終演のアナウンスが流れたのは、予定より3時間以上も遅い時間だった。
客席に残っていた拍手の余韻が、やっとホールの高い天井からほどけていく。
ステージ袖に引っ込んだ名雪紫音は、最後の一礼からようやく表情を緩めて、ゆっくりと息を吐いた。
「……おつかれさまです!!」
スタッフの声が飛ぶ。
モニターの映像には、まだ観客たちが満足そうな顔で立ち上がり、出口へ向かっていく様子が映っていた。
「紫音さん、ほんとにすごかったです……!」
袖の暗がりで、白百合優里は半分呆然とした顔のまま、賞賛と驚嘆と共に差し出されたタオルを受け取る紫音を見つめていた。
さっきまでステージ中央に立っていたその人が、今はすぐ手の届く距離にいるという事実が、どこか現実離れして感じられるくらいには。
ーー
思いがけないトラブルによって、歌唱用のメインマイクが完全に沈黙したのは、まだライブ序盤のことだ。
一曲目が終わり、二曲目のイントロに入ろうとした瞬間。
紫音が息を吸い、最初の一音を放とうとしたとき、不自然なノイズとともに、音声がぷつりと切れた。
会場の空気が、一瞬で張りつめる。
スタッフが右往左往する気配が袖にも伝わってくる。
けれど、ステージ中央の紫音は、マイクから口を離し、ほんの一拍だけ静止したあと、淡々とピアノの前に歩み寄った。
そして、何事もなかったかのように、鍵盤の蓋を開けた。
会場の誰もが、座席に振動として届いたピアノの最初の一音で、なんとなく状況を理解した。
低音部の、深い和音がひとつ。
それに、じわりと絡みつくような分散和音。
耳のいい観客は、そこでまず固まった。
普通のピアノリサイタルでもまず聴けないような、ソラブジの超長大曲のイントロ。
鍵盤の上を、黒と白が信じられない密度で埋め尽くされていく。
それでいて、ただ音が多いだけの飽和ではない。
右手の細い指が、レースのような装飾音型を撒き散らしながら、主旋律を常に一番響きやすいポジションに置き続ける。
左手は、三つか四つの声部を同時に支えながら、低音の重心だけは決してぶらさない。
クラシックについて造詣が深い人間は、すぐに気づく。
原曲にはない和声の寄り道が入っている。
あるはずの音符が、意図的に間引かれ、その代わりに、他の作曲家の断片が縫い込まれていく。
ふいに、右手の中声部にだけ、聞き覚えのある跳躍のラインが浮かんだ。
ラフマニノフの、ピアノ協奏曲第二番。
――いや、三番にも聞こえる微妙な変形。
和声を左手が全部抱え込んでいる。
右手は細かい分散和音と内声を補いながら、メロディだけは原曲以上に歌わせている。
そこに、アルカンの、独奏用協奏曲の一節が、まるで当然のような顔で差し込まれる。
右手の和音連打と、左手の跳躍。
曲が違うはずなのに、調性も空気も、さっきから一度も崩れていない。
クラシックに詳しい観客ほど、途中から笑うしかなくなっていた。
ラフマニノフのフレーズの下に、リストのソナタのモチーフが走り、
そのさらに内側で、アルカンの分厚い和音進行が、さりげないペダルの踏み替えで溶かされていく。
一瞬だけ、ラ・カンパネラのモチーフが、上声に顔を出した。
だが、それは原曲通りの超絶技巧ではない。
鐘のモチーフは、右手の内声にそっと押し込められ、
その上で、紫音はまるでついでのように別の旋律を歌わせている。
どのフレーズも、最難関として名の挙がる楽譜の、その難所として有名な箇所ばかりだ。
それを、原曲の難易度を下げるどころか、つなぎ方と声部処理でさらに難しくしている。
それでも、紫音の指先には、一切の迷いがなかった。
早いパッセージになるほど、音の輪郭はくっきりしていく。
左右の手が、それぞれ別の作曲家の音楽を弾いているような瞬間でさえ、
ひとつの作品としての重心は、まったく揺らがない。
鍵盤上を、ライブ衣装の袖口が、ふわりと滑る。
