天才ロリ(合法)と一般JKの百合   作:( 눈_눈)

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日常へ

目覚まし時計のアラームが鳴るよりも先に、優里は目を覚ました。

 

カーテンの隙間から差し込む光は、昨日の朝より少しだけ角度を変えている。

元旦の澄んだ白さから、ほんのわずかに柔らかくなった冬の日差し。

 

布団の中には、やっぱり二人分の体温が残っていた。

 

腕の中で眠っている名雪紫音は、すっかり脱力しきった体勢のまま、静かに寝息を立てている。

 

白銀の髪は、ところどころ寝癖と昨夜の乱れが混ざっていて、前髪は額に貼りついている。

目元はうっすら赤くて、まつげの根元あたりには、泣いたあとのような微かな痕跡。

首筋から鎖骨にかけては、照明をつけていなくても分かるくらい、歯の後が残る薄い影や口づけの跡の赤みが点々と残っている。

 

胸の奥で、甘い後悔と、どうしようもない満足感が同時に顔を出す。

 

腕の中の紫音が、小さく身じろぎした。

 

「……ん……」

 

細い喉がかすかに鳴って、まつげがゆっくり持ち上がる。

 

寝起きの瞳は、昨夜よりさらにとろんとしていて、焦点が合うまでにいつも以上に時間がかかっている。

 

「……おはようございます、紫音さん」

 

囁くように声をかけると、紫音は少しだけ瞬きをしてから、ぼんやりした顔で優里を見上げた。

 

「……ゆうり……?」

 

「はい、優里です」

 

「……あさ……?」

 

「…はい……朝です」

 

そこまで言って、優里の背筋に、ひやりとした何かが走った。

 

「……紫音さん」

 

「……ん」

 

「今日……レコーディング、でしたよね」

 

一拍遅れて、紫音の瞳がかすかに見開かれた。

 

「……あ……」

 

寝起きの声は、いつもよりさらに掠れている。

その一文字だけで、昨夜の長さと濃さをそのまま証言してしまっているような音だった。

 

「お昼前からでしたっけ」

 

「……うん。……十一時入り……」

 

時計に目をやると、今はまだそこまでぎりぎりではない。

それでも、のんびりしていれば簡単に遅刻しかねない時間ではある。

 

「……まずは、お風呂、入りましょうか」

 

「……おふろ……」

 

紫音は、視線をふわりと宙にさまよわせた。

 

体を起こそうとして、布団の中でゆっくりと上体を起こしかける。

けれど、腰のあたりで動きが止まった。

 

「……ん……」

 

眉尻が、困ったように寄る。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……ちょっと、……腰、……へんな感じ……」

 

言いながら、布団の上に手をついて、もう少し上体を起こそうとする。

 

けれど、半分ほど起き上がったところで、ぐらりとバランスを崩した。

 

「わっ……」

 

「紫音さんっ」

 

とっさに背中と肩を支える。

細い身体が、力の入りきらないまま、優里の方に預けられた。

 

腰から下が、完全に力を失っている。

脚に力を入れようとすると、そのたびにわずかに震えて、布団の上で膝が落ちてしまう。

 

(……やっぱり、やりすぎましたよね……)

 

昨夜、自分がどれだけ我を忘れて求めていたかを考えると、胸がきゅっと縮む。

 

「……立てそうですか?」

 

「……どう、だろ…?……ゆっくりなら……」

 

そう言いながらも、紫音の声自体がかなり頼りない。

 

優里は、一度だけ心の中で深呼吸した。

 

布団をそっとめくって、紫音の身体に腕を差し入れる。

 

「……なに、するの」

 

「お風呂に、連れていきます」

 

「……え?」

 

「自力で歩くのは、ちょっと危なそうなので」

 

そのまま、肩と膝の下あたりをすくうようにして、ゆっくりと抱き上げる。

 

「……っ……!」

 

紫音の腕が、とっさに優里の首元に回った。

 

くたりとした軽さのくせに、存在感だけは重い。

昨夜の余韻をそのまま抱き上げたみたいな感覚に、優里の腕の中で、胸の奥の何かがざわりと揺れる。

 

