京都の朝は早く、凛とした冷気が竹林を抜けて道場を白く染め上げている。
乙骨憂太は、高鳴る心臓を制服の上から押さえながら、一人広大な稽古場の中心に立っていた。
真希やパンダたちは、夏油と共に別の練武場へ向かった。
五条からの「憂太は午前だけ、特別講師つけるからね~」という言伝に従い、彼はこの静寂の中に残されたのだ。
「お、おおはようございます!禪院さん!よ、よろしくお願いします!」
道場に現れた七直に向かって、乙骨は直角に近いお辞儀をした。
彼女は昨日の優雅な着物とは一転、上はたすき掛けをし、下は動きやすい袴に身を包んでいる。
無駄のない所作で歩くたび、彼女の周囲の空気が密度を変えるような、不思議な圧迫感があった。
「おはよう、乙骨くん。そんなに緊張しなくて大丈夫よ。あと、この家の大半が禪院の姓を持ってるから、名前でいいわよ」
七直は柔らかく微笑むと、対面で静かに腰を下ろした。
「さて、悟から聞いてるわ。君の呪力は、底なしの器に溢れんばかりの奔流が詰まっているようなもの。でも……今はただ、漏れ出しているだけね」
彼女が指先を立てると、その先から小さな火の粉が爆ぜたかと思えば、次の瞬間には一滴の水へと変わり、さらに硬質な金属の粒へと変貌した。
「私の術式は『五行想術』。呪力の性質を五属性に変化させるもの。本当は式神のおまけなんだけど、それを使わない今の私にとって、これは純粋な『呪力操作』の練度そのものなの」
乙骨は瞬きも忘れてその指先を見つめた。
五条の無下限が「神の領域」なら、目の前の女性が行っているのは「職人の極致」だ。
「いい?乙骨くん。君が里香ちゃんの力を完全に使いこなすためには、出力を上げる練習よりも先に、呪力の解像度を上げる必要があるわ。今日は午前中いっぱいかけて、君のその膨大な呪力を糸のように細く、かつ鋼のように硬く編み直す練習をしましょう」
七直は立ち上がると、竹林から切り出してきた一本の細い枝を乙骨に手渡した。
「これに呪力を込めてみて。折らず、枯らさず、けれど鋼鉄の剣をも断ち切れるほどに鋭く。……もし失敗して枝が折れたら、最初からやり直しよ」
「えっ……こ、これをですか?」
乙骨がおずおずと枝を握る。
彼が少し意識を向けただけで、里香の膨大な呪力がドクドクと腕に流れ込む。細い枝は、そのあまりの圧力にミシミシと悲鳴を上げた。
「……あ」
パキッ、と乾いた音が響く。
呪力を込めるまでもなく、出力の制御に失敗した枝は、乙骨の手の中で無惨に砕け散った。
「ふふ、最初の一本目ね。大丈夫、山にはまだ竹も枝もたくさんあるわ」
七直は厳しく言い放つのではなく、楽しげに笑って新しい枝を差し出した。
「乙骨くん、君は優しい子ね。里香ちゃんを傷つけたくない、壊したくないという思いが、逆に呪力を不安定にさせているわ。いい?呪力は感情だけど、操作は算数なの。情熱を捨てて、冷徹に自分の内側を計算しなさい」
その言葉は、昨夜夏油が言っていた「外の世界から来た者」への共感とはまた違う、術師の先輩としての重みがあった。
「……はい、七直さん」
乙骨は深く息を吐き、今度は目を閉じた。
遠くで真希たちの気合の入った声が聞こえる。
それすらも意識の彼方へ追いやり、乙骨は自分の内側にある巨大な海から、一滴だけを掬い取るイメージを研ぎ澄ませていく。
七直はその様子を静かに見守りながら、心中で悟の慧眼を改めて認めていた。
(……飲み込みが早いわね。怖がっているけれど、その実、この子は自分の怪物を飼い慣らす覚悟を決め始めている。見かけによらず、術師に向いてるのかしら)
パキッ
「……あ、すみません……」
三本目の枝も、乙骨の手の中で飴細工のように砕け散った。
呪力を絞り出そうとすれば、里香の感情が混じった奔流が勝手に溢れ出し、抑えようとすれば、今度は蛇口を閉めすぎたように供給が途絶える。
