほとんどしない。
ただ、直哉の呪力に反応して、かすかにキュィィィンと硬質な共鳴音が鳴るだけだ。
「おい、話は終わったか?武器の自慢ならあたしを倒してからにしろよ!」
しびれを切らした真希が、木刀を肩に担いで吠える。
真依はそんな姉を見て、ふっと呆れたような、けれどどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「真希、あんまり無茶させないでね。その義手のワイヤーを作るの大変なんだから。呪力を馴染ませるのに時間がかかるの……準備はいいわ。お兄様、フル出力でテストしてください」
「おう、言われんでもそのつもりや。……真希、これまでは片手扱いやったけどな」
直哉がふっと構えを解き、重心を下げる。
義手から、それまでとは比べものにならないほど濃密な、そして洗練された呪力が溢れ出した。
「これからは、両手で相手したるわ」
その瞬間、直哉の姿が景色から消えた。
投射呪法。
洗練された義手が空気を切り裂き、真希の視界を24枚の静止画へと分解する。
真希の広角に開かれた瞳が、その速度を捉えようと輝いた。
「——そうこなくっちゃな!!」
竹林が激しくしなり、真新しい木刀と、最新鋭の義手が正面から衝突する。
轟音と共に、新生禪院の武と技が火花を散らした。
◆
訓練開始から一時間ほど。静まり返っていた竹林には、今や突風が吹き荒れたような跡が残り、無数の竹の葉が雪のように地面を覆っていた。
「くっそーー!全っ然、捉えられねぇ……!」
真希は最後の一撃を直哉の義手で軽くいなされ、勢い余って地面に倒れ込んだ。
全身から湯気が立つほどの熱量。
汗だくになり、息を切らしながらも、その瞳には悔しさと、それ以上の高揚感が渦巻いている。
「……ハァ、ハァ……!あと少し、あと少しで、あのクソ速い軌道に手が届きそうなのに……っ!」
直哉は息一つ乱さぬ様子で、懐から手拭いを取り出し、優雅に額の汗を拭った。
そして、鈍い光を放つ義手の具合を確かめるように、数回指を動かして音を鳴らす。
「まぁまぁやな、真希。結局、今の小一時間で三回も術式使ってもうたわ。……お前、最後の方はしっかり僕の動きが見えてきてんな。並の術師やったら、僕が動き出した瞬間、何が起きたか分からんまま場外や」
直哉の言葉は皮肉ではなく、心からの称賛に近かった。
投射呪法の一秒を24分割する加速世界に、呪力を持たぬ身で食らいついてくる真希の異常な動体視力と反応速度。
それは直哉にとっても、良い意味で計算外の成長だった。
「……まだ、三回しか使わせてねぇ……。三回だけじゃ、全ッ然、まだまだだ……!」
真希は地面を拳で叩き、強引に体を起こした。
膝が笑っているが、心は折れていない。
「……次は、五回…いや十回は使わせてやる。それから一発、その綺麗な顔にぶち込んで、お前の術式を強制終了させてやるからな」
「期待しとるで。その時は僕も、予備の義手を全部使い切る覚悟で相手したるわ」
そんな二人へ、真依が冷えたスポーツドリンクとタオルを抱えて歩み寄った。
「はい、お疲れ様。……真希、あんまり力まないの。お兄様の術式は決まった軌道をなぞるんだから、力で追うんじゃなくて、空気を読みなさいって七直姉様も言ってたでしょ」
「わかってんだよ、理屈じゃ……!」
真依は真希の首筋に冷たいタオルを押し当てると、今度は直哉に向き直った。
「お兄様も。三回術式を使った時のワイヤーの負荷の記録を取りました。超高速域での関節固定に、微細な金属疲労が見られます。……次は、呪力を流した瞬間に形状記憶合金としての性質を強めるよう、構築の配合を変えてみますね」
「おー、頼むわ。真依がおらんと、僕の体の方が先にガタきそうや」
直哉が笑いながらドリンクを煽る。
「……ほな、用事あるで行ってくるわ。あんま無理して体壊すなよ。真依も頼んだで」
直哉はそう言い残すと、真新しく洗練された義手の感触を確かめるように一度握り込み、軽やかな足取りで道場を後にした。
