チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語 作:Valkiria
### 1.倦怠の進路指導室
12月の放課後。
日が落ちるのが早い北陸の冬は、校舎を早々に薄闇へと沈めていく。
特別棟の端にある進路指導室は、古びた石油ストーブが唸る重低音と、灯油が燃える独特の臭気に満たされていた。
「あーあ……めんどくせぇ。なんで俺がこんな真面目な顔して、生徒の人生相談なんざしなきゃなんねーんだよ」
2年5組担任、岩波蔵之介は、安っぽいパイプ椅子に深く身体を沈め、天井を仰いで盛大に悪態をついた。
手元には、まだ半分も消化していない生徒名簿と進路調査票の束。
俺は基本的に「適当・放任」を信条とする教師だ。
生徒の自主性を尊重する、といえば聞こえはいいが、要するに面倒事は御免だと思っている。給料分は働くが、それ以上の熱血指導などごめんだ。
特に、この2年5組に関しては、俺は楽をさせてもらっていた。
なぜなら、このクラスには**千歳朔**がいたからだ。
あいつがいれば、クラスは勝手にまとまる。
行事も盛り上がるし、些細なトラブルもあいつが上手く処理してくれる。
俺はあいつに「あと頼むわー」と丸投げしておけば、万事解決。
まさに教師にとっての理想的な「王様」だったわけだ。
今日の面談も、千歳に関しては形式的なもので終わるはずだった。
成績は優秀、人望も厚い。
『お前ならどこでも行けるだろ』『まあ適当に頑張れよ』
そんな軽口を叩いて、5分で終わらせて、早く職員室に戻って缶コーヒーでも飲む予定だったんだ。
――コン、コン。
控えめなノックの音が響いた。
予定の時間だ。
「……入れ」
俺は足を組み直し、少しだけ教師らしい顔を作って扉の方を向いた。
ガララ、と引き戸が開く音が、やけに重く感じられた。
「……失礼します」
入ってきた生徒を見て、俺は組んでいた足を解いた。
そして、かけようとしていた軽口を、喉の奥で飲み込んだ。
### 2.別人の抜け殻(千歳朔)
「……千歳、か?」
俺は思わず、そう問いかけていた。
目の前に座った男子生徒。
名簿には確かに「千歳朔」とある。顔の造作も、着ている制服もあいつのものだ。
だが、纏っている空気がまるで違った。
かつてあいつが発していた、あの鬱陶しいほどの陽性のオーラ、周囲を巻き込む引力のようなものは微塵もない。
背中は丸まり、視線は床の一点を見つめたまま動かない。
目の下には濃い隈があり、頬はこけている。
まるで、何日も寝ていない遭難者のような、あるいはすべてを燃やし尽くしてしまった灰のような顔つきだ。
「……先生。進路の話ですよね」
千歳の声は、乾いた砂のようにカサついていた。
「あ、ああ。まあな。……お前、体調でも悪いのか?」
俺が尋ねると、彼は力なく首を横に振った。
「いえ。普通です。これが、今の俺の普通ですから」
その言葉に、背筋が寒くなった。
何があった?
文化祭の中止、百人一首での内田の事故、西野のカンニング騒動。
確かに今年はトラブル続きだった。あいつの周りで不幸が続いているのは知っている。
だが、千歳朔という男は、そんな逆境こそを糧にして輝くタイプじゃなかったか?
こんな風に、簡単に折れるようなタマだったか?
「……で、志望校だが。お前なら難関私大も狙えるし、指定校推薦の枠も余ってるぞ。お前が手を挙げれば誰も文句は言わない」
俺は努めて事務的に話を進めようとした。
だが、千歳は俺の言葉を遮った。
「どこでも、いいです」
「は?」
「偏差値とか、評判とか、どうでもいいです。……ただ、静かなところがいい。誰も俺を知らない、誰も俺に期待しない場所なら、どこでも」
その瞳には、深い絶望と、人間への不信感が渦巻いていた。
誰かと関わることを極端に恐れ、社会から逃避しようとする者の目だ。
「おいおい、千歳。お前はクラスの中心だろ? みんなお前を頼りにしてるんだぞ。ここで腐ってたら……」
俺は努めて明るく、いつもの調子で発破をかけようとした。
だが、それは逆効果だった。
「……やめてください」
千歳が顔を歪め、自分の両腕を抱くようにして身を震わせた。
「頼られるのは、もう嫌だ。期待されるのも、裏切られるのも、もう沢山なんだ……!」
悲痛な叫び。
それは、クラスのカーストトップとして君臨していた男の、完全なる敗北宣言だった。
「優空はあんなことになって……明日風先輩は退学寸前で……。俺が関わった人間は、みんな不幸になるんです。俺は、疫病神なんです」
彼は自分を責めていた。