「あはは……難しいですね。僕、いつもは真希さんに借りた太刀とか、頑丈なものに流し込むことしかやってこなかったので」
乙骨は情けなさに肩を落とし、砕けた木の破片を拾い集めた。
そんな彼に、七直は優しく手を差し伸べて制した。
「いいのよ。そうね、普段は壊れにくい刀とか、呪具を使っているものね。言うは易し、行うは難し、ね。――じゃあ、少しだけ手本を見せましょうか」
七直は傍らにあった予備の枝を一本、無造作に手に取った。
彼女は術式を発動させてない。
ただの、剥き出しの呪力をその掌から枝へと流し込む。
「見ていて。呪力は『流す』のではなく、『染み渡らせる』の。枝の表面だけじゃなく、構成する組織の一つ一つに行き渡るように」
乙骨の目が大きく見開かれた。
七直が枝を握った瞬間、その茶色い樹皮が、青白く、透き通るような美しい光に包まれた。だが、その光は荒々しく爆ぜることはない。
まるで薄い氷の膜が枝を完璧にコーティングしたかのように、静かで、それでいて狂気を感じるほどに密度の高い圧力がそこには宿っていた。
「……おお……」
感嘆の声を漏らす乙骨を横目に、七直はスッと視線を前方、数十メートル先に置かれた弓道用の俵の的へと向けた。
彼女は流れるような所作で、手に持ったか細い枝を、まるで矢のように無造作に放り投げた。
シュパッ!!
空気を切り裂く鋭い音が響いた直後、乾いた衝撃音が道場に木霊した。
枝は一点の迷いもなく的の真ん中——正鵠を射て、驚くべきことに、その柔らかい俵の芯を貫通して背後の板壁に深々と突き刺さっていた。
「わ……っ!枝が、全然折れてない……!」
乙骨が駆け寄って確認すると、壁に刺さった枝は、投げられた衝撃にも、壁を貫いた衝撃にも屈することなく、最初と同じまっすぐな形を保っていた。
「流石に初日でここまでやれとは言わないわ。でもね、呪力操作を極めていけば、それは君自身の身を守る鎧にもなるし、里香ちゃんの力を最小限の消費で最大限の破壊力に変える刃にもなる。必ずあなたの力になるわ」
七直はゆっくりと歩み寄り、乙骨の隣に立った。
「君の呪力は、例えるなら誰も制御できない洪水。でも、それを一本の針のような鋭さに絞り込めた時、君に勝てる術師はこの世にいなくなる。……さぁ、もう一度やってみましょうか。まだ山には枝がたくさんあるって言ったでしょ?」
七直の手本。
それは、最強の術式を持つ五条が見せる超常とは違う、一歩ずつ階段を登った先に辿り着ける「到達点」としての美しさがあった。
「……はい!七直さん!」
乙骨の瞳に、今度は迷いではなく、明確な目標への意志が宿っていた。
◆
一方、山の中腹にある第二練武場。
そこでは乙骨たちの修行とは打って変わり、湿った土の匂いと、生理的な嫌悪感を煽る呪力の残滓が漂っていた。
「さて、君たちの相手は私……と言いたいところだが、先にこっちの相手をしてもらおうか」
夏油が袖を振ると、その足元からドロリとした呪力が噴き出し、一体の歪な呪霊が姿を現した。
それは、おぞましくも滑稽な姿をしていた。
胴体から三つの猿の首が縦に重なるように生え、それぞれの頭に対応するように三対、計六本の腕が蠢いている。
一番上の顔は両目以外が呪糸で縫い合わされ、二番目は両耳以外が、三番目は口以外が固く閉じられている。
「……うわ、何だこれ。趣味悪りぃな」
真希が呪具を構え、嫌悪感を隠さずに吐き捨てる。
その横で、パンダと狗巻も即座に戦闘態勢に入った。
「準一級呪霊、三不猿。見ざる・聞かざる・言わざる、の三猿を起源とする術式持ちだ。力自体は大したことはないが、少しばかり、初見殺しの性質を持っていてね」
夏油が指を鳴らすと、三段重ねの猿が同時に動き出した。
一番上の猿がその細長い腕を伸ばし、己の両目を力任せに覆い隠す。
その瞬間、真希たちの視界が唐突に闇に包まれた。
「!?視界が……!」
「ツナマヨ!」