当主代理としての仕事か、あるいは夏油との任務の打ち合わせか、今や新生禪院を支える多忙な炳の一員となっていた。
「いってらー!」
真希が木刀を地面に突き刺し、背中越しにぶっきらぼうな声を投げる。
「はい、お兄様。お気をつけて」
真依は行儀よく頭を下げ、直哉の背中が見えなくなるまで見送った。
静まり返った道場に、竹林を抜ける柔らかな風が吹き抜ける。
すると、道場の入り口の影から、おずおずと二人の少女が姿を現した。
「……直哉さんは?」
美々子が、胸元に大事そうに抱えた包みを抱きながら、不思議そうに周囲を見渡した。
「ついさっきまでいたけど、用事でどっかいったよ。あいつ、最近忙しいからな」
真希が汗を拭いながら答えると、隣にいた菜々子が「えー!」と露骨に肩を落とした。
「せっかくお菓子持ってきたのになー。直哉さんの大好物、わざわざ並んで買ってきたのに!」
菜々子はぷくーっと頬を膨らませたが、すぐに包みを開けて中身を確認すると、ニカッと明るい笑みを浮かべた。
「ま、いっか!本人がいないんじゃ腐らせるだけだし。じゃあ、みんなで食べちゃおっか!」
「賛成。運動した後は甘いもんだよな」
真希が即座に食いつき、四人は道場の縁側に並んで腰を下ろした。
広げられたのは、京都で評判の季節の生菓子。
色鮮やかなその姿は、かつて暗い村の檻にいた美々子と菜々子には想像もできなかった、平和で甘い日常の象徴だった。
「ん、これうまい!さすが菜々子、目利きがいいな」
「でしょ?傑様にも『美味しいものをたくさん食べなさい』って言われてるもん」
「ふふ、菜々子ったら。……はい、真依ちゃんも。これ、真依ちゃんが好きそうな味だよ」
美々子が、控えめに真依へ菓子を差し出す。真依は「ありがとう」と微笑み、華奢な指先でそれを受け取った。
「……ねぇ、真希ちゃん。さっきの修行、すごかったね。直哉さんの動き、全然見えなかった」
美々子が尊敬の眼差しで真希を見つめる。
「ヘッ、まだまだだよ。あいつを本気で焦らせるまでは、あたしの修行は終わんねーんだ」
真希は菓子を頬張りながら、遠い空を見つめた。
「……ねぇ、二人。どうしてそこまで頑張るの?七直様も傑様も、道場にはいるけれど、術師以外の道もあるっていつも言ってた。……私たちは、傑様が望むなら戦いたいけれど、二人は自分を追い込んでるみたいに見える」
縁側の空気は、それまでの修行の熱気をはらんだ賑やかさから、ふとした問いかけをきっかけに、静かな夜の湖のような深みを帯び始めた。
生菓子の甘さが口の中に広がる中、美々子が膝の上で指を絡めながら、不思議そうに、けれど真剣な瞳で真希と真依を見つめた。
菜々子も、手に持ったお菓子を止めて、二人の顔を覗き込んだ。
「そうだよ。真希ちゃんなんて、体中あざだらけだし。真依ちゃんだって、夜遅くまで図面描いて……。ここなら、頑張らなくても誰も二人を責めたりしないのに」
救われた環境は同じだ。
呪いのような村から夏油に連れ出された美々子たちと、腐敗した家のシステムから七直に救い出された真希たち。
だが、真希と真依の根底にあるものは、単なる恩返しよりも、もっと鋭く、もっと痛みを伴う何かであることを、二人は鋭敏に感じ取っていた。
真希は持っていたタオルの端を強く握りしめ、視線を落とした。
真依は、遠くで風に揺れる竹林を見つめ、寂しげに唇を噛む。
「……頑張らなきゃいけないんだよ。あたしたちは」
真希の声は、いつもの快活さを失い、地を這うような重みを持っていた。
「……あたしたちの親父……扇のことは知ってるだろ。あいつは、あたしたちが呪力を持たずに生まれたことを、自分の出世の泥だと思ってた」
美々子と菜々子は、息を呑んで頷いた。
禪院扇。
真希と真依の父であり、旧体制派の長老衆と共に離れに実質隔離された男。
「あいつ、あたしたちを使ったんだ。……まだ小さくて、何も分からなかったあたしたちに、綺麗な包みの菓子折りを持たせて……それを、七直姉様と京子様のところへ届けに行かせた」
