直哉のお姉ちゃんになっちゃった…。   作:ザボン漬け

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2017年秋 禪院道場合宿③

 

「クソッ!眼鏡返せコノヤロォー!」

 

第二練武場に、真希のブチ切れた声が木霊した。

ただでさえ視界を奪われて苛立っているところへ、すれ違いざまに大切な呪具の眼鏡をひったくられたのだ。

これでは術式が解除されたところで、呪霊の姿を視認することすらできなくなる。

 

「あ、そうそう。この呪霊は手癖も悪いから気をつけてね」

 

縁側から降ってくる夏油ののんきな声に、パンダが巨体を振り回しながら怒鳴り返した。

 

「もっと早く言えよ!」

 

「おかか!」

 

狗巻も完全に同意と怒りの声を上げるが、夏油はどこ吹く風で、ふっと息を漏らして笑う。

 

「はは、すまないね。でも、実際の戦場じゃあ呪詛師も呪霊も、自分の手の内を丁寧に解説してからは襲ってこないだろう?ほらほら真希、突っ立ってると的になるよ」

 

「……っ!」

 

夏油の言葉が終わるか終わらないかのうちに、真希の肌がピリリと粟立った。

次の瞬間、不気味な静寂が訪れる。

今度は二番目の猿が耳を塞ぎ、音を完全に封殺したのだ。

呪霊を視認できる眼鏡と聴覚も失った真希の死角から、六本の腕を持つ歪な影が、音もなく容赦なく襲い掛かる。

 

(しまっ——)

 

肉体に刻まれた戦闘勘だけで防戦に回ろうとした真希の前に、突如として毛むくじゃらの巨大な壁が割り込んだ。

 

ドガァァン!

 

鈍い衝撃の振動が床板を通じて真希の足の裏に伝わる。

視界が戻り、音が鼓膜を叩いた瞬間、真希の目に映ったのは、見えない何かをガッチリと受け止めているパンダの背中だった。

 

「パンダ……!」

 

パンダは首だけを器用に後ろへ回すと、白い歯を見せて不敵にサムズアップしてみせた。真希はふん、と鼻を鳴らし、苦笑混じりの表情でそれに応える。

口には出さないが、その瞳は「すまねぇ、助かった」と明確に告げていた。

 

(それにしても……やりづれぇ!……が、何となく術式の全貌が見えてきたな)

 

真希は手元に残った大刀を握り直し、じっと呪霊の動きを観察する。

この短い交戦の間にも、三人は三不猿と対峙しながら、少しずつその術式の法則性を理解し始めていた。

気づいたのは、塞ぐ箇所によって、効果範囲が違うということ。

そしてもう一つはこの呪霊が、常に三人が視界に入る位置取りを必死にキープしようとしていることだ。

パンダは知性の高い瞳を細め、激しく蠢く三つの猿の首を分析する。

 

(恐らく、この呪霊が直接感知できる範囲にのみ、あのクソ忌々しい術式が乗るって感じだな。耳と口の封殺はどうしようもないが……問題は最初の視覚封じだ)

 

一番上の、目が剥き出しになった猿が、再びその長い腕を顔の前に持っていこうとする。

また視界を奪われる——そう確信した瞬間、パンダの脳細胞が高速で火花を散らした。

 

(もし、こいつの視覚そのものが術式のトリガーなら……!)

 

「棘!真希!合わせろ!」

 

パンダは四足歩行の野生の体勢へと遷移し、凄まじい脚力で床板を蹴った。

呪霊の正面から突っ込むと見せかけ、急激な制動をかけて横へスライド。

そのまま遠心力を利用して、呪霊の真横をすり抜けるように急旋回を敢行する。

一番上の猿が両目を完全に覆い隠した。

だが——。

 

(……!やっぱり、見える!視覚封じは背中側では発動しない!)

 

パンダの視界は、遮断されることなくクリアなままだった。

呪霊の真後ろ、完璧な死角。

そこには術式の効果範囲が存在していなかったのだ。

こいつの術式は、相手を呪霊の視野に捉えていることが絶対条件。

つまり、背後に回り込んでしまえば、目が隠れようが関係なく、こちらからは丸見えになる。

 

「真希!こいつの真後ろは安全圏だ!ぶちかませ!」

 

暗闇に怯える必要のなくなったパンダの声が、確信に満ちて練武場に響き渡った。

パンダの咆哮が、真希の強張った思考を鮮やかに切り裂く。

呪霊の視線がトリガーであること、そして真後ろがその絶対的な死角であるという事実。

だが、その肝心の真希は未だ呪具の眼鏡を奪われたままだ。

彼女の視界は、呪霊の輪郭すら追えない。

的確に背後を取るどころか、踏み込む方向さえ誤れば、相手の六本の腕の餌食になる。

 

(見えねえなら、見えねえままで上等だ!)

