轟音が止んだあと、周囲に残ったのは崩れた石畳と、ゆっくりと霧散していく緑の光だけだった。
豊穣の玄鹿は、最期にひときわ低い唸り声を残し、その巨体を崩した。枝分かれした角は粉のように砕け、体表を走っていた紋様は淡く明滅したのち、完全に消える。
残骸はやがて塵へと変わり、風に溶けるように消えていった。
静寂が戻る。
「す、凄……」
素裳はぽかんと口を開けたまま、その場に立ち尽くしていた。
本当に一瞬だった。
玄鹿が再び跳躍し、巨体で押し潰そうとした瞬間――秋作は半歩だけ踏み込んだ。大振りでも、派手な技でもない。ごく短い動き。刃が閃き、角の根元へと正確に叩き込まれた一撃。
そのまま軸をずらし、体勢を崩し、追撃。
急所を断ち、再生の核ごと切り裂いた。
迷いがない。躊躇がない。
積み重ねた鍛錬と実戦の経験が、そのまま形になったような剣だった。
「このぐらい余裕だ。」
秋作は刀を振って付着した光の残滓を払い、静かに鞘へ収める。呼吸も乱れていない。
素裳はじっと彼を見つめる。
胸の奥が、ざわりとした。
尊敬。憧れ。悔しさ。
いくつもの感情が絡まり合い、うまく言葉にならない。
「むう……」
自然と頬が膨らむ。
秋作はその様子に気付き、少しだけ眉を下げた。
「大丈夫か?」
怪我の有無を確認する声音だった。責める響きはない。
素裳は視線を落とし、剣を握る手を見つめる。
「……手伝うって言ったのに、なんにも出来なかった」
さっきの一撃。
自分が入る余地はなかった。
あの巨体を前に、正直に言えば足がすくみかけた。
怖くなかったわけではない。
それでも踏み出したつもりだった。
だが結果は――ただ見ていただけ。
「気にするな。」
秋作は即答する。
「気持ちだけでも嬉しかった。」
飾らない言葉だった。
素裳は顔を上げる。
「ほんとに?」
「ああ。」
短いが、迷いのない肯定。
「戦場で一番怖いのはな、“自分は関係ない”と思うことだ。お前は逃げなかった。それだけで十分だ。」
その評価は、甘やかしではない。
事実としての言葉だった。
素裳は胸の奥が少し熱くなるのを感じる。
だが同時に、別の感情も湧き上がる。
――追いつきたい。
守られる側ではなく、並んで立てる側へ。
「……でもさ」
彼女は剣を握り直す。
「次はちゃんと役に立つから。」
声はもう震えていない。
秋作は一瞬だけ目を細め、そしてわずかに口元を緩めた。
「期待してる。」
遠くで、再び地鳴りが響く。
別の区画でも、玄鹿が暴れているのだろう。
秋作は視線をそちらへ向ける。
「まだ終わってないな。」
素裳も同じ方向を見る。
さっきまで感じていた劣等感は、今は静かな闘志へと形を変えていた。
「うん。次はアタシが先に斬る。」
秋作は軽く鼻で笑う。
「張り合うな。」
そう言いながらも、その声色はどこか頼もしげだった。
………………
市街地の別区画。
砕けた石畳の上を、淡い緑の光が這うように走っていた。豊穣の玄鹿が地面を踏み鳴らすたび、周囲の草木が異様な速度で芽吹き、瞬時に枯れ、再び芽吹く。生命の循環が狂った速度で繰り返されるその光景は、美しいというよりも不気味だった。
その前方に立つのは、桂乃芬と秋俊。
玄鹿は低く唸り、角をこちらへ向ける。角の先端には緑の光が集束し始めている。明らかに何かを放つ予兆だ。
「桂乃芬さん。本当に大丈夫なんですか?」
秋俊は視線を敵から外さないまま問いかける。冷静だが、確認の色が濃い。
「何が?」
桂乃芬は肩を回しながら、軽く言い返す。
「戦えるんですか?」
淡々とした問い。だがその裏には、“守る側としての責任”が見える。
桂乃芬は一瞬だけむっとした顔をする。
「アタシだって役に立ちたいもん!」
声は強い。昨日の不安を振り払うような響きだった。
秋俊はわずかに視線を横へ流し、彼女の表情を確認する。そして小さく息を吐いた。
「……ならいいですけど。」
次の瞬間、玄鹿の角が閃く。
緑の光弾が放たれ、一直線に迫る。
秋俊は半歩横へ滑るように移動し、同時に銃を引き抜いた。乾いた銃声が連続して響く。
正確な三連射。光弾を空中で撃ち抜き、拡散させる。そのまま銃口を上げ、玄鹿の前脚の関節へと狙いを定めた。
連続射撃。
弾丸は装甲のような体毛を貫き、肉に食い込む。玄鹿が体勢を崩し、わずかに前のめりになる。
「今!」
秋俊の短い合図。
桂乃芬は既に動いていた。
地面を強く蹴り、瓦礫を足場に跳躍する。視界いっぱいに玄鹿の巨体が迫るが、迷いはない。
「はあぁっ!」
振り上げた脚を、そのまま頭部へ叩き落とす。かかと落としが角の付け根へ直撃する。衝撃で玄鹿の首が大きく揺れ、地面へ叩きつけられる。
石畳が陥没し、粉塵が舞う。
「やりますね。」
秋俊が冷静に評価する。
桂乃芬は着地し、拳を握ってにっと笑う。
「ありがと!」
玄鹿はなおも立ち上がろうとする。傷口から緑の光が漏れ、再生が始まっている。
