チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語 作:Valkiria
第四章
### 1
翌朝、2年5組の教室は、まるで通夜のような静寂に包まれていた。
いつもなら柊夕湖の甲高い笑い声が響き、千歳朔を中心に華やかな輪ができているはずの時間帯だ。
だが、今の空気は重く、湿った雑巾のように澱んでいる。
原因は、昨晩、学校の裏掲示板に投下された一つのスレッドだ。
**『2-5の柊夕湖って、千歳朔の金魚のフンだよね?』**
タイトルだけであれば、よくある嫉妬交じりの陰口で済んだだろう。だが、その内容はあまりに辛辣かつ、核心を突いていた。
『自分じゃ何もできない』『声がデカいだけで中身は空っぽ』『千歳がいなきゃカースト最底辺』『テストの点数も、実は……』
単なる誹謗中傷ではない。「誰もが薄々感じていたが、口にしなかった真実」を、客観的な分析レポートのように書き連ねた長文。
――もちろん、書いたのは俺だ。
VPNを経由し、特定不可能な経路で投稿した。言葉選びは慎重に行った。感情的な罵倒よりも、冷静な分析の方が、人の心には深く突き刺さる。
「うぅ……ぐすっ……ひどい……誰なの……?」
教室の中心で、夕湖が机に突っ伏して泣いていた。
完璧にセットされていた金髪は乱れ、泣き腫らした目でマスカラが黒く滲み、パンダのようになっている。
取り巻きの女子たちが「気にすることないよ!」「ただの嫉妬だよ!」と慰めているが、その声にもどこか戸惑いが混じっている。彼女たちも心のどこかで、あの書き込みの内容に同意してしまっているからだ。
俺はその光景を、自分の席から頬杖をついて眺めていた。
(……脆いな。承認欲求だけで構成された自我は、否定されるとこうも簡単に崩れ去る)
俺はゆっくりと立ち上がり、優空の元へ歩み寄った。
「柊さん、大丈夫?」
俺は努めて優しい、心配そうな声色を作る。夕湖が顔を上げた。
「転校生……くん……」
「酷いこと書く奴がいるもんだね。……でもさ、これ、ただの僻みだよ。柊さんが輝いてるから、影から石を投げたくなるんだよ」
俺は彼女の肩に軽く手を置く。
適当な慰め。中身のない言葉。だが、今の精神状態の彼女には、それが甘い麻酔になる。
「うぅ……うん……そうだよね……あんなの、嘘だもんね……」
夕湖は俺の言葉に縋ろうとする。だが、その時、教室のドアが勢いよく開いた。
「夕湖!」
千歳朔だ。息を切らして駆け寄ってくる。彼も掲示板を見たのだろう。
夕湖は千歳の顔を見た瞬間、堰を切ったように泣き叫び、彼に抱きついた。
「朔ぅううう! 怖いよぉ! 誰かがあたしのこと……!」
彼女は千歳の制服を掴み、幼児のようにしがみつく。
千歳は夕湖を支え、その背中をさすりながら、教室全体を睨みつけた。
「……誰だ。こんな卑怯な真似をしたのは」
静かな、けれど激しい怒りを含んだ声。王としての威圧感。
だが、誰も答えない。犯人はこの教室で、最も被害者を心配しているフリをしている俺なのだから。
「朔、お願い! 犯人見つけて! 懲らしめてよぉ!」
夕湖が泣き叫ぶ。彼女は千歳に「万能」を求めている。
しかし、今回の敵は「匿名」という闇に隠れている。殴りたくても、相手がいない。
千歳は夕湖を抱きしめながら、苦渋の表情を浮かべていた。ネットの書き込みの犯人特定など、一介の高校生には不可能だ。
「……ああ、任せろ。俺が絶対になんとかする。だからもう泣くな」
千歳は約束してしまった。できもしないことを。
俺はその横顔を、至近距離で見つめながら心の中で嘲笑った。
さあ、どうする千歳? お前の得意なコミュニケーション能力も、リーダーシップも、電子の海では無力だ。
### 2
一週間が過ぎた。