その下で動く指は、端から見ればほとんどありえない速さなのに、
一音一音の着地点は、まるで時間が伸びて見えるかのように正確だった。
ミスタッチは本当に、ただの一音すらもない。
観客席のどこかで、ピアノに詳しい誰かが、心折れたかのように、笑いを堪えきれずに変な声を漏らした。
ソラブジの海のような音符の中に、
ラフマニノフの旋律が浮かび、
アルカンの凶悪な和音の塊が沈み、
リストの超絶技巧が、さりげない一小節の装飾として通り過ぎる。
それら全部が、紫音の中でだけは。
時代も国境も越えて、天才たちの魂が込められた曲の欠片がーー
ラフマニノフの絶望と祈りも、アルカンの偏執的な情熱も、リストの劇場的な光と影も、
さらには、名前も残らなかった無数の作曲家たちの、どこかで断ち切れた旋律のかけらまでもが、
紫音の指先の中で、一つの流れに束ねられていく。
歴史の中で、誰かが一度は夢見たかもしれない、すべての音楽をひとつに綴じ合わせた、究極で完璧な一曲が、
今この瞬間だけ、
或いは、まさにこの瞬間に、目の前で編まれ、綴られ、奏でられているーー
そんな錯覚すらもが、客席の奥の方まで、静かに、しかし確実に広がっていた。
会場全体の空気が、ゆっくりと変わっていくのが分かった。
最初は「どう乗り切るんだろう」という不安。
それがすぐ、「こんなものを見られる機会、二度とないかもしれない」という確信に変わる。
クラシック畑の人間も、
ロックバンドのファンも、
アニソンきっかけで来たリスナーも、
誰もが、ただ目の前で鳴っている音の奔流に飲み込まれていた。
そこからも、クラシックと、さらに自作曲のピアノソロアレンジとを織り交ぜた、紫音なりの、しかし紫音にしかできない時間稼ぎが続く。
ショパンのノクターンの一部を、わざと途中で自作バラードの進行に滑り込ませたり、
自分の代表曲のサビだけを、ラフマニノフ風に極端に厚く積んだ和音で鳴らしてみせたり。
怒涛の難度のまま、しかし耳当たりだけは徹底してうるさくないように。
三時間ほどが経ったころ、ようやくピアノの音がふっと途切れる。
長いフレーズを弾き切って、静かな和音で締めくくると、紫音は深く息を吐いた。
会場の観客達は、もはや息をする事を忘れ、そして忘れていることにすら気付けずに呆然と紫音を眺めていた。
やがて、ポツポツと雨が降り出すように、拍手が鳴り始める。
さざ波みたいな音量の拍手が、会場を震わせるほどの轟音に変わった。
マイクトラブルが完全に解決したのは、地響きみたいな拍手喝采が鳴り止んで、数分近く経ったころだ。
スタッフが必死に繋ぎ直した新しい送信機のランプが点灯し、袖のインカムに「入りました!」という声が飛ぶ。
「……大丈夫そう?」
確認する紫音に、スタッフが親指を立てた。
本来なら、ここでどこかを削って巻きに入っても誰も文句は言わなかっただろう。
むしろ、ここまでやってくれたことに対して拍手で受け入れられたはずだ。
けれど、紫音はセトリの紙を一枚手に取り、それを眺めて、ぱたりと閉じた。
「……じゃあ、ここから、予定通り、歌っていきます」
その言葉通りに。
ここまでで既にフルコンサート一回分以上は弾いているはずなのに、紫音は一本も削らず、最初に決めていた通りのセットリストを、歌で、演奏で、最後までやり切った。
声はただの一音も掠れていなかった。
高音も、中音も、囁くようなブレスでさえ、最初の一曲目よりもむしろ深くて厚くて、会場の隅々まで届く。
最後の一礼を終えて帰ってきた紫音の顔は、不思議と穏やかだった。
ーー
「…………本当に…おつかれさま、です」
優里が差し出したペットボトルを受け取り、紫音は一口だけ水を飲んでから、肩で息を整える。
「……ありがと。……なんか、思ったより、平気…」
「どこが、ですか」
優里は思わず声をあげていた。
言いながら、紫音の様子を間近で見て、余計に胸がざわつく。