「……紫音さん」

 

「……なに」

 

「……ほんとに、軽すぎます。明日からもう少し、ご飯たくさん食べさせますからね」

 

「……いま、その話……?」

 

半分呆れたような声が、首元でくぐもる。

 

それでも、紫音は抵抗するでもなく、腕の中で素直に体重を預けてくれていた。

首に回された腕は、力こそあまり入っていないものの、しっかりと優里を掴んでいる。

 

それが妙に嬉しくて、優里の抱きかかえる腕に、自然と力がこもる。

 

「じゃあ、お風呂、行きますね」

 

寝室のドアを開け、そっと廊下に出る。

正月二日目の朝の空気は、家の中でもひんやりしていて、腕の中の体温だけが、逆に浮き上がるみたいに感じられた。

 

紫音は、優里の胸元に額を軽く預けながら、かすかに目を閉じる。

 

「……ゆうり」

 

「はい」

 

 

「………………えへへ……なんでも、ない……」

 

 

ふにゃりと笑って、ぼそりと落とされた一言に、言葉が喉に詰まる。

 

(………)

 

胸の内側で、昨夜暴れまわっていた衝動が、一瞬だけ顔を出しかけた。

 

でも、

今腕の中にいる紫音は、昨夜よりはるかに脆くて、くたくたで、どう考えてもこれ以上はだめと身体が訴えている。

 

(……今日は、ほんとうにだめ…)

 

自分にそう言い聞かせるように、

優里は、抱き上げた腕の角度を少しだけ調整して、そのまま浴室へ向かった。

 

ーー

 

湯気と、シャンプーの香りに満ちた浴室は、いつもの何倍も静かに感じられた。

 

シャワーの音だけが、一定のリズムで響く。

 

椅子に座らせた紫音は、まだ少し腰に力が入りきっていないようで、肩から下がふわりと脱力している。

 

濡れた髪が背中に張り付き、首筋から鎖骨にかけて、昨夜つけてしまった痕が、湯気にぼかされて、淡く浮かび上がっている。

 

いかにも事後の気配をまとっているはずなのに、

紫音の雰囲気は、どこか静謐で、儚い美しさが勝っていた。

 

疲れ果てて、腰が砕けているはずなのに、

その力の抜け方すら、洗練されたポーズみたいに見えてしまう。

 

(……ほんとに、いつ見ても…ずるいくらい綺麗ですね……)

 

優里はボディソープを泡立てたタオルを持つ。

 

「……しみたら言ってくださいね」

 

「……うん」

 

紫音は、目を閉じて、小さく頷いた。

 

最初に触れたのは、肩。

 

タオル越しに、ゆっくりと円を描くように撫でる。

強くこするのではなく、泡と温度を乗せるみたいに、優しく。

 

肩から、首の後ろへ。

首筋の少し下あたりには、小さな赤い痕がいくつも散っている。

 

今さらながら、自分のしたことの生々しさに、胸の奥がちくりと痛む。

 

(……本当に、やりすぎましたね……)

 

タオルを当てる力加減を、さらに弱める。

 

首筋をなぞるたびに、昨夜の記憶がフラッシュバックする。

 

噛みついた場所の食感、

吸い上げた柔らかい感触。

息をかけたときの震え。

 

全部、ちゃんと身体に残ってしまっている。

 

「……いたくないですか?」

 

「……ううん。……すこしくすぐったい」

 

かすれた声が返ってきて、少しだけ安心する。

 

肩から鎖骨へ。

 

鎖骨の窪みに沿って、泡を滑らせる。

そこにも、小さな痕がいくつか散っていた。

 

皮膚の上に残った淡い影が、湯気の中でほんの少しだけ赤みを帯びて見える。

 

自分のしるしをこの身体に刻み込んだ。そう考えた瞬間、胸の奥で、また黒い喜びがふつりと浮かび上がる。

 

でも、同時に。

 

(この状態で、今さらに何かをするのは、違う)

 

昨夜の最後の最後にやっと掴んだブレーキが、ちゃんと働いてくれる。

 

「……ゆうり」

 

前方から、小さな声が落ちてきた。

 

