チラムネの主要キャラに地獄を見せる物語 作:Valkiria
第五章
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体育祭。それはスクールカーストの序列を再確認するための祭典。
だが、今年の藤志高のグラウンドには、異質な空気が渦巻いていた。
クラス対抗リレー、最終種目。
2年5組のアンカーである俺の掌に、千歳朔がバトンを叩きつける。
「頼んだぞ……綾小路ッ!!」
千歳は懸命に走った。だが、他クラスの陸上部エースたちとの差は開いている。現在3位。トップとの差は絶望的な15メートル。
グラウンドの土煙と、全校生徒の絶叫が混ざり合う中、俺は静かにバトンを握り締めた。
(……遅い)
千歳の手から離れた瞬間、俺の世界から色が消えた。
俺は重心を低く沈め、地面を噛む。
バトンを受け取ってから加速するのではない。受け取った瞬間、俺はすでにトップスピードに到達している。
**ドォンッ!!**
爆発音のような踏み切り音と共に、俺の体が弾丸となって射出された。
0から100へ、一瞬で世界を置き去りにする。加速の段階(プロセス)などない。
前を走っていた2位の走者が、風圧を感じて振り返ろうとした時には、もう俺の背中しか見えていなかっただろう。
**稲妻。**
まさしく、その形容こそが相応しい。
スピードという概念を丸ごと圧縮して、人の形を保ったような錯覚。
50メートル6秒0。数字にすればその程度だ。だが、俺の真骨頂は「初速」にある。
静止状態から瞬時に最大速度へ達するその挙動は、生物のそれではなく、マシンのようだった。
「う、うわぁあああ!?」
トップを走っていた陸上部員が、背後から迫る「死」の気配に顔を歪める。
俺はインコースを強引に突き破り、彼を抜き去った。影すら踏ませない。
ゴールテープを切る瞬間、俺は流すように速度を緩めた。
スタジアムが一瞬の静寂の後、爆発した。
クラスメイトたちが雪崩のように駆け寄ってくる。その先頭には、目を潤ませた千歳朔がいた。
「お前……なんだよ今の……! 俺たち、最高のコンビだな!」
千歳が俺の肩を掴み、興奮して叫ぶ。彼はまだ、俺を「ライバル」という枠に収めようとしている。
だが、その手は震えていた。本能が理解しているのだ。これはライバルなどではない。
絶対的な捕食者と、ただの獲物の関係だと。
### 2
続いて行われたエキシビション種目、棒倒し。
男たちの怒号と土煙が舞う、野蛮な戦場。
「転校生くん! すごいすごい! 抱きしめていい!?」
リレーの熱狂冷めやらぬまま、柊夕湖が俺に抱きつこうとしてきた。
汗ばんだ肌、甘い香水、興奮した瞳。彼女は俺を「新しいアクセサリー」として消費しようとしている。
鬱陶しい。
「――離れろ」
**ドスッ。**
俺は無造作に、ゴミでも退けるように彼女を押しやった。
「え……?」
夕湖がよろめき、尻餅をつく。周囲の空気が凍りつくが、俺は一瞥もせずにグラウンド中央へ向かった。
次の 棒倒し の種目が始まるからだ。
ピィィィッ!!
開始の笛が鳴り響く。両軍が激突し、肉と肉がぶつかる鈍い音が響く。
だが、俺はその泥沼には付き合わない。
助走をつける。前方のスクラム、密集する敵味方の背中。それら全てを「踏み台」と認識する。
ダンッ!!
最初の一歩で加速。次の一歩で、味方の肩を足場にする。
そして三歩目。
**俺は飛翔した。**
「なっ……!?」
敵の棒を支える防衛隊が見上げた空。そこに、太陽を背にした俺がいた。
ジャンプという次元ではない。まるでワイヤーアクションのように、俺の体は放物線を描き、棒の頂上(テッペン)へと到達する。
俺は空中で右拳を振りかぶった。狙うのは、棒の先端にある補強用の金具。
**「おらぁ!!」**
叫びと共に、俺の拳が炸裂した。
**ごおおおおんッ!!**
もはや打撃音ではなかった。寺院の鐘を巨大なハンマーで叩いたような、重く、腹の底に響く金属音。
俺の拳による衝撃波が木材を伝わり、全体を振動させる。
メキメキメキッ……ドォォン!!