さっきまでステージ中央で、あんな音を三時間以上も叩きつけ続けていた指が、
今はペットボトルを掴んだまま、かすかに震えている。
肩は、呼吸に合わせて大きくは動いていないのに、
よく目を凝らすと、鎖骨のあたりで痙攣みたいな細かい呼吸の揺れがずっと止まらない。
額の汗はタオルで拭かれているのに、前髪の生え際だけ、まだじんわり湿っていた。
頬の血色も、ライトの下で見ていたときより薄い。
立っているだけなのに、重心がほんの少しだけ後ろに逃げていて、
今誰かが肩を軽くぶつけただけで、そのまま崩れてしまいそうに見える。
こんなに痩せていて、腕も手首も細くて、
さっきまで一人であのホール全体をねじ伏せていたなんて信じられないくらい、
目の前の紫音は、今にも折れてしまいそうに見えた。
…それでも、平気と言ってしまう人だということを、優里はもう知っている。
痛いくらい愛しくて、怖くて、抱きしめたくて、どこにもやれなくて。
胸の奥に、さっきまで蓄積されていた何かが、また一段階膨れ上がる。
(やっぱり、だめです。今日だけは、ほんとに我慢できないかもしれない)
そう思ったところで、マネージャーが慌ただしく駆け寄ってきた。
「二人とも、おつかれさま。……あの、ほんとに申し訳ないんだけど」
「……?」
「物販だけでも後日に削るべきだったね……完全に押しに押しちゃって、終電がもう、どの線もなくてね。タクシーも手配はしたんだけど、大通りが詰まってて、都心まで出るのはかなり厳しそうで……」
マネージャーは申し訳なさそうに、手元のスマホでいくつかのアプリ画面を見せる。
どれも「配車まで30分〜40分」といった表示になっていた。
「この近くにビジネスホテルを押さえたから、今日はそこに泊まって、明日の朝に車を回す。……大丈夫かな?」
紫音は一瞬だけ考えてから、すぐに頷いた。
「……はい。大丈夫です」
優里も、「わたしも平気です」とすぐに返す。
「部屋は、とりあえずシングルを二部屋抑えてある。スタッフは別のホテルだから、今日は二人で自由に休んで。何かあったらすぐ連絡取れるようにしておいてくれれば」
「ありがとうございます」
そうして、片付けと着替えを終えた二人は、スタッフの車に乗せられて、会場からほど近いビジネスホテルへ向かった。
ーー
フロントロビーは、午前零時を過ぎていることもあって、ほとんど人気がなかった。
自動ドアをくぐると、ふわりとした暖房の空気と、フロント奥からの静かなテレビの音だけが漂っている。
観葉植物と、少し古風な絵画。どこにでもある、ごく普通のビジネスホテルのロビーだ。
カウンター前に立った紫音は、少しだけ背筋を伸ばして、フロント係に声をかけた。
「……予約している、名雪です。シングルが二部屋、のはずなんですけど」
「はい、名雪様ですね。確認いたします」
フロントの男性が、慣れた手つきでキーボードを叩く。
その横で、優里はキャリーケースの取っ手を握りながら、さりげなく紫音の横顔を見つめる
メイクはほとんど落とされているはずなのに、ライブ中と同じくらい、瞳の奥に灯りが残っている。
その光を見ていると、さっきまでのステージがまだ終わっていないみたいで、胸の奥が落ち着かなかった。
「……えっと、お部屋がですね」
フロント係の声が、ちょっとだけ申し訳なさそうなトーンになる。
「シングルルーム、実はこちらの手違いでこの棟だと一部屋だけになってしまっておりまして……代わりに、同じ料金でツインルームをご用意させていただいているのですが……」
紫音が、僅かに目を瞬いた。
「……あ、そうなんですか」
「本当に申し訳ございません。ツインのお部屋でよろしければ、すぐにご案内できますが……別々のお部屋をご希望でしたら、少し離れた別棟にシングルが一室だけ空いておりまして、そちらでしたら……」
「……」