教室の空気は、腐敗した果実のように酸っぱい臭いを放ち始めていた。
千歳朔は、犯人探しに奔走し、夕湖の癇癪のなだめ役に徹し、クラスの空気を修復しようとあがき続けてきた。その結果が、目の下のクマと、消え入りそうなオーラだ。
当初の「夕湖への同情」は、解決の糸口が見えない焦燥感とともに、「夕湖への苛立ち」へと変質し始めていた。
「……ねえ、今あたしのこと見て笑ったでしょ?」
休み時間、夕湖のヒステリックな声が響く。
彼女が睨みつけた先には、地味な女子グループがいた。
「え、ち、違います……テレビの話をしてただけで……」
「嘘つき! 掲示板に書いたの、あんたたちなんでしょ!? あたしが目立ってるのが気に入らないからって!」
「夕湖、やめろ!」
千歳が割って入るが、その足取りは重い。
王の権威は、地に落ちつつあった。「千歳ならきっとなんとかしてくれる」。そんな期待は、「千歳でもどうにもできない」という失望へと変わっていた。
俺は自席で、単語帳をめくりながらその光景を眺めていた。
千歳がふらりと、俺の席に近づいてきた。助けを求めるような、縋るような目だ。
「……綾小路。お前、PCとか詳しいんだろ? IPアドレスの件、何か分かったか?」
俺はゆっくりと首を横に振る。
「ごめん、千歳くん。やっぱり海外のプロキシを経由されてるみたいで、特定は不可能だ。警察沙汰にでもしない限り、犯人には辿り着けないよ」
千歳はガクリと項垂れた。
「そうか……だよな。悪い、無理言って」
「千歳くんこそ、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「……ああ。優空が、精神的に限界みたいでさ。夜中も電話がかかってきて……一睡もできてないんだ」
千歳は自嘲気味に笑った。その笑顔は、ひび割れた仮面のように痛々しかった。
夕湖のケア。クラスの統率。犯人の捜索。全てを一人で背負い込み、その全てにおいて結果を出せていない。
(……そろそろ潮時か)
土壌は十分に腐った。
千歳朔は疲弊し、判断力が低下している。柊夕湖は狂乱し、周囲を敵に回している。クラスメイトは千歳体制への不信感を募らせている。
今こそ、決定的な「解決」を演出する時だ。
俺はわざとらしく大きなため息をついた。
「はぁ……。見てられないよ、二人とも。ついてきな」
俺は鞄を持って席を立つ。
千歳と夕湖は顔を見合わせ、俺の背中を追うように教室を出た。
### 3
放課後の図書室。
人気のないPCコーナーに二人を立たせ、俺は備え付けのパソコンに向かった。
「転校生くん、何するの……?」
「静かに。集中したいんだ」
俺はポケットからUSBメモリを取り出し、PCに差し込んだ。
画面が黒く反転し、緑色の文字列が滝のように流れ始める。
**『System Access... Authorized.』**
**『Bypassing Firewall... Success.』**
**『Tracing Target Data...』**
映画で見るような、いかにもなハッキング画面。
夕湖と千歳が「す、すげぇ……」「何これ、映画みたいだ……」と息を呑む。
(……馬鹿め)
これは昨夜、家で*作成した、ただのウェブアプリだ。
ハッカーっぽい画面を作って。エンターキーを押すたびにログが流れて、最後に『削除完了』って出して。
中身は何の機能もない。ただの視覚効果(エフェクト)だ。
俺はキーボードを叩く。実際には適当なキーを連打しているだけだが、画面上では複雑なコマンドが実行されているように見える。
掲示板の書き込み自体は、ここに来る前にスマホで管理者パスを使って削除済みだ。今はただ、その「結果」に「過程」というドラマを後付けしているに過ぎない。
**ターンッ!**
俺は無駄に強くエンターキーを叩いた。