真依が、震える声で言葉を継ぐ。
「……『これまでの不和の詫びだ』って、言ったの。大切にそれを抱えて……七直姉様の部屋へ行った。姉様もお母様も、笑顔で迎えてくれたわ。京子様は、私たちが持っていったそのお菓子を、『歩み寄るなら受け入れるのも一族の努め』って言って、一口食べて……」
真依の脳裏に、今も鮮明に焼き付いている光景。
楽しそうなお茶の時間が、一瞬で地獄に変わった瞬間。
大好きだった京子が、自分たちが届けたお菓子を口にした直後、真っ赤な血を吐いて、畳の上に崩れ落ちたあの日。
「……京子様は、あたしたちの身代わりになったんだ」
真希が、絞り出すように言った。
「本当は、あたしたちを殺すつもりだった。あたしたちと七直姉様を一度に片付けるために、毒を盛ったんだ。あの時の茶会には直哉だって来た。京子様は……あたしたちが毒見をさせられないように、自分から先に食べた。たぶん全部、分かってて」
七直の反転術式をもってしても、肉体の奥深くまで浸食した毒の爪痕は消せなかった。
京子はいまも、あの日のまま目を覚まさず、静かな病室で眠り続けている。
「……あたしたちは、あいつの道具にされた。自分の手で、一番優しくしてくれた人を殺しかけたんだ」
真希の拳が、白くなるほど握り込まれる。
「直哉や七直姉様は、『あんたたちのせいじゃない』って言ってくれたし、励ましてくれた。……でもな、あたしたちの心は、あの日からずっと、あの部屋に置き去りなんだよ」
真依が、そっと真希の背中に手を添えた。
「償う必要なんてないって、みんな言ってくれる。でもね、美々子ちゃん、菜々子ちゃん。……私たちが強くなって、この禪院家をどこよりも立派な場所に変えない限り、京子様に申し訳が立たないの。いつか京子様が目を覚ました時、私たちが立派に戦っている姿を見せて……初めて、『ごめんなさい』って言える気がするから」
真希は、突き刺した木刀を再び手に取り、力強く立ち上がった。
「だから、あたしは強くなる。二度と誰かの道具にされないために。二度と、大切な人を守られる側にさせないために。あたしがこの家の最強になれば、もう誰も毒なんて盛れない。誰も、悲しまなくて済む」
「……私も。京子様の隣で笑える自分になるために、この術式を磨き続けるわ」
夕暮れの光を浴びた双子の背中には、恩義という名の温かな感情と、贖罪という名の消えない傷跡が、綯い交ぜになって刻まれていた。
美々子と菜々子は、言葉を失い、ただ二人の背中を見つめることしかできなかった。
自分たちが受けてきた虐待とはまた違う、身内から利用されたという残酷な裏切り。
そして、今なお眠り続ける京子への、行き場のない祈り。
「……ごめんね、変なこと聞いちゃって」
菜々子が立ち上がり、真希の服の裾をそっと掴んだ。
「……私たちも、もっと頑張る。傑様に恩を返すだけじゃなくて、二人がいつか本当の意味で笑えるように、私たちができること、もっと探すから」
「……うん。京子様、きっと目を開けるよ。大丈夫」
「……ああ。そうだな。しんみりすんのは終わりだ!」
真希は乱暴に涙を拭うと、不敵に笑って木刀を担いだ。
「よし、菜々子、美々子!お前らも少し付き合え!あたしが直々に鍛えてやるよ!」
「ええーっ!?私たちもやるの!?」
「当たり前だろ!禪院道場の門下生なんだから!」
賑やかな笑い声が、再び竹林に戻ってくる。
過去の深い傷を抱えながら、それでも彼女たちは、新しい家族と共に、未来という名の武器を鍛え続けていた。
病室で眠り続ける京子の耳に、その明るい声が届いていることを、誰もが心のどこかで信じながら。
◆
また別の日。
夕暮れ時、橙色の陽光が禪院家の回廊を長く、静かに照らし出していた。
事務作業の手を休めた七直の携帯が、小刻みなバイブレーションと共に鳴り響く。
画面には、五条悟の文字。
「あ、もしもし七直?ちょっと相談したいことがあるから、そっち行くわー」