「はい」

 

「……へんな、顔してる……」

 

「……どんな顔してました?」

 

「……遠く見てるみたいな、……こわい顔……」

 

鏡越しなのに、よく見抜いてくる。

 

「……すみません。ちょっと、反省中です」

 

「反省……?」

 

「はい。色々と」

 

「……ん」

 

それ以上は、追及しない。

 

けれど、紫音の指先が、軽くこちらの膝を撫でて、そっときゅっと握られた。

 

それが「信頼して預けてるからね」と言われているみたいで、

優里の胸の奥は、また別の意味できゅっと鳴る。

 

泡を流し、背中、腕、脚へと進んでいく。

 

クタクタの身体を支えながら洗う作業は、単純なはずなのに、

触れるたびに昨夜の余韻がちらついて、何度も深呼吸をしないと、手つきが変に熱を帯びそうになる。

 

洗い終わったころには、優里の方が妙な意味でぐったりしていた。

 

「……入りましょうか」

 

「……うん」

 

立ち上がるとき、紫音の身体がまたぐらりと揺れる。

 

思った以上に足に力が入らないらしく、浴槽の縁につかまっても、一人ではバランスを取るのが難しそうだった。

 

「……手、貸して」

 

「もちろんです」

 

腕を差し出し、紫音の腰にそっと手を添える。

 

そのまま、一緒に湯船へゆっくりと浸かった。

 

ーー

 

湯面に、白い肩が二つ、並んでいた。

 

広めの浴槽の片側に、紫音が背を預け、そのすぐ隣に、優里が座る。

 

お湯の温度は少しぬるめ。

それでも、疲れた身体には十分なくらいのあたたかさだった。

 

紫音は、浴槽の縁に後頭部を預けて、静かに目を閉じている。

 

湯気に濡れた睫毛は、さっきまでより長く見えた。

首筋から上がる細い湯気の線が、頬の赤みと混ざって、不自然じゃない程度に昨夜の名残を滲ませている。

 

(……綺麗すぎません?)

 

湯船に差し込む光と、白い肌と、水滴の組み合わせが反則だった。

 

お湯に浮かぶ鎖骨のラインは、余計な影を落とさない程度に、そっと浮き出ている。

首筋に残った痕は、さっきよりさらに淡く見えるけれど、近くで見ればはっきり分かる。

 

それら全部が、今はもう触れないと決めているからこそ、逆に意識の中で膨らんでいく。

 

優里は、湯船の中で少し身体の向きを変えて、そっと腕を伸ばした。

 

「……髪、触ってもいいですか」

 

「……うん」

 

返事と同時に、紫音は少しだけ頭をこちらに預けてきた。

 

優里は、濡れた髪の束を、指の腹で優しく梳く。

シャンプーを流したあとの感触。

それでも、一本一本が細くて柔らかい。

 

髪の根元から、湯気と一緒に、ほんの少しだけ紫音の匂いが立ちのぼる。

 

首筋のすぐ上あたりに指先が触れると、

さっきまでタオルで洗っていたときよりも、直接的な距離で、体温を感じる。

 

「……気持ちいいですか?」

 

「……うん……ねむくなる……」

 

「寝てもいいですよ。起こしますから」

 

「……ねない……」

 

そう言いながら、声はすでに半分寝入りかけている。

 

その油断しきった顔を、湯気越しに眺めていると、

胸の奥が、息苦しくてたまらない。

 

今、二人とも、なにも身につけていない。

 

自分が暴走してしまわないように、なるべく意識しないように、さっきからずっと当たり前みたいな顔をしているけれど、

よく考えれば、これはこの一年で一番危険なシチュエーションだ。

 

指先で髪を梳くたびに、手のひらの下で、首筋から肩にかけてのラインが動く。

お湯のなかで、腕と腕が触れるたび、皮膚どうしの温度がダイレクトに伝わってくる。

 

(……服を着てるときとは、ぜんぜん違いますね……)

 

昨夜だって、十分に理性を危うくする距離だった。

 

それが今は、どこにも服という緩衝材がない。

自分の腕の中で、さっきまで洗っていた身体がそのまま湯に溶けている。

 