「大丈夫だよ。これがこいつの術式だ」
暗闇の中で夏油の声だけが穏やかに響く。
猿が己の器官を塞ぐことで、一定範囲内の対象の同じ器官を強制的に封じる領域型の術式。
腕が三対あるのは、自分自身を塞ぐためであり、その不自由さの代償として、対象の感覚を根こそぎ奪い去る。
「目、耳、口。同時に封じることができるのは一箇所のみだが、こいつはそれを瞬時に切り替えてくる。……昼までに、この呪霊を攻略すること。できなかったら、昼食抜きだからね」
夏油はそれだけ言い残すと、ひらりと身を翻して練武場の隅にある縁側に腰を下ろした。
「……チッ。目が見えねーなら、音で——」
真希が聴覚を研ぎ澄まそうとした瞬間、今度は二番目の猿が耳を塞ぐ。
闇の中に静寂が訪れる。
視覚と聴覚を交互に奪われ、三人は平衡感覚すら失いかける。
「ぐっ……動く…!?」
狗巻が「動くな」と呪言を放とうと喉を震わせようとするが、三番目の猿が口を塞げば、その声は物理的に遮断され、言霊は不発に終わる。
さらに猿は、そのすばしっこい肢体を生かして、感覚を失った三人の隙を突くようにして、地面を蹴る音もなく距離を詰めてきた。
(……なるほどね。連携が取れない状態で、どう立ち回るか。そういうテストかよ)
真希は暗闇の中で不敵に口角を上げた。
感覚が封じられる瞬間の呪力の揺らぎを読み、相手の先手を打つ。
これはまさに、五条のような超常的なセンスではなく、地を這うような実戦経験が試される訓練だった。
「……面白いじゃねーか。パンダ、棘!腹減ってんだ、さっさと終わらせるぞ!」
見えないはずの仲間に向かって真希が吠える。
それに応えるようにパンダが吠え、狗巻が呪力を練り上げる。
遠くで聞こえる乙骨の修行の音。
そして、目の前で嘲笑うように三つの顔を歪める呪霊。
禪院道場の朝は、若き術師たちの荒い呼吸と、激しい呪力の火花によって塗り替えられていった。
◆
京都の焦燥と熱気から遥か遠く、南国の陽光が降り注ぐ沖縄の海。
どこまでも透明なエメラルドグリーンの水面を滑るように進むのは、五条家が手配した白亜のプライベートクルーザーだ。
「んあーーー!根掛かったーーー!?」
船尾のデッキで、天内理子が釣り竿を両手で抱え込みながら悲鳴を上げた。
限界までしなったカーボン製のロッドが、完全に海の底へと固定されている。
特級術師としての怪力で強引に引き上げようとする彼女を、パラソルの下で寝そべっていた五条悟が、サングラスをずらして呆れたように見つめた。
「おいおい、お嬢様。そのパワーで引っ張ったら、魚どころか海底のサンゴ礁ごと地球を釣ることになるぞ。少しは力を抜けって」
「うるさいっ!だって、さっきまですっごい引きがあったんだもん!これ絶対、超大物のマグロとかだよ!」
理子はなおも意地になってリールを巻こうとするが、無情にもペキリと軽い音がして糸が切れた。
反動で尻餅をつきそうになった彼女は、真っ赤な水着のままふくれっ面で五条を睨みつける。
「あーあ、逃げられた……。ねぇ悟、無下限で海の中覗いてよ!今の下に何がいたか教えて!」
「無下限はレーダーじゃねぇの。……っつか、釣りなんかしなくたって、冷蔵庫に美味いもん入れてあるだろ。わざわざこの炎天下で生臭い格闘しなくてもさぁ」
五条は冷えたトロピカルジュースのグラスを指先で弄びながら、気怠げに息を吐く。
この贅沢な時間を確保するため、彼は直近の任務を文字通り秒で片付け、上層部への報告書作成を伊地知に押し付け、さらに生徒たちの面倒まで禪院道場の傑と七直に丸投げするという、完璧なまでの根回しを完遂していた。
すべては、この数年ぶりに帰国した少女と二人きりで、誰にも邪魔されないバカンスを過ごすためだ。
「確かにそれもそうだけど、こういうのは自分で採った物も美味しいの!悟はロマンってものが分かってないなぁ」
