天才ロリ(合法)と一般JKの百合   作:( 눈_눈)

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相談、紫音の想い

電子ピアノの黒鍵が、モニターの白い光をぼんやりと反射していた。

年始の夜の冷たい外気はまだ窓ガラス越しに残っていて、暖房の送る空気と、少しだけ拮抗している。

 

いつもの自室で、配信画面に白い指が二本、そっと伸びた。

 

「……はい、今日は雑談と質問コーナー、します」

 

整った細い顎のライン、黒い緩めのパーカー。ほんのりと光を拾う白銀の髪。

名雪紫音の姿は、いつもの配信レイアウトの中央やや左寄りに、肩から上が映るくらいのショットで収まっていた。

 

右下には、小さく譜面ソフトと、ピアノ音源のウィンドウがひらきっぱなしになっている。

左側には、縦に流れていくコメント欄。

白と黒と、視聴者のユーザー名が、画面の片側をせわしなく行き来していた

 

『きたーーーー』

『あけおめ配信助かる』

『音楽の話しますってタイトルに釣られて』

『↑どうせまた天才ムーブで終わる』

 

モニターの光が、紫音の瞳の中で小さく揺れる。

紫音は、一度だけ小さく笑う。笑ったと言うより、口角がわずかに上がるくらいの、いつもの控えめな反応だった。

 

「……あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」

 

習慣になったかのような綺麗な敬語。

その挨拶を言い終えたところで、椅子の背にもたれていた肩の力が、ふっと抜ける。

 

「タイトル、そんなに信用ない?ちゃんと、真面目に音楽の話、してる」

 

モニターの下で、マイクのスタンドが小さく影を落とす。

紫音は、画面左側のコメント欄に視線を滑らせながら、無表情に近い表情のまま、わずかに眉だけを上げた。

 

『信用ゼロです』

『毎回「どうやってその音選んだんですか?」→「ん、うるさくないから」みたいな返しされてるんだが?』

『凡人には分からない領域』

『でもむしろそれが聞きたいので今日もお願いします』

 

「……いや、うるさくないって、ほんとに、大事だから……」

 

ぼそ、と呟きながら、机の上で左手を組む。

薬指の細いリングが、デスクライトにかすかにきらめいた。

 

指先が、自然とそこをなぞる。

感情が少しだけ昂ぶったときに出る癖。

いつからかできてしまった、甘くてたまらない癖。

 

『序盤から指輪いじってて草』

『さりげなく見せつけてくるのやめていただけます?』

『今日も元気そうで何よりです』

 

「いや、見せつけてる、つもりは…ないけど」

 

淡々と否定しながらも、指はリングの位置をそっと確かめるみたいに一周なぞってから、キーボードに戻る。

 

薄いキースイッチの音が、マイクには乗らない程度の小ささで、かすかに部屋に溶けた。

 

「じゃあ、上から……『作曲するとき、メロディからですか?コードからですか?』」

 

コメントを読み上げて、ほんの少しだけ考える素振りをする。視線がいったん天井の方へ泳ぎ、モニターの光が頬の片側だけに強く当たる。

 

「……うーん、聞こえるとこから…かな…?」

 

『出たよ』

『??』

『つまりどこだよ』

『?????』

 

コメントが一気に流速を上げた。

画面左側が、滝みたいに文字で埋まっていくのを、紫音はぼんやりと眺める。

 

「えっと……頭の中で、通しで流して、1番よく聞こえるとこ、こだわらないとだから、最初に作る、みたいな……」

 

『ん????』

『一般人の頭の中では通しで流せません』

『先に頭の中で一通り作曲してるってこと???』

『今日も安定のノウハウにならないノウハウ』

 

紫音は、視線を画面の端に泳がせて、小さく肩をすくめる。パーカーのフードの縁が、わずかに揺れて、肩口に柔らかい影を落とした。

 

「……ごめん、ちゃんと説明したい、けど……ほんとにそんな感じ……」

 

『謝らなくていいので一旦脳を解析させてくれ』

『こういう返答されるたびに「天才なんだな……」って諦めつくから逆に助かる』

『天才は抽象的なことしか言わないって本当なんだ』

 

「じゃあ、もう一つ。『演奏中に音を外さないコツはありますか?』」

 

マウスホイールを指先で転がしながら、紫音は別の質問を拾う。

 

今度は、深刻そうな顔で数秒黙り、ぽつりとこぼした。

 

「……わからないよ」

 

『身も蓋もなくて草』

『ですよね』

『外したことなさそう』

 

「でも、外したこと、ずっと気にしてたら、次も外すから……それより、次の音、ちゃんときれいにしてあげた方がいい、と思う、多分」

 

淡々と語る声は、相変わらず落ち着いているのに、どこか説得力だけは異様にあった。

 

コメント欄には、「参考になります!」という真面目なものと、「できないよ!」というツッコミが混ざって流れていく。

 

『でもこういうマインドの話は助かる』

『結局メンタルゲーなんよな』

『ちゃんとプロの言葉だ』

 

紫音の指は、またリングを一度撫でたあと、マグカップの取っ手を軽く摘んだ。

 

