チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語   作:Valkiria

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【第二十七章:最後の聖域、あるいは満員電車の断頭台】

### 1.回帰する川辺

 

 12月に入り、福井の冬は本格的な厳しさを増していた。

 鉛色の空から時折落ちてくる白い冷たいものが、校舎の窓ガラスを叩く。

 

 望紅葉という「天然の捕食者」が排除され、学校には奇妙な凪が訪れていた。

 千歳朔は、少しずつだが学校に来られるようになっていた。

 教室では内田優空が献身的に支えている。だが、それは「傷を舐め合う」だけの共依存に過ぎない。

 彼が本当に心を許し、安らぎを求めて向かう場所は別にあった。

 

 放課後の河川敷。

 俺は橋の上から、土手のベンチに座る二つの人影を見下ろしていた。

 

 千歳朔と、西野明日風。

 

「……先輩。俺、やっぱり自信ないです」

「大丈夫よ、朔君。貴方は貴方らしくいればいいの」

 

 明日風は本を閉じ、穏やかな微笑みで千歳を包み込んでいる。

 彼女は、ここ数ヶ月の千歳を巡るドロドロとした惨劇の「当事者」ではない。

 紅葉に嫉妬したことはあったが、物理的に破壊されたわけでも、尊厳を奪われたわけでもない。

 だからこそ、彼女だけが「無傷の聖女」として、千歳を受け入れることができている。

 

(……運命の修正力、か)

 

 他のヒロインたちが壊滅してもなお、世界は千歳朔を「主人公」として扱おうとするのか。

 彼にとって、この河川敷は唯一残された「安全地帯(セーフティ・ゾーン)」であり、明日風は「最後の聖域」だ。

 

 だが、その安らぎも今日で終わりだ。

 俺が彼女を見逃していたのは、単に優先順位の問題に過ぎない。

 王が城に逃げ込むなら、城ごと焼き払うまで。

 

 俺はポケットから、一枚の受験票を取り出した。

 明日は日曜日。

 3年生にとって運命を左右する、「駿台全国模試」の開催日だ。

 

### 2.揺れる密室、硝子の朝

 

 決戦の朝。

 福井鉄道の車両は、独特の緊張感と熱気に包まれていた。

 湿ったウールのコートの匂い、整髪料の香り、そして数百人の受験生が発する「焦り」の気配。

 窓ガラスは結露で白く曇り、外の景色を遮断している。

 

 俺は伊達眼鏡とマスク、普段着ないグレーのダッフルコートで変装し、車両の隅で吊革に捕まっていた。

 視線の先、数メートル。

 ドア付近のスペースに、西野明日風が立っていた。

 

 彼女は必死だった。

 普段のクールでミステリアスな余裕はない。

 片手に単語帳を持ち、赤いシートで隠しながら、ブツブツと口の中で英単語を反芻している。

 彼女は難関国立大学を目指している。今日の模試の結果は、志望校の判定だけでなく、彼女自身のプライドとアイデンティティに関わる重要な指標だ。

 

(……一生懸命だな、先輩)

 

 俺は人波に押されるふりをして、少しずつ彼女との距離を詰めていく。

 満員電車特有の圧迫感。

 誰もが他人に無関心で、自分の足場を確保することだけに意識を割いている空間。

 工作を行うには、これ以上ない舞台装置だ。

 

 明日風の意識は、手元の単語帳と、頭の中の「未来」に向いている。

 足元の「現在(げんじつ)」に、悪魔が息を潜めて近づいていることになど、気づくはずもない。

 

 俺は左手をポケットに入れた。

 そこには、昨晩俺が作成した「異物」が入っている。

 これを滑り込ませるだけで、彼女の未来行きのレールは、奈落の底へとポイントを切り替えられる。

 

### 3.左ポケットへの侵入

 

 電車がカーブに差し掛かり、ガタンッ! と大きく揺れた。

 車内の乗客が、波のように将棋倒しになる。

 

「……っ」

 

 明日風がよろめき、バランスを取ろうと吊革を掴み直す。

 その一瞬の混乱。

 物理的な接触が許される、コンマ数秒の死角。

 