紫音は、一瞬だけ躊躇うように視線を落とした。
「……じゃあ、わたしは別棟で、お願いし……」
そう言いかけた、その瞬間だった。
「ツインで大丈夫です」
優里の声が、紫音の少し前に割り込んだ。
「……え」
紫音が振り返る前に、優里はにこりと笑った。
「ツインで、お願いします。同じ部屋で。全然平気なので」
「かしこまりました」
フロント係は、ほっとしたように微笑むと、カードキーを二枚、カウンターの上に滑らせた。
「それでは、こちらツインルームのキーになります。十三階、海側のお部屋です。エレベーターを出て右手にお進みください」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてカードキーを受け取り、優里はそのうちの一枚を、当然のように紫音に手渡した。
「……そんなに…同じ部屋が、よかったの?」
エレベーターに向かう途中で、紫音が小声で訊ねる。
優里は、即座に頷いた。
「はい…………同じ部屋がよかったです」
「…………そう」
紫音は、それ以上は何も言わなかった。
エレベーターの扉が閉まる。
静かな箱の中に、二人分の呼吸音だけが残る。
十三階に到着するまでのわずかな時間、優里の胸の中では、さっきから暴れ続けている何かが、じりじりと大きさを増していた。
ーー
部屋のドアを開けると、典型的なビジネスホテルのツインルームがあった。
白い壁紙と、簡素な木目のデスク。
セミダブルサイズのベッドが二台、壁際に並んでいる。
窓はカーテンで閉ざされているが、その向こうにはたぶん、港の夜景が広がっているはずだった。
鞄をベッド脇に置き、紫音は上着を脱いで、背もたれに掛ける。
その横顔に、スポットライトではない、天井灯の柔らかい光が落ちる。
優里は、自分の上着を脱ぎかけてから、ふと振り返った。
部屋のドアが、静かに閉まる音がした。
「……」
カチリ、と、施錠の音。
その瞬間、それが合図だったかのように、優里の中で、何かのダムが崩れた。
「……紫音さん」
名前を呼んだときには、もう身体が先に動いていた。
靴も脱ぎ終わる前に、紫音との距離を一気に詰める。
振り向きかけた肩を、そのまま腕で抱きしめるように引き寄せた。
「わっ……」
紫音の背中が、優里の胸元にぶつかる。
バランスを崩しかけた身体を、慌てて腕の中に閉じ込める。
「ゆ、優里……?」
驚いた声が耳元で揺れる。
それに答える代わりに、優里は、紫音の肩に顔を押し当てた。
「……ほんとに、すごかったです」
声が震えているのが、自分でも分かった。
「今日の紫音さん、ほんとに……ほんとに、すごくて……」
腕に力が入る。
紫音の腰のあたりで、ぎゅっと抱きしめる。
「ピアノも、ギターも、歌も……マイクが壊れたのに、誰もガッカリしないように一人で踏ん張って、しかもそのあと、全部歌って……」
言葉がうまく繋がらない。
紫音は、少しだけ戸惑ったように肩をすくめながらも、逃げようとはしなかった。
「……それが、わたしの仕事、だから」
「そんなレベルじゃないです」
思わず語気が強くなる。
胸の奥に溜め込んでいた感情が、一気に喉元までせり上がってくる。
「……全部、誰にも渡したくなくなりました」
優里は、紫音の肩口に顔を埋めるようにして、正直な気持ちを吐き出した。
「ピアノも、ギターも、歌も、顔も、手も…全部、……誰にもです」
紫音の背中越しに、自分の心臓の鼓動が伝わっていく気がする。
あるいは、紫音の心臓が打つたびに、その振動が自分の胸にも返ってきているのかもしれない。
「……優里」
紫音は、少しだけ身体の向きを変えた。
腕の中でゆっくりと振り返って、優里の顔を見上げる。
ステージライトではない、安っぽいホテルの照明に照らされたその顔は、さっきまでとは違う種類の疲れと、柔らかい熱を帯びていた。
「……そんな顔、しないで」
