チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語 作:Valkiria
### 1.歪な箱庭の冬
福井の空から鉛色が抜けきらない、1月の中旬。
あのおぞましい百人一首大会の地獄絵図から一ヶ月が経過していた。
2年5組の教室には、奇妙な均衡が保たれていた。
「あはは! 朔くん、それ言い過ぎだよー」
「いやいや、優空が天然すぎるんだって。塩と砂糖間違えるとか、漫画かよ」
教室の中央、ストーブの近くで千歳朔と内田優空が笑い合っている。
優空は、あの日体育館で尊厳を失い、社会的な死を遂げたはずだった。だが、彼女は戻ってきた。「体調不良による不幸な事故」という欺瞞にすがりつき、あるいは千歳への執着が羞恥心を凌駕したのか、彼女は「千歳を支える健気な彼女(ポジション)」に居座り続けている。
そして、その傍らには、柊夕湖と七瀬悠月の姿もあった。
「ねえねえ朔、今度の休みさぁ、みんなでカラオケ行かない?」
「……悪いけど夕湖。俺、その日は優空と課題やる約束があるから」
千歳が、夕湖の誘いを視線も合わせずに切り捨てる。
夕湖の顔が引きつり、悠月が気まずそうに目を逸らす。
彼女たちは、かつて俺(綾小路)という新しい強者に尻尾を振り、千歳を見下した。その裏切りを、千歳は許していない。グループに入れてはいるが、それは単なる数合わせか、あるいは自分の優位性を確認するための「背景」として扱っているに過ぎない。
千歳の心は、完全に優空に傾いている。
傷を舐め合う共依存。セロハンテープで無理やり繋ぎ合わせただけの、砕けた鏡のような関係性。
脆く、歪で、見ていて滑稽な茶番劇。
(……ま、このまま腐っていくのを眺めるのも一興か)
俺は一番後ろの席で、文庫本のページをめくりながらそう思っていた。
だが、その予想は裏切られることになる。
俺すら予期していなかった「天然の爆弾」が、この箱庭に放り込まれたからだ。
### 2.完璧な後輩、あるいは三ツ星の貢物
「――失礼します! 千歳先輩、いらっしゃいますか?」
昼休み。教室の扉が勢いよく開き、鈴を転がすような澄んだ声が響いた。
教室中の視線が集まる。
そこに立っていたのは、1年生の女子生徒だった。
鮮やかなオレンジ色の髪をポニーテールに結い上げ、ジャージの上からでも分かる引き締まった肢体。
冬の寒さなどものともしない、太陽のようなエネルギーを纏った美少女。
**望 紅葉(のぞみ くれは)。**
陸上部に所属する後輩であり、入学当初からその身体能力と愛嬌で名の知れた存在だ。
「あ、紅葉ちゃん。どうしたの?」
千歳が少しだけ表情を緩める。
彼女は以前から千歳グループと交流があり、その謙虚な姿勢で可愛がられていた。
だが、今日の彼女はいつもと違った。
彼女はまっすぐに千歳の元へ歩み寄ると、背中に隠していた包みをおずおずと差し出した。
「あの……今日、家庭科の調理実習でクッキー焼いたんですけど……作りすぎちゃって」
上目遣い。頬を染める恥じらい。
完璧な「可愛い後輩」のムーブ。
「よかったら、先輩たちで食べてくれませんか? ……特に、千歳先輩に味見してほしくて」
千歳が包みを開ける。
中には、店で売られているかのように美しくラッピングされたクッキーが入っていた。
形も均一、焼き色も完璧。甘いバニラの香りがふわりと漂う。
調理実習の余り? 嘘だ。最初から千歳に渡すために、計算して作られた「貢物」だ。
千歳が一つ口に放り込む。
「……っ! うまっ! え、これマジで手作り?」
「はい! 先輩、甘さ控えめが好きだって聞いてたので、お砂糖少なめにして、ナッツを入れてみました!」
紅葉が花が咲くような笑顔を見せる。
千歳の好みを完全に把握した味付け。プロ顔負けのクオリティ。
その瞬間、内田優空の表情が凍りついたのが見えた。
料理。それは彼女が千歳に貢献できる唯一の武器だ。それが今、ポッと出の後輩にあっさりと上回られたのだ。
(……ほう。無自覚な領域侵犯か)
俺は観察する。
紅葉の瞳の奥には、優空や夕湖たちが持っている「恋心」とはまた違う、もっと重く、粘着質な光が宿っている。
彼女の行動の全てが、「千歳朔に関わるため」だけに最適化されているとしたら?