理子は切れた釣具を器用に片付けると、五条の座るデッキチェアのすぐ隣にどさりと腰を下ろした。
九十九由基の元で鍛え上げられたその肉体は、ただ細いだけでなく、無駄な脂肪が一切ない、しなやかな躍動感に満ちている。
至近距離に並んだ彼女の肌から、微かに潮の香りと、甘い日焼け止めの匂いが漂ってきた。
「ロマンねぇ。僕の知ってるロマンは、涼しい部屋で極上のスイーツを食べる、これ一択。……ほら、これでも飲んで頭冷やしなよ」
五条は自分のジュースを理子の頬にピトッと押し当てた。
「ひゃっ!?冷たっ!」
理子は飛び上がりながらも、嬉しそうにそのグラスを受け取って一気に飲み干す。
ふぅ、と満足げな吐息を漏らし、彼女はクルーザーの縁から広大な空を見上げた。
「……でも、本当に綺麗。あの時、悟と一緒に見た沖縄の海と、全然変わってない」
「そうか?あの時はもっと、こう、緊迫感があったろ。お前がいつ死ぬか分かんねぇ守護対象で、俺も傑も七直もほぼ休まずで、ヒリついてたからな」
「私は楽しかったよ。あの時、皆が手を引いて外の世界を見せてくれたから、私は今、こうして生きてるんだもん。……ありがとね、悟」
不意に、理子が真っ直ぐな瞳で五条を見つめた。
からかうような色も、戦士としての冷徹さもない。
ただ純粋な感謝と、その奥にある深い熱情がその瞳には宿っていた。
五条はサングラスの奥の六眼で、彼女の魂の輝きを凝視する。
あの夏、壊れかけた器だった少女は、今や自分と同じ最強の隣に立つ女性として、ここにいる。
「……感謝するなら、僕の完璧なスケジュール管理に感謝しなよ。今頃、京都の道場じゃあ、傑と七直が僕の代わりに生徒たちを地獄の底までシゴき倒してる頃だからさ」
五条はわざとらしく鼻で笑い、視線を海へと戻した。
だが、その耳の端が僅かに赤くなっているのを、理子は見逃さない。
「あはは!やっぱり!真希たちをダシにして自分だけサボったんだ!最低最悪の教師だね、悟は!」
「サボりじゃなくて、これは有給の有効活用。大体、あいつらも僕が指導するより、傑や七直に揉まれた方が百倍真っ当に育つっての。特に憂太はね」
五条は腕を後ろに組み、長い足を伸ばして伸びをした。
「……まぁ、冗談は置いておいて。今のあいつらには、地を這うような基礎が必要なんだ。俺みたいに生まれた時から世界が完成してる奴の言葉じゃ、あいつらの本当の血肉にはなんない。その点、七直の精密さと、一般家庭から這い上がった傑の泥臭さは、最高の教科書だよ」
「……ふーん。生徒のこと、ちゃんと考えてるんだ」
理子はクスクスと笑いながら、今度は五条の腕に自分の腕をそっと絡めた。
今回は、無下限の壁はない。五条は術式を解除したまま、理子の柔らかい肌の感触と、その温もりをそのまま受け入れている。
「考えてるに決まってるだろ。あいつらが早く一人前になってもらわないと、俺がいつまで経ってもこうして理子とランデブーできないじゃない?」
五条は絡められた腕ごと引き寄せ、理子の顔を覗き込んだ。
至近距離で交わる、蒼い六眼と、理子の強い瞳。
「なっ……!またそうやって、サラッと恥ずかしいこと言うんだから!」
理子の顔が、沖縄の太陽よりも赤く染まる。
彼女は照れ隠しに五条の胸をポカポカと叩いたが、その腕は決して離そうとはしなかった。
京都の竹林で、若き雛鳥たちが泥をすすりながら運命を切り拓くための呪力を練り上げている、まさにその瞬間。
沖縄の海の上では、かつて運命を呪われた二人が、全ての無下限を崩し、世界で最も甘く、穏やかな時間を共有していた。
「あ、そうだ!悟の無下限バリアでさ、海の中覗こうよ!絶対きれいだよ!」
理子は閃いたかのように、嬉しそうに言う。
「この俺の最強の術式を、アクアリウムのガラス代わりに使おうってか?贅沢にも程があんだろ」
五条はため息をつきながらも、どこか楽しげに口角を上げた。