巨大な棒が、俺の一撃によってへし折られるように傾き、倒壊した。
土煙が舞い上がる中、俺は残骸の上に立つ。
千歳朔が、口をぽかんと開けて俺を見上げていた。
リレーの「速さ」とは違う、純粋な「暴力」と「破壊」。
その光景は、彼が必死に守り、積み上げてきたスクールカーストという塔も、俺の前では容易く折れるのだと、残酷に告げていた。
### 3
祭りの後の静寂。
放課後の教室は、茜色の夕日に染まっていた。
その教室の隅、かつて王座があった窓際の席で、千歳朔は一人、涙を流しながら顔を歪ませていた。
「うっ……ぐっ……くそ、ぉ……」
美しい青春の涙ではない。自分の無力さ、恥、そして絶対的な敗北感に塗れた、醜い絶望の涙だ。
俺は音もなく彼に近づく。
「……よう、千歳」
「っ……あ、綾小路……」
「ようやく気づいたか」
俺は彼の机に腰掛け、冷徹に見下ろした。
「偽りの箱庭での王様ごっこは、気分が良かったか?」
千歳が息を呑む。図星だ。この狭い世界だけで通用するルールの上で、彼は全能感を味わっていたに過ぎない。
「勘違いするなよ。俺は別にお前を貶しに来たわけじゃない」
俺は手を伸ばし、千歳の襟元を正してやった。
「お前は、**機会に恵まれただけの凡人**だ」
千歳の瞳が揺れる。「凡人」。その言葉が、何よりも深く彼の胸を抉る。
「顔が良くて、環境に恵まれ、周りがお前を持ち上げてくれた。それだけだ。お前自身が特別なわけじゃない。……身の程を知れ、千歳」
千歳は何も言い返せなかった。ただ唇を噛み締め、ボロボロと涙をこぼしながら、何度も小さく頷いた。
翌日から、千歳朔がイキることはなくなった。彼は「わきまえた凡人」として、教室の隅で息を潜めるようになった。
### 4
だが、王が消えた後の王国は、平和になるどころか地獄と化した。
数日後の昼休み。教室では、見るに耐えない醜悪な劇が繰り広げられていた。
「はぁ? 何よ悠月。あんたこそ何なの? 転校生くんはあたしと話してんの!」
「話しているんじゃなくて、貴方が一方的に喚いているだけでしょ。この馬鹿猿(サル)」
柊夕湖と七瀬悠月。
かつてのカースト上位女子たちが、俺という「新たな王」の隣の席を巡って、罵り合っていた。
千歳という重石がなくなったことで、彼女たちのエゴが暴走したのだ。
「誰がサルだよ……この、勘違い女ぁああああ!!」
「きゃっ!? 髪を離しなさいよ!」
取っ組み合いの喧嘩が始まった。
夕湖が悠月の髪を振り乱し、悠月が夕湖の顔を引っ掻く。
机が倒れ、スカートが捲れ上がり、化粧が涙と鼻水で崩れる。
高潔さなど欠片もない。そこにあるのは、オスを奪い合う野生動物のような本能むき出しの醜態。
「死ね! 消えろ! 転校生くんはあたしのもんだよ!」
「ふざけないで! 貴方みたいな低能には釣り合わないわよ!」
クラスメイトたちはドン引きし、誰も止めに入れない。
俺は倒れた机を避けるように足を組み、おにぎりを食べながらその光景を見下ろしていた。
(……浅ましいな)
俺は最後の一口を飲み込み、冷たく言い放った。
「……続けてていいぞ。滑稽で、面白いから」
その言葉に、二人の動きが止まった。
自分たちが「女」としてではなく、「見世物の猿」として扱われたことを悟り、二人はその場にへたり込んで泣き崩れた。
これでもう、彼女たちが元の地位に戻ることはないだろう。
### 5
チャイムが鳴り、生徒たちが次の移動教室へと去っていった。
優空と夕湖も、泣き腫らした顔で逃げるように教室を出て行った。
誰もいなくなった教室。
机や椅子が散乱し、荒れ果てた戦場のような空間に、俺だけが残っている。
俺はゆっくりと立ち上がり、教壇の方へと歩いた。
黒板の前で立ち止まる。
そこには、千歳たちが書いたであろう「文化祭の予定」や「青春の落書き」が薄く残っていた。
「……くだらない」
俺は右手を固く握りしめた。
全身のバネ、腰の回転、そして神域の反応速度。
その全てを、この一撃に乗せる。
**ドゴォォォォンッ!!**
爆音。
校舎全体が揺れたかのような衝撃。
俺の拳が、黒板の緑色の盤面を粉砕した。
チョークの粉が煙のように舞い上がり、破片が床に散らばる。
俺が拳を引くと、そこには美しい円形の陥没痕――**クレーター**が穿たれていた。
黒板の背面のコンクリートすらヒビ割れている。
俺は掌についたチョークの粉を払い、そのクレーターを見つめた。
これは、単なる暴力ではない。
この藤志高という箱庭に、俺という規格外の存在(イレギュラー)が確かに存在し、彼らの青春ごっこを破壊し尽くしたという、消えない刻印。
「これが、俺が存在した証だ」
俺は誰に聞かせるでもなく呟くと、鞄を肩にかけ、振り返ることなく教室を後にした。
夕日に照らされた黒板のクレーターだけが、静かにその威容を誇っていた。
【完】