何とか年越し前に間に合ったな。間に合いましたよね。間に合ったと言いなさい。
紫音さんは、ソファの上でほとんど溶けていた。
夜更けのリビング。
エアコンの微かな送風音と、加湿器の白い湯気。
テーブルの上には書きかけの楽譜と、飲みかけのコーヒーが置かれている。
そのどれよりも、いちばん存在感があるのは、リモコンを握ったまま、半分横倒しになっている名雪紫音さんだった。
「……完全に、寝てますよね…」
小さく呟いても、返事はない。
細い指は、まだリモコンを握ろうとする形を保っていて、けれど親指はボタンから少しずれてソファの布地を押しているだけだ。
薄いグレーのスウェットの上下。
さっきまで膝にかけていたブランケットは、半分床に落ちかけている。
横顔は、びっくりするくらい無防備だった。
まつげは綺麗にそろって、目尻は少し赤くて、唇は、かすかに半開き。
(……かわいい)
食器洗いを済ませたわたしは、寝落ちした紫音さんを眺めて、溜息を吐いた。
昼間から収録と打ち合わせが詰まっていて、家に帰り着いたのは日付が変わる数時間前だった。
ご飯を食べて、早めに返さないといけない案件のメールを確認して、それでようやく年越しに備えて23時くらいまで仮眠しようというタイミングで、
『ちょっとだけ、映画……観る?』
と言い出したのは紫音さんだ。
「途中で寝ちゃうの、分かってましたよね、絶対」
思わず小声で責めてみるけれど、もちろん返事はない。
ソファの背もたれに頭を預けたまま、ゆっくりと規則正しく、胸が上下している。
見慣れているはずの寝顔なのに、こうして改めてまじまじと眺めていると、胸の奥がじわじわ落ち着かなくなってくる。
(……眠そう、とかじゃなくて、これはもう起きないやつですね…)
映画の音声は、いつの間にかエンドロールのBGMになっていた。
わたしはリモコンを指先で抜き取って、一度テレビをミュートにする。
そのまま、紫音さんの隣、ソファの空いているスペースにそっと腰を下ろした。
「……紫音さん」
名前を呼んでみても、まぶたはぴくりとも動かない。
代わりに、ふわ、と小さく息を吐いた拍子に、前髪が少し揺れただけだった。
…この前、ソファで寝落ちしかけたときに、わたしがブランケットを掛けて、耳元で何度も何度も名前を呼びながら頭を撫でていたのに、翌日には、
『……え、そんなことしてた?』
と、きょとんとした顔で聞き返してきた。
紫音さんのことだからほんのり覚えていて、照れ隠しで知らないふりをしている可能性もゼロではないけれど。
今日の、この完全な寝顔を見る限り、
今から何をしたって、多分、細かいところまでは覚えていられない。
(……じゃあ、これは、ちょっとだけ、ズルをしても……)
胸の奥で、悪い天使とただの悪魔が、同じ顔で頷いた。
そっと身体の向きを変えて、より紫音さんの近くに寄る。
ソファの座面に膝をあげて、横倒しになっている紫音さんの手前で、小さく胡座をかくように座り直した。
近づいてみると、体温の気配がよく分かる。
スウェット越しの温度。
シャンプーと柔軟剤の匂い。
その奥に、ほんの少しだけ混じる、眠りに落ちかけた身体特有の、甘い、体温の匂い。
「……紫音さん」
もう一度、囁くように呼ぶ。
今度は、まぶたがほんの少しだけ震えて、視線が曖昧にこちらの方向へ向いた。
「……ゆー……り……?」
声になっているのかいないのか分からないくらいの、掠れた音。
焦点の合っていない虹彩が、一瞬だけわたしを通り過ぎて、またふにゃりとほどけて目を閉じる。
「はい。優里です」
一応答えてみると、紫音さんは眠りについたように無反応だ。
(……よし)
わたしは、膝の上でいったん両手をぎゅっと握りしめてから、そっとその手を伸ばした。
いきなり胸を揉みしだいたり、下半身に手を伸ばすようなことはしない。最初に触れるのは、いつもと同じ場所からがいい。
