チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語 作:Valkiria
### 7.水辺の哲学者、黄昏の待ち人
福井の冬は、空の色だけでなく、川の水面さえも鉛色に染め上げる。
学校からの帰り道にある、九頭竜川の河川敷。
そこは、**西野明日風(にしの あすか)**にとって、そして千歳朔にとっても、日常の喧騒から切り離された特別な場所(サンクチュアリ)だった。
彼女は3年生の先輩であり、中性的で圧倒的な美貌を持つ文学少女だ。
夕暮れの河川敷で、一人静かに文庫本を読む。
千歳朔は、そんな彼女の隣に座り、言葉少なに時を過ごすことで、傷ついた羽を休めていた。
他のヒロインたちが見せる「恋心」や「独占欲」とは違う、もっと精神的で、高尚な繋がり。
明日風は信じていた。
朔がどれだけ傷つき、変わってしまっても、この場所に戻ってくれば、また「本当の彼」に会えるのだと。
(……遅いな、朔君)
明日風は、読みかけのページの角を白い指でなぞった。
冷たい風が、彼女のショートヘアを揺らす。
彼が部活(野球)をやめてから、ここは彼の逃げ場所であり、帰る場所だったはずだ。
今日もまた、彼が来るのを待っている。言葉はいらない。ただ隣に座って、同じ夕日を見るだけでいい。
ふと、土手の上から足音が聞こえた。
砂利を踏む音。だが、それは一人分ではなかった。
二人分の足音が、軽快なリズムで近づいてくる。
明日風は顔を上げた。
朔君だ。
彼女の口元が自然と綻びかける。
けれど、その微笑みは、次の瞬間に凍りついた。
### 8.オレンジ色の侵略者
「――あはは! 千歳先輩、それって太宰治ですか? 私も『人間失格』読みましたけど、結構共感しちゃいました!」
朔の隣にいたのは、鮮やかなオレンジ色の髪をなびかせた少女、**望 紅葉**だった。
彼女の手には、文庫本が握られている。
「え、紅葉ちゃんも読むの? 意外だな、スポーツ一筋かと思ってた」
「ひどーい! 私だって読書くらいしますよ。……先輩の好きなもの、もっと知りたいですから」
紅葉が、朔の顔を覗き込んで悪戯っぽく笑う。
朔が照れくさそうに頭をかく。
その光景は、明日風にとって信じがたいものだった。
この河川敷は、静寂と文学を愛する者だけの聖域だったはずだ。
あんな、太陽のエネルギーを凝縮したような「リア充全開」の少女が、足を踏み入れていい場所ではない。
文学? 読書?
彼女のような手合いには、最も縁遠い世界のはずだ。
だが、現実は残酷だ。
紅葉は、明日風が座っている定位置(ベンチ)のすぐ近くまで、朔を連れてきていた。
そして、あろうことか――。
「あ、ここの景色いいですね! 夕日がきれい!」
紅葉は、明日風がいつも座っているベンチの隣に、迷いなく腰を下ろした。
そして、自分のマフラーを少し緩めて、朔の首に巻きつけた。
「先輩、寒そうです。半分こしましょう?」
「えっ、いいの? 悪いよ紅葉ちゃん」
「いいんです。……あったかいですね」
一つのマフラーを共有する二人。
その距離はゼロ。
文学的な会話? 詩的な表現?
そんな高尚なものは、そこにはなかった。
あるのは、ただ圧倒的に「若く」「温かく」「生々しい」男女の触れ合いだけ。
### 9.物語の配役変更
明日風は、持っていた本を取り落としそうになった。
彼女は咄嗟に、橋脚の陰に身を隠した。
隠れる必要などないはずなのに。ここは彼女の場所なのに。
けれど、あの二人の間に流れる空気が、明日風を「部外者」として弾き出したのだ。
(……嘘でしょ)
明日風の美貌が、動揺で歪む。
彼女は自負していた。自分だけが、朔の心の奥底にある孤独を理解していると。
他の騒がしい女子たちとは違う、特別な存在だと。
でも、今の朔を見て。
彼は、難しい顔で哲学を語るよりも、紅葉の体温と甘い声に癒やされている。
「高尚な理解者」よりも、「隣で温めてくれる無邪気な後輩」を選んでいる。
「私、先輩のこと支えたいです。……野球も、勉強も、全部」
紅葉の真っ直ぐな言葉が聞こえる。
それは、明日風が言えなかった言葉。
あえて言わずに、察することで繋がっていると思っていた言葉。
それを、紅葉はあっけらかんと口にし、朔の心を解かしていく。
明日風の居場所だった「河川敷」は、今や紅葉と朔のデートスポットに上書きされていた。
そこにはもう、本を読む静かな先輩の席など用意されていない。
俺は土手の上から、橋脚の陰で震える西野明日風を見下ろしていた。
彼女の敗因は、「特別」にあぐらをかいていたことだ。
紅葉は、明日風の持つ「知的な会話」という領域にまで、浅くとも踏み込んできた。「私も本読みます!」というアピール一つで、明日風のアイデンティティを薄め、無力化した。
恐ろしいまでの適応力だ。
### 10.リハビリの弁当箱
1月下旬の昼休み。