さっきまでは、介抱するという面目が盾になっていた。

 

今はもう、洗う工程も終わっていて、ただ隣で一緒に浸かっているだけ。

 

なのに、腕の中の紫音は、完全に優里を信頼しきって、目を閉じている。

 

(……ずるい)

 

その信頼ごと、強く抱きしめてしまいたくなる。

 

けれど、

昨夜の最後に見た、ぎりぎりのブレーキが、ちゃんと頭の片隅に残っているから。

 

あの、汗と涙の境目みたいな表情。

声にならない声をあげながら、しがみついてきた腕。

 

指先は、髪を梳く動きをやめないまま、

胸の奥のざわめきだけが、じわじわと溜まっていく。

 

「……ゆうり」

 

うとうとしながら、紫音が名前を呼んだ。

 

「はい」

 

「……そんなに、さわさわしたら……ほんとに、寝る……」

 

「……寝かせようかなって思ってました」

 

「……むぅ…」

 

小さな抗議の声が、湯気に紛れて、耳に届く。

 

優里は、指先の動きをほんの少しだけ緩めた。

 

けれど、緩めれば緩めるほど、

逆に、顔の距離が気になってくる。

 

視線を下ろすと、

湯に濡れた睫毛、ゆるんだ口元、赤みを帯びた頬。

全部が、さっきまでの事後感を残したまま、それなのに無防備にそこにある。

 

服を着ているときのキスでも、あれだけ我を忘れかけたのに。

 

今、何も隠していない状態でキスをしたら、

きっとまた、

 

 

それでもーー

 

(……一回だけ)

 

自分で自分に、卑怯な免罪符を用意する。

 

「……紫音さん」

 

「……ん……?」

 

名前を呼ぶと、薄く目が開いた。

 

眠気と、まだ抜けきっていない余韻と、信頼の全部が混ざった目。

そこに映っているのが自分だけだという事実が、胸の奥でひどく響く。

 

「……一回だけ、いいですか」

 

「……なにが……」

 

「……キス、しても」

 

紫音は、一瞬だけ瞬きをして、

それから、ゆっくりと、こくりと頷いた。

 

湯気のなかで、濡れた前髪が揺れる。

 

優里は、湯船の中で体勢を少しだけ寄せた。

 

お湯が、ふわりと揺れる。

肌と肌が、さっきより広い面積で触れ合う。

 

裸のまま向き合っている、という事実が、思っていた以上に重たくのしかかってきた。

 

服が一枚もないことが、こんなにも言い訳を奪うのだと、今さらながら突きつけられる。

 

昨夜までは、どこかで自分を誤魔化していたのだと気づいてしまう。

 

今は、逃げ道がない。

 

視線をそらす場所も、

触れていないところも、

ほとんど残っていない。

 

(…それが…こわいくらい、嬉しい)

 

胸の奥で、恐怖と幸福が同じ顔をして笑う。

 

そっと、紫音の顎に手を添えた。

 

濡れた肌は、湯気のせいで少し滑りやすい。

それでも、細い顎のラインは、指先でなぞればきちんとそこにある。

 

「……目、閉じてください」

 

「……うん……」

 

長いまつげが、素直に伏せられる。

 

その様子を見ているだけで、喉の奥が熱くなった。

 

裸のまま、湯に浸かりながら、目を閉じてキスを待っている。

 

それはもう、どこからどう見ても、自分は貴女のものですって、身を捧げてる姿だった。

 

昨夜のぎりぎりのところで、

今なら何をしても抵抗されないかもしれない、と思ってしまった自分を、ちゃんと怖いと思っている今の自分なら。

 

一回でやめると決めて、その通りにできるはずだ。

 

その決意だけが、ぎりぎりのところで理性を繋ぎ止めている。

 

そっと顔を近づける。

 

お湯のあたたかさと、肌の温度と、息の熱さが、全部ひとつにまとまる。

 

唇が触れ合う直前の距離で、一度だけ呼吸を整える。

 

(……裸でキスって、こういう感じなんだ……)

 