口では文句を言いつつも、理子の突拍子もない思いつきを拒絶する気は最初からサラサラない。
「いいじゃん、減るもんじゃないし!海外の海も凄かったけど、やっぱり沖縄の海の中をちゃんと見てみたいの。ほら、早く!」
理子が五条の腕をぐいぐいと引っ張る。
その特級術師としての馬鹿力に、白亜のクルーザーが僅かにきしむような音を立てた。
「わーった、わかったから引っ張るな。船底が抜ける。……行くぞ」
五条はデッキチェアから腰を上げると、理子の細い腰を片腕でひょいと抱え上げた。
そのまま躊躇うことなく、船の縁を蹴って真っ逆さまにエメラルドグリーンの海へと飛び込む。
「きゃっ!?ちょっと、心の準備が――」
理子の悲鳴は、すぐに世界の反転とともに遮断された。
ドボン、と大きな水音が響いたはずだった。
だが、理子の肌に冷たい海水が触れることはなかった。
水中に入った瞬間、五条を中心に半径数メートルに及ぶ完全な球体の空間が形成されたのだ。
本来なら容赦なく押し寄せるはずの凄まじい水圧が、五条の展開した無下限呪術によって寸分の狂いもなく完全に遮断されている。
「うわ……すご……!」
理子は息を呑み、周囲を見回した。
自分たちは今、確かに海の中にいる。
頭上には太陽の光が揺らめき、周囲にはどこまでも青く透き通った世界が広がっていた。
無下限の防壁に阻まれた海水が、まるで流動する極上のクリスタルのように二人の周りを滑り落ちていく。
そのすぐ向こう側を、色鮮やかな熱帯魚の群れが驚いたように通り過ぎていった。
「どう?これなら化粧も落ちないし、息苦しくもないだろ」
水中に作られた空気のドームの中で、五条は髪を水中に漂わせることなく、いつも通り不敵に笑っている。
術式の自動選択モードを水圧、海水、有害物質に極限まで最適化し、さらに呼吸用の空気だけを内部に維持し続けるという、精密機械以上の呪力制御。
それを息をするようにやってのけるのが、五条悟という男だった。
「すごい……!見て、悟!あそこにめちゃくちゃ大きいサンゴがある!あ、さっき私の糸を切ったの、あそこの岩陰にいる奴じゃない!?」
理子は少女のように瞳を輝かせ、無下限のガラスに両手を押し当てるようにして外を覗き込んだ。
その弾むような横顔を、五条はすぐ隣で優しく見つめている。
「……あいつはただのクエだな。マグロじゃねぇよ。ま、お前の力なら、素手で捕まえて今夜の鍋の材料にすることもできるけど?」
「やらないよ!こんな綺麗な場所でサバイバル始めないでよ」
理子はぷっと吹き出し、それから愛おしそうに周囲の青を見つめた。
届きそうで届かない、無限の壁の向こうの世界。
が、その壁の内側には、今、確かに五条の体温がある。
「……ねぇ、悟。あのさ」
理子は視線を魚たちに向けたまま、ふと声を落とした。
「ん?」
「私ね、九十九師匠のところで死ぬほど鍛えられてる時、ずっと考えてたんだ。もし私が、ただ守られるだけの普通の女の子のままだったら、今頃どうなってたのかなって」
水中の青い光が、理子の横顔を幻想的に照らし出す。
「きっとさ、高専の地下で天元って人と同化して、自分の意識もなくなって……それか、運良く生き延びてても、呪術界の隅っこで怯えながら隠れて暮らしてたと思う。悟や傑、ナナに、一生消えない重荷を背負わせたまま」
理子はゆっくりと振り返り、五条の蒼い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でも、今の私は違う。自分の魂を自分で守れる。……こうして、自分の意志で悟と一緒に海に潜ることだってできる。それが、すっごく嬉しいの」
五条は何も言わず、ただ理子の言葉に耳を傾けていた。
六眼は、彼女の魂が一切の濁りなく、ただ純粋な歓喜と愛着で満たされているのを捉えている。
あの夏、理子が「もっとみんなといたい」と泣いた時、五条は世界を敵に回してでも彼女を連れ帰ると決めた。