 

真希は奥歯を噛み締め、大刀の柄をへし折らんばかりの力で握り直した。

肉眼に頼ることを完全に放棄する。

代わりに研ぎ澄まされたのは、常人の域を遥かに凌駕する天与呪縛の身体能力と、肌を刺すような呪力の微細な流れを感じ取る第六感。

そして何より、半年間共に死線を潜り抜けてきた、隣の戦友たちへの絶対的な信頼だ。

 

「棘!位置を教えろ!」

 

真希の鋭い声に応じるように、練武場の端に控えていた狗巻が動いた。

彼は己の喉を震わせる準備をしながら、呪霊の三つの首、そして真希の位置関係を六つ眼ならぬ二つの眼で冷徹に見極める。

呪霊が真希の気配を察知し、一番上の首がその醜悪な顔を彼女の方向へと向けた。

再び、両目を覆い隠す長い腕が持ち上がる。

強制的な視覚封印の術式が、真希の全身を捉えようとしたまさにその刹那——。

 

『跳べ』

 

狗巻の放った言霊が、空気の振動となって練武場全体を震わせた。

その呪言の対象は、呪霊ではない。

 

真希だ。

 

「っ……!」

 

真希の肉体が、自らの意思を置き去りにして爆発的な跳躍を敢行した。

頭上を、呪霊の放った鋭い爪が虚しく空を切る。

狗巻の呪言は、強制的に対象を動かす強力な術式。

通常であれば相手の自由を奪うために使うそれを、狗巻は真希の目の代わりとして使用した。

彼が真希を強制的に動かすことで、彼女は視界がゼロの状態でありながら、呪霊の完璧な死角——パンダの言った安全圏へと、ピンポイントで着地することに成功したのだ。

 

『真希!そのままぶった切れ!』

 

狗巻が叫ぶ。

着地の衝撃を膝で吸収した瞬間、真希の感覚が告げていた。

目の前にある。

どす黒く、生理的な嫌悪感を催す、呪霊の巨大な背中が。

 

「お前ら、最高だ!」

 

真希は不敵に笑うと、腰を低く落として大刀を上段に構えた。

呪力をほぼ失う代わりに手に入れた筋力を、一気に大刀の刃へと集約される。

視覚の術式を発動した直後で、背後への意識が完全に疎かになっていた三不猿は、自らの死角に突如現れた人間の気配に、三つの首を同時に驚愕へと歪めた。

 

「そこだろッ!」

 

一閃。

凄まじい風切り音と共に振り下ろされた大刀が、呪霊の背中を縦一文字に真っ二つへと叩き割った。

肉を裂く音、そして骨が砕ける鈍い音が道場に響き渡る。

呪霊は悲鳴を上げることさえ許されず、その歪な巨体を左右へと割り裂かれ、どろりとした黒い体液を撒き散らしながら床板へと崩れ落ちた。

 

「ふぅ……」

 

真希は大刀を無造作に肩に担ぎ、乱れた息を整える。

床に転がった呪霊の体は、完全に崩壊する前に急速に黒色の液状のようになったかと思うと、夏油の手の中に吸い込まれていった。

後に残されたのは、地面にポツンと落ちていた、真希の愛用する呪具の眼鏡だけだ。

 

「ほら、真希。大事な眼鏡だぞ」

 

パンダが巨体を揺らしながら歩み寄り、器用に爪の先で眼鏡を拾い上げて手渡した。

 

「サンキュ」

 

真希はそれを受け取ると、衣服の袖でレンズの汚れを拭い、再び顔に装着する。

世界が、いつものクリアな解像度を取り戻した。

 

「おかか、ツナマヨ」

 

狗巻が喉の痛みを堪えるように少し顔を顰めながらも、満足げに親指を立てる。

 

「ありがとな、棘、パンダ。お前らがいなきゃ、あのまま傑さんに飯抜きにされるところだったわ」

 

