The Royal Bastard~LostTechnology the after   作:アツ氏

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5.ラルス探偵事務所の朝

 鞭で頬をたたかれたような衝撃のために、ラルスははっと目を覚ました。

 視界にはタバコのやにで薄汚れた天井と、無骨なアルミニウムのシェードをつけた室内灯。見慣れた事務所の風景だ。ほっと胸をなでおろす。よく覚えていないが、たぶん、いやな夢を見た。かすかに呼吸を荒げ、全身がじっとりと汗ばんでいるのは、夏の夜の寝苦しさのためばかりではないだろう。

 ラルスは横になったままの姿勢で舌打ちをした。思い出したくもないが、自分がどんな夢を見ていたか、推理するのは簡単だ。戦時に率いていた傭兵団マスケットがクーニッツ騎士団に敗れ、捕虜として対面した敵将ジギスヴァルトから受けた屈辱。部下の前で鞭打たれ、『これからは口の利き方を改め、私を主君として敬うように』などと指図されて、黙って従うほかなかった。その有様を見て味方のはずのマルグリットさえも嘲笑し、怖いもの知らずだったラルスのプライドはずたずたにされてしまった。何十年も経った今でも、時々それを夢に見る。

 何もかもうまくいかないと感じ始めたのは、あのときからだ。クーニッツ騎士団服属後は、不本意ながらジギスヴァルトのために兵を率い、国家統一に尽力したが、平和になれば戦いを生業とする者に居場所はない。考古学は大学出のインテリたちの領分となり、旧大陸時代には最先端だったマスケット銃は、文明化のあおりを受けて、あっという間に時代遅れの骨董品と化した。現在は技術力の高いドワーフの製造する拳銃や小銃が、警察官やハンターをはじめとする対犯罪専門職の装備として主流になっている。かくいうラルスも、メインに四十五口径のリボルバー、サブに手のひらサイズの小型拳銃を、捜査時にはいつも身に着けている。探偵という職業柄、必要不可欠だったが、身を守るにつけ、犯罪者を追跡するにつけ、それに依り頼んでいる現実に複雑な感情を禁じえない。脇にホルスターを下げるたび、われこそはロストテクノロジーの第一人者と息巻いていた日々が、遠い昔に過ぎ去ってしまったのだと、否が応にも実感させられる。

 ラルスは唸った。朝っぱらから嫌な記憶を刺激され、非常に気分が悪かった。

 不意に鈍い頭痛がして、眉間にしわを寄せて耐える。昨夜、事務所で一人酒をしているうちに、来客用のソファーで寝入ってしまったのだった。脇を見ると、ガラス製のテーブルの上に載ったウィスキーのボトルと、解けた氷が水となって底に沈んだグラスとが、てかてかと光っていた。二日酔いとは情けない。そのまま目だけを動かして時計を見ると、まだ早朝と言っていい時刻だった。寝坊しなかったのは幸いだ。捜査に入る前に、今日ぐらいヒゲを剃るか。そう思い、身を起こそうとすると、体がずっしりと重い。体調が優れないためではない気がした。胸から腹にかけて、何か大きくてやわらかいものが乗っかっている。

 ラルスは顎を引いて、自分の体を見た。薄手で幅広の、薄水色のタオルケットが身を覆っていた。酔っ払って寝てしまったのなら、こんなものを掛ける暇はなかったろう。いったいいつの間に……。重みを感じるあたりが、こんもりと丸く膨らんでいる。怪訝に思いながらも、ラルスは無造作にタオルケットを取り除けた。そしてぎょっとした。

 覆いの下から、馴染み深い三角の耳と、ふさふさの尻尾が現れた。ラルスの体の上で器用に丸まり、すやすやと眠る少女。クルックスだった。小柄な彼女がひざを抱えると、ラルスの下腹から胸にかけての面積に、全身がほとんど収まってしまう。その寝顔は屈託がなく、まるで犬か猫が主人に身を寄せて安心しているといった体である。

「おい、クルックス」

 ラルスの呼びかけに反応して、獣型の耳がぴくりと動き、落ちたまぶたがうっすらと開いた。クルックスが寝ぼけ眼で頭上にあるラルスの顔を見る。

「あ、おはようございます。ラルス」

 そして鋭い犬歯をあらわにして、あくびをした。まるで警戒心のない表情である。ラルスとしては、いくら三十年近い付き合いとはいっても、ほとんど少女の姿から変わらぬクルックスが自分の寝床にもぐりこんでいる状況は、少々ばつが悪かった。しかし、それは表面に出さず、あくまで冷静な口調で、