紫音の指先が、そっと優里の頬に触れる。
汗とほんの少しの涙の跡を、確かめるようになぞる。
優里は腕を緩めなかった。
紫音の背中に回した片腕を、さらに引き寄せる。
もう片方の手で、紫音の頬に触れた。
「……………………キスしても、いいですか」
「………………うん」
頷きを確認するより早く、優里は顔を近づけた。
唇が触れ合う寸前、紫音の吐息が、かすかに頬にかかる。
微かに甘い香りと、一日分のステージの熱が混ざり合っている。
そっと、口づける。
最初は浅く、紫音の唇の輪郭を確かめるように。
一度離して、もう一度重ねる。
そのたびに、抱き締める紫音の肩から細い震えが伝わってきた。
「……んっ…」
小さく漏れた声が、耳の奥で跳ねる。
その音に、優里の中の何かが、さらに強く燃え上がった。
「……紫音さん…!」
二回目のキスは、最初から激しく。
唇を開いて、紫音の下唇をそっと吸う。
軽く舌先を差し込むと、ごく自然に、紫音の舌先が触れてくる。
熱が、一気に距離を詰めてくる。
舌を絡め、触れて、離れて、また触れる。
その繰り返しだけで、息が続かなくなる。
「っ……は……」
唇を離したとき、紫音の呼吸が少し乱れているのが分かった。
肩で息をしながら、紫音は優里の肩に額を預ける。
優里は紫音の首筋に顔を寄せた。
ステージ用の香水の、遠くなった残り香。
汗が引いて、少しだけ冷たくなった肌の温度。
そこに、そっと唇を落とす。
「っ……優里……」
紫音の指が、優里のシャツの裾をぎゅっと掴む。
首筋から鎖骨にかけて、幾つかキスを散らしていく。
歯を立てて、唇の跡と噛み跡が残りそうなぎりぎりの強さで、執拗に。
(……あんまり痕になると、さすがに怒られるかな…)
頭のどこかで冷静な声がする。
けれど、それ以上に、今この瞬間の所有欲が強かった。
「……紫音さんにこんなことできるのは、世界中でわたしだけなんですから」
耳元で囁くと、紫音の全身が、びくりと震えた。
「…ゆう、…り……?」
「他の誰も、誰一人としてです。…ピアノも、ギターも、最後までやり切った紫音さんの顔も、全部……わたしだけのものです」
腕に込める力が、自然と強くなる。
返事の代わりに、紫音の指先が優里の背中に回ってきた。
シャツ越しに、細い指が布地を掴む。
逃げる気配はない。
「………………ほどほどに、して」
「……努力はします」
本当にそれができるかどうかは、自信がなかった。
それからしばらくのあいだ、部屋の中は、言葉にならない音で満たされていった。
唇が触れ合う音。
くぐもった声。
かすかな衣擦れ。
ベッドの縁にぶつかる小さな軋み。
流れのまま、薄いカーペットの上で少しよろけて、優里が紫音をベッドに押し倒す形になる。
「っ…!まっ…!…て……」
シーツの上で、紫音が息を飲む。
その上に覆いかぶさるようにして、優里はもう一度、紫音の唇を奪った。
唾液を飲ませ合うような激しい口付けと、壊れ物を扱うかのように髪をそっと撫でる指先。
糸引く口を離してからも、寝乱れた前髪の隙間から覗く額に、軽くキスを落とす。
紫音は、腕を優里の首に回しながら、抗議とも甘えともつかない息を漏らす。
「……ゆうり、…苦しい……」
「……ごめんなさい」
口ではそう言いながら、腕の力を緩める気配はあまりなかった。むしろ、身体を押し付けるみたいに体重をかけていく。
喉元に、肩に、鎖骨に。
今ここにある温度を、確かめるみたいに、何度も唇を重ねる。
ベッド脇の時計が、いつの間にか一時を回っていたことに、二人ともしばらく気づいていなかったが、
喉の渇きと、ふいに訪れた静寂で、ようやく優里は身体を起こした。
「…………」
腕の中から離れた紫音が、ぼんやりと天井を見上げて瞬きをする。
「……ごめんなさい。……ちょっと、やりすぎました」
優里が正直に白状すると、紫音は少しだけ視線をそらした。
