チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語 作:Valkiria
### 5.ひび割れた氷像(七瀬悠月)
柊夕湖が逃げるように去った後、俺は少し長めの休憩を入れた。
このクラスの面談は、ただの業務ではない。精神を削られる「検視作業」のようだ。
かつてあれほど華やかで、生命力に溢れていた生徒たちが、まるで別人のように生気を失い、壊れている。
「……次は、七瀬か」
**七瀬悠月**。
クラスでも一、二を争う美貌の持ち主であり、成績優秀、スポーツ万能。
クールで少し高飛車なところはあるが、千歳の参謀役としてクラスを裏から支える、理知的で頼れる存在だったはずだ。
――コン、コン。
ノックの音は、微かに、しかし小刻みに震えていた。
「入れ」と言うと、扉がゆっくりと、恐る恐る開く。
「……失礼します」
入ってきた姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。
そこには、かつての「完璧な美少女」はいなかった。
彼女は、顔の半分以上を覆うような大きな**白いマスク**をしていた。
さらに、前髪を深く下ろし、目元以外を徹底的に隠している。
歩き方もぎこちない。右足を少し引きずり、脇腹を庇うように背を丸めている。
まるで、大怪我を負った野良猫が、傷を隠して震えているような姿だ。
「……七瀬、その顔はどうした? 風邪か?」
俺が尋ねると、彼女はビクリと肩を跳ねさせた。
「は、はい。少し……喉の調子が悪くて」
嘘だ。
マスクの隙間から覗く肌の色が、異様に白い。いや、ファンデーションを厚塗りして何かを隠している色だ。
それに、あの自信に満ちた強い瞳が、今は怯えきって床を泳いでいる。
「座れ。……成績は相変わらず優秀だな。このまま行けば、お前の希望する大学の推薦も……」
「……あ、あの」
悠月が俺の言葉を遮る。
その声は、消え入りそうに細い。
「推薦……辞退させてください」
「は? なんでだ。お前なら指定校推薦で……」
「無理なんです」
彼女は膝の上で、拳を握りしめた。その手が小刻みに震えている。
「私には……そんな価値はありません。人前に出るのも、評価されるのも……もう、怖いんです」
かつて「私は特別よ」と言わんばかりのオーラを放っていた彼女が、ここまで自己肯定感を喪失している。
何があった?
噂では、1年生の後輩と揉めたとか、路地裏で誰かに殴られたとか聞いたことがあるが……まさか、それが事実なのか?
「……いじめ、とかじゃないよな?」
俺が核心に触れようとすると、悠月は激しく首を振った。
「違います! 私が……私が、弱いから……。調子に乗って、身の程知らずなことをしたから……罰が当たったんです」
自罰的な言葉。
それは、完全に心を折られた人間が吐く言葉だ。
彼女のプライド(エゴ)は、徹底的な暴力によって粉砕され、今は「従順な敗北者」としての殻に閉じこもっている。
### 6.流出した悪夢
悠月は、ふと顔を上げて俺を見た。
その瞳には、救いを求めるような、しかし同時に諦めきった絶望の色が宿っていた。
「先生……。私のこと、笑ってますか?」
「は? なんで俺が笑うんだ」
「だって……みんな知ってるんでしょ? 私が、あんな無様に……ゴミみたいに捨てられたこと……」
彼女はマスクの上から、自分の頬を強く押さえた。
そこには、隠しきれない傷跡があるのかもしれない。
「動画……回ってたんです。誰かが見てたんです。……だから、もう私は、ここでは生きていけない」
動画?