真希はそう言って、練武場の隅へと視線を向けた。

そこには、縁側に腰掛けたまま、パチパチと静かに拍手を送る夏油傑の姿があった。

その細い瞳には、一年生たちの見事な連携に対する、純粋な称賛の色が浮かんでいる。

 

「素晴らしいコンビネーションだ。呪言を味方の補助に使う発想、そしてそれに一切の躊躇なく肉体を委ねた真希の信頼。これなら、合格点をあげざるを得ないね」

 

夏油は立ち上がると、懐から小さな紙包みを取り出し、彼らに向けて放り投げた。

パンダがそれを大きな両手でナイスキャッチする。

 

「お、なんだこれ。……うわ、本物の笹の葉菓子じゃん!アンタ、本当に用意してくれてたのかよ!」

 

「はは、約束だからね。喉を痛めた狗巻くんには、後で特製の蜂蜜でも用意しよう。さあ、よく頑張った。お昼の準備ができているから、母屋へ向かいなさい」

 

夏油の言葉に、三人は「よっしゃー!」と言わんばかりの歓声を上げ、嬉しそうに目を細めた。

 

真希はそんな二人を見ながら、自身の右手の感覚を確かめるように拳を握りしめる。

感覚を奪われる極限状態での戦闘。

高専とは全く違うやり方。

生家であったはずなのに決して得られなかった感覚を、そして術師としての確かな血肉が、今、自分の中に蓄積していくのを感じていた。

 

「……ま、少しは鈍ってねーってところ、見せられたかな」

 

 

真希は小さく呟き、仲間たちと共に、廊下の向こうから漂ってくる美味そうな白米の匂いへと足を向けた。

京都の厳しい朝の試練を、彼女たちは自らの力で、完璧に突破してみせたのだ。

 

 

一方そのころ、呪力操作を訓練していた乙骨は、数時間で驚くほど成長していた。

間近で見ていた七直も感心するほどの才能を彼は秘めていたのだ。

 

「良い調子ね。もしかしたら、合宿が終わるまでには基礎が身につくかもしれないわ」

 

「本当ですか!ありがとうござい……あ……」

 

七直の言葉に、乙骨の顔がパッと明るくなった。

だが、その喜びでほんの一瞬だけ、張り詰めていた意識の糸が緩む。

ドクン、と彼の心臓が跳ねた拍子に、内なる海から再び荒々しい呪力の奔流が漏れ出した。

 

パキッ。

 

乾いた音が道場に響き、乙骨の手の中で、先ほどまで均一な光を纏っていた数百本目の枝が無残に中央から折れ曲がった。

 

「あ、あはは……。すみません、すぐこれだ……」

 

乙骨は情けなさに肩を落とし、折れた木の破片を拾い集めた。

彼の足元には、午前中だけで積み上がった、折れた枝や竹の小山ができている。

だが、七直はその様子を見ても、全く呆れるような素振りは見せなかった。

それどころか、彼女の美しい瞳には、驚きと確かな確信の光が宿っている。

 

「謝る必要なんてないわ、乙骨くん。見てごらんなさい、その破片を」

 

「え?」

 

乙骨が言われるがままに、手のひらの上の破片を見つめる。

最初の一本目は、出力の制御ができずに飴細工のように粉々に砕け散っていた。

だが、今折れた枝は、綺麗に真っ二つになっている。

それは、枝の内部の組織にまで呪力が染み渡り、全体が鋼の硬度に近づいていた証拠だった。

均一に硬くなったからこそ、最後に余剰な呪力がかかった一点だけが耐えきれずに折れたのだ。

 

「最初と比べて、折れるまでの時間が十倍以上長くなっているわ。君は無意識のうちに、里香ちゃんの膨大な呪力を編み込む感覚を掴み始めている。驚異的な成長速度よ」

 

七直は袴の裾を揺らしながら立ち上がり、乙骨のすぐ目の前に立った。

 

「術師の強さは、術式の性能だけじゃないの。最後に行き着くのは、どれだけ自分自身を冷徹にコントロールできるか。君にはその才能があるわ」

 

「僕に、才能……」

 

乙骨はその言葉を噛み締めるように、自分の両手を見つめた。

いつも危ないから、呪いが強すぎるからと、周囲から腫れ物のように扱われ、自分でもそう信じ込んできた。

だが、この禪院道場に来て、夏油や七直という本物の実力者たちに認められるたび、自分を縛っていた暗い鎖が少しずつ解けていくような気がしていた。

その時、道場の外から「憂太ーーー!お昼だぞーーー!」というパンダの豪快な声が響いてきた。

 