「………うん……くち、ひりひりする……」
そう言いながら、紫音は自分の首元にそっと手をやる。
鏡はないのに、どのあたりにキスが降っていたか、感触で分かるようだった。
「……ごめんなさい」
「……べつに、いやじゃないから……」
ぽつりと付け足される。
「……ただ、ライブのあとだし、……お腹すいた」
「……あ」
そこで初めて、自分の空腹に気づいた。
さっきまで胸の中を埋めていた衝動が、一気に胃のあたりへ落ちていく。
「……レストラン、まだやってますかね」
優里は慌てて枕元の内線からフロントに電話をかけた。
数コールののちに出たフロントの女性が、「館内レストランは、24時で営業終了となっておりまして……」と申し訳なさそうに告げる。
時計を見る。
デジタルの数字は、1:50を示していた。
通話を切り、優里は紫音を見る。
紫音も、薄々そんな気はしていたらしく、小さくため息をついた。
「……コンビニ、あるかな」
「この辺なら、たぶんあります。さっき車で通ったとき、見えたような」
優里はベッドから降りて、コートを手に取った。
「行きます? 二人で」
「……うん。お腹すいた」
紫音も、ゆっくりと身体を起こして、手近なところに掛けてあったコートに袖を通す。
ライブ終わりのアドレナリンとさっきまでの熱気が、少しだけ落ち着いて、その隙間に、ふつうの空腹感と、ふつうの夜更かしの感覚が入り込んでくる。
ーー
ホテルの外は、冬らしい冷え込みだった。
自動ドアを出た途端、澄んだ空気が頬を刺す。
街路樹の枝には、クリスマスの名残のような電飾がまだいくつか残っていて、白や青の小さな光が、時折ゆっくり瞬いていた。
ホテルのガラス面に、その点々とした光がぼんやりと映り込み、足もとのタイルには、街灯の丸い光がいくつも重なって落ちている。
「……寒い」
紫音が、コートの襟をきゅっと寄せる。
吐いた息が、ほんの少しだけ白くなって、すぐ夜気に溶けた。
優里は、自分のマフラーの片側を少し引き出して、「半分こします?」と笑った。
指先は冷えているはずなのに、マフラーの端をつまむ仕草だけは、慣れた家事の延長みたいに滑らかだった。
実際には物理的に少し厳しかったので、そのまま紫音の首のマフラーを巻き直すに留める。
結び目の位置をすこし直して、喉のあたりにふんわりと布が落ちるように整えてやると、紫音の顎先がそこにちょこんと乗った。
歩きながら。
そんな他愛ないやりとりを交わしながら。
夜の大通りには、人影がなかった。
車もまばらで、遠くの交差点で信号が変わるたびに、赤と青の光が、アスファルトの上を静かに滑っていく。
歩道の縁石には、ところどころ溶け残った雪が薄く張り付いていて、そこだけ温度の違う白が滲んでいた。
「足、痛くないですか」
「……ちょっと」
紫音は、足もとをちらりと見下ろす。
黒いブーツのつま先が、街灯の光を鈍くはね返し、その影が、彼女の足運びにあわせて細く伸びたり短くなったりする。
本来なら、ライブ終わりに真っ直ぐ家に帰って、そのままベッドに倒れ込むはずの身体だ。
それが今、深夜の街を歩いている。
ふくらはぎの奥にじんと溜まった疲労と、胸のあたりにまだ残っているステージの熱が、互いに拮抗しているみたいだった。
「……あとでマッサージしてあげますね」
「……それは、さっきの続き、にならない?」
「………………………ちゃんと真面目なやつです」
「ほんと?」
二人で歩くこと数分。
大通りの角を曲がった先に、コンビニの緑と白の看板が見えた。
夜の闇のなかで、そこだけ昼間みたいに白く浮かび上がっていて、ガラス面に貼られた期間限定商品のポスターが、内側の光を受けて少し反射している。
店内の光が、ガラス越しに歩道までこぼれている。
ガラスに近づくと、自分たちの姿が薄く映り込み、その背後で棚の色とりどりのパッケージが層になって重なって見えた。