その選択の結末が、今、目の前にある。
彼女は誰の犠牲にもならず、自らの足で、五条の隣という最も過酷で、最も特別な居場所を勝ち取ったのだ。
「……お前、本当に強くなったよ」
五条はそっと手を伸ばし、理子の濡れていない、サラサラとした黒髪を愛おしそうに撫でた。
「俺さ、ずっと寂しかったんだよね。最強になって、何でもできるようになってさ。世界が全部、俺の手のひらの上にあるみたいで。でも、無下限の壁の向こうには誰の手も届かない。傑も、七直も、みんな俺を置いて先に行っちゃう気がしてた」
五条の口から、普段なら絶対に漏らさない弱音が、水中の静寂に溶けていく。
「だけど、お前は違った。わざわざ俺の壁をぶち破って、頬っぺたぷにって触りに来た。……あの時、あぁ、俺はもう一人じゃないんだなって思ったよ」
「……悟」
理子の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
五条はサングラスを完全に外し、その彫刻のように整った顔を理子へと近づけた。
「だからさ、もう『隣に立つ』なんて遠慮すんなよ。俺の人生の特等席は、最初からお前のもんだから」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、どちらからともなく唇が重なった。
海の中の、誰も触れられない、二人だけの絶対領域。
何者も拒絶するはずの無下限の結界の内側で、二人の体温はどこまでも溶け合っていく。
周囲を泳ぐ魚たちの姿も、海面から注ぐ太陽の木漏れ日も、すべてが二人を祝福するための舞台装置のようだった。
触れ合う唇から、言葉以上の熱量が互いの魂へと流れ込んでいく。
かつて運命に引き裂かれかけた少年と少女は、長い時間を経て、互いの強さを証明し合う最高の恋人となった。
しばらくして、ゆっくりと唇が離れる。
理子は顔を真っ赤にしながらも、今度は逃げずに、五条の首に両腕を回してぎゅっと抱きついた。
「……うん。もう絶対に離れない。悟がどれだけ先に行っても、私がその背中を掴まえてあげるんだから」
「そりゃ心強いね。じゃ、お姫様、そろそろ上に上がって美味いもんでも食いますか」
「うん!お腹すいちゃった!」
五条が優しく理子の体を抱き締め直す。
エメラルドグリーンの海の底から、光に満ちた外の世界へ、二人の身体は泡を纏うこともなく、滑るように水面へと浮上していった。
お久しぶりです。お待たせしました。
質問コーナー
Q.準一級呪霊「三不猿」について。
A.元ネタは「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿です。本文にもあったように、顔が縦に三つ並んでおり、一番上は目以外、二番目は耳以外、三番目は口以外が呪糸で縫い潰されています。
それぞれが対応する感覚を司っており、自身の器官を塞ぐことで、呪霊を中心とした一定範囲内の対象の感覚を強制的に遮断します。
目を塞ぐ → 視覚封鎖
耳を塞ぐ → 聴覚封鎖
口を塞ぐ → 発声封鎖
という形ですね。ただし、同時に発動できるのは一種類のみです。
また、領域術式のように見えますが、厳密には領域ではありません。
実は封鎖する器官ごとに術式範囲の判定条件が異なっており、
視覚封鎖 → 「三不猿が視認できる範囲」
聴覚封鎖 → 「三不猿が聞き取れる範囲」
発声封鎖 → 「三不猿の声が届く範囲」
というように、感覚ごとに有効範囲が変化します。
そのため、あくまで広範囲型の生得術式であり、必中効果を持つ領域展開とは別物です。
皆さま、いつも誤字脱字報告ありがとうございます。しばらく更新が止まっていたのに、読んでくださる読者がいる事がとても嬉しかったです。これからもぼちぼち頑張っていくので、よかったら片手間にでもみてやってください!