チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語 作:Valkiria
第二章
### 1
5限目のチャイムが鳴り終わると同時に、気だるげな熱気が体育館を包み込んだ。
科目、体育。種目はバスケットボール。
スクールカースト上位の人間たちが、最もその輝きを放つ舞台だ。
「朔ー! イッケー!」
「朔くん、パスパス!」
黄色い声援が飛び交う。ギャラリーには七瀬悠月、柊夕湖をはじめ、クラスの女子のほとんどが集結している。
コートの中央では、千歳朔が汗を飛ばしながら疾走していた。鮮やかなドリブルで敵を翻弄し、レイアップを決める。その姿は、まさしく青春映画の主役だ。
俺はその同じチームで、あくまで「運動音痴ではないが、目立たない凡人」として、コートの隅で呼吸を整えていた。
(……退屈な演目(シナリオ)だ)
俺の役割は、パスの中継地点。ボールを持ったらすぐに千歳に返す。それだけの簡単なお仕事だ。
だが、試合は拮抗していた。相手チームにはバスケ部が現役で二人いる。
残り時間10秒。点差は1点ビハインド。
「――転校生!」
千歳が鋭いドライブで敵を引きつけ、俺にパスを出した。
絶妙なタイミング。本来なら、俺がシュートを打ち、外すか決めるかという場面だ。
だが、ゴール下には相手チームの長身センター――185センチはある大男――が待ち構えている。
彼はニヤリと笑い、ブロックに飛ぶ体勢に入った。『ここでお前は止まる』という慢心が見える。
その瞬間、俺の中で冷たい歯車が回った。
いつも通り、適当にフェイントを入れてパスを戻すか?
いや、それじゃあ面白くない。千歳朔、お前が作った「最高のラストシーン」という舞台装置。
――少しだけ、本気の一端を見せてやるよ。
俺は減速しなかった。
ボールを受け取った瞬間、全身の筋肉を連動させ、トップスピードへと加速する。
「は? 無理だろ!」
ブロックに入った相手が、両手を広げて立ちはだかる。壁だ。普通の高校生なら、ここで立ち止まる。
だが、俺はボールを片手で鷲掴みにすると――右足で床を爆発的に踏み切った。
### 2
**ドォン!**
重い爆発音が床から響いた。
俺の視界が一気に上昇する。
重力という概念が、一瞬だけ機能を停止したかのような浮遊感。
「え……?」
ブロックに飛ぼうとした相手が見上げた時には、俺の膝がすでに彼の顔の高さにあった。
70センチを優に超える垂直跳び。
目にかかるセンターパートの前髪が、逆風で荒々しく舞い上がり、隠されていた俺の瞳が露わになる。
その瞳は、獲物を見下ろす捕食者のように冷酷に凪いでいた。
視界が開ける。
リングが、眼下にある。
俺は空中で相手を見下ろした。
その目は恐怖に染まっていた。人間が、自分より高い位置にいる生物に対して抱く、本能的な畏怖。
(見ろ、千歳。これが「高さ」だ)
俺は頂点でボールを振りかぶり、そのままリングへ向かって右腕を叩きつけた。
**――ガシャァアアアン!!**
轟音が体育館の空気を引き裂いた。
スラムダンク。
俺の手がリングを掴み、ボード全体が悲鳴を上げて揺れる。
ブザービーターの電子音が鳴り響くが、リングが破壊されたかのような金属音にかき消された。
俺は着地する。
ダンッ、と静かに。膝のサスペンションが衝撃を完全に殺す。
体育館が、静寂に包まれた。
歓声ではない。あまりに現実離れした光景を前に、誰もが脳の処理を追いつかせることができず、声を失っていたのだ。
柊夕湖は口をぽかんと開け、持っていたメガホンを取り落としている。
七瀬悠月は目を見開き、冷徹な仮面が剥がれ落ちていた。
そして、千歳朔。
彼はパスを出した姿勢のまま、固まっていた。
その瞳孔が開いている。「すごい」という感情よりも先に、「異常なものを見た」という警戒心が走っている顔だ。
(……少しやりすぎたか)
俺は瞬時に「道化」の仮面を被り直す。
強張った空気を溶かすように、わざとらしく千歳に駆け寄った。
「す、すっげーパスだったな千歳くん!!」
俺は興奮したフリをして、震える手を見せる。
「今のパス、手に吸い付くみたいですごい勢いだったから……俺、自分でもびっくりして、なんか体が勝手に引っ張られちゃってさ! い、今のマグレ、入ってよかったぁ……」