受話器の向こうからは、相変わらず重力さえ感じさせないほど軽快な声が聞こえてくる。
かつてならアポなしの突撃が常だった男だ。
それが今では、こうして事前に一本連絡を入れてくる。
(……一応、成長はしているのかしらね、これでも)
七直は心中で苦笑しながら、慣れた手つきで書類を整理し、電話口に答えた。
「あ、ちょっと待って。丁度、お菓子切らしてたから適当に買ってきて頂戴。代金は出すわ」
「俺をパシリに使うなんて贅沢な奴め。オッケー了解。30分後には着くから」
短く返事をして、一方的に電話が切れる。
呆れ半分、安心半分といった顔で携帯を閉じた七直の背後に、気配もなく立っていた直哉が声をかけた。
「なんや、また悟君くるんか」
「そうみたい。直哉も一緒に来る?」
七直の問いに、直哉は不機嫌そうに鼻を鳴らしつつも、すでに腰を下ろして茶の準備を待つ構えを見せる。
「ほな、一緒に茶しばこうか。悟君のお菓子に期待やね。性格はともかく舌だけは確かやからな」
「そうね。そこは期待しても良いわね。ほら、座ってないで、傑を呼んできて。私はカヲリさんに、悟が来るって伝えてくるから」
七直は直哉と別れ、廊下を足早に進むと、突き当たりにある炊事場から、小気味よい包丁の音が聞こえてきた。
「カヲリさん、今いいかしら」
声をかけると、エプロン姿の女性が手を止めて振り返った。
カヲリ——ひと昔前、高専時代の、五条と七直の喧嘩という名の天災に巻き込まれ、屋敷の倒壊と共に頭部に深い傷を負った女性だ。
「あら、七直様。どうかされましたか?」
「……ごめんなさいね。また、あの白いのが来るわ。あと30分くらいで着くそうよ」
その言葉を聞いた瞬間、カヲリの顔から血の気が失せ、持っていた布巾がわずかに震えた。かつての彼女はただの非術師だった。
だが、屋敷が半壊したあの日、頭を強打した衝撃で脳の回路が変異したのか、彼女は視える側になってしまったのだ。
何年経ってもその頭部の傷は痛々しく癒えないままであり、前髪で隠している。
術師でもない彼女にとって、五条悟という存在は、ただのうるさい美男子ではない。
その身から溢れ出す、空間を歪めるほどの圧倒的な呪力の奔流は、視覚を介して三半規管を狂わせる暴力そのものだった。
「……五条様、ですか。また、あのアポなしの……」
「今回は連絡があったわ。少しはマシになったみたい。でも、無理はしなくていいわよ。カヲリさんは奥の隠し部屋で休んでいて頂戴。表の給仕は私がやるから」
「申し訳ありません……。あの方の近くにいると、どうしても景色が重なって見えてしまって……」
カヲリは深々と頭を下げ、逃げるように奥の間へと去っていった。
七直はそれを見送りながら、溜息をつく。
あの時の喧嘩で旧態依然とした禪院家が物理的に解体され、今の風通しの良い組織に生まれ変わったのは、怪我の功名——どころか結果オーライの極致と言える。
だが、無実の女中にトラウマを植え付け、強制的に呪霊を視える体質にしてしまったことだけは、五条と自分の若気の至りとして、今でも少しだけ胸が痛む。
一方、道場の裏手。
夏油は突然、術師になりたいと言い始めた菜々子と美々子に呪力の練り方を指導していたが、迎えに来た直哉から話を聞くと、意外そうな顔をした。
「悟が?珍しいね。わざわざ連絡を入れてくるなんて、よほど深刻な相談か、あるいは……」
「あるいは、新しい甘味屋のレビューを聞いてほしいだけか、どっちかやな。傑くん、行くで。姉貴が待っとる」
30分後、禪院家の正門付近には「ドォン!」という、もはや聞き慣れた空間の軋み音が響いた。
屋敷の一角には、五条が頻繁に瞬間移動で着地するせいで地面が円形に凹んだ場所がある。
今やそこは落下注意の看板と共に柵で囲われ、新入りの門下生たちが最強の爪痕として拝む観光名所と化していた。
広間の卓を囲んでいるのは、七直、夏油、直哉。
そして、買ってきたばかりの有名店の限定大福を勝手に広げている五条悟だ。