教室の暖房が効きすぎた生暖かい空気の中で、**内田優空**は緊張していた。
彼女の机の上には、可愛らしい包み紙に包まれたお弁当箱がある。
(……大丈夫。今度は絶対に失敗しない)
あのおぞましい百人一首大会の「事件」以来、優空は料理から少し距離を置いていた。
包丁を握るたびに、あの日の悪臭と、千歳の絶望した顔がフラッシュバックするからだ。
けれど、千歳朔は優しかった。
「また優空の飯が食いたいな」と、震える声で(それはトラウマからくる震えだったかもしれないが)言ってくれたのだ。
だから、優空は勇気を出した。
早起きして作った、彩り豊かな特製弁当。
冷凍食品は一切なし。出汁から引いた卵焼きに、朔くんの好きな生姜焼き。
これが成功すれば、また私は「朔くんの特別」に戻れる。
「朔くん、これ……よかったら」
優空はおずおずと弁当を差し出す。
千歳は一瞬ビクリとしたが、すぐに笑顔を作った。
「お、サンキュー優空。腹減ってたんだ」
彼が箸を伸ばす。
優空は祈るような気持ちで見つめる。
美味しいと言ってほしい。あの日の記憶を、上書きしてほしい。
### 11.三ツ星の黒船
「――失礼しまーす! 千歳先輩、ここにいましたか!」
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
鮮やかなオレンジ色の髪。望紅葉だ。
彼女の手には、重箱のような立派なランチボックスが握られている。
「紅葉ちゃん? どうしたの?」
「へへ、実は昨日の夜、フレンチのフルコースの練習をしたんですけど、余っちゃって。先輩の口に合うか分からないんですけど……」
謙遜しながら彼女が広げた中身を見て、教室中がどよめいた。
それは「弁当」という次元を超えていた。
ローストビーフの赤ワインソース仕立て。
彩り野菜のテリーヌ。
キッシュ・ロレーヌ。
まるで高級ホテルのビュッフェから切り取ってきたような、宝石のような料理たち。
「す、すげぇ……! これ、紅葉ちゃんが作ったの!?」
「はい! 父がシェフをしてて、小さい頃から仕込まれたんです」
紅葉が悪戯っぽく笑う。
料理が得意、というレベルではない。英才教育を受けた「本物(プロ)」の腕前。
「ど、どうぞ! 食べ比べてみてください!」
紅葉が強引に箸を渡す。
千歳は圧倒されながらも、ローストビーフを口に運んだ。
「……ッ!!」
千歳の目が、カッと見開かれる。
「う、うまっ……! なんだこれ、店より美味いぞ!?」
「本当ですか? よかったぁ! ソースの煮詰め具合にこだわったんです!」
千歳の反応は、劇的だった。
舌鼓を打ち、次々と紅葉の料理を口に運ぶ。
そこには、優空への気遣いやトラウマなど入り込む隙間もない、純粋な「食への感動」があった。
### 12.味覚の格差社会、奪われたエプロン
一方で、優空の弁当は――蓋が開けられたまま、放置されていた。
優空の料理は「家庭料理」だ。
美味いか不味いかで言えば、間違いなく美味い。
だが、紅葉の料理は「美食」だ。
素材、技法、見た目。全ての次元が違う。
家庭的な温かさ? そんな曖昧なものは、圧倒的なプロの技術の前では「地味」という評価に変わる。
「あ、優空先輩のお弁当も美味しそうですね! ……あ、でも卵焼き、ちょっと焦げちゃってます? ドンマイです!」
紅葉が無邪気に指摘する。
優空の卵焼きの端にある、ほんの僅かな焦げ目。
それは「手作りの温かみ」だったはずなのに、紅葉の完璧な料理の横に並ぶと、ただの「失敗」に見えてしまう。
「……あ」
優空の手から、自分の箸が滑り落ちた。
カラン、と乾いた音がするが、夢中でローストビーフを頬張る千歳には聞こえていない。
(負けた……)
優空の目から、大粒の涙が溢れ出した。
料理は、私だけのものだったはずなのに。
私が朔くんの胃袋を支えて、朔くんの健康を守って、二人で「美味しいね」って言い合う。
それは、私だけに許された、特別で神聖な日常だったはずなのに。
紅葉の料理には、百人一首大会の「毒」の記憶もない。
ただただ美味しくて、綺麗で、朔くんを幸せにする魔法。
私には、もう勝てる要素が何もない。
「ごめん、なさい……」
優空は小さく呟くと、自分のお弁当をひったくるように回収し、教室を飛び出した。
背後で千歳が「あ、優空!?」と呼ぶ声がしたが、すぐに紅葉の「先輩、こっちのデザートも食べてください!」という明るい声にかき消された。
俺は廊下の陰で、泣きながら走り去る優空を見送った。
残酷だな、才能というのは。
努力家が十年かけて積み上げた城を、天才は一夜にして、しかも無邪気な笑顔で更地にしてしまう。
夕湖、陽、明日風、そして優空。
千歳朔を支えていた柱が、次々と折られていく。
残るはあと一人。
最もプライドが高く、最も手強い――七瀬悠月。
そして、この天然の嵐(紅葉)が最後に飲み込むのは、千歳朔自身かもしれない。