俺は眉をひそめたが、深くは聞けなかった。
聞いてしまえば、彼女が今にも崩れ落ちてしまいそうだったからだ。
彼女は何かに怯えている。
自分の醜態が記録され、拡散されることへの恐怖。
そして、そのカメラを回していた「誰か」の冷徹な視線に。
「……遠くへ行きたいです。誰も私の顔を知らない場所へ」
悠月はそう呟くと、逃げるように席を立った。
去り際、彼女の足元がふらつき、机に手をついた。
その時、袖口から覗いた手首に、痛々しい包帯が巻かれているのが見えた。
扉が閉まる。
俺は頭を抱えた。
このクラスの上位層(トップカースト)は、全滅だ。
まるで、見えない爆弾によって、内側から爆破されたビルのように。
### 7.香水と消毒液(内田優空)
悠月が出て行った後、俺は大きく深呼吸をした。
次に来る生徒のことを考えると、胃がキリキリと痛んだからだ。
このクラスの崩壊の、決定的な引き金を引いてしまった少女。
「……入れ」
扉が開く。
入ってきた**内田優空**の姿を見て、俺は鼻をひくつかせた。
**臭い。**
いや、悪臭ではない。
強烈なフローラル系の柔軟剤と、制汗スプレー、そして消毒液の匂いが混ざり合った、鼻腔を刺すような人工的な香りだ。
「……失礼します」
優空もまた、分厚いマスクをし、さらにその上からマフラーで口元を覆っていた。
教室の中でも決してコートを脱がないという噂は聞いていたが、ここでもか。
彼女は部屋に入ってくるなり、携帯用の除菌スプレーを取り出し、自分の座る椅子と、その周囲の空気にシュッシュッと吹きかけた。
異常な潔癖症。
あるいは、自分自身から発せられる(と思い込んでいる)「汚れ」に対する、強迫的な恐怖。
彼女が椅子に座る。浅く、自分の体が汚れないように、あるいは椅子を汚さないように。
「……内田。体調はどうだ?」
俺が慎重に尋ねると、彼女はマスクの下で力なく笑った気配がした。
「大丈夫です。……お腹の調子も、薬を飲んで止めてますから」
その言葉だけで、あの日の惨劇が脳裏に蘇る。
全校生徒の前で、大量に漏らしてしまった記憶。
あれ以来、彼女は固形物を口にするのを極端に恐れているらしい。激痩せした手首が、それを物語っている。
「進路だが……お前、調理師専門学校の志望を取り下げたんだな」
俺は手元の調査票を見た。
彼女の夢は、料理の道に進むことだったはずだ。
「はい。……私には、無理ですから」
優空は自分の両手を見つめた。
かつてはあかぎれができるほど食材と向き合っていたその手は、今はアルコール消毒のしすぎで赤くただれ、ボロボロに荒れている。
「包丁を握ると……震えるんです。また、私が毒を作ってしまうんじゃないかって。大切な人を、私の料理で殺してしまうんじゃないかって……」
彼女の声が震える。
トラウマ。
あの日、彼女の作った豚汁がクラス全員を苦しめ、千歳を地獄に突き落としたという事実(と彼女は信じ込まされている)が、彼女から「料理」というアイデンティティを永久に奪い去ったのだ。
### 8.共依存の沼と幻臭
「じゃあ、卒業後はどうするつもりだ?」
「……朔くんのそばにいます」
優空は即答した。
その瞳に、暗く、澱んだ執着の光が宿る。
「朔くんも、傷ついてますから。私が支えてあげないと。……私があんなことにしてしまったんだから、私が一生かけて償わないと」
それは愛ではない。
「罪悪感」と「共依存」。
自分が汚してしまったから、責任を取る。他に誰も彼を受け入れないから、私がやるしかない。
そんなネガティブな鎖で繋がれた関係。
「朔くんも言ってたんです。『俺たちには、もうお互いしかいないな』って」
優空はうっとりと、しかしどこか虚ろに呟く。
地獄の底で手を取り合う二人。それを「絆」と呼ぶには、あまりに痛々しすぎた。
面談の終わり際、優空は立ち上がりかけ、ふと俺に尋ねた。
「あの、先生……」
「ん? なんだ」
「私……臭くないですか?」
彼女は真剣な目で、俺を見つめていた。
マスク越しでも分かる、必死な形相。
「え……いや、香水の匂いはするが……」
「本当ですか!? 嘘ついてません!? ……あの日みたいに、腐った匂いはしませんか!?」
彼女が詰め寄ってくる。
俺は思わずのけぞった。
彼女はまだ、あの体育館にいるのだ。
自分の下半身から溢れ出した汚物の臭いの中に、精神が囚われたままなのだ。
「し、しない! 全くしないぞ!」
俺が慌てて否定すると、彼女は「よかった……」と胸を撫で下ろし、また除菌スプレーを自分のスカートに吹きかけた。
「……失礼しました」
優空が出て行く。
廊下に残る、過剰な消毒液の匂い。
それが、彼女の抱える闇の深さを物語っていた。
俺はぐったりと椅子に沈み込んだ。
もう限界だ。
千歳、柊、七瀬、内田。
焼け野原だ。
誰が、何のために、こんな徹底的な破壊を行ったのか。
……まだだ。まだ終わらない。
次は、他のクラスにも延焼した被害者たちの番だ。
俺は震える手で、次の生徒の資料を手に取った。