羅浮に吹く旋風   作:サツキタロオ

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第一部これでおわりです。


episode.10:前進する悪意

轟音が止んだあと、周囲に残ったのは崩れた石畳と、ゆっくりと霧散していく緑の光だけだった。

 

豊穣の玄鹿は、最期にひときわ低い唸り声を残し、その巨体を崩した。枝分かれした角は粉のように砕け、体表を走っていた紋様は淡く明滅したのち、完全に消える。

 

残骸はやがて塵へと変わり、風に溶けるように消えていった。

静寂が戻る。

「す、凄……」

素裳はぽかんと口を開けたまま、その場に立ち尽くしていた。

 

本当に一瞬だった。

 

玄鹿が再び跳躍し、巨体で押し潰そうとした瞬間――秋作は半歩だけ踏み込んだ。大振りでも、派手な技でもない。ごく短い動き。刃が閃き、角の根元へと正確に叩き込まれた一撃。

そのまま軸をずらし、体勢を崩し、追撃。

急所を断ち、再生の核ごと切り裂いた。

迷いがない。躊躇がない。

積み重ねた鍛錬と実戦の経験が、そのまま形になったような剣だった。

 

「このぐらい余裕だ。」

秋作は刀を振って付着した光の残滓を払い、静かに鞘へ収める。呼吸も乱れていない。

素裳はじっと彼を見つめる。

胸の奥が、ざわりとした。

 

尊敬。憧れ。悔しさ。

いくつもの感情が絡まり合い、うまく言葉にならない。

 

「むう……」

自然と頬が膨らむ。

秋作はその様子に気付き、少しだけ眉を下げた。

 

「大丈夫か?」

怪我の有無を確認する声音だった。責める響きはない。

素裳は視線を落とし、剣を握る手を見つめる。

「……手伝うって言ったのに、なんにも出来なかった」

さっきの一撃。

自分が入る余地はなかった。

あの巨体を前に、正直に言えば足がすくみかけた。

怖くなかったわけではない。

 

それでも踏み出したつもりだった。

だが結果は――ただ見ていただけ。

 

「気にするな。」

秋作は即答する。

「気持ちだけでも嬉しかった。」

飾らない言葉だった。

素裳は顔を上げる。

「ほんとに?」

「ああ。」

短いが、迷いのない肯定。

「戦場で一番怖いのはな、“自分は関係ない”と思うことだ。お前は逃げなかった。それだけで十分だ。」

その評価は、甘やかしではない。

事実としての言葉だった。

 

素裳は胸の奥が少し熱くなるのを感じる。

だが同時に、別の感情も湧き上がる。

 

――追いつきたい。

 

守られる側ではなく、並んで立てる側へ。

 

「……でもさ」

彼女は剣を握り直す。

「次はちゃんと役に立つから。」

声はもう震えていない。

 

秋作は一瞬だけ目を細め、そしてわずかに口元を緩めた。

「期待してる。」

遠くで、再び地鳴りが響く。

別の区画でも、玄鹿が暴れているのだろう。

秋作は視線をそちらへ向ける。

「まだ終わってないな。」

素裳も同じ方向を見る。

さっきまで感じていた劣等感は、今は静かな闘志へと形を変えていた。

「うん。次はアタシが先に斬る。」

秋作は軽く鼻で笑う。

「張り合うな。」

そう言いながらも、その声色はどこか頼もしげだった。

 

………………

 

市街地の別区画。

 

砕けた石畳の上を、淡い緑の光が這うように走っていた。豊穣の玄鹿が地面を踏み鳴らすたび、周囲の草木が異様な速度で芽吹き、瞬時に枯れ、再び芽吹く。生命の循環が狂った速度で繰り返されるその光景は、美しいというよりも不気味だった。

 

その前方に立つのは、桂乃芬と秋俊。

玄鹿は低く唸り、角をこちらへ向ける。角の先端には緑の光が集束し始めている。明らかに何かを放つ予兆だ。

 

「桂乃芬さん。本当に大丈夫なんですか?」

秋俊は視線を敵から外さないまま問いかける。冷静だが、確認の色が濃い。

 

「何が?」

桂乃芬は肩を回しながら、軽く言い返す。

「戦えるんですか?」

淡々とした問い。だがその裏には、“守る側としての責任”が見える。

桂乃芬は一瞬だけむっとした顔をする。

「アタシだって役に立ちたいもん!」

声は強い。昨日の不安を振り払うような響きだった。

秋俊はわずかに視線を横へ流し、彼女の表情を確認する。そして小さく息を吐いた。

「……ならいいですけど。」

次の瞬間、玄鹿の角が閃く。

緑の光弾が放たれ、一直線に迫る。

秋俊は半歩横へ滑るように移動し、同時に銃を引き抜いた。乾いた銃声が連続して響く。

 

正確な三連射。光弾を空中で撃ち抜き、拡散させる。そのまま銃口を上げ、玄鹿の前脚の関節へと狙いを定めた。

 

連続射撃。

弾丸は装甲のような体毛を貫き、肉に食い込む。玄鹿が体勢を崩し、わずかに前のめりになる。

 

「今!」

秋俊の短い合図。

桂乃芬は既に動いていた。

地面を強く蹴り、瓦礫を足場に跳躍する。視界いっぱいに玄鹿の巨体が迫るが、迷いはない。

「はあぁっ!」

振り上げた脚を、そのまま頭部へ叩き落とす。かかと落としが角の付け根へ直撃する。衝撃で玄鹿の首が大きく揺れ、地面へ叩きつけられる。

石畳が陥没し、粉塵が舞う。

「やりますね。」

秋俊が冷静に評価する。

桂乃芬は着地し、拳を握ってにっと笑う。

 