千歳の方を指差し、全てはお前のパスのおかげだ、と強調する。
「……あ、あぁ」
千歳がようやく瞬きをした。
彼は俺と、まだ揺れが収まらないバスケットゴールを交互に見る。
パスの勢いで、人間があんな高さまで飛べるわけがない。物理法則を少し知っていれば、誰でもわかる嘘だ。
だが、千歳はすぐに営業用の笑顔を貼り付けた。引きつってはいたが、場の空気を戻そうとする王者の処世術だ。
「……はは、ナイスシュート。びっくりしたぜ、あんなバネ隠し持ってたなんてな」
「い、いやぁ、火事場の馬鹿力ってやつかな? あはは……」
頭をかきながら、俺は心の中で冷ややかに舌を出した。
無理がある言い訳だ。だが、これでいい。
俺の身体能力は「マグレ」や「火事場の馬鹿力」で片付けられるレベルを超えていた。その事実は、彼らの脳裏に強烈な「違和感」と「恐怖」の棘(トゲ)として残る。
### 3
放課後。夕暮れの通学路。
成り行きで、俺は千歳朔、そして七瀬悠月と一緒に帰ることになっていた。
俺としてはさっさと一人になりたかったが、バスケの一件以来、夕湖が妙に絡んでくるようになったのだ。
「ねーねー、あのダンクさぁ、もう一回やってよー! 動画撮りたい!」
「いや、あれは本当にマグレだから……」
そんな他愛ない会話をしていた時だ。
「おい、そこの藤高生」
行く手を遮るように、コンビニの駐車場から二人の男が現れた。
制服は着崩し、髪は痛んだ茶色。どこにでもいる、質の悪い不良だ。
彼らは俺たちを取り囲むように前に立つ。
「楽しそうだな。俺ら財布落としちゃってさぁ、ちょっと貸してくんね?」
典型的なカツアゲ。
俺は一歩下がり、怯えたように体を縮こまらせた。
まずは千歳朔、お前の「王としての器」を見せてもらおうか。
千歳は、俺と夕湖を背に隠すように一歩前に出た。
「悪いな。俺らも今から用事があるんだ。他を当たってくれ」
声色は穏やかだが、目は笑っていない。毅然とした態度。
暴力に訴えることなく、言葉だけで場を制圧しようとするオーラ。なるほど、高校生相手ならこれで十分通用する。
だが、こいつらは少し頭が悪すぎたようだ。
「あぁ? ナマイキなんだよイケメンが!」
一人の男が千歳に掴みかかろうとする。千歳が反応し、身構える。
その隙に、もう一人の男が「弱そうな獲物」である俺に目をつけた。
「オラッ! テメェはビビってんじゃねぇよ!」
**ガシッ。**
俺の胸ぐらが掴まれた。タバコの臭い息がかかる。
(……はぁ。やむを得ないな)
千歳はもう一人への対応で手一杯だ。夕湖は悲鳴を上げている。
ここで俺が一方的にボコボコにされれば、千歳の「守れなかった」という負い目になるかもしれないが……顔が腫れるのは面倒だ。
俺は抵抗する素振りを見せず、胸ぐらを掴んでいる男の手首に、自分の手をそっと添えた。
「ひっ、や、やめてください……!」
口では情けない声を出しながら。
俺の指は、男の手首の関節(ツボ)を正確にホールドしていた。
(ゆっくりでいい)
瞬発力などいらない。万力(バイス)のように、ただ純粋な握力だけで締め上げる。
じわり、と俺の指が男の肉に食い込む。
「あ?」
AI生成
男が怪訝な顔をした。振り払おうとするが、俺の手は微動だにしない。鉄の枷だ。
俺は男の目を見据えたまま、ゆっくりと、さらにゆっくりと、圧力を加えた。
ミチッ、と筋肉が悲鳴を上げる音がする。
「――っ!? ぎ、あ……!?」
男の顔色が瞬時に蒼白になる。何が起きているのか理解できていない。ただ、手首を粉砕されるような激痛と、逃げられない絶対的な拘束感だけがそこにある。
俺はさらに、数ミリだけ握り込んだ。
**バギっ。**
乾いた音が、路地裏に響いた。
骨に、ほんの少しのヒビが入った音。これ以上やれば折れる、その寸前の警告音。
「あ、アガッ、アァアアアア!!」
男は悲鳴を上げ、俺の手を振りほどこうと暴れた。
俺はパッと手を離す。男は反動で尻餅をつき、自分の手首を押さえて悶絶した。
「おい! どうしたんだよ!?」
「て、手首が……! こいつ、なんかヤバい、逃げるぞッ!」
相棒の男も、仲間の異常な怯え方に気圧され、捨て台詞を吐いて逃げ出した。