これは、俺が手を下すまでもなく、面白いことになりそうだ。
### 3.放課後の断絶、缶コーヒーの言い訳
その日の放課後。
茜色の夕日が校舎を染める頃、**柊夕湖**は廊下を早足で歩いていた。
手には、自動販売機で買ったばかりの微糖コーヒーが握られている。
(……朔、まだ教室にいるかな)
彼女の心は焦っていた。
最近の千歳の態度は冷たい。このままでは、グループから弾き出されてしまうかもしれない。
だから、きっかけが欲しかった。
かつてのように、「勉強教えてよー」と甘えて、彼の懐に入り込む。
勉強が苦手なギャルと、面倒見のいい秀才男子。その関係性が、彼女にとっての唯一の居場所だったからだ。
夕湖は2年5組の教室の前まで来ると、深呼吸をして、いつもの明るい笑顔(マスク)を貼り付けた。
勢いよくドアを開けて、「やっほー朔!」と声をかけるつもりだった。
――その、寸前。
教室の中から聞こえてきた「声」に、彼女の足は縫い止められた。
「――すごぉい! 千歳先輩、教え方上手すぎです! 教師になれますよ!」
甘く、弾むような声。
夕湖の声ではない。あの、オレンジ色の髪の後輩の声だ。
### 4.ガラス越しの楽園
夕湖はドアに手をかけることができず、廊下側の窓からそっと中を覗き込んだ。
そこには、残酷なほど美しい光景が広がっていた。
夕日が差し込む窓際。
千歳朔の机。
彼が座り、そのすぐ隣――本来なら夕湖が座るべき特等席――に、望紅葉が椅子を持ってきて座っていた。
距離が、近い。
互いの肩が触れ合うか触れ合わないかの、絶妙な距離感。
紅葉はノートを広げ、上目遣いで千歳を見つめている。
「ここ、授業聞いても全然わからなくて……。でも、先輩の説明だと魔法みたいに分かります!」
「はは、大げさだよ紅葉ちゃん。ここは基礎だからさ」
千歳が笑っている。
作り笑いではない。
かつて夕湖が大好きだった、「頼られることが嬉しくてたまらない、自信に満ちた男の笑顔」だ。
紅葉は、ただ勉強を教わっているだけではない。
『先輩はすごい』『先輩は頭がいい』
その純度100%の称賛を、飢えた獣に与え続け、千歳の自尊心を完璧に満たしているのだ。
(……そこは、あたしの席なのに)
夕湖の手の中で、缶コーヒーがミシミシと音を立てる。
勉強を教えてもらうという口実。分からないふりをして顔を近づけるテクニック。
それらは全て、夕湖が使ってきた武器だ。
だが、紅葉はそれを夕湖よりも遥かに高いレベルで、しかも「天然の無邪気さ」という最強の鎧を纏って実行している。
「……あ、ここわかんないですぅ。先輩、手、借りていいですか?」
紅葉が自然な動作で、千歳の手を取る。
千歳は拒まない。むしろ、顔を赤らめて満更でもなさそうだ。
その瞬間、夕湖は悟ってしまった。
**「ああ、負けたんだ」**と。
過去のしがらみも、裏切りの記憶もない、無垢な後輩。
「汚れた元カノ」のような自分が入っていける隙間なんて、1ミリも残されていない。
夕湖は唇を噛み締め、涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、踵を返した。
逃げるように。自分の居場所が完全に消滅した事実から、目を背けるように。
### 5.体育館裏の乾いた音
一方、その頃。
寒風吹きすさぶグラウンドの片隅、体育館裏でもまた、一つの心が折れようとしていた。
**青海 陽(あおみ はる)。**
彼女はジャージのポケットに手を突っ込み、使い込まれたバスケットボールを抱えていた。