「……頭、撫でますね」
小さく宣言だけしてから、白銀の髪の上に、指先をそっと置く。
サラサラというより、ふわふわ、に近い感触。
最初は、子猫の頭を撫でているように思えたこの行為も、今は想い人の無意識に身体接触を条件付ける倒錯的な行為になってしまった。
わたしに触られると気持ちいいと、そう身体に刻み込むように、深く優しく髪を梳くように撫でる。
額の上、前髪の生え際あたりから、頭頂部に向かって、ゆっくりと撫で上げていく。
「……」
紫音さんの眉が、ほんの少しだけ緩む。
それだけで、胸のどこかがきゅっとなる。
もう一度、同じルートをなぞる。
耳の後ろあたりを通って、後頭部を撫でて、また前髪のあたりへ戻る。
「……よしよし」
思わず、囁くような声も一緒に漏れてしまった。
自分でも何を言っているのか分からないけれど、
眠そうな名雪紫音さんに触れていると、どうしてもこういう言葉が口から出てきてしまう。
そうやって数十分かけて、紫音さんにとっての信頼すべき相手を刷り込んでいると、紫音さんは、ほんの僅かに首の角度を変えた。
まるで、わたしの手のひらに、より頭を預けるみたいに。
「……っ」
その反応だけで、わたしの心臓がひとつ跳ねる。
普段は、誰かの前で弱い姿を見せないように、気を張っている人が。
わたしにだけは、こうして簡単に脱力してくれている。
「……紫音さん」
髪を撫でながら、そのまま指先でそっと、こめかみのあたりをなでなでする。
小さくマッサージするみたいに、くるくると円を描いてやると、紫音さんの唇がかすかにほどけて、小さく息が漏れた。
(かわいい……)
頭のてっぺんから、変な熱がふわっと上がってくる。
今なら、きっと、どこまででも。
ここでやめろ、と言ってくれる人もいない。
「……ちょっと、失礼しますね」
わたしは、軽く体勢を前に寄せて、紫音さんの額に、そっと唇を置いた。
前髪を指で避けて、露わになった額の真ん中あたり。
音がするかしないかくらいの、短いキス。
離れてみると、紫音さんのまつげが少しだけ上下して、けれど目は開かない。
「……」
味を占めたみたいに、もう一度、今度は少しだけ位置をずらして、こめかみのあたりに。
さらに、そのすぐ下、目尻の近く。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
所有の証を増やすみたいに、慎重に場所を選びながら、キスの数だけ自分の心拍も増えていく。
(……これ、明日覚えてたらどうしよう)
一瞬、不安にも似た感情がよぎる。
でも、この人は、どうせ。
『……昨日、よく眠れた』
くらいしか、覚えていない。覚えてくれない。
だから、たぶんこれは、あとから怒られたりはしないだろう。
(それに……)
わたしは、額に残っているだろう自分のキスの感触を染み込ませるみたいに指先でそっとなぞりながら、そのまま小さく開いたみずみずしい唇に口づけを落として、心の中で続けた。
(もし、紫音さんの無意識のどこかに、わたしとのキスの感触が残ってくれて、
それで気付かぬうちにわたしのことを好きになってくれるなら……それはそれで、とても良いことです)
考えてみれば、だいぶ我ながらひどい理屈だ。
でも、眠ったままの紫音さんの口と吐息は、何も言わずに、温度だけでそれを受け入れてくれている。
柔らかい唇の感触を味わいながら、撫でていた手を、今度はそっと、頬に滑らせる。
指の腹で、頬骨のラインをなぞって、そのまま猫をあやすみたいにあごの先へ。
親指の付け根で、耳たぶのすぐ下を軽く撫でると、紫音さんの肩が、ほんの少しだけびくんと動いた。
「……くすぐったかったですか?…それとも……」
一応聞いてみるけれど、返事はない。
代わりに、喉の奥から、小さな音がした。