脱兎のごとく、とはこのことだ。
後に残されたのは、静寂。
俺は肩をすくめ、強張っていた表情筋を緩めた。
そして、ゆっくりと振り返り、苦笑いを浮かべた。
「いやー、怖かったなぁ……w」
へらりと笑う。まるで、今の出来事が幸運な事故でしかなかったかのように。
だが、千歳朔だけは動かなかった。
彼は逃げていった不良の背中と、俺の「手」を交互に見ている。
今の「バギっ」という音。あれは関節が鳴る音とは質が違っていた。そして、不良が浮かべていた「痛み」の表情は、ただ転んだ程度のものではない。
千歳が俺を見る。その瞳は、深淵を覗き込むように暗く沈んでいた。
(気づいたか? だが、証明はできない)
俺は震えるフリをして、夕湖に「ちょっとジュース奢ってよー」と甘えてみせた。
その背中越しに、千歳の疑念が確信へと変わりつつある気配を感じながら。
### 4
翌日。物理の授業。
教室の空気は、千歳の俺に対する警戒心によって張り詰めていた。
そんな中、担当の教師が余談として黒板に数式を書き始めた。
「――というわけで、光は波であり粒子なんだが。まあ、君たちにはまだ早いが、この世界を記述する美しい式があってね」
シュレディンガー方程式。
微分方程式の形で書かれたそれは、高校物理の範疇を大きく逸脱している。
「誰か、この式を解いて波動関数を導ける者はいるか? ……ま、いないよな」
教師が笑う。千歳も苦笑いをしている。
俺はあくびを噛み殺し、ふらりと席を立った。
「ん? どうした転校生」
俺は無言で教壇に上がり、チョークを手に取った。
カッカッカッ、と硬質な音が教室に響く。
俺の思考は加速する。変数を分離し、一般解を導き、境界条件を適用する。
黒板一面に広がる数式の羅列。それは、ある種の芸術的でさえあった。
最後に、エネルギー準位の式を書き終え、俺はチョークを置いた。
シン、と静まり返る教室。
教師が眼鏡をずり上げ、口を半開きにしている。
「せ、正解だ……。君、これを理解しているのか?」
クラス中の視線が突き刺さる。千歳朔も、目を見開いて俺の背中を見つめていた。
俺はゆっくりと振り返り、いつもの「間の抜けた顔」を作った。
そして、照れくさそうに頭をかいた。
「え? ……あ、これ合ってました?」
そして、視線を千歳に向け、少し申し訳なさそうに言った。
「これ、昨日**千歳くん**が図書室で教えてくれたやつですよね?」
「……は?」
千歳の口から、小さな音が漏れた。
俺は畳み掛けるように、クラス全員に聞こえる声で続ける。
「僕、昨日物理の本読んでて全然わからなくて。そしたら千歳くんが通りかかって、『これはこうやって解くんだよ』って。……僕、意味は全然わかんないんですけど、千歳くんが書いてたのを『絵』として覚えてて。真似して書いてみただけなんです」
嘘だ。千歳とは図書室で会ってすらいない。
だが、俺はニッコリと笑って、千歳にパスを投げた。
教室の空気が爆発した。
「ええっ!? 朔、こんなのもわかんの!?」
「すげぇ! 物理学者かよお前!」
「隠れてそんな勉強してるとか、かっこよすぎでしょ!」
千歳は凍りついていた。
彼は知っている。自分が教えていないことを。そして、黒板の数式が自分には理解不能であることを。
だが、ここで否定すれば、俺を嘘つき呼ばわりすることになる。それは彼の「器」に関わる。そして何より、否定した瞬間、「じゃあ誰がこれを解いたんだ?」という矛先が俺に向き、俺の実力が露呈することを本能的に恐れたのだ。
千歳は一瞬の葛藤の後、引きつった笑みを浮かべた。
「……あ、あぁ。よく覚えてたな。完璧だぞ、お隣さん」
乗った。
彼は「万能の王様」という虚像を守るために、俺の嘘を飲み込んだ。
俺は席に戻り際、千歳と目が合った。彼は小声で、俺にだけ聞こえるように呟いた。
「……お前、何が目的だ?」
探るような、震える声。
俺は立ち止まり、彼を見下ろして、人の良さそうな笑みを深めた。
「うん? ただの恩返しだよ、千歳くん」
俺は席につき、窓の外を見る。
千歳朔は、もう授業に集中できていない。
背中から伝わってくる彼の動揺と、背負わされた「偽りの天才」という十字架の重み。
それが俺には心地よかった。