「ふふ、お友達がお迎えに来たわね。ちょうどお昼の鐘も鳴る頃だわ。午前中の講義はここまで」

 

七直はたすき掛けをさらりと解き、いつもの優雅な微笑みに戻った。

 

「さぁ、お昼にしましょうか。たくさん食べて、午後からの合同訓練に備えなさい」

 

「はい!ありがとうございました!」

 

乙骨は今度は枝を折ることなく、七直に深くお辞儀をした。

道場を出ると、そこには眼鏡をかけ直してどこかスッキリした顔の真希と、口元を隠した狗巻、そして笹の葉菓子の包みを大事そうに抱えたパンダが待っていた。

 

「よぉ、憂太。そっちはどうだった?当主代理のシゴキはキツかったか?」

 

パンダがニカッと笑いながら乙骨の肩を組む。

 

「ううん、すごく優しく教えてもらったよ。真希さんたちは?」

 

「ふん、傑さんの野郎、趣味の悪い呪霊出しやがって。まぁ、きっちり分からせてやったけどな」

 

真希はぶっきらぼうに大刀を担ぎ直したが、その表情には確かな達成感が満ち溢れている。

 

「しゃけ、ツナマヨ」

 

狗巻も嬉しそうに頷いた。仲間たちの元気な姿を見て、乙骨の胸の奥にも温かいものが広がる。

 

「……よし。僕も午後から、もっと頑張らなきゃ」

 

彼らは、廊下の向こうから漂ってくる、炊きたての白米と出汁の素晴らしい匂いに誘われるように、母屋へと歩き出した。

 

 

母屋へと続く長い回廊を歩くにつれ、出汁の芳醇な香りと炊きたての白米の甘い匂いが、いよいよ濃くなっていく。

午前中の激戦と修練で完全に空腹となっていた一年生たちの腹虫が、誰からともなく小さく鳴り響いた。

 

「いい匂いだなぁ……。高専の食堂の飯も美味いけど、やっぱり歴史あるお屋敷の飯ってのは期待しちゃうな」

 

パンダが鼻をヒクヒクさせながら嬉しそうに言う。

 

「おかか~」

 

狗巻も完全に同意といった様子で、喉の痛みを忘れて目を輝かせている。

食堂の重厚な襖を開け放ってみると全員がその場に、ピタリと止まった。

乙骨も、思わず「えっ……?」と声を漏らし、パチクリと瞬きを繰り返す。

そこに広がっていたのは、彼らの予想を遥かに超えた、どこか奇妙で、けれど不思議と調和の取れた日常の光景だった。

 

「ほら美々子、そっちのお盆持ってって!あ、お米焦げないように火加減見て!」

 

「うん……。菜々子、お漬物の準備はこれでいいの……?」

 

厨房の中で忙しなく動いていたのは、可愛らしい作務衣に真っ白な割烹着を身に纏った双子の少女——美々子と菜々子だった。

髪を後ろで綺麗にまとめ、慣れない手付きながらも必死に器を並べ、厨房の雑用や調理の補助をこなしている。

二人の姿を見た乙骨は、その場に釘付けになったように足を止め、頭を傾げた。

 

(あれ……?あの二人の女の子、どこかで見たような……。高専の人じゃないよね?でも、絶対に前に見たことがある……どこだっけ……)

 

頭の引き出しを必死にひっくり返す乙骨を置いて、食堂ではすでにいつもの嵐が吹き荒れようとしていた。

食堂の奥、上座にあたる席。

見事な漆塗りの机に肘を突き、不機嫌そうに足を組んで踏ん反り返っているのは、金髪の派手な髪型をした男——禪院直哉だった。

 

「おい、この味噌汁味が濃すぎや。あと、味噌入れて煮立たせたやろ。風味が台無しやボケ」

 

直哉は手元の椀をあからさまにドサリと置き、嫌味たらたらな声を響かせる。

 

「うるさーい!文句あるなら自分で作れ!」

 

菜々子がお玉を引っこ抜くように構え、真っ赤な顔で怒鳴り返した。

美々子もその背中に隠れながら、コクコクと激しく頷いて直哉を睨みつける。

 

「ほら、貸してみいや」

 