だが、その自責の念すらも、もう彼を立ち上がらせるエネルギーにはなっていなかった。ただ、自分を押し潰す重石にしかなっていない。
「だから、俺はもう誰とも関わりたくない。……一人になれる場所なら、Fランだろうが専門学校だろうが構いません」
俺は溜め息をつき、ボールペンを置いた。
ここまで壊れてしまっては、もう再起は不可能だ。
俺が楽をするためのシステム(千歳政権)は、完全に機能停止した。
「……わかった。今日はもういい。とりあえず、少し休め」
俺は彼を帰した。
千歳は「失礼しました」と小さく頭を下げ、亡霊のように部屋を出て行った。
### 3.色褪せた華(柊夕湖)
部屋に残った俺は、冷めたコーヒーを啜った。
不気味だ。
千歳という「陽」が沈んだ後、この2年5組という空間は、奇妙なほど静かで、秩序立っている。
荒れるわけでもなく、崩壊するわけでもない。
まるで、千歳に代わる「別の何か」が、見えない糸でクラス全体を統制しているかのような――。
気を取り直し、次の生徒を呼ぶ。
「――入れ」
ガララ、と引き戸が開く。
入ってきたのは、派手なカーディガンと、校則ギリギリの短いスカート。甘ったるい香水の匂いが鼻をつく。
クラスの女子カースト最上位、**柊夕湖**だ。
「……失礼しまーす」
声が、軽い。
いや、軽すぎる。
以前の彼女なら、「せんせー! 進路とかマジだるいんだけどー!」と、部屋の空気を塗り替えるようなエネルギーを放っていただろう。
だが、今の彼女の声には、中身が詰まっていない。まるで録音された音声を再生しているような、乾いた響きだ。
俺は椅子に座った彼女を観察した。
メイクは相変わらずバッチリだ。髪も巻いている。
だが、自慢だったはずの派手なネイルアートは所々剥がれかけ、爪先がささくれているのが見えた。
手入れをする気力すらないのか、それとも、もう誰に見せる必要もなくなったのか。
「で、柊。お前はどうするんだ? 進学か?」
俺が尋ねると、夕湖は視線を泳がせた。
「えー、どうしよっかなー。……みんなが行くところでいいかなーって」
「みんなって、誰だ?」
「えっと……朔とか、悠月とか……」
彼女は指先をいじりながら、かつての仲間の名前を挙げる。
だが、その声には以前のような「仲間意識(プライド)」がない。
むしろ、見捨てられることを恐れて必死にしがみついているような、惨めな響きがあった。
俺は知っている。
千歳は今、内田優空に依存し、他の女子を遠ざけている。
柊は、その輪から弾き出された「余り物」だ。
「……自分で行きたいところはないのか?」
俺が少し強めに問うと、夕湖はヘラっと笑った。
「ないよー。だってあたし、頭悪いし。……誰かに『こっちおいで』って言ってもらわなきゃ、どこにも行けないもん」
その笑顔は、泣き顔よりも痛々しかった。
自分には価値がないと、自分自身で認めてしまっている。
誰かの「一番」になりたかったのに、誰からも選ばれず、居場所を失った少女の末路。
### 4.恐怖の萌芽
書類に書き込みをしようとした時、不意に夕湖が声を潜めた。
「あ、でもさ、先生」
「ん?」
「綾小路くんって、どこ受けるか知ってる?」
ドキリとした。
ここで、あの転校生の名前が出るのか。
「……個人情報だから教えられないな。なんでだ?」
「ううん、別に。ただ……あいつと同じところだけは、絶対に嫌だなって思って」
夕湖が身震いをする。
その派手なメイクの下にある瞳に、明確な「恐怖」の色が走った。
「あいつがいるとさ……空気が薄くなる気がするんだよね。全部見透かされてるみたいで、怖いじゃん?」
彼女は自分の腕をさする。
以前はあんなに千歳たちと馬鹿騒ぎしていた彼女が、今はクラスメイト一人に怯え、逃げ場所を探している。
彼女の本能が悟っているのかもしれない。
自分たちの青春を食い荒らした「捕食者」の正体に。
「……そうか。まあ、考慮しておこう」
「うん、お願いねセンセー。……じゃあ、あたし帰る」
夕湖は立ち上がり、逃げるように部屋を出て行った。
後に残ったのは、残り香だけ。だが、その香りすらも、どこか古びて酸化したような、寂しい匂いに感じられた。
千歳朔という太陽を失い、綾小路清隆というブラックホールに怯える日々。
彼女の高校生活は、もう「消化試合」でしかないのだろう。
「……やれやれ。次は誰だ」
俺は重くなった肩を回し、名簿に目を落とした。
この歪んだクラスの構成員たち。
一人ずつ皮を剥いでいくと、その中心にいる「異物」の輪郭が、嫌でも浮き彫りになってくる。
次は、**七瀬悠月**。
才色兼備を誇っていたあの氷の女王もまた、見る影もなく砕け散っているとの噂だ。
俺は覚悟を決めて、次の名前を呼んだ。