触れていないはずのところまで、全部つながっている感覚になる。

唇に触れた温度が、直接、心臓に触れているみたいだ。

 

最後のひとかけらの距離を詰めて、

そっと、唇を重ねた。

 

柔らかい感触と、湯気の湿度が混ざる。

 

無我夢中に求めるのではなく、軽く舌先をちろちろと絡める程度の深すぎない口づけ。

ただ、ここにいると、わたしはあなたの隣にいると伝えるためだけの、短いキス。

 

昨夜数えきれない程した口づけに比べれば、全くもって健全なキス。

 

それなのにーー

 

「……っ」

 

優里の方の心臓が、大袈裟なくらい跳ねた。

 

胸の内側から、何かが熱く噴き出す。

 

湯の温度よりも、肌の表面よりも、ずっと熱いものが、喉の奥に溜まっていく。

 

腕の中の紫音が、完全に自分を信じて、何も身にまとわず隣に座っていること。

その状態で、キスを許してくれたこと。

 

それが、言葉にならない重さでのしかかってきて、

涙が出そうなくらい苦しくて、幸せだった。

 

「……ん……」

 

小さな息が、唇の隙間から漏れる。

 

その音にスイッチが入ってしまう前に、

優里は、そっと唇を離した。

 

本能は、もっと深くを要求してくる。

 

腕を回して抱き寄せたくなるし、

首筋にまた唇を落としたくなるし、

昨夜の続きを、その先を、湯船の中でなぞりたくなる。

 

でも、今回は1回だけって決めていたから。

 

それができなければ、

昨日の反省なんて、ただの自己満足になってしまう。

 

「……紫音さん」

 

唇を離した位置から、そっと名前を呼ぶ。

 

紫音は、うっすら目を開けて、ぼんやりした表情で優里を見た。

 

頬は赤く、唇は少しだけ濡れていて、

それでも昨夜ほどの荒い呼吸はない。

 

紫音は、少しだけ目を細めて、湯面に視線を落とした。

 

「……ありがと」

 

「え?」

 

「……止まってくれて、ありがと」

 

照れたような、少しだけ安心したような声だった。

 

その一言で、胸の奥のなにかが、少しだけほどける。

 

湯気の中で、ふたりは短く笑い合った。

 

 

お風呂を上がるころには、

紫音の足取りも、さっきよりは幾分マシになっていた。

 

それでも完全に腰砕けから復活したわけではなく、

脱衣所から寝室へ戻るあいだも、優里の腕につかまりながら、ゆっくりと歩くことになった。

 

ドライヤーの音が、寝室にふんわりと響く。

 

椅子に座った紫音の背後に立って、優里は丁寧に髪を乾かしていく。

 

タオルである程度水気を取ったとはいえ、長くなった白銀の髪は、それなりの量と重さがある。

 

ドライヤーの温風と、指先の感触で、

さっきまで浴室で見ていた水滴の光景が、また頭に浮かんだ。

 

自分で自分に苦笑しながら、毛先までしっかり乾かす。

 

仕上げに、ブラシでゆっくりと梳く。

静電気が起きないように、力加減に気をつけながら。

 

ブラシが通るたびに、髪が光を拾って、少しだけきらりと揺れる。

 

紫音は、椅子に座ったまま、目を閉じている。

完全に放心しているわけではなく、ただ全身を預けている、という感じだった。

 

「……痛くないですか?」

 

「……うん。……きもちいい」

 

くぐもった声が返ってくる。

 

その一言が、妙に誇らしかった。

 

すべての作業が終わって、ブラシを机の上に置く。

 

「……おしまいです」

 

そう告げても、紫音はすぐには振り返らなかった。

 

背中越しに、静かな呼吸だけが伝わってくる。

 

(……今、これで離れるの、もったいないですよね)

 

気づけば、身体が勝手に動いていた。

 

抱き寄せるみたいに、紫音の脇腹を通すように、そっと腕を差し入れる。

 

そのまま、後ろから抱きしめるように、腰のあたりで腕を組んだ。

 

「……わっ」

 

紫音の身体が、わずかにびくんと揺れる。

 