「もう起きるから、降りてくれ」

 と短く言った。クルックスは無言のまま、音もなく床に降り立った。白いコットンのパジャマをだぶつかせて、しきりに目をこすっている。いつ急に成長するかも知れないと、あえて大きめのものを買っているらしいが、なかなか思惑通りにならないようだ。余った袖や裾の長さがいじらしい。クルックスが併せ持つ二つの要素、生きてきた年数以上の聡明さと、幼い所作との間には、あまりにもギャップがある。

「一人で眠れないって歳でもないだろう。クルックス」

 手のひらで顔をごしごしと撫で回し、ソファーから立ち上がりつつ言うせりふの中で、ラルスはあえて『歳』という言葉を強調した。

「いえ、効率を重視したまでのことです」

 ぼんやりとした表情のままだが、クルックスの返事はしっかりとしていた。

「効率だって?」

「はい。私がマルグリットのところから戻ったとき、あなたはすでに熟睡されていました。夏とはいえ、ソファーで寝ると風邪を引いてしまう可能性がありますが、私がラルスの体重を支えてベッドまで連れて行くのは不可能ですし、現在この事務所にはタオルケットが一枚しかありません。私も体を冷やしたくありませんので、酒臭かったですが、やむを得ず」

「俺の分のタオルケットはどうしたんだっけ」

「先週、あなたの寝タバコが原因で、燃えてしまいました。ラルス」

 そうだった。やることなすこと間抜けな上に、それを忘れてしまうとは。歳はとりたくないものである。

 しかし、とラルスは思った。あどけない少女のように見えても、会話をすれば成熟した女性そのものだ。数日前のマルグリットの言葉が思い出される。娘のようなもの。ラルスがクルックスに対して抱く感情を言い表すなら、それが一番近いように思われた。では、クルックスから見たラルスは、どんな存在なのか。仕事上のパートナー、雇用主、戦友。ビジネスライクな表現はいくらでも当てはまる。そうではなく、どのような親愛の情を持っているのか。

 戦時に、ある祝日にかこつけて、クルックスに贈り物をしたことがある。ラルス、マルグリット、メグナードの三人が孤児院でつけていた識別番号付きのドッグタグに似せたものを職人に作らせて、プレゼントにしたのである。俺たち四人は家族だ。これはその絆の証だ。そう言い添えて。

 思い返してみれば、なんとも色気のないチョイスだったが、意外にもクルックスは喜んだようだった。平素のポーカーフェイスからは考えられぬほど感極まって、涙を流すほどに。あれ以来、三人の幼馴染がするのと同じように、クルックスはドッグタグを肌身離さず身に着けている。もしプレゼントの意味を、ラルスの言葉通りにクルックスが受け取っているのなら、きっと家族ということで間違いないのだろう。彼女が普段あまりにも怜悧に過ぎるため、ついつい忘れがちになってしまうが。時に、マルグリットばりに、ヘボ探偵と馬鹿にされているのではないかと不安にすらなる。

 ラルスは事務所に備え付けの洗面所に入った。クリームをあわ立てて輪郭に沿って塗りつけ、かみそりを手に取る。頬や顎に傷をつけぬよう、丁寧に刃を走らせ、泡と一緒にまばらに生えた髭をそぎ落としていく。最後に蛇口の水を両手に受けながら、顔をじゃぶじゃぶ洗う。ふうっ、とひとつ息をついてタオルで拭くと、何日ぶりかの小奇麗な素顔が鏡に映った。皮膚は少々たるんだが、好奇心旺盛などんぐり眼、濃く筋の通った眉、負けん気の強そうな鼻っ柱、不遜な口元は昔のままである。我ながら男前だと、ラルスは若いころから自負していた。単なるうぬぼれではなく、事実この顔のおかげで、どんなに落ちぶれても女に不自由したことはない。探偵という職業をしていると、いろんなタイプの人物と出会う。女性もまたしかり。ただ、一生添い遂げてもいいと思えるような相手はついに見つからず、男盛りも過ぎた今も独身だというのが、少々やるせないところではある。