白い湯気が、カップの縁からふわりと立ちのぼる。

 

「……思ったより、いっぱい来てる……ね」

 

『質問溜まってるんだよ』

『どう考えても供給に対して需要が多すぎる』

『週一でこういうのしてほしい』

『そのうち有料講座になりそうこわい』

 

紫音は、無表情に近い薄い笑みを浮かべる。

口元だけ、かすかに緩んで、目元は相変わらず静かだった。

 

「有料にはしない。めんどくさいし」

 

『理由www』

『金よりめんどくささが勝つ女』

『でもその結果無料で天才の思考が垂れ流されてるの助かる』

 

そんなやりとりが続いて、配信はしばらく穏やかなペースで進んでいった。

 

ーー

 

異変が起きたのは、30分と少しが経ったころだった。

 

『ん?』

『肩……』

『なんか見えてない?』

 

コメント欄の流れが、急に一方向に傾き始める。

 

『肩のとこ……赤くない?』

『え、傷?』

『影じゃない?』

 

紫音は、最初はそれに気づかず、別の質問を拾おうとしていた。

 

「『最近練習してるテクニックはありますか?』……最近……」

 

首を少し傾けた拍子に、パーカーの襟ぐりが、ほんの少しだけずれる。

 

黒い布地の隙間から、白い肩口がちらりとのぞいた。

 

そこに、薄く、しかしはっきりとした歯型の痕が、かたまりで残っている。

 

丸く並んだ赤い影。

一つや二つではない。数カ所、それも新しそうなものと薄くなりかけているものが混じって、肩のラインに沿って点在していた。

 

『うわああああああああああ』

『歯型!?!?!?』

『誰に噛まれてるの!?』

『恋人か!?』

『?!!!』

 

コメントの速度が、一気に跳ね上がる。

 

スクロールバーが、ほとんど上に戻れないほどの速さで流れ続けた。

 

紫音は、ようやく自分の画面にもその流れが見えて、首をかしげた。

 

「……肩?」

 

画面内で、自分の姿を確認しようと、少しだけ前のめりになる。

 

その動作で、パーカーの襟ぐりがまたずれ、歯型がよりはっきり映った。

 

『サービスショットありがとうございます』

『やめろwww』

『ちょっと生々しすぎるんよ』

『いや笑えないんだけど大丈夫?ほんとに大丈夫?』

 

名雪紫音は、しばらく画面をまじまじと見つめてから、自分の肩にそっと指先を当てた。

 

「あー……これ?」

 

涼しい声が、なんでもないものに触れるみたいなテンションでそう言う。

 

『これ?じゃないが?』

『説明を求む』

 

「うん……なんか、ついてるね」

 

『他人事?』

『いや自覚ないの怖いな?』

『覚えてない系?』

 

紫音は一度だけ瞬きしてから、少しだけ考える顔をした。

 

そして、ごくありふれたことを説明する、という調子で口を開く。

 

「……優里が、一緒に寝るとき、たまに噛んでくる」

 

『はい????』

『情報量が多すぎる』

『今なんて?』

『優里?????』

 

「一緒の布団だと、なんか、犬みたいに噛んでくる」

 

左手の指が、無意識に薬指のリングをなぞる。

 

『犬みたいに噛んでくる???』

『一緒の布団????』

『優里さん!?!?!?!?』

 

「……そんなに変?」

 

『変だろ』

『変でしょ』

『こっちは平和に音楽トークを聞きに来ただけなんですが!?』

『犬みたいに噛んでくるとかいう日本語の破壊力よ』

 

紫音は、コメント欄の騒がしさを一瞥して、ほんの少しだけ困ったように首を傾げた。

椅子のキャスターが、わずかに床の上で軋む。

 

「……痛くはしてこないから、大丈夫」

 

『そこじゃないw』

『いや安心はしたけども』

『痛いかどうかの話ではない』

『公式から供給来るタイプの百合、こわ……助かる……』

 

「そう?……まぁ、痣になってるのは、ちょっと反省させたほうが、いいのかな」

 

『反省させるwww』

『優里さん怒られちゃう』

『怒られてしょんぼりする優里まで見えた』

 

紫音は、そこでふと視線を落とした。

 

画面の端に映る自分の肩の痕を一度だけ確認してから、少しだけ真面目な顔になる。

 

「……あ、でも。ちょうどいいかも」

 

『ちょうどいい??』

『今の流れから「ちょうどいい」はこわいが?』

『話題の切り替え方がこわい』

 

「前から、ちょっと相談しようと思ってて……」

 

そう言いながら、左手の親指で、リングの表面をゆっくりとなぞる。

感情の温度が、少しずつ上がっている証拠。

 

コメント欄も、その仕草を見慣れている常連たちが、一瞬だけテンションを変えた。

 

『指輪いじり出したってことはガチの話か』

『マジだ』

『みんな真面目モード入れ』

 

紫音は、少しだけ息を吸う。

胸元のパーカーが、わずかに上下した。

 

「……えっと。これは、今さらだけど……優里、高校生、でしょ?」

 

『うん』

『JKです』

『そこが良い(正直)』

『落ち着け』

 