「再生速度、高いですね……」
秋俊は素早く弾倉を交換する。カチリ、と装填音。
「なら、再生が追いつかない量を叩き込みます。」
銃口が唸る。
乱れ撃ち。だが無駄撃ちはない。頭部、関節、体幹――急所を中心に、精密に弾丸が撃ち込まれる。
桂乃芬も間合いを詰め、再生しかけた蔦を踏み砕き、拳で叩き潰す。蔦が彼女の足に絡みつこうとするが、素早く振りほどき、さらに追撃。
弾丸と打撃が交差する。
やがて玄鹿の体表を覆っていた緑の光が不安定に揺らぎ始めた。
「……終わりだ。」
秋俊が最後の一発を撃ち込む。
銃声と同時に、玄鹿の核が砕ける。巨体は崩れ、光の粒となって霧散した。
静寂。
瓦礫の崩れる音だけが残る。
秋俊は周囲を警戒しながら、ゆっくりと銃を下ろした。
「……こっちは終わりですかね。」
桂乃芬は息を整えながら空を見上げる。
「秋作とかのとこも終わったかな?」
遠くからはもう咆哮は聞こえない。
秋俊は弾倉を確認し、淡々と言う。
「秋作兄さんの事です。終わってるでしょ。」
その声音には確信があった。
桂乃芬は少し笑う。
「だよね。」
だが同時に、胸の奥に小さな違和感が残る。
あまりにも同時多発的だった出現。
そして、統率されているかのような配置。
これは本当に“ただの襲撃”なのか。
遠くの建物の屋上で、何かがきらりと光った気がした。
次の瞬間には消えていたが――
戦いは、まだ終わっていないのかもしれない。
その頃――。
各区画で出現した豊穣の玄鹿は次々と討伐され、羅浮の混乱は徐々に収まりつつあった。砕けた石畳、崩れた壁面、怯えた人々のざわめき。まだ爪痕は生々しいが、少なくとも“今この瞬間の脅威”は制圧され始めている。
秋織達もまた、最後の一体を追い詰めていた。
玄鹿は既に傷だらけで、再生の光も弱々しい。桂乃芬達の区画と同様、こちらもあと一押しというところだった。
その時だった。
空気が、急に冷えた。
肌にまとわりつくような、粘ついた気配。
戦闘の熱とは別種の、底冷えする悪意。
「……来る!」
秋織が反射的に叫ぶ。
次の瞬間、空間が歪む。
影が、地面から立ち上がった。
黒い靄が人型を成し、ゆっくりと輪郭を持つ。
現れたのは、十蔵。
「ほう……随分と手際が良いな」
その声音には焦りも怒りもない。むしろ、状況を観察する余裕がある。
「十蔵!」
秋織は刀を構える。雲璃も即座に戦闘態勢に入った。
「こんな事して、何が目的だ?」
問いは鋭い。
十蔵は鼻で笑う。
「ふん。このように囮を引き受けたのだ。」
「囮……?」
一瞬、意味が掴めない。
十蔵はゆっくりと周囲を見渡す。崩壊した街並み、倒れた玄鹿、警戒する二人。
「奴らの目的が果たされるのは時間の問題だろう。」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「奴らって誰だ!」
秋織が一歩踏み込む。
だが十蔵は答えない。ただ、わずかに口角を上げる。
「我の目的は果たした……用は無い。」
その瞬間、十蔵の足元から影が広がる。まるで地面そのものが口を開いたかのように黒が滲み出し、彼の身体を飲み込んでいく。
「待て!」
秋織が斬りかかる。
だが刃は空を裂いただけだった。
十蔵の身体は煙のように崩れ、完全に影へと溶ける。
同時に辺りに漂っていた邪悪な気配が、すっと消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
静寂。
風が瓦礫を転がす音だけが残る。
「……なんだったんだ」
秋織は刀を下ろさず、低く呟く。
雲璃は周囲を見回しながら、小さく言う。
「秋織……目的って、なんだろ……」
その声は不安を隠しきれていない。
囮。
その言葉が、やけに重く響く。
玄鹿の襲撃が本命ではないとすれば――
彼らが街を駆け回り、戦っている間に、何か別のことが進行していた可能性がある。
秋織は歯噛みする。
「さあな。でも……」
拳を握る。
「何か嫌な感じがするな……」
それは直感だった。
だがこれまで幾度も、命を救ってきた直感でもある。
雲璃はそっと秋織の手を掴んだ。
小さな手。だが震えている。
秋織は一瞬驚いたが、振り払わなかった。
雲璃の表情は強張っている。先ほどまでの戦闘とは違う、不確かな恐怖がそこにあった。
見えない敵。
分からない目的。
“もう終わった”と断言できない状況。
秋織は不機嫌そうに眉を寄せる。
敵に対してか、自分に対してか、それとも状況そのものに対してか――はっきりとは分からない。ただ、利用されたことだけは理解している。
「帰るぞ。」
短く言う。
雲璃は小さく頷く。
繋いだ手は、そのままだった。
街の喧騒が徐々に戻り始める中、二人の胸中には消えない違和感が残っている。
戦いは終わったはずなのに。
本当の“何か”は、まだ姿を見せていなかった。
第一部、完ッ!()