 顔を洗い終えて洗面所を出ると、クルックスはもう普段着に着替えて、朝食の準備をしていた。デスクの上に数紙の朝刊が置いてある。ラルスはそのうちで、地元紙であるリビュア・クロニクルを手にとり、一面から目を通した。新聞が捜査の手がかりになったり、推理の糸口になったりするのは、良くあることだった。昔なら、どちらかといえば字を読むのが嫌いだったが、いまではすっかり朝の習慣となっている。

 紙面にあまりいいニュースは載っていない。

 エリシウム砂漠では、原油王アルバート・フィン・ラザフォードが巨万の財を投じて私設軍隊を組織しようとしているらしく、FSR政府当局から問題視されている。ラザフォード本人はあくまで自衛のためと主張しているが、個人が保有できる武力の範疇を越えている疑いがあり、FSR情報局の査察が入ったとのことだ。場合によっては内乱罪の嫌疑を掛けられる可能性がある。

 実にきな臭いが、宗教問題のニュースも負けていない。こちらは連続テロ事件である。

 現在、FSRでもっとも信者を獲得しているのは、マザー・セリナが戦後布教したアウクゥス教である。人間の犯した罪に対して罰でもって報いるのではなく、愛による赦しを説いたため、戦後まもない混迷期に不安を覚えた民衆がこぞって入信し、その人口は今やFSR全国民の二割にも及んでいた。政治においては、有力な信者を中心にアウクゥス社会党を立ち上げ、発言力もそれなりにある。

 セリナは、元は預言者イスハークを教祖とするカストゥス教の信徒であり、旧大陸時代はシスターとして砂漠の民に奉仕していたという。しかし、戦後イスハークが失踪するのとほとんど同時にカストゥス教団から離反し、新たな教派を立ち上げた。それがアウクゥス教であった。いわゆる新興宗教とは異なり、ロストテクノロジーに伝わる太古の教典『神の書』に基づいた教義を忠実に再現している。その平和と愛の教えは、FSR政府の推し進める理念と調和したので、さほど政教間における摩擦は起こらなかった。

 問題は、戦後少数派となったカストゥス原理主義者たちである。絶対的指導者を失ったにもかかわらず、残された信徒は、布教のためには武力闘争を辞さない過激な教義を頑なに守りつづけ、今もなお神の影を追うように預言者イスハークを信奉している。彼らは、セリナを裏切り者と糾弾し、アウクゥス教に対して苛烈な迫害を行っていた。

 今年に入って大陸各地の教会や慈善施設が原理主義者たちによってつぎつぎと襲撃され、少なからぬ被害が出ていた。そしてまた昨夜もクリセ地区の教会で同じような事件が起こり、数人のアウクゥス信者の命が奪われている。FSR公安部隊が犯人グループを追跡しているが、ワイルドレイジの事件が起きたばかりという状況もあってか、人員を充分に割けないようである。FSR政府は公安部隊の規模拡大を検討しているが、国家が強大な武力を持つことに反発する向きもあり、この件を含めた予算案の是非が、次期選挙の争点のひとつして注目されている。

 実はこの事件はラザフォード私設軍隊設立とも関連があるといわれている。ラザフォード家当主アルバートは、旧大陸時代に栄えたラザフォード公家の第二位後継者であったが、戦時にカストゥス教団がエリシウム砂漠に台頭したことによって国を追われ、しばし流浪の生活を送ったとされる。戦後、カストゥス教団が衰退したという報せを受けて故郷に帰り、砂漠で油田を掘り当てたことにより巨万の富を得た。一躍FSR有数の資産家となったアルバートだったが、昨今のカストゥス原理主義者の動向を警戒して、軍隊を組織したという見解がある。過去が過去だけに同情の余地はあるが、FSR政府当局がそれを顧慮するかどうか。なんにせよ、きな臭いことには変わりない。

 そして紙面をめくれば、投書欄に掲載されている、いわば檄文とも言うべき記事である。感情の先走った若書きの文章で、次のように記してある。

『FSR政府は、初代大統領ジギスヴァルト・クーニッツのころから一貫して万民平等主義を提唱してきたという。さて事実はどうであろう。否である。戦後二十五年経過した今もなお、ある種族が、ある種族に対して差別を行い、労働者と資本家の間には厳然たる格差がある。かりそめの平和に民衆の目はにごり、疑問を抱くことを忘れている。本当にこれが政府の標榜する、民主的で、平等な国家と呼べるのか。私は声を大にして言う。うそつきめ! 私はFSR政府を、現大統領アグネスを、欺瞞者として弾劾する。世は虐げられた民衆を救済するための革命を必要としている。この文を目にした諸氏は、腐敗する都市の有様を思い浮かべた上で、今一度、自分の胸に問いかけてみるが良い。政府がお題目のように唱える平和が、果たして真に民衆のためであるかどうかを。そして考えてみて欲しい。いまわれわれ民衆が、最前に何を成すべきかを』