直哉はチッと舌打ちをすると、綺麗な着物の袖を乱暴に捲り上げ、踏ん反り返っていた席から流れるような動作で立ち上がった。

そのまま厨房へと無造作に足を踏み入れ、菜々子の手からお玉をひったくる。

 

「っ、なにするのよ!?」

 

菜々子が抗議の声を上げるのも無視し、直哉はコンロの火力を瞬時に微調整した。

手際よく出汁を少し足し、一煮立ちする直前で火を止める。

その一連の動作には無駄がなく、まるで一流の料理人のそれのように洗練されていた。

直哉がお玉から少量を小さな器に移し、菜々子の前に突き出す。

菜々子は警戒しながらも、おそるおそるそれを口に運んだ。

 

「え?美味しい……直哉さんって料理できたんだ……」

 

菜々子の目が、みるみるうちに丸くなっていく。

さっきの尖った塩辛さが消えて、出汁の甘みがすっごい引き立っている。

 

「意外…全部使用人に任せて踏ん反り返ってるだけの人だと思ってた…」

 

美々子も隣から鍋を覗き込みながら、ぽつりと真面目な感想を漏らす。

二人の純粋な賞賛に、直哉の顔がピクリと引きつった。

 

「ぶっ飛ばすぞクソガキども。誰が一日中座っとるだけや。昔、姉貴に包丁の握り方教わったんや。お前らみたいな、大雑把なガキと一緒にすな」

 

直哉はフンと鼻で笑いながら、エプロン代わりにしていた懐紙を放り捨て、再び上座の席へと戻って踏ん反り返った。

 

「……へぇ。あの直哉が台所に立つなんて、明日は槍でも降るんじゃねーか?」

 

呆れ果てたような真希の声が響き、直哉は初めて一年生たちの存在に気づいたように視線を向けた。

 

「あぁ?なんや真希か。東京のぬるま湯で随分と鈍った面になっとるな。そっちのデカブツと口元隠したガキが、例の同級生か」

 

直哉は鼻で笑いながらパンダと狗巻を一瞥し、最後にその視線を乙骨憂太へと止めた。

その瞬間、ずっと記憶を辿っていた乙骨の脳裏に、鮮烈な閃きが駆け巡る。

 

「あ、思い出した!!」

 

乙骨がポンと手を叩き、大声を上げた。食堂にいた全員の視線が、一斉に彼へと集まる。

 

「な、なんや急に。ビックリするやろ、ボウズ」

 

直哉が眉を顰め、美々子と菜々子も不思議そうに乙骨を見つめた。

乙骨は興奮気味に、自分のスマートフォンを取り出すようなジェスチャーをしながら叫んだ。

 

「あの心霊動画の人だ!ほら、ちょっと前にバズってた、古いトンネルの心霊スポットに凸するやつ!後ろに本物の幽霊が映り込んでるって大騒ぎになってた……あの、カメラ持ってた女の子たちですよね!?」

 

「げぇっ!?」

 

菜々子が盛大に変な声を上げ、持っていたお盆を落としそうになった。

美々子も顔を真っ赤にして、持っていた縄をきつく握りしめる。

 

「な、ななな、なんでそれを貴方が知ってるのよ!?」

 

「いや、だって本当にすごかったから……。僕、あの動画、怖くて途中で止めちゃったんですけど、コメント欄で本物だとか、いや偽物でCGだろ、とか論争になってて——」

 

「ちょっと!!それ以上言わないでよ!黒歴史なんだから!!」

 

菜々子が顔から火が出そうなほど真っ赤になり、お玉を振り回して乙骨を威嚇する。

 

「ッハ!有名人になったもんやなぁ?」

 

直哉はここぞとばかりに意地悪な笑みを浮かべ、上座から双子を見下ろした。

 

「東京のボウズにまで知られとるやんけ。ネットで大バズりした最強心霊アイドルの美々子ちゃんと菜々子ちゃんや。今度サインでも書いてもろたらどうや?」

 

「う、うるさいわね……っ!!」

 

「直哉さん、最低……」

 

菜々子と美々子は「ぐぬぬ……」と顔を真っ赤にして身を震わせるが、ぐうの音も出ないといった様子で俯く。

何が何だかわからない乙骨は、おずおずと隣の真希の袖を引いた。

 

「あの……真希さん、これ一体何があったんです……?」

 

「あぁ?あぁ、憂太はまだそこらの常識を知らねえもんな」

 