 俺は人波の圧力に身を任せるふりをして、彼女の左半身に密着した。

 視線はあさっての方向を見たままで、左手の指先だけを滑らせる。

 

 狙うは、ブレザーの左ポケット。

 ハンカチの端が少し見えている。口が開いている証拠だ。

 俺は掌に隠し持っていた「それ」を、音もなくその深淵へと滑り込ませた。

 

 それは、一見するとただのポケットティッシュのように偽装された、**精巧なカンニングペーパー**だ。

 アコーディオン状に折り畳まれ、広げれば極小文字で書かれた歴史年号や英単語がびっしりと並んでいる。

 焦った受験生が、魔が差して持ち込んでしまったかのような、生々しい代物。

 

(……入った)

 

 指先に、異物がポケットの底に収まった感触が伝わる。

 俺はすぐに体を離し、吊革を持ち直した。

 明日風は気づいていない。

 単語帳に集中するあまり、自分の懐に「社会的死」を招く爆弾が仕込まれたことに、微塵も勘づいていない。

 

 電車がリズムを刻みながら走る。

 それは、西野明日風の人生が終わるまでの、カウントダウンの音だった。

 

### 4.静寂の戦場、試験会場

 

 会場となる大学の講義室は、張り詰めた空気に支配されていた。

 鉛筆を削る音。参考書をめくる音。乾燥した咳払い。

 明日風は、中央列の席に座っていた。

 筆記用具を几帳面に並べ、目を閉じて深呼吸をしている。

 千歳朔との思い出を糧に、未来を切り開こうとする彼女の横顔は、周囲の誰よりも凛として美しかった。

 

 俺は斜め後ろの席から、その背中を眺めていた。

 偽造した受験票と、この一科目のためだけに支払った受験料が、俺にこの特等席を与えてくれた。

 

「――これより、試験に際しての注意事項を説明します」

 

 試験監督の声が響く。

 

「机の上には、受験票、筆記用具、時計以外は置かないこと」

「携帯電話は電源を切ってカバンにしまうこと」

「そして、不正行為が発覚した場合……**即刻退場とし、全科目を無効とします**」

 

 不正行為。

 その言葉が、静寂の中で重く響く。

 明日風は真剣な表情で頷いている。

 自分には関係のない話だと思っているのだろう。彼女のプライドと美学が、カンニングなどという卑劣な行為を許すはずがないからだ。

 

 だが、現実は彼女の意志とは無関係に進行する。

 彼女の左ポケットの中で、あの紙切れが息を潜めている限り。

 

### 5.善意の告発

 

 最初の科目は「政治・経済」。

 **キーンコーン、カーンコーン……**

 開始のチャイムと共に、一斉に紙をめくる音が響き、戦いが始まった。

 

 明日風のシャープペンが走る。

 順調そうだ。彼女の実力なら、この程度の問題は難なく解けるだろう。

 俺は自分の解答用紙に適当に答えを書き込みながら、時計を見た。

 開始から30分。

 教室内の緊張感がピークに達し、監督の巡回が始まったタイミング。

 

 俺は音もなく、スッと右手を挙げた。

 

 試験監督が気づき、足音を忍ばせて近寄ってくる。

 俺は監督に顔を寄せ、周囲に聞こえないような小声で、しかしはっきりと伝えた。

 

「……あの、すみません」

 

 俺は困ったように眉を下げ、前の席――西野明日風の背中を視線で指し示した。

 

「前の席の人なんですが……。さっきから、左のポケットから紙のようなものを出し入れしているのが見えて」

 

 監督の目が鋭くなる。俺は慌てて付け加える。

 

「あ、いや、見間違いだとしたら本当に申し訳ないんですが……鼻をかむティッシュにしては、文字が書いてあるように見えて……もしかしたら、カンニングの疑いが……」

 

 遠慮がちに。

 あくまで「不正を許せない真面目な受験生」としての義憤と、「間違いだったらどうしよう」という不安をないまぜにした、完璧な演技。

 