 末尾に労働組合ブルシット代表、セサル・デル・トロという名が記載されている。ラルスは胡散臭げに目を細めた。いくら憲法によって言論の自由が保証されているとはいえ、書くほうも書くほうだし、載せるほうも載せるほうだ。暴動を煽る過激派の文面以外の何ものでもないではないか。どういうわけか、平和が続くとこういう血気にはやった連中も出てくる。終わりなき戦乱と呼ばれた旧大陸時代だったが、終わったら終わったで、新しい問題がつぎからつぎへと沸いて出るのだ。いったい何のための国家統一だったのか。人の心は昔と変わらず、争いを求めて堂々巡りである。セサル・デル・トロとやらのように不満を持つ輩もいるが、ラルス個人の感情としては、アグネスやジギスヴァルトは良くやっていると思えた。普遍的ともいえる人類の好戦的な一面を、お得意の民主政治とやらでここまで抑制してきたのだから。

 ラルスは新聞をとじた。他の紙は読む気になれなかった。どうせ似たようなことが書いてあるに決まっている。夢見が悪くてただでさえ不機嫌なのに、これ以上、気分を害したくない。ラルスは座ったまま首を伸ばして、キッチンを覗いた。エプロンを掛けたクルックスが、コンロの上でフライパンを転がしている。ラルスはデスクに足を載せながら、芝居がかった口調で声をかけた。

「今日の朝食は何かね、クルックス君」

 しばし間がおかれる。返事はない。本を読んでいるときと同じ。何かに熱中すると、あの三角の耳は聞こえなくなってしまう。今は雇い主に返事をするより、料理のほうが大事というわけだ。ラルスは少しすねたように口元をへの字に曲げ、うなだれた。

「呼びましたか、ラルス」

 いまさら、と思えるようなタイミングで、クルックスの声が聞こえる。紅茶のいい香りが漂ってきた。ラルスは機嫌を直して顔を上げた。

「なんでもないよ」

 クルックスはきょとんとした表情のまま、デスクの上につぎつぎと皿やカップを置いた。こんがり焼けたトーストの表面が、ひよこの羽の色をしている。立ち上る湯気に、ほのかにバターの匂いが混じっている。いつものパンとは違う。

「なんだこれは」

「フリーダムトーストです」

「ん?」

「食パンを、卵と牛乳、それに砂糖を加えて混ぜたものに漬けて、フライパンで焼いた料理です」

「フリーダムとは、またご大層な名前だな」

「料理の本で読んだとおりに言ったまでです。別名もあるようですが」

 淡々と説明するクルックスの声を聞きながら、ラルスは熱々のトーストを千切って口に放り込んだ。砂糖の甘さと、卵の風味、そしてバターのコクが口の中で溶け合う。お菓子のようだが、腹持ちはよさそうだった。

「うまいよ」

 ラルスは口をもぐもぐさせつつ、本心から言った。

「ありがとうございます」

 短く、無表情に受け答えてから、クルックスも自分の朝食をガラスのテーブルに並べ、ふわりとソファーに座った。スプリングの軋む音がかすかに響き、彼女の体重の軽さを物語った。昨夜ラルスの飲んだウィスキーのボトルやグラスは、テーブルからきれいに片付けられていた。

 クルックスはティーカップを手に取り、やけどをせぬよう何度か吹いてから、おそるおそる口につけた。が、やはり熱かったらしく、お茶を飲み込むことが出来ず、舌を出して少し涙ぐむ。それを見て、ラルスは頬をほころばせる。これがラルス探偵事務所の、いつもどおりの朝である。窓から明るい日光が差し込み、床の一角を白々と縁取る。今日も暑くなりそうだった。

「マルグリットの様子はどうだ」

 フリーダムトーストを持ったまま椅子から立ち上がり、窓の外の風景を見下ろしながら、何とはなしにラルスが問う。まだ早い時間だが、リビュア地区は開店作業に勤しむ商人や、仕事へ向かう人の群れで、活気にあふれている。幼馴染三人、仕事は違えどさして遠く離れもせず、同じくこの街で生活している。マルグリットの腕は確かだが、若く見えたとしても戦後二十五年、それ相応の年齢だ。無理しないほうがいいとは思うのだが。