「わたしは、まぁ、普通に大人で」

 

淡々と事実を並べる声。

 

「……でも」

 

そこで、紫音は、すこしだけ視線を落とした。

モニターの白い光が、頬の線に沿って細く伸びている。

 

左手の親指と視線が、薬指のリングの縁を、迷うみたいに一周なぞる。

 

「…………優里は、たぶん……わたしのこと、好きでいてくれてて」

 

『たぶん(確定)』

『知ってる』

『画面越しにもダダ漏れです』

『むしろ最近まで知らなかったの紫音さん側では』

 

コメント欄が、一斉に茶化す方向へ傾いていく。

 

紫音は、ちらりとコメントを眺めてから、ふっと目をそらした。

 

「……で」

 

少しだけ間を置いて、続ける。

 

 

「……わたしも、優里のことは。……別に、その………………嫌いじゃない、から」

 

 

ほんの少しだけ声が小さくなる。

いつもより、ほんの気持ちだけ語尾がすぼむように頼りない。

 

『は????』

『嫌いじゃないwwwww』

『言い方!!!』

『嫌いじゃないはほぼ「好き」なんよ』

『濁し方が下手w』

『いやいやいや今さらそれは無理がある』

『一緒に寝て、指輪して、肩に歯型つけられても普通にしてて、これで「嫌いじゃない」は草』

『これはアウトですね』

 

紫音は、コメント欄の盛り上がりを見て、わずかに眉を寄せた。

 

「……なに、その、そんなに変?」

 

『変です』

『今までの行動と整合性が取れてない』

『そこまでやっておいて「嫌いじゃない」しか言ってくれないのは優里目線で逆に残酷まである』

『もっと自覚して???』

『こっちは告白シーン待ってるのに』

 

紫音の耳のあたりが、じわじわと赤くなり始める。

 

左手の指が、リングの表面をさきほどよりも速いリズムでなぞり始めた。

 

「……いや、嫌いじゃない、って普通…………うん、普通に言うでしょ……?」

 

『ごまかすな!!!!!!!』

『好きって言葉から逃げるな』

『好きって言ってくれないと今年一年が始まらないよ!!!!!!』

『視聴者全員で詰めるスタイル』

『別に嫌いじゃないって恋愛感情強い人ほど言いがちだよね』

『自覚しようね〜?』

『指輪いじりの頻度でバレてますよ』

 

紫音は、コメントの流れを追い切れなくなったのか、一度まぶたを伏せて、深くため息をついた。

 

マイクに、かすかな息の音が触れる。

 

「……なんで、そういうところだけ、みんな鋭いの」

 

『常に見てるからだよ』

『推しの感情には敏感なんです』

『観察力だけはプロ』

 

数秒の沈黙。

 

画面の中で、紫音は椅子の背にもたれるように、すこしだけ体重を預けた。

 

視線はコメント欄から外れて、カメラの少し横あたりをさまよっていた。

 

「……べつに、今、言わなくてもよくない?」

 

ぽつり、と、小さな声。

 

『言ってほしいです』

『今言ってください』

『今日このタイミング逃したら一生聞けないやつ』

『紫音さんが嫌じゃなければでいいから』

『ちゃんと本人にも、言ってあげてほしい』

『ここで言えば、本人も絶対見るよ』

 

まぶたが、わずかに震える。

 

さっきまで落ち着きなく指輪の縁をなぞっていた指先が、今度は迷うように、ほんの少しだけ力を込めて押し当てられる。

 

「……本人が、見る……」

 

マイクのすぐそばで落とされた小さな独り言は、ため息みたいに淡く空気に溶けた。

 

頭のなかで、簡単に想像がついてしまう。

アーカイブを開いて、イヤホンをつけて、食い入るように画面を見ている優里の横顔。

驚いて、耳まで真っ赤にして、きっと途中からまともにコメント欄も見られなくなるだろう顔。

 

想像した瞬間、胸の奥が、くすぐったいのと気恥ずかしいのとで、じわりと熱を帯びた。

 

紫音は、わずかに目を伏せる。

 

白い頬。まつげの影が、ライトの柔らかい光を受けて、長く、かすかな弧を描いていた。

銀色の前髪がさらりと揺れて、頬のあたりにひと房だけ張り付く。そこだけ、火照った肌のせいで、ほんのり色を変えて見えるようだった。

 

 

「………………やだなぁ」

 

 

ぽつり、とこぼれた声は、言葉とは裏腹に、笑ってもいないのに、どこか漏れ出してしまったような甘さを含んでいて、

 

『やだなぁ(めちゃくちゃ喜んでる)』

『今の声色ずるい』

『顔真っ赤なのカメラ越しでも分かる』

『照れ顔がかわいすぎるんだが』

 

コメント欄が一斉に騒ぎ出す。

 

紫音は、視線を正面から外したまま、リングをいじる手だけを忙しく動かし続けていた。

細い指に絡むシルバーの輪が、くるり、くるりと回る。そのたびに、小さな光の粒が、白い指の節に跳ねる。

 

「……だから……なんで、そういうところだけ、みんな鋭いの」

 