 監督は俺の顔を一瞥し、そして明日風の背中を睨みつけた。

 疑念(ノイズ)は蒔かれた。

 あとは、システムが自動的に彼女を排除する。

 

 監督が、明日風の席へと歩み寄る。

 その足音は、死刑執行人の足音だった。

 

### 6.白昼の悪夢

 

 **コツ、コツ、コツ。**

 

 誰かが明日風の席の横で立ち止まった。

 明日風は気にせず問題を解き続けようとしたが、頭上から降ってきた声に顔を上げた。

 

「……受験番号105番、西野さんですね」

 

 監督の表情は厳しく、冷たい。

 

「はい、そうですが……何か?」

「後ろの席の方から、貴女の行動について報告がありました」

「え……?」

 

 明日風が何のことか分からず、きょとんとする。

 

「動かないで。……貴女、左のポケットに何を入れていますか?」

 

 思考が停止したような顔。

 左のポケット?

 ハンカチしか入っていないはずだけど。

 

「不正行為の疑いがあります。確認させてもらいます。……今すぐ中身を机の上に出して」

 

 監督の声が大きくなる。

 周囲の受験生たちが、一斉に顔を上げて彼女を見た。

 好奇と、軽蔑と、迷惑そうな視線。数百の目が彼女に突き刺さる。

 

「ご、誤解です。私は何も……」

「早くしなさい」

 

 促され、明日風は震える手でブレザーの左ポケットに手を入れた。

 指先に触れたのは、ハンカチの布地。

 ……そして、もう一つ。覚えのない、硬い紙の感触。

 

(……何、これ?)

 

 彼女の顔色が蒼白になる。

 出してはいけない。本能がそう告げている。

 だが、逃げ場はない。

 彼女はそれを掴み出し、机の上に置いた。

 

 パラリ。

 アコーディオン状の紙が広がる。

 そこに書かれていたのは、豆粒のような文字でびっしりと埋め尽くされた、**英単語と歴史年号の羅列**だった。

 

「あ…………」

 

 明日風の喉から、ヒュッという音が漏れた。

 カンニングペーパー。

 それも、明らかに「隠し持って使うため」に作られた、悪意の塊。

 

「これは……違っ、私、こんなの知らない……! 信じてください!」

 

 彼女は首を横に振る。必死に訴える。

 だが、監督は無慈悲に告げた。

 

「……言い訳はあとで聞きます。現行犯です」

 

 解答用紙が取り上げられる。

 

「退室してください。全科目無効となります」

 

 嘘。嘘よ。

 私の努力が。朔君との約束が。私の未来が。

 たった一枚の紙切れで、全部終わってしまうなんて。

 

 明日風はガタガタと震えながら立ち上がり、涙でぐしゃぐちゃになった顔を伏せて、ふらつく足で出口へと向かった。

 教室中からの冷ややかな視線が、彼女の背中を焼く。

 彼女の人生における「輝かしい未来」への扉が、音を立てて閉ざされた瞬間だった。

 

### 7.冷たい雨と帰路

 

 明日風が連れ出された後の教室には、重苦しい沈黙が残った。

 俺は頬杖をつきながら、残りの問題を適当に埋めていく。

 全問正解だが、この結果に意味はない。

 俺が今日得たものは、点数よりも遥かに価値のある「絶望の種」だ。

 

 終了のチャイムが鳴る。

 俺は誰よりも早く席を立った。

 

 会場を出ると、冷たい雨が降り始めていた。

 傘を持たない受験生たちが走り出す中、俺はフードを被り、雨に打たれながら駅へと歩いた。

 

 西野明日風は、もういない。

 社会的信用を失い、進学の道を断たれ、汚名を着せられた彼女は、もう二度と「知的な先輩」として千歳の前に立つことはできないだろう。

 

 千歳朔が縋っていた最後の聖域は、汚泥にまみれて崩壊した。

 

「……さて」

 

 俺は駅のホームで、灰色の空を見上げた。

 明日の学校が楽しみだ。

 この噂が広まり、千歳朔の耳に届いた時、彼はどんな顔をするだろうか。

 

 さあ、フィナーレ(合宿)への準備は整った。

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