バレーボール大会での顔面崩壊のトラウマは癒えていないが、それでも彼女はスポーツマンだ。
千歳を励ますには、一緒に体を動かすのが一番だと思っていた。
(……朔、元気かな。バスケ誘ったら来てくれるかな)
そう信じて、彼を探していた時だった。
**パァンッ!!**
乾いた、小気味よい音が鼓膜を叩いた。
バスケットボールが床を叩く鈍い音ではない。
硬球が革のミットに収まる、特有の鋭い捕球音。
「――ナイスボール! 紅葉ちゃん、筋がいいな!」
聞き慣れた、けれど最近聞いていなかった弾んだ声。
陽は息を呑み、建物の影からそっとその光景を覗き込んだ。
### 6.届かないボール
そこにいたのは、千歳朔と望紅葉だった。
二人は適度な距離を取り、キャッチボールをしていた。
千歳朔は、元野球部だ。
陽にとって、野球をしている時の朔は「聖域」のようなもので、バスケ部の自分には踏み込めない領域だった。
だが、今。
その聖域に、オレンジ色の髪をなびかせた後輩が、軽やかに踏み込んでいた。
「えへへ、千歳先輩の構えがカッコいいから、私まで上手くなった気分です!」
紅葉が笑う。
彼女の投球フォームは美しかった。
しなやかな腕の振り、体重移動。放たれたボールは綺麗な回転を描き、吸い込まれるように千歳のグローブへと収まる。
**パァンッ!**
いい音だ。
お互いの呼吸が合っていなければ出ない、信頼の音。
「いや、本当にすごいよ。俺の球も怖がらずに捕ってくれるし……最高のキャッチボールだ」
千歳が心から楽しそうに笑う。
陽がバスケに誘った時のような、「付き合ってあげている」顔じゃない。
自分の原点である野球を共有できる相手との、魂の交流。
陽は、抱えていたバスケットボールを強く握りしめた。
ゴムの感触が、今はひどく惨めに感じる。
(……あたしじゃ、ダメなんだ)
陽の脳裏に、あのバレーボール大会の悪夢が蘇る。
ボールが顔面に迫る恐怖。砕ける鼻。
それがトラウマとなり、陽は今でも、高速で飛んでくる球体に対して無意識に体が竦む。
けれど、紅葉はどうだ。
硬球という、当たれば大怪我をするボールを、笑顔で恐れずに追いかけている。
その姿は、あまりにも眩しく、健康的で、そして――「無傷」だった。
傷だらけの元・ヒロインと、無傷で万能な新・ヒロイン。
勝負にすらなっていなかった。
「……っ」
陽は唇を噛み締め、ボールを抱えたままその場を去った。
背中で聞こえる**パァンッ**という快音が、自分の心臓を撃ち抜く銃声のように響いていた。
### 7.観察者の評価
俺は渡り廊下から、その二つの悲劇を同時に知覚していた。
教室から逃げ出した夕湖。グラウンドから去った陽。
どちらも、望紅葉という「無自覚な暴力」によって、その存在価値を否定された。
(……残酷だな、才能というのは)
努力家が時間をかけて積み上げた関係性を、天才は一夜にして、しかも無邪気な笑顔で上書きしてしまう。
望紅葉。
彼女は、千歳朔の心の隙間を埋めるのが上手すぎる。
計算なのか、天然なのか。
どちらにせよ、彼女の存在は、既存のヒロインたちにとって「死刑宣告」に等しい。
歪な均衡が、新たな「異物」の投入によって、音を立てて崩れ始めた。
俺が手を下すまでもなく、この後輩が勝手に地獄の釜の蓋を開けてくれるかもしれないな。
俺は冷たい風に吹かれながら、次なる悲劇のシナリオを想像した。
冬の寒さは、まだしばらく続きそうだ。