それでも、拒絶の気配はない。

むしろ、数秒後には、肩の力がすとんと抜けた。

 

「……びっくりした……」

 

「すみません。なんとなく、このまま終わるのが勿体なくて」

 

優里は、紫音の身体をそっと自分の方へ引き寄せる。

 

背中が、胸にぴったりと収まる。

お互い、もうちゃんと服は着ている。

 

それでも、さっきまでの裸の距離感を知ってしまっているせいで、

服越しの接触ですら、十分すぎるくらいの密度を持って感じられた。

 

紫音は、最初こそ少し戸惑ったように身じろぎしたものの、

すぐに、その動きも止まった。

 

背中越しに、優里の腕に自分の手を重ねてくる。

 

「……優里」

 

「はい」

 

「……あったかい」

 

腕の中の温度そのものを確かめているような言い方だった。

 

紫音は、そのまま背中を預けきって、椅子の上ですこしだけ姿勢を楽にした。

 

完全に任せ切る、というより、

ここなら大丈夫という前提で座っている感じ。

 

信頼に甘える、というより、

信頼が空気みたいにそこにあるからこその、気の抜け方だった。

 

優里の腕の中で、紫音は体温ごと沈んでいく。

優里の手のひらに重ねた手に、もう一度だけ力を込めた。

 

帰る場所と、プロとして向かう現場とその前後を繋ぐ、このささやかな抱擁。

 

腰が砕けるほどクタクタになっても、

録音ブースの前に立つその背中を、ここから送り出せるのは、優里だけ。

 

優里は、その事実に甘えながら、

紫音の背中ごと、もう一度ぎゅっと抱きしめた。

 

背中越しに伝わる鼓動は、もうすっかり落ち着いている。

昨夜見たぎりぎりの表情も、浴室での危うい瞬間も、今はちゃんといつもの姿に包み直されて、腕の中に収まっていた。

 

そう思ったところで、壁の時計に目がいく。

 

針は、十一時の少し手前を指していた。

 

ーー

 

出発前の名雪家のリビングは、今までの正月の数日よりも少しだけ現実味を帯びていた。

 

こたつの上には、片付けきれなかったみかんのカゴと、テレビのリモコン。

ソファの背には、紫音が普段使っている黒いパーカーが掛かっている。

テーブルの端には、今日のレコーディング資料が入った薄いファイルが、きちんと揃えて置いてある。

 

紫音は、そのファイルをトートバッグに入れて肩に掛け、もう一度中身をざっと確認した。

 

譜面、ペン、メトロノーム、イヤホンケース、小さな喉飴の袋。

必要なものは一通り揃っている。

 

優里は、その様子を見守りながら、首元のマフラーを整えた。

 

淡いグレーのマフラーは、何度か巻き直して、自然に首元の数えきれない痕が隠れる高さに落ち着かせる。

 

「……苦しくないですか?」

 

思わず口をついて出た言葉に、自分で少しだけ苦笑する。

 

紫音は、鏡をちらりと見て、首をほんの少し回してから、短く答えた。

 

「だいじょうぶ」

 

その言葉と一緒に、マフラーの端を指でつまんで、軽く引き寄せる。

その仕草に、優里の胸の奥で、昨夜の記憶がふわりと浮かび上がる。

 

けれど、それを表情に出さないように、息をひとつ飲み込んだ。

 

さっきまで湯気のなかで脱力していた人とはとても思えない。

 

でも、その横顔のどこかに、まだ少しだけ眠たげな気配が残っているのを、優里は見逃さなかった。

 

玄関に向かう廊下は、リビングより一段階気温が低く、扉の向こうから、外気の冷たさがじわりと染み込んでくる。

 

壁際に並べられたスニーカーと、紫音のショートブーツ。

お正月らしく、廊下の隅には、優里の用意した簡素なしめ飾りがかけられている。

 

紫音は、ブーツのファスナーを上げながら、小さく息を吐いた。

 

腰は、朝よりはずっとマシだが、それでも完全に違和感が消えたわけではない。

屈むたびに、筋肉の奥のほうで、じわりとした疲労が顔を出す。

 

それでも、靴紐を結ぶ指先は迷わない。

 