寝言とも、ため息ともつかない、かすかな音。
その反応すら、愛しすぎてたまらない。
「……かわいい……」
また、思わず、声に出てしまった。
そのまま、紫音さんの頬にそっともう一度キスをしてから、わたしは、ソファの背もたれ側に身体を滑らせた。
そして、横向きになっている紫音さんの背中側から、自分の身体をそっと寄せて、腕を回す。
背中から抱きしめる形。
腰のあたりで、脇から回した手を合流させるような形でそっと腕をまわす。
「……抱きしめますね」
囁いたところで、やっぱり返事はない。
けれど、拒まれてもいない。
なら、それは、きっと事実上の了承だ。
締め付けないように、でも逃げられないように、腕に少しだけ力を込める。
スウェット越しに伝わる体温。
呼吸に合わせて、胸のあたりがゆっくり前後する感触。
手が、身体が、心が。
全部が、狭いソファの上で、ぴったり重なっている。
ふと、自分の手の位置が、ちょうどみぞおちの少し下あたりにあることに気づいた。
(……お腹)
さっき頭の片隅で考えていた、撫でたい場所のひとつ。覚えさせたい場所のひとつ。
「……ちょっとだけ、撫でてもいいですか」
そう言ってから、自分で自分に頷く。
ふわふわした裏起毛のスウェットの上から、おへその少し上あたりを、指先でそっとなでなでする。
実際の肌には直接触れていないのに、布越しに感じる柔らかさが、妙に生々しい。
「……」
軽く円を描くように撫でると、紫音さんの腹筋が、ぴくんと反応する。
やっぱり、くすぐったいのかもしれない。
でも、逃げたりはしない。
…仮に逃げようとしていても逃がすつもりなんてないけれど。
数分間そのまま続けていると、ほんの少しだけ、わたしの方へ寄りかかってくるような重みが増えた気がして、もはや快感に近しいだろう感覚から逃れようとして、それを意地悪に与えている自分にしがみついてくる姿が愛くるしくて胸が痛い。
「……大丈夫ですからね」
もう片方の手で、胸の少し下あたり、みぞおちのあたりをそっと押さえる。
体勢が崩れないように支えながら、お腹の上をなおもゆっくり撫でる。
さっきよりも少しだけ大胆に、でも決して下には降りていかないように、ぎりぎりのところを何度も往復する。…焦らすみたいに。
(こうやって寝てる間に沢山焦らしておけば、…わたしに触られるとえっちな気持ちになるようになったりしないかな……)
我ながら、発想が危ない。
でも、こうして抱きしめていても、紫音さんは、自分の腕の中から逃げられないし、この先彼女を逃がすつもりもない。
どうせ逃げられないなら、両想いの方がいいに決まってる。
それなら、きっと、大丈夫だ。
「……紫音さん」
耳元に、顔を寄せる。
後頭部のあたりに、自分の頬をそっと当てて、耳元に声だけを届ける。
「聞こえてますか?」
もちろん、返事はない。
それでも、わたしは、あえてゆっくりと、言葉を紡いだ。
怒られたら、その時は、その時だ。
今この瞬間だけは、最愛の人が無防備に腕の中に居てくれる。
それなら、やっぱり、もう少しくらいわがままを許されたい。
「……紫音さんは」
囁く声が、自分でもわかるくらい震えていた。
たぶん、眠っている人には届かないくらいの、小さな声。
それでも、それがいい。
「紫音さんは、優里のことが好き」
耳元で、そっと囁く。
すぐに、頭とお腹を優しく撫でながら、もう一度。
視界は暗く、後ろから甘く抱きしめて、頭とお腹を小一時間怪しく撫でながら、耳もとで刷り込むみたいに囁く。
そう思い込ませるみたいに。
「紫音さんは、優里のことが好き、です」
言葉を変えずに、何度も何度も。
催眠術みたいな真似をしてる自覚はある。
というか、紛れもなくこれは一種の洗脳だ。
まともな人が見たら、この行為は明らかにラインを超えてしまっていて、良くない行為として叱責されても文句の言えないものだろう。