「ありがと!」

玄鹿はなおも立ち上がろうとする。傷口から緑の光が漏れ、再生が始まっている。

「再生速度、高いですね……」

秋俊は素早く弾倉を交換する。カチリ、と装填音。

「なら、再生が追いつかない量を叩き込みます。」

銃口が唸る。

 

乱れ撃ち。だが無駄撃ちはない。頭部、関節、体幹――急所を中心に、精密に弾丸が撃ち込まれる。

桂乃芬も間合いを詰め、再生しかけた蔦を踏み砕き、拳で叩き潰す。蔦が彼女の足に絡みつこうとするが、素早く振りほどき、さらに追撃。

 

弾丸と打撃が交差する。

やがて玄鹿の体表を覆っていた緑の光が不安定に揺らぎ始めた。

「……終わりだ。」

秋俊が最後の一発を撃ち込む。

銃声と同時に、玄鹿の核が砕ける。巨体は崩れ、光の粒となって霧散した。

 

静寂。

瓦礫の崩れる音だけが残る。

秋俊は周囲を警戒しながら、ゆっくりと銃を下ろした。

「……こっちは終わりですかね。」

桂乃芬は息を整えながら空を見上げる。

「秋作とかのとこも終わったかな?」

遠くからはもう咆哮は聞こえない。

秋俊は弾倉を確認し、淡々と言う。

「秋作兄さんの事です。終わってるでしょ。」

その声音には確信があった。

桂乃芬は少し笑う。

 

「だよね。」

だが同時に、胸の奥に小さな違和感が残る。

あまりにも同時多発的だった出現。

そして、統率されているかのような配置。

これは本当に“ただの襲撃”なのか。

遠くの建物の屋上で、何かがきらりと光った気がした。

 

次の瞬間には消えていたが――

戦いは、まだ終わっていないのかもしれない。

 

その頃――。

各区画で出現した豊穣の玄鹿は次々と討伐され、羅浮の混乱は徐々に収まりつつあった。砕けた石畳、崩れた壁面、怯えた人々のざわめき。まだ爪痕は生々しいが、少なくとも“今この瞬間の脅威”は制圧され始めている。

秋織達もまた、最後の一体を追い詰めていた。

玄鹿は既に傷だらけで、再生の光も弱々しい。桂乃芬達の区画と同様、こちらもあと一押しというところだった。

 

その時だった。

空気が、急に冷えた。

肌にまとわりつくような、粘ついた気配。

戦闘の熱とは別種の、底冷えする悪意。

 

「……来る!」

秋織が反射的に叫ぶ。

次の瞬間、空間が歪む。

影が、地面から立ち上がった。

黒い靄が人型を成し、ゆっくりと輪郭を持つ。

現れたのは、十蔵。

「ほう……随分と手際が良いな」

その声音には焦りも怒りもない。むしろ、状況を観察する余裕がある。

「十蔵!」

秋織は刀を構える。雲璃も即座に戦闘態勢に入った。

「こんな事して、何が目的だ?」

問いは鋭い。

十蔵は鼻で笑う。

「ふん。このように囮を引き受けたのだ。」

「囮……?」

一瞬、意味が掴めない。

十蔵はゆっくりと周囲を見渡す。崩壊した街並み、倒れた玄鹿、警戒する二人。

「奴らの目的が果たされるのは時間の問題だろう。」

その言葉に、胸の奥がざわつく。

 

「奴らって誰だ!」

秋織が一歩踏み込む。

だが十蔵は答えない。ただ、わずかに口角を上げる。

「我の目的は果たした……用は無い。」

その瞬間、十蔵の足元から影が広がる。まるで地面そのものが口を開いたかのように黒が滲み出し、彼の身体を飲み込んでいく。

「待て!」

秋織が斬りかかる。

だが刃は空を裂いただけだった。

十蔵の身体は煙のように崩れ、完全に影へと溶ける。

同時に辺りに漂っていた邪悪な気配が、すっと消えた。

まるで最初から存在しなかったかのように。

 

静寂。

 

風が瓦礫を転がす音だけが残る。

「……なんだったんだ」

秋織は刀を下ろさず、低く呟く。

雲璃は周囲を見回しながら、小さく言う。

「秋織……目的って、なんだろ……」

その声は不安を隠しきれていない。

 

囮。

 

その言葉が、やけに重く響く。

玄鹿の襲撃が本命ではないとすれば――

彼らが街を駆け回り、戦っている間に、何か別のことが進行していた可能性がある。

秋織は歯噛みする。

「さあな。でも……」

拳を握る。

「何か嫌な感じがするな……」

それは直感だった。

だがこれまで幾度も、命を救ってきた直感でもある。

 

雲璃はそっと秋織の手を掴んだ。

小さな手。だが震えている。

秋織は一瞬驚いたが、振り払わなかった。

雲璃の表情は強張っている。先ほどまでの戦闘とは違う、不確かな恐怖がそこにあった。

 

見えない敵。

分からない目的。

“もう終わった”と断言できない状況。

 

秋織は不機嫌そうに眉を寄せる。

 

敵に対してか、自分に対してか、それとも状況そのものに対してか――はっきりとは分からない。ただ、利用されたことだけは理解している。

 

「帰るぞ。」

短く言う。

 

雲璃は小さく頷く。

繋いだ手は、そのままだった。

街の喧騒が徐々に戻り始める中、二人の胸中には消えない違和感が残っている。

戦いは終わったはずなのに。

 

本当の“何か”は、まだ姿を見せていなかった。




第一部、完ッ!()
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