優里は、その横でしゃがみ込み、マフラーの端をもう一度だけ整えた。

 

首元と顎の隙間から、冷たい空気が入らないように。

けれど息苦しくならない程度に。

 

背中に手を添えたまま、そのまましばらく動かなかった。

 

玄関の照明は、昼間でも少し黄味が強い。

その光が、紫音の白い頬とシルバーの髪にやわらかく反射して、少しだけあどけない影を落としていた。

 

バッグのストラップを握る指先は、いつもの本番前と同じ、少しだけ強めの力で。

 

そこで、ようやく実感が追いつく。

 

さっきまで、同じ布団の中で眠っていた人が、

今から、また世界のどこかを震わせに行く。

 

その事実が、誇らしくて、少しだけ寂しい。

 

扉の前で、紫音が振り返る。

 

玄関の土間と、家の中のフローリング。

その境目みたいに、紫音の視線が、一瞬だけ揺れた。

 

「……行ってくる」

 

小さな声だった。

仕事に行く前のいつもの挨拶と、たいして変わらないトーン。

 

それでも、今の優里には、

ほんの少しだけ昨夜までの余韻の乗った、そのかすかな掠れがはっきり分かる。

 

優里は、うなずいた。

 

「行ってらっしゃい、紫音さん。……気をつけてくださいね……」

 

出来るだけこれまでの日常をなぞるように、それ以上、言葉を足さないようにした。

 

言いたいことはいくらでもあったけれど、

ここでそれを全部口に出してしまうと、たぶん紫音は、困ってしまう。

 

それに、ここ数日で交わした、無数のキスは、きっともう十分すぎるくらいの贈り物だった。

 

玄関の冷たい空気が、紫音の足元からじわじわと上ってきているのが、距離越しにも分かる。

 

その境目に、まだ温かい手を一秒だけ差し出す。

 

紫音は、少し迷ってから、その手に自分の指を絡めた。

 

ほんの一瞬。

ハイタッチして、確かめて、離すくらいの時間。

 

握られた手のひらに、昨夜残した痕や、浴室の湯気や、こたつの熱や、みかんの甘さや、

この家で過ごした二日分の全部が、まるごとまとめて押し込まれた気がした。

 

紫音は、そのままドアノブに手を伸ばした。

 

鍵の音が小さく鳴る。

扉が開いて、冬の冷たい空気が一気に流れ込んでくる。

 

外は、きりりとした晴れだった。

 

さっきよりも少し低い角度から、冬の陽が差し込んで、

玄関の床に、細長い光の帯を一本落としている。

 

その光の中に踏み出すみたいに、紫音は外へ出た。

 

ブーツの底が、コンクリートに軽い音を落とす。

 

顔は、もうすっかり日常を取り戻しているようだったけれど、

目尻のどこかは、ほんの少しだけいつもより緩んでいる。

 

扉の縁に片手を添えながら、

優里は、その後ろ姿を目に焼き付けるみたいに見送った。

 

紫音がマンションの角を曲がり、

白い息だけが最後にふわりと浮かんで、消える。

 

それを見届けてから、

優里はゆっくりと玄関の扉を閉めた。

 

鍵のかかる音が、小さく響く。

 

室内の空気は、暖かい。

けれど、さっきまで紫音が立っていた場所にだけ、

まだ別の温度が残っているような気がして、優里はしばらくその場から動けなかった。

 

胸の奥で、静かに何かが鳴る。

 

昨夜の衝動も、

湯船のなかの一回きりのキスも、

玄関先で一瞬だけ握った手の感触も。

 

全部まとめて、今日この日の、送り出すという行為に包まれて、

少しだけ違う形の熱に変わっていく。

 

ほんの数秒だけ目を閉じて、

こみ上げてきたものを、息と一緒にゆっくりと吐き出した。

 

そして、リビングの方に向き直る。

 

こたつ布団と、みかんのカゴと、

さっきまで二人で座っていた座布団が、静かに待っている。

 

優里は、いつもより少しだけ丁寧な足取りで、廊下を戻っていった。

 

今日の夕飯は、何にしようか。

 

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