卓の上には、当然のように「五条」と名前の書かれた彼専用の湯呑みが置かれている。
「……それで?相談って何かしら。わざわざ連絡までして」
七直は、五条が買ってきた極上の苺大福を頬張り、その甘さに少しだけ表情を緩めながら問いかけた。
「いやー、それがさぁ。恵の奴が反抗期っぽくってさ。最近だと地元の不良、一人残らずボコったみたいで。中学の担任から泣きの電話が入ったわけよ」
五条は自分の湯呑みに並々と注がれた茶を啜り、さも困った保護者のような顔でため息をついた。
「アンタの教育が良くないんじゃないの。……だいたい、あの子を放任しすぎよ。最強が保護者なら、何をやっても許されると勘違いしてもおかしくないわ」
七直の辛辣なツッコミに、隣で茶を飲んでいた直哉がニヤリと笑う。
「カカッ、流石甚爾くんの息子や。血は争えんということやろ。不良ボコるくらい、元気がええ証拠やないか。むしろ僕が術のイロハを教え込んで、もっと効率的に沈める方法を……」
「直哉、教育に悪いから黙ってなさい。……悟、具体的には何が問題なんだい?恵くんが暴力を振るうには、それなりの理由があるはずだろう」
夏油が宥めるように口を挟む。彼は二人の娘を育てている身として、思春期の難しさを肌で感じていた。
「それがさー、理由を聞いても『別に』とか『アイツらがウザかったから』とかしか言わないわけ。津美紀が注意しても、ふいっと顔を逸らすし。あ、ちなみにボコられた不良たちは『伏黒さんに成敗していただいて光栄です!』って信者みたいになってるから、実害は……まぁ、メンタル面以外はないんだけどさ」
「……カリスマ性まで父親譲りなのね」
七直は呆れ果てた。
あの広間で夏油が提案した教育の互助会。
その甲斐あって、恵は禪院の呪いからは守られている。
だが、五条悟という破天荒すぎる教師と、甚爾という野生の怪物の血。
その板挟みで、少年が屈折しないはずがなかった。
「で、結局のところどうしたいの?」
「教育方針についてちょっと参考にさせてもらいたいなって思ってて。ほら術師を育てる事に関してはそっちの方が良くできてるでしょ。実際、真希達も術師目指してるわけだし?何かコツとかないの?」
「ほんまに高専の教師か?まぁ、アイツらはまだまだやけど、やる気はあるからな」
「……相変わらず、一番大事なところが抜けてるわね、悟」
七直は食べ終えた大福の包み紙を丁寧に畳み、茶柱の立った湯呑みをじっと見つめた。
その視線は、教育者としての五条を射抜くように鋭い。
「あの子たち……真希も真依も、そして道場にいる門下生たちも。私は一度だって『術師になれ』なんて強要したことはないわ。ただ、持てる力や能力の『正しい使い方』を教えているだけ。それを使って呪いと戦うか、それとも別の道で誰かを守るか。それを選ぶのはあの子たち自身の意志よ」
「……あー、やっぱりそこか。七直、お前そういうとこ、本当に先生向いてるよなぁ」
五条は苺大福の粉を指先で払いながら、感心したように天井を見上げた。
彼の背負う最強という看板は、皮肉にも彼から選ばない自由を奪ってきた。
だからこそ、恵に対しても「術師になるのが当然」という前提で接してしまっている自覚が、彼にはあったのだ。
「強要しない、か。……言うんは簡単やけど、禪院の血引いとって、相伝の術式持っとるガキにそれ言うんは酷な話やで、姉貴。力が身につけば、嫌でも呪いの世界が向こうから寄ってくる」
直哉が湯呑みを置き、少しだけ真剣な眼差しを五条に向ける。
「悟君。恵くんが不良ボコっとるんは、力が有り余っとるだけやない。自分の持っとる『得体の知れんナニカ』に、自分自身が振り回されとるんや。真希は呪力がないからこそ、肉体を鍛えることで自分を定義できた。けど、恵くんは違う。影の中に何十匹も化け物飼うとるようなもんやからな」
「……直哉の言う通りだよ、悟」
夏油が静かに頷き、自身の掌を見つめた。