画面に大きく**『COMPLETE』**の文字が表示され、プログレスバーが100%になる。
「……終わったよ」
俺は椅子の背もたれに体を預け、フーッと息を吐いた。
「確認してみて。あのスレッド、もう消えてるはずだ。サーバーのログごと消したから、復元もできないよ」
夕湖が慌ててスマホを取り出す。震える指で掲示板を開き、数秒後――その顔が驚愕と歓喜に染まった。
「……ない。消えてる……! 本当に消えてるよ朔!」
「マジか……! お前、本当にハッキングしたのか!?」
千歳が驚愕の表情で俺を見る。
物理、スポーツ、勉強。それに加えて、この圧倒的なITスキル。
彼の常識の範疇を完全に超えた存在。「すごい」という感情を超え、もはや「魔法使い」を見るような目だ。
俺はパソコンをシャットダウンし、USBを抜いた。
「これで解決したかな?」
それだけ言い残し、俺は席を立つ。
感謝の言葉も、賞賛も待たない。「大したことじゃない」とでも言うように、二人に背を向けて出口へと歩き出す。
「あ、待ってよ転校生くん! ありがとう! 本当にありがとう!」
「綾小路! お前、やっぱりすげぇよ……俺、なんもできなかったのに……」
背後から聞こえる、涙声と敗北感の混じった声。
俺は振り返らず、片手をひらりと振って図書室を出た。
廊下に出た瞬間、俺は無表情に戻る。
これで千歳朔は俺に決定的な「借り」と「敗北感」を刻み込まれた。そして柊夕湖は、無力な千歳ではなく、圧倒的な力を持つ俺に救われた。
### 4
翌朝。
教室の扉を開けた瞬間、肌で感じる空気が変わっていた。
昨日までの「淀んだ湿気」は消えている。だが、代わりに漂っていたのは、千歳朔を中心とした「華やかな熱気」ではなく――**奇妙な静寂と、よそよそしさ**だった。
「……おはよ、朔」
「あ、ああ。おはよう」
千歳朔がいつもの席に座っている。彼は努めて明るく振る舞うが、その会話には薄いガラス一枚分の隔たりがあった。
クラスメイトたちは無意識に理解してしまったのだ。このクラスの王は、トラブルを解決できなかった。彼が守ろうとした「平和」は、彼自身の力では維持できなかったのだと。
そして、最大の変化は柊夕湖だ。
いつもなら朝から千歳の席に入り浸り、大声で笑っているはずの彼女が、今日はおとなしい。
自分の席に座り、スマホをいじっているフリをして――チラチラと、**俺の方を見ている。**
俺が視線を向けると、彼女はビクッと肩を震わせ、頬を染めてパッと目を逸らした。
恐怖ではない。吊り橋効果と、圧倒的な「頼もしさ」への依存。
泥沼から引き上げてくれた救世主に対する、盲目的な忠誠心。
(……分かりやすい)
千歳朔を見る彼女の目には、もう以前のような「崇拝」はない。
あるのは「守ってあげなきゃいけない、頼りない男の子」を見るような、同情に近い母性だ。
それは千歳のようなプライドの高い男にとって、最も残酷な評価だろう。
俺は自分の席――窓際の後ろから二番目――に座り、文庫本を開く。
男子生徒たちが、俺の席の前を通る時、少しだけ声を潜める。女子生徒たちが、遠巻きに俺を噂する。
「あいつだよな、昨日の……」
「千歳でも無理だったのを、一瞬で……」
「天才なんでしょ? 関わるとヤバそうだけど、かっこよくない?」
俺の周りに、不可視の結界(ATフィールド)が張られている。
千歳朔という「太陽」が沈みかけ、俺という「ブラックホール」が教室の重力をすべて吸い込んでいる。
チャイムが鳴り、担任が入ってくる。
号令の際、千歳が立ち上がる。その背中は、以前よりも一回り小さく見えた。
俺はページをめくりながら、口元だけで微かに笑う。
王の交代劇は、着々と進んでいる。
残るイベントは、体育祭。
そこで、物理的にも精神的にも、彼に「引導」を渡してやろう。
(続く)