真希は呆れたように直哉と双子を一瞥すると、腕を組んで噛み砕くように説明し始めた。

 

「いいか、普通、呪霊ってのは一般人には見えねえだろ。私みたいにな。だから呪術界では本来、そういうオカルトな存在ってのは昔から世間にバレないよう、徹底的に秘匿されてきたんだ。……だがな、あの動画——菜々子がスマホで撮ってネットに上げちまった動画には、その本物がガッツリ映っちまったんだよ」

 

「え、ええっ!?あれ、本物の呪霊ってことですか!?」

 

乙骨は目を丸くして驚愕した。

だが、すぐに高専に入学したばかりの頃に高専から教わった講義の内容を思い出し、不思議そうに首を傾げる。

 

「……あれ?でも呪霊って、写真や動画には写らないって、五条先生が言ってたような……」

 

「あぁ、お前の言う通り普通は写らねえ」

 

真希は、菜々子を親指で指した。

 

「けど、菜々子の術式の影響だろうな。あいつの術式はスマホのカメラを介して発動する。呪霊をレンズ越しに認識して、その空間ごと事象を確定させる性質があるんだろ。その術式の残滓が、あいつのスマホのレンズを通じて、動画のデータそのものに焼き付いちまったんだろう」

 

「そう、いうことか……!」

 

乙骨は、午前中に七直から「呪力操作は算数」と教わったことを思い出し、術式の特性がもたらした奇跡的な現象に深く納得した。

 

「写るはずのないものが鮮明に写っちまったんだ。それも、背景じゃなくて動画の主役の後ろにな。当然、ネットじゃ大騒ぎだったようだ。あいつら二人が呪術で呪霊を祓うところまでバッチリ記録されてたからな。……で、その盛大な火消しに、上層部や悟だけじゃなく、ここの直哉も結構出張って奔走してたって聞いたぜ」

 

真希がそう言うと、直哉は当然や、とばかりに鼻で笑い、髪をいじりながら不機嫌そうに付け足した。

 

「ほんま、あの時は上層部のクソジジイどもが『秘匿を破ったガキどもを差し出せ』やの何やのってうるさくて敵わんかったわ。誰のせいで俺が京都と東京を何往復したと思っとんねん。僕だけやなくて、傑くんや姉貴まで、尻拭いしたんやで?感謝せぇよ、ほんま」

 

直哉の最悪なイジりと、真希による的確な呪術的解説。

逃げ場を完全に無くした美々子と菜々子は、顔を真っ赤にしたまま、お互いのお盆と縄をぎゅっと握りしめて震えていた。

特に菜々子は、いつもの元気な態度が嘘のようにしどろもどろになり、視線をあちこちに泳がせている。

 

「そ、そりゃ……あ、ありがたかった、というか……。あの時、いろんな人に迷惑かけちゃったし…七直様も傑様もでもそれで助けられたのは本当だから……」

 

蚊の鳴くような声で、菜々子がぽつりぽつりと本音を漏らす。

その隣で、美々子も恥ずかしさに耐えるように小さくコクコクと頷いた。

しかし、当の直哉はここぞとばかりに意地悪な笑みを深め、耳の後に手を当てる大袈裟なジェスチャーをしてみせる。

 

「あぁ?なんや、声がちっさくて全然聞こえんなぁ?普段、傑くんの前では犬みたいにキャンキャン吠えとるくせに、こういう時は随分と可愛い声で喋るやんけ」

 

「な……っ!」

 

菜々子の額に青筋がピキリと浮かんだ。

もう恥ずかしさの限界メーターは完全に振り切れている。

彼女は手にしたお玉を直哉の鼻先に突きつけるようにして、食堂全体に響き渡る大声で叫んだ。

 

「だから!ありがとうって言ってんのよ!!この金髪ツンデレシスコン野郎!!」

 

「誰がシスコンや、ぶっ飛ばすぞクソガキ!!」

 

直哉も即座に机をバンと叩いて立ち上がり、二人の間でパチパチと目に見えない火花が散る。

そのあまりにいつも通りな兄妹喧嘩の光景に、張り詰めていた食堂の空気が一気に弛緩した。

そんな食堂の喧騒を割るように、背後の襖が静かに開け放たれた。

 

「騒がしいわよ。食堂で何を騒いでいるの?」

 