それでも、一度口をついて出た言葉は、刻み込みたくてたまらないみたいに我慢できない。
「紫音さんは、優里のことが好き」
数十回目を囁いたあたりで、
紫音さんの肩が、ほんの少しだけ震えた。
びくり、というより、息を吸う瞬間の、小さな動き。
そのすぐあと。
「………すき…」
耳のすぐ横で、かすかな声がした。
一瞬、本当に心臓が止まったかと思った。
「……え」
思わず、紫音さんの顔を覗き込む。
まぶたは、やっぱり閉じたまま。
唇は、少しだけ開いていて、眠そうな顔に変わりはない。
でも、喉の奥だけが、かすかに震えたのは、確かだ。
「……すき……ゆー………り……」
今度は、もう少しはっきり聞こえた。
それは寝言。
それも、ほとんど半分夢の中から引き上げられたみたいな、曖昧な声。
それでも、その音節が、わたしの名前を形作っていることだけは、どうしても間違いようがなかった。
「っ……」
視界が一瞬、にじむ。
いいや、一瞬ではなく、紛れもなく涙がポロリとこぼれる。
すきと囁いてほしくて、耳元で勝手に刷り込みなんてずるい行為を試みていたのに。
刷り込むまでもなく返ってきた「すき」の方が、ずっとずるい。
「……紫音さん」
堪えきれなくなって、もう一度、紫音さんの身体をぎゅうっと抱きしめた。
起こしてしまうかもなんて危惧ももうなく、背中に回した腕に、さっきよりも強く力がこもる。
それに応えるように、紫音さんの指先が、スウェットの裾あたりで、わたしの手首を探すように動いた。
もぞ、と布が擦れる音。
次の瞬間、その小さな手が、わたしの指を見つけて、ぎゅっと握った。
「……っ……」
息が、喉の奥でつかえる。
多分、紫音さん本人は、その動きをまったく自覚していない。
ただ、安心したい場所を探して、無意識のままに掴んだだけ。
それが、たまたまわたしの手だった。
握り返す小さな指。
冷たくも熱くもない、ちょうどいい体温。
その全部を、逃がしたくなくて、わたしは、その手に自分の指を絡めた。
「……紫音さんは、優里のことが好き」
さっきと同じ言葉を、もう一度だけ囁く。
今度は、少しだけ声を落として、零れる涙と吐息に紛れ込ませるみたいに。
「……そして、わたしも、紫音さんのことが大好き、です」
これは、催眠でも刷り込みでもなく、
単純で、どうしようもなく、本当のこと。
耳元で囁いたあと、わたしはそっと、自分の額を紫音さんの首筋に預けた。
スウェット越しに感じる温度。
首の横あたりからふわりと香る、シャンプーと柔軟剤の匂い。
その全部を、今年のご褒美として、或いは新年のお祝いとして深く深く、胸の中に吸い込む。
ソファの上で、二人の呼吸だけが、静かに重なる。
予定では年明けを告げようとしていたテレビはとっくにスリープモードに入っていて、時計の秒針だけが部屋の隅でちくたく鳴っていた。
腕の中の名雪紫音さんは、もう完全に眠り込んでいる。
きっと、明日の朝になったら、
『……昨日、ちゃんと布団まで運んでくれた?』
とか、
『なんか、よく眠れた気がする』
とか。
その程度のことしか、言わないんだと思う。
このソファの上で、わたしが何度キスをして、何分頭を撫でて、何回囁いたかなんて、きっと細かくは覚えていない。
それでもいい。
どちらにせよ、わたしの腕の中で眠る、名雪紫音さんの全部は、わたしのものだから。
「……おやすみなさい、紫音さん」
もう誰にも聞こえないくらいの小さな声でそう告げて、
わたしは、背中から抱きしめたまま、紫音さんの手をもう一度きゅっと握った。
握り返される感触を、そっと確かめながら。
心臓の音が、ようやく少しずつ落ち着いていくのを感じつつ、さっきまでの独占欲や所有欲が嘘のような透き通った祈りに沈むように、
わたしも、ゆっくりと瞼を閉じた。
今年も、ただこの人の傍で。