「呪いが見える。そして、それを操る力がある。それは少年期において、あまりに巨大な万能感と、それ以上の疎外感を与える。……恵くんは、自分が『普通』ではないことを、暴力という形で周囲に叩きつけて、自分の居場所を確認しているだけなのかもしれない」
「……なるほどね。居場所、か」
五条はサングラスを少しずらし、六眼の蒼い光で、禪院家の屋敷の奥——真希たちが汗を流している道場の方角を透視するように見つめた。
「あいつら、楽しそうだよな。真希も、真依も。……禪院っていう家に縛られてるんじゃなくて、自分の力をどう使うかっていう『技術』に夢中になってる。そこには、術師にならなきゃ死ぬっていう悲壮感がない」
「せやろ?前の禪院じゃ出来損ない扱いやったわ。でもな、今の道場じゃあいつらは『特別』や。真希は物理で僕の投射呪法を追い込もうとしとるし、真依は僕の腕を直す天才や。……あいつらがやる気なのはな、『術師になれ』と言われたからやない。自分の居場所を、自分の手で作れるって教えられたからや。悟くん。あんた、恵くんに『最強の息子』を期待しすぎなんやないか?」
「そうだね。恵くんが荒れているのは、自分の力が誰かのためではなく、五条悟という正解に追いつくための道具になっているからじゃないかな。美々子と菜々子も、最初は怯えていた。でも、彼女たちが自分で呪力を練り始めたのは、私を助けたい、七直を驚かせたいという、ごく個人的な愛情からだ」
「それが私の理想なのよ」
七直はキッパリと言い切った。
「呪術は、人を殺すための道具じゃない。自分の人生を、自分の足で歩くための杖であるべきよ。恵くんに必要なのは、最強の術師になるための修行じゃないわ。その力を、誰かのために……あるいは自分の納得のために使う『理由』を見つける時間よ」
七直は苺大福の最後の一口を飲み込み、お茶で口をゆすぐと、五条を真っ直ぐに見据えた。
「悟。あんた、教師になったんでしょ?なら、生徒を駒として育てるのはやめなさい。あの子が『術師にならない』と決めた時、それを笑って受け入れられるだけの度量を見せてやりなさいよ。……それが出来て初めて、あの子はあんたを信頼するわ」
「……。手厳しいねぇ、当主様は」
五条は苦笑いしながら、空になった大福の容器を片付けた。
だが、その表情には、憑き物が落ちたようなスッキリとした明るさが宿っていた。
「分かった。……じゃあさ、今度恵をここに連れてきてもいい?交流会とか称してさ。同い年くらいの連中が、術師を目指すとか目指さないとか言いながらギャーギャーやってる空気、あいつに見せてやりたいんだわ」
「ええ、構わないわよ。真希たちも喜ぶでしょうし。直哉がボコボコにして、根性を叩き直してあげるから」
「おい姉貴、勝手に僕を悪役にするなや!まぁ、甚爾くんの息子と手合わせできるなら、やぶさかやないけどな」
直哉が嬉しそうに拳を鳴らす。
広間に流れる空気は、かつての刺々しさは消え、次世代を憂う大人たちの、少しだけお節介で温かい温度に包まれていた。
「……さて。相談料は、その大福でチャラにしてあげるわ。悟、これからどうするの?恵くんのところに寄っていく?」
七直が問いかけると、五条は立ち上がり、サングラスをクイと直した。
「いや、まずはアイツがボコった不良たちのところに行って、代わりに謝ってくるわ。……『最強のパシリ』の見せ所だろ?」
「あはは!それは傑作だね。頑張って、五条先生」
夏油が笑い、五条はヒラヒラと手を振って、再び空間を歪めて消えていった。
皆さまどーも、お久しぶりです。作者です。
忘れ去られそうな感じでしたが、お元気だったでしょうか。
ちょくちょく書いてはいましたが、一話としてあげる内容じゃないかも、と溜めていたらここまで膨れてました。
だんだんと原作へと近づいてきましたが、これからも何卒宜しくお願い致します。
質問コーナー
Q.直哉ってもう金髪なの?
A.はい。高専卒業の年に染めました。以降ずっと金髪です。周りも最初は違和感がすごかったみたいですが、今はもう慣れました。
「元気一杯!将来有望!書き甲斐がある!」