凛とした、けれどどこか呆れたような声が響き、直哉と菜々子の動きがピタリと止まる。

そこに立っていたのは、たすき掛けを外して身なりを整えた七直と、その隣で細い目をさらに細めて、満足そうに微笑んでいる夏油傑の二人だった。

直哉と菜々子は、お互いに掴みかからんばかりの姿勢のまま、ロボットのような動きで入り口の方へと首を向ける。

 

「あ…姉貴」

 

「な、七直様……傑様……」

 

七直は一歩中へ足を踏み入れると、腰に手を当てて弟と双子を交互に見つめた。

 

「直哉、それはもう過ぎたことでしょ。あなたもあの時、京都と東京を何度も往復して、本当に良く頑張ってくれたのは分かっているわ。でもね、美々子と菜々子にはこうして家の雑用をさせて、十分に反省させているんだから、その話はもうお終い。せっかくのご飯が冷めちゃうでしょ」

 

「っケ。……別に、俺は昔の愚痴を言いに来たわけやない。このガキどもが相変わらず味のバランスも分からんようなクソ味噌汁作っとったから、作り方を教えてただけや」

 

直哉は不機嫌そうに舌打ちをすると、ばつが悪そうに視線を逸らし、乱暴に髪を掻きむしりながら再び最上座の席へとドサリと腰を下ろした。

口では文句を言いつつも、七直に頑張ってくれたのは分かっていると認められたことで、その耳の端が微かに赤くなっているのを、真希は見逃さずにニヤニヤとしている。

 

「まぁまぁ、あまり私の可愛い娘たちをいじらないでくれ。あの件は私からも感謝しているし、もう十分に反省させているからお終いだ」

 

夏油が二人の元へ歩み寄り、その頭を大きな手で優しく撫でる。

 

「傑様ぁ……っ!」

 

さっきまで直哉と激しく怒鳴り合っていた菜々子の表情が一瞬で緩み、美々子と一緒に嬉しそうに夏油の脇へと駆け寄っていく。

 

「ふふ、直哉。菜々子ちゃんたちの感謝を、受け取れないなんて、素直じゃないんだから」

 

七直が呆れたように、けれど慈愛に満ちた眼差しで弟を見つめながら、空いている席へと腰を下ろした。

 

「さあ、皆さん座って。午前中の厳しい訓練でお腹が空いているでしょう。禪院家の特製出汁を使ったご飯、たくさん召し上がりなさい」

 

七直のその言葉を合図に、一年生たちも一斉に席についた。目の前には、ほかほかの湯気を立てる白米と、直哉の手によって完璧な仕上がりとなった味噌汁、そして美々子と菜々子が一生懸命に並べた色鮮やかなお漬物やおかずが並んでいる。

 

「いただきます!!」

 

誰からともなく声を合わせ、箸を動かし始める。

 

「うわ……美味い!この味噌汁、マジで料亭の味じゃん!」

 

パンダが驚嘆の声を上げると、直哉は「当然や」と言わんばかりにフンと鼻を鳴らす。

 

「しゃけ、ツナマヨ!」

 

狗巻も、喉の痛みを完全に忘れたような勢いで箸を進めていた。

乙骨は、直哉の手直しの鮮やかさと、美々子たちの健気な姿、そしてそれを優しく見守る夏油と七直の姿を交互に見つめながら、じわじわと胸の奥が温かくなるのを感じていた。

高専の日常も温かいが、ここにあるのは、血の繋がりを超えた、もう一つの「家族」の形だ。

 

「憂太、何ぼーっとしてんだよ。早く食わねえとパンダに全部奪われるぞ」

 

真希が呆れたように声をかけ、自身の椀から湯気を吸い込む。

 

「あ、うん!いただきます!」

 

乙骨も慌てて箸を取り、直哉の作った味噌汁を口に運んだ。

体に染み渡るような優しい出汁の味が、午前中の過酷な修行で疲れ果てた身体を芯から癒していく。

京都の厳しい山の中に佇む禪院道場。

その食堂には、かつて外の世界で運命を狂わされかけた者たちが、今はこうして一つの食卓を囲み、賑やかな笑い声を響かせ合う、最高の日常が確かに広がっていた。

 




お、お久しぶり…です。

質問コーナー

Q.直哉って料理できたの?

A.一応、一通りできます。高専に入ったばかりの時、東京の料理が合わないのと、毒を警戒していたため、七直から学んでいました。焼き物系が得意。

いつもこの作品を読んでいただきありがとうございます。
いつも励みになってます。
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