拗ねたような、低めの声。

それに合わせて、口元が少しだけ尖る。

ふだんピアノの前で見せる無表情に近い顔付きのままなのに、わずかに下唇が前に出ていて、そのささやかな変化だけで機嫌が悪いというより、照れていることが、画面越しにもはっきり伝わってくる。

 

『観察対象だからな……』

『一挙手一投足を見てるオタクをなめるな』

『まじで世界で一番かわいい』

 

「…やっぱり…べつに、今、言わなくても、よくない?」

 

小さく、逃げるように落とされた言葉。

肩がわずかにすくむ。その動きにつられて、さらさらの銀髪がふわりと頬からこぼれ落ちる。

露出した耳の縁が、カメラの解像度越しにも分かるくらい、薄く赤い。

 

『言ってほしいです(土下座)』

『今言わなかったらどうせ一生言わないでしょ』

『年始一発目の大仕事だよ』

『ここまで来たら、もう一歩だけ……!』

『優里ちゃんへのご褒美だと思ってほしい』

『アーカイブ越しでも届くように言ってあげて』

 

コメントの流れを追っていた紫音の蒼い瞳が、ふと一点で止まる。

 

『優里ちゃんが見たら多分泣くよ、嬉しくて』

 

「……」

 

喉の奥で、なにかが小さく鳴った。

リングをなぞる指先が、一度動きを止め、それから、ぎゅっと縁をなぞり直す。

 

カメラ越しに見ると、指輪の輪郭が肌に薄く食い込んで、その下から、指先の血色がじんわりと滲んでいるように見えた。

 

「…………ほんと、やだなぁ」

 

さっきよりも、さらに小さな声。

それでも、マイクはしっかり拾ってしまう。

 

視線を落としたまま、紫音は、ふう、とひとつ息を吐いた。

長いまつげが一度震え、わずかに揺れる。

その横顔は、ステージ上で見せる完璧な光の顔とは違って、どこか守りたくなるような、見た目相応の不器用さを抱えた幼げな顔だった。

 

画面の向こうでは、その一瞬にすらコメントが飛ぶ。

 

数秒だけ、音のない時間が流れた。

 

紫音は、椅子の背もたれに少し身体を預け直す。

銀髪が肩から滑り落ちて、黒いパーカーの胸元に広がる。

柔らかい白が、その髪と肌の境目をぼんやりと縁取って、輪郭線ごと柔らかくぼかしていた。

 

左手は、胸の上、ちょうど心臓のあたりで止まる。

指先が生地ごと押さえて、そこにある小さな円を、確かめるようにそっと撫でた。

 

「……じゃあ」

 

静かに口を開く。

喉がひとつ上下するのが、首筋の細いラインからわかる。

 

画面の向こうで、コメントが一瞬、止まった。

 

紫音は、ゆっくりと視線をカメラ側へ戻した。

真正面ではなく、ほんの少しだけずれた位置、いつもそこに座っているはずの誰かを、意識しているみたいな角度で。

 

「……優里のことは」

 

指輪の上に置いていた指に、すこし力が入る。

胸のあたりの布が、きゅっと小さく引き寄せられた。

 

照明に照らされた瞳の中に、やわらかい白いハイライトがふたつ映り込む。

それが、涙の気配にも似た輝き方をしていて、実際には泣いていないはずなのに、見ている側の胸を勝手にざわつかせる。

 

ほんの少しだけ、声が震えた。

その震えが、そのまま頬の紅潮とリンクするみたいに、白い肌の上に、熱の色がふっと濃く広がる。

 

おかえりなさいと、エプロン姿で出迎えて、そして微笑む優里を思い出す。

 

夜遅くに譜面を書き直しているとき、何も言わずにマグカップをデスクの端に置いて去っていく後ろ姿。

 

朝、まだぼんやりした頭でテーブルにつくと、当たり前みたいな顔で味噌汁をよそってくる手。

 

作り置きのおかずの味が、少しずつ紫音好みに変わっていったこと。

 

収録が近くになると、何も言っていないのに決まって喉に優しいメニューばかり並ぶこと。

 

年下のくせに変なところだけ大人ぶっているところ。

 

その全部が、気づけば一日のなかの当たり前になってしまっていて、

そのくせ、ひとつでも欠けると妙に落ち着かなくなる。

 

何気ない日常は、いつの間にか何よりも大切なものになってしまっていて、

そして、きっとその原因は。

 

 

「……優里、……のこと……は…………」

 

 

噛み締めるように紡ぐ言の葉は、

 

 

 

 

 

「……………………すごく、…好きで………」

 

 

 

 

 

…それは、ひたすら甘かった。

 

唇が、言葉を吐き終えたあとも、かすかに動いた。

噛んで我慢しているような、笑い出しそうなのをこらえているような、形容できない複雑な線を描いて。

 

その一瞬だけ、名雪紫音から天才音楽家の肩書きは、きっとどこかに消えていた。

画面に映っているのは、左薬指のリングを心細そうになぞりながら、不安そうに愛を告げる、ひとりの女の子の顔だった。

 

コメントが、一気に弾ける。

 