「……あった」
歩道から中を覗くと、客はいないようだった。
レジに一人、アルバイトらしき店員が立っているだけだ。
カウンター前のカゴには、新聞とタバコのカートンが無造作に積まれていて、時間帯の遅さを物語っていた。
自動ドアが開くと、温かい空気と、明るすぎる蛍光灯の光と、ビニールと揚げ物が混ざったような、コンビニ特有の匂いが二人を迎える。
足もとで、ビニール張りの床がきゅっと小さく鳴る。
店内BGMの薄い音が、冷蔵ケースの低い唸りと、コピー機の待機音と混ざって、どこか聞き慣れた深夜のざわめきになっていた。
「いらっしゃいませー」
眠そうな声で店員が挨拶する。
カウンターの奥の壁掛け時計には、2時を少し回ったところが、赤い秒針とともにゆっくりと刻まれていた。
優里は、カゴを二つ取ると、そのうちの一つを紫音に手渡そうとして、
「別々にします?」
「……ううん。いっこでいい」
結局、紫音はそう言って優里の持つカゴにさりげなく手を添えた。
そのまま取っ手を軽く握るようにして、二人の手の甲がほんの少し触れ合う。
優里が押しぎみに持てば、その分だけ紫音の腕が緩み、自然と歩幅も揃っていく。
「……じゃあ、一緒に」
店内をゆっくりと回り始める。
まずはお弁当コーナー。
壁際の一列を丸ごと使った冷蔵ケースの中には、色とりどりのパックが夜の水族館みたいにぎっしりと詰まっていて、
手前の棚には今日の日付シールが、奥の棚には翌日以降の日付が、赤や黒の文字で貼られていた。
「……どれがいいかな」
「がっつり系でもいいんじゃないですか?ライブのあとですし」
「んー……」
紫音は、並んだパッケージをじっと眺める。
視線はテキパキ動くわけではなく、値札や小さく印刷された塩分控えめや新発売の文字を、ゆっくりと拾っていく。
冷気がじんわりと指先に触れて、薄く震えた爪先に、蛍光灯の光が細く反射していた。
生姜焼き弁当、牛カルビ丼、オムライス、ペペロンチーノ。
どれもそれなりに美味しそうで、疲れた身体にはどれも正解に見える。
「……これ」
結局手に取ったのは、地味な見た目の鮭弁当だった。
透明の蓋の向こうで、白いご飯の上に乗った鮭の切り身が、素朴なオレンジ色をしている。
優里は、自分用にハンバーグ弁当を手に取る。
濃いブラウンのソースが、レトルト特有の照りで光っていて、いかにも安心できる味をしてそうだ。
お弁当二つをカゴに入れて、次はサラダとスープのコーナーへ。
プラスチックの小さなボウルに入ったポテトサラダや、千切りキャベツ、スティック野菜が、冷蔵ケースの中でひんやりと並んでいる。
すぐ隣には紙カップ入りのスープが並び、小さな写真付きラベルが一列ずつ色を変えていた。
「このコーンスープ、美味しかったですよ。前に学校で飲んだんですけど……」
「じゃあ、それ」
紫音が自分の分をカゴに入れる。
ラベルの成分表示を一瞬だけ確認してから、迷いなくぽん、と落とす動きに、日常の癖が見えたような気がした。
「優里は?」
「わたしはこのオニオンスープにします」
そんなふうに、ひとつひとつ、互いの好みを確認するようにしながらカゴに入れていく。
カゴの中身が増えるたび、ビニールとプラスチックがこすれ合う小さな音がする。
スイーツコーナーの前では、ふたりとも自然と足を止めた。
冷蔵ショーケースのガラスには、小さく指紋がついていて、その向こう側で、生クリームとチョコとカスタードが層になった糖分の展示会が開かれている。
「……」
「……」
ショーケースの中には、小さなプリンやロールケーキ、チーズタルト、モンブランなどがきれいに並んでいる。
同じ形のカップが一直線に並んでいる光景はどこか実験室めいていて、その中身が全部砂糖と乳脂肪でできていることを思うと、少しだけ可笑しいような気もする。
「チーズ、あるじゃないですか」
「うん。……気になる」
紫