 クルックスは、ラルスの言葉を仕事の進行状況について尋ねられたと取ったようだ。

「ターゲットがはっきりしていないので、現在は聞き込みをしています。歓楽街などを中心に売人の動向を洗っていますが、難航しています」

「ほう。女二人で歩いていれば、ホステスのスカウトあたりが話しかけてきそうなもんだが」

「いえ、むしろ逆です。私は見た目が幼すぎるし、マルグリットは、その」

「ああ、みなまで言うな」

「結局は逆上して、腕っ節で聞き出してしまうんですが、それはそれで住民が恐れをなしてしまって、今では近寄ってすらこないという状況です」

 ラルスは嘆息した。マルグリットは有能なのだが、気が短いのが欠点だ。ラルスも、メグナードも、過去に失言するたび、どれほど痛い目にあわされてきたことか。おまけに、日ごろから気にしている年齢のことが絡んできたとなれば、なおさらだろう。マルグリットの不機嫌そうな顔が目に浮かぶ。穏やかに笑っていれば文句なしの美人なのだが。片手間にはなるが、こちらでも情報を集めてみるか、とラルスは思う。

「ラルスのほうはどうですか」

 クルックスがようやく適温になった紅茶を傾けながら訊いた。

「うむ……学生は気楽でいいな」

 ラルスの返答には力がなかった。オルテュギア・ハイスクールの様相は、日々平和そのものだった。つまり、レオンハルトの周辺に、目立った動きは何もないということだ。もとより事件性のない依頼だし、当然といえば当然だった。しかし、物足りなさは否めない。どうも気持ちが煮え切らない。苛立ち紛れに、依頼人から受け取っていた前金を、湯水のように使ってみたい衝動に駆られた。

 ラルスは朝食を終えると、事務所の奥の金庫を開けにいった。すかさず背後からクルックスが釘をさす。

「ラルス。捜査経費の使い込みには気をつけてください。一時は潤っていても、ラルスの経済観念では、あっという間に赤字に戻る危険性があります」

「分かってるよ……ほら、お小遣い」

 ラルスは苦笑いを浮かべながら、金庫から取り出した高額紙幣を数枚、クルックスに差し出した。しかし、彼女は受け取らない。

「経理がややこしくなるので、いりません」

「かたいこというなよ」

「ただ単に非効率だと言っているのです。それよりも所定の日に、正当な賃金を滞りなく支給することを要求します」

「あ、ああ」

「手に持った札束は何に使うのですか」

「いや、その、何日か前に、マルグリットに小奇麗にしとけって言われただろ。捜査の前にメグナードんとこ寄って、服でも新調しようかと思ってな」

 クルックスは疑わしげな目つきで、ラルスの頭のてっぺんから、足の先までをじっくりと眺めた。しわだらけのワイシャツ、しみだらけのスラックス。これでは、顔だけ髭を剃ってすっきりしても意味がない。クルックスはつかつかと歩み寄ると、ラルスの手から札束を引ったくり、その大半を抜き取って金庫に戻した。

「服を買うなら、これだけあれば充分です」

 クルックスの言葉にラルスは一瞬だけ不服の色を見せたが、言い合いで勝てないのは目に見えているので、黙って残された分の金をポケットにねじ込んだ。ラルス探偵事務所が廃業せずにいられるのは、少ない収入の中で、クルックスが苦労してやりくりしてくれるからだ。それが分からないほど、落ちぶれてはいないつもりだった。

 申し訳程度の身支度を整え、ラルスは事務所の扉の前に立った。部屋の中を振り返り、クルックスに声を掛ける。

「じゃ、行ってくる。マルグリットによろしくな」

「ええ。ラルスも、メグナードによろしく」

「ああ」

「あ、それと」

「なんだ」

「メグナードから、ちゃんと領収書を受け取ってきてくださいね」

「……わかったよ」

 ラルスは疲れた声音で返事をして、ドアを開けた。ビルの外に出ると、真夏の太陽がひりひりと肌を刺した。光に目が慣れるまで、ラルスは目を細め、額の上に手をかざした。

(まったく、しっかりした娘を持って幸せだよ)

 心の中で皮肉っぽく独白し、ラルスはメグナード商店の方角へ足を向けた。

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