『うわああああああああああああああああああ』

『言ったあああああああああああああああああ!!』

『すごくってつくのがいい』

『ご飯何杯いけるかな』

『目の奥ってほんとに揺れるんだな……』

『こんな綺麗な告白初めて聞いた』

『リング触りながら告白するのやばい、ほんとにすごい好きなのが伝わる』

『優里ちゃん、マジで幸せになってくれ……』

『これアーカイブで見たら卒倒するでしょ』

 

紫音は、コメント欄の爆発を、正面から受け止める余裕なんて、持っていなかった。

 

たちまち耳まで真っ赤になり、視線を大きくそらす。

白い首筋から耳たぶにかけて、のぼせたような赤が噴火するように広がる。

その上にさらりとかかった銀髪が、色の境目を隠すようで、かえってそこだけ甘い秘密を隠すみたいに妖艶な雰囲気をまとわせていた。

 

左手はまたリングへ戻り、落ち着きなく、でもどこか愛おしそうにくるくるなぞる。

 

「……あんまり、いじめないで」

 

小声でそう言って、椅子の背にもたれたまま、顔を逸らす。

カメラのフレームの端で、首をすこしすくめた拍子に、髪がふわっと揺れて頬にかかる。

そこを直すのも忘れたまま、ただ真っ赤な耳だけが、画面の隅で主張していた。

 

『いじめてないwww』

『かわいすぎて無理』

『今日の配信、年始から情報量が多すぎる』

『ありがとう』

 

紫音は、そのあたりのコメントには何も返さなかった。

ただ、少しだけ俯いたまま、息を整え、

 

やがて、ほんの少しだけ、気を取り直すように顔を上げた。

 

頬の赤みはまだ残っている。

それでも、瞳の色は、もういつもの名雪紫音のそれに戻っていて、さっきの告白を前提にしたうえで、真面目な相談へと舵を切っていくのだった。

 

「……その、……で、話をもどすと…………その、……問題が」

 

紫音は、正面に視線を戻し、真顔に戻る。

 

「……もし優里に、その、えっちなことを、したいって言われたとき、どう断ればいいのかな、って」

 

『はい????????』

『待て待て待て』

『話のスライド幅がえぐい』

『????』

 

「……さっき、言った通りだから、……その…する気がないとか、嫌とか、……そういう話じゃなくて」

 

紫音は、ことさらに淡々と続ける。

指先が、一瞬だけ止まる。

 

「でも、大人としては、ちゃんと、そこで止まった方がいいって、分かってて」

 

「だから、断らなきゃいけないんだけど……」

 

紫音は、少しだけ視線を落とした。

 

「……ただ、『だめ』って言うだけだと、たぶん傷つけちゃうから……どう言えばいいんだろうな、って」

 

『重い相談来た』

『急に人生相談レベルで草』

『でもすごく大事なやつだ』

『ちゃんと考えてるの偉い』

 

「優里のこと、嫌いとかじゃなくて……むしろ好きだから、ちゃんと待ちたい。そういう説明をしたいんだけど……うまく伝える自信が…」

 

『好きだから待ちたいの破壊力』

『優里さん聞いてるかー?』

『聞いてたら死ぬやつ』

『18になるまで待つって言えばいいんじゃない?』

『「18になるまでお預けね」って約束にしよ』

 

コメント欄には、真面目な意見と冗談半分の案が入り混じって流れる。

 

『大切だからって言えば伝わると思う』

『あなたを守りたいから、今はまだできない、もあり』

『合法になったら全部するから、それまで我慢して、みたいなの、重いけど良くない?』

 

紫音は、コメント欄を一通り眺めてから、真剣な声に戻した。

 

「……大事にしたいから、待ちたい、っていうの、ちゃんと伝わるかな」

 

『絶対伝わる、優里ちゃんいい子だし』

『むしろそれ以上の言葉はいらない』

『「あなたのことを大事にしたいから、今はまだしたくない」って言えば十分すぎる』

 

「そっか……」

 

紫音は、小さく息を吐いて、リングをなぞる指に、もう一度だけ力を込めた。

 

「……ありがとう。なんか、ちょっと気が楽になった」

 

『こちらこそそんな相談するレベルで信頼してくれてありがとうやで』

『こんな相談される配信、世界でここだけだよ』

『優里さんが成人したらやばい予感』

 

「別に、優里はやばくない」

 

即答したあと、少しだけ間を置いて、正月の夜を思い出す。

 

「……うん…?」

 

一切の制止を振り切って、こちらのことを押さえつけてきた獣のような姿と、身動ぎすらも逃げないでと咎め、お仕置きのように歯を立てて所有の印を刻んできた姿。

 

もしも、あれでもまだ、我慢しているのだとしたら。

…やばくない、わけがないのではないか。

 

 

「……………あ………やばい…かもしれない」

 

 

『自信なくて草』

『自信ないんかい!!』

『えっっっっ』

 

紫音は、目線をいったん外してから、気を取り直すようにしつつも、もう一つ話題を思い出したように、苦笑いを浮かべた。

 

「……もう一個、相談、いい?」

 

『まだあるの!?』

『もうお腹いっぱいなんだが?』

『でも聞く』

『なんでも相談されたいマン』

 

「……これ、言うか迷ってたんだけど」

 

左手の人差し指が、リングから離れて、少しの恥ずかしさを抑えるように膝の上でもぞりと動く。

 

「……洗濯カゴの、話なんだけど」

 

『洗濯カゴ?』

『急に生活感のあるワードが』

『もう既に絶対ろくな話じゃない』

 

「お風呂入る前と入った後で、洗濯カゴの中身の順番が、微妙に変わってることがあって」

 

『????』

『順番w』

『なんで覚えてるの?』

 

「普通に、上から脱いだ順に入れていくから……いつも、大体同じ感じになるんだけど。たまに、下着の位置が、入れ替わってる」

 

『……………』

『あ』

『察した』

『おい優里ぃ!!』

 

紫音は、言いづらそうに視線を横にそらした。

 

「……家に他に人、いないから、触れるとしたら、優里だけなんだけど」

 

『はい』

『ですよね』

 

「……べつに、優里が、わたしの下着をどう使ってようと、嫌いになったりは、しないんだけど」

 

『どう使ってようとwww』

『言い方wwww』

『配信で言う話じゃないw』

 

「……でも、人の下着を勝手に触るのって、普通に、良くない行為、でしょ?」

 

真面目な声に戻る。

 

「だから、注意した方がいいのか、でも、もしそうだとして、指摘されたら恥ずかしいかな、とか……言うべきか、見なかったことにするべきか、ずっと迷ってる」

 

『情報量の暴力ふたたび』

『こんなに真面目に下着泥棒の話されたの初めてだよ』

『倫理観としては正しい』

『でも恋人だとしたら別に当事者の自己責任感あるけど』

 

コメント欄は、一瞬ざわざわと揺れたあと、ぞろぞろと意見が流れ始める。

 

『ストレートに洗濯カゴ勝手にいじらないでで良いと思う』

『「使うなら洗ったあとにしてね」って言えばいい』

『↑黙れ』

『指摘はしといた方が後々のために良いと思う』

『でも恥ずかしくて死ぬだろうな優里さん』

 

「……やっぱり、言った方がいい?」

 

『言った方がいい』

『今更言われて、死ぬほど恥ずいだろうけど、言わないでズルズル続くよりいいっしょ』

『「わたしは嫌じゃないけど、普通はNGだから気をつけてね」でいいんじゃない?』

 

「……それは、ちょっと、言っときたいかな」

 

紫音は、苦く笑う。

 

「……ありがとう。なんか、音楽配信……じゃないね」

 

『それな』

『音楽の要素どこいった』

『雑談助かるからいいよ』

『紫音さんの恋愛相談を無料で聞ける神配信』

 

「……まぁ、たまには、こういうのも…いいか」

 

そう言って、紫音はマグカップに口をつけた。

 

湯気がふわりと立ちのぼり、画面の端で白く揺れる。

 

ーー

 

そこから先は、また音楽の話に戻った。

 

収録の裏話。

ピアノのタッチの話。

紫音でも難しかったフレーズのこと。

 

コメント欄は、さっきのディープな話題から一転、専門用語と「分からん」という悲鳴で埋め尽くされていく。

 

『あの早さで指を立てすぎないようにって言われても無理でしょ』

『動画で見せてほしい』

『指の腹で弾いてる感じってこと?』

 

紫音の声は、相変わらず一定で。

視線も指も、さっきより穏やかに動いていた。

 

ただ、画面越しでも分かるくらい、少しだけまぶたが重くなっている。

 

『なんか眠そうじゃない?』

『声がちょっととろんとしてきた』

『ASMRみたいで眠くなる』

『こっちも寝そう』

 

時間は、気づけば3時間も過ぎていた。

 

年明け早々にハードな収録を幾つもこなし、その前後を全部優里との時間で埋めていた人間である。

疲れが出てくるのも当然だった。

 

「……えっと、あとは……」

 

次の質問を探そうとして、視線がコメント欄の中でふらりと泳ぐ。

 

数秒ほど動きが止まったかと思うと、そのまま、すとん、とあっけなく肩の力が抜けた。

 

画面の中で、紫音の頭が、ほんの少し前に傾ぐ。

 

「……」

 

『あ』

『落ちた?』

『寝た!?!?』

 

薄く開いていた目が、ゆっくりと閉じる。

 

顎が、胸元にかすかに触れる。

右手は、まだリングのあたりに添えられたまま、動きを止めた。

 

配信画面には、相変わらず名雪紫音の姿が映っている。

ただ違うのは、まぶたが完全に下りていて、口元がほんの少しだけ緩んでいること。

 

『寝落ち配信!?』

『これはこれで貴重』

『マネージャー早く気づいてw』

『寝顔可愛すぎるだろ』

 

コメント欄は、一気にざわめきに包まれた。

 

『スクショタイム?』

『いや起こしてあげたいけどどうにもできないジレンマ』

『でもこのまま見守りたい気持ちもある』

 

紫音は、ほんの一瞬だけ、まつげをぴくりと震わせた。

 

けれど、そのまままた静かになる。

 

マイクには、かすかな寝息まで乗ってしまっていた。一定の、かすれた空気の出入りが、ヘッドホン越しに耳の奥をくすぐる。

 

『寝息拾ってるのやばすぎて死ぬ』

『ASMRだこれ』

『これ公開してて大丈夫?って気持ちにもなる』

『たぶん後でアーカイブ非公開コースだな……』

『折角の告白が……』

 

視聴者は、画面の向こうでひとりひとり勝手に悶えながらも、庇護欲が煽られ、或いは満たされるような光景に、釣られるように穏やかに眠くなっていく。

 

ただ、中には現実的なコメントも見られた。

 

『誰か家にいないの?』

『優里さん……今いないのかな』

『マネージャー気づいて〜』

『この時間ならまだレコーディングチーム起きてそうだし誰か連絡してw』

 

そのときだった。

 

画面の奥、紫音の部屋のドアが、カチャ、と小さな音を立てて開いた。

閉め切られていた空気が、わずかに動き、デスクの端に置かれた紙が一枚、ほんの少し揺れる。

 

視界の右端から、白い影がそっと顔を出す。

 

『!?!?!?』

『ドア開いた』

『え誰か来た』

『マネージャー!? それとも……』

 

「……紫音さん?」

 

控えめなノックと一緒に聞こえてきたのは、視聴者には聞き馴染みのある声だった。

 

白百合優里の声。

 

『本人きたああああああああ』

『優里だ!!!』

『ガチ???!!!』

『配信ついてるの気づいてる!?!?』

 

優里は、部屋の中の様子を一瞥して、すぐに紫音の様子に気づいた。

 

机に突っ伏しかけている紫音。

完全に閉じたまぶた。

指輪のあたりで止まっている手。

 

そのどれもが、寝落ちした人間の姿だった。

 

「……もー……」

 

呆れたように、しかしどこか嬉しそうに小さく息を吐きながら、優里はそっと近づいてくる。

 

配信中であることには、まったく気づいていない。

机の上の小さな赤いランプは、紫音の身体に隠れて、優里の位置からは見えていなかった。

 

コメント欄は、大騒ぎだった。

 

『ちょっと待ってほんとに気づいてないw』

『カメラ位置完璧すぎるんだが』

『神回確定』

 

優里は、紫音の隣に立ち、少しだけ身を屈める。

 

「紫音さん、こんなところで寝たら風邪引きますよ……」

 

柔らかく、けれどしっかりした声音。

近くで聞けば少し鼻にかかった、高校生らしい高さの声。

 

紫音は、目を覚ます気配を見せない。

ただ、ほんの少しだけ肩が上下する。

 

優里は、口元に少しだけ困ったような笑みを浮かべた。

 

右手の指先で、そっと紫音の頭に触れる。

 

白銀の髪を、前髪から後ろに向かって、一度だけ梳く。

 

『かける声の声音がさ、もうさ、早く式挙げて??』

『なでられたいけど、同じくらい紫音以外撫でて欲しくない』

『手つきが完全に恋人なんだよな』

『あとで本人がこのアーカイブ見たら死ぬやつ』

『いや、アーカイブ残らんでしょさすがに』

 

紫音は、かすかに眉を寄せた。

 

「……ん……」

 

寝言みたいな声が、マイクに拾われる。

 

優里の表情が、一瞬だけふにゃりと崩れた。

 

「…かわいい……」

 

視聴者の耳には、ぎりぎり拾えるかどうかの小さな声。

 

『聞こえた』

『今かわいいって言ったよね』

『言いました』

『年下が年上に可愛いって言う百合が嫌いな奴この世におる???』

 

優里は、紫音が起きないのを確認すると、もう一度だけ髪を撫でた。

 

指先で前髪をかきあげて、額にかかっていた一本をそっと耳の後ろへ払う。

 

その仕草ひとつひとつが、あまりにも親密で、優しくて。

見ている側の胸を、容赦なく締め付けてくる。

 

『これ配信していい距離感じゃないって』

『でも見たい』

『見ちゃいけないものを見てる感えぐい』

 

優里は、一度深呼吸してから、小さく囁いた。

 

「……紫音さん」

 

もう一度、名前を呼ぶ。

 

返事はない。

 

ほんの少しだけ迷うようにまつげを伏せてから、優里は顔を近づけた。

 

画面の中で、カメラの位置と絶妙に重なって、視聴者からは二人の距離がよく見える。

 

優里は、紫音の額に、そっと唇を触れさせた。

 

本当に一瞬。

音も立たないくらいの、軽く柔らかいキス。

 

『あ゛っっっ!!!!!』

『死んだ』

『!!!!!!!!!!!!』

『普段からしてるのが分かるのがやばい』

 

額のキスから離れて、優里はそのまま紫音の頬に指先を移した。

 

親指の腹で、そっと頬を撫でる。

 

赤みを帯びた頬のラインを、なでるでもなく、確かめるでもなく。

ただそこにあることを愛おしんでいるような、触れ方だった。

 

「……すごく、忙しかったですもんね……」

 

囁きが、マイクにもほんの僅かに拾われる。

 

優里は、そのまま数秒間、紫音の顔を見つめていた。

 

とろんとした寝顔。

長いまつげ。

うっすら残る、二人だけの夜の名残。

 

時間感覚が、少しだけ溶ける。

 

それは画面の向こうで、二人だけの空気が流れているのを、じっと見せつけられているみたいで。

 

『時間止まってない?』

『配信というより監視カメラを覗いてるみたいな罪悪感がやばい』

 

やがて、優里は、何かを決めたみたいに小さく息を吸った。

 

「……仕方ないですね」

 

そう言って、紫音の椅子の横に回り込む。

椅子の背もたれが、優里の膝に軽く当たって、キイと小さく鳴った。

 

優里は、紫音の背もたれと腕のあいだに手を差し入れた。

 

片方の腕を、紫音の背中側に回し、もう片方の腕を、膝の裏に滑り込ませる。

 

その動作を見て、コメント欄がざわりと揺れた。

 

『これって』

『おい』

『まさか』

『お姫様抱っこ!?』

 

次の瞬間。

 

優里は、ほとんど力を入れていないような自然な動きで、紫音の身体を抱き上げた。

 

椅子から、ふわりと浮かび上がる白銀の頭と、黒いパーカー。

 

紫音の腕が、反射的に優里の胸元にしがみつく。

完全に意識がないわけではないらしく、うっすらと身体が優里の胸に寄り添う。

 

『お姫様抱っこきたああああああああああ』

『腕力どうなってんのって思ったけど、紫音が軽いのか』

『でも、時々優里さんのフィジカルおかしいよね』

『日頃から抱えてる人の動き』

 

優里の表情は、少しだけ照れ臭そうに、でもどこか誇らしげでもあった。

 

「……はい、紫音さん、いきますよ」

 

囁きながら、足元を気にかけるようにゆっくりと歩き始める。

 

フローリングにスリッパの底が当たる、ぺた、ぺた、という小さな音が続き、画面の中で、二人の姿が、少しずつカメラから遠ざかっていく。

 

ドアの向こう側、ベッドのある方角へ。

 

視聴者のコメントは、ほとんど叫びに近い。

 

『本当に姫抱っこしてる……』

『これ配信で見せていい距離感じゃないのでは???』

『見せてくださりありがとうございます』

『尊さの火力が高すぎる』

 

画面の端、デスクの上には、紫音のマグカップと、半分開いたままの譜面ファイルと。

さっきまで動いていたはずの、ピアノ音源のウィンドウ。

 

部屋の中には、優里の足音だけが小さく響いている。

 

数秒後、優里は画面の外へ完全に消えた。

 

配信画面には、誰もいなくなった椅子と、静かな部屋だけが残る。

 

『……』

『……今の、リアルタイムで見ていいやつだった?』

『なんか罪悪感が勝つんだが』

『俺は録画した(正直)』

 

コメント欄は、一瞬だけ静まり返ったあと、堰を切ったように動き出した。

 

『神回』

『もうすでに今年1番の配信が決まりました』

『優勝です』

『アーカイブ絶対残らなさそうだけど残してくれ頼む……』

『真面目な話すると、さっきの相談の答えが全部ここにあった気がする』

『天才ロリ(合法)と一般JKによる百合』

『好きの形が全部日常にあるのほんとに尊い』

『しかし問題はこれを紫音本人が後で見るかどうかだ』

『見たら恥ずかしさで死ぬだろ』

『ちなみに優里さんも死ぬよ』

『マネージャーちゃんは頭抱える』

 

画面の中では、相変わらず何も起きない。

 

椅子。

机。

静かな部屋。

 

たまに、廊下の方から、かすかな物音が聞こえるような、聞こえないような。

 

視聴者の一部は、不安そうにコメントを書き込む。

 

『これ、このまま垂れ流し?』

『寝たいのにこの空間から離れられない』

『マネージャー〜〜〜〜〜〜〜〜』

 

やがて、数分後。

 

画面右上に、小さく「配信が終了しました」というシステムメッセージが表示される。

 

映像がふっと暗転する直前、コメント欄の最後の一行が流れ、画面は真っ暗になった。

 

残されたのは、各自の心臓の鼓動と、タイムラインに飛んでいくクリップとスクリーンショットたちだけ。

 

それぞれの部屋の椅子やベッドの上で、

何千人、何万人という視聴者が、一斉にスマホと睨めっこをしていた。

 

「神回」「お姫様抱っこ」「肩」「相談」というタグが、ほんの数分で並び立つ。

 

誰もが分かっている。

 

きっと、アーカイブは短時間で非公開になるだろう。

 

紫音の零した、紛れも無い告白は、きっと優里に届くことはなくて、

 

それでも、そんな些細なことを気にする必要もないだろう。

 

音楽の話をすると言って始まった配信は、

結局、生活と恋人への向き合い方と、大人としての線引きと、

なにより二人のささやかな日常の断片を、これでもかというほど見せつけてくれた。

 

その画面の向こうで、名雪紫音は、きっともう、いつものベッドで眠っていて、

 

そしてその隣には、

 

きっと白百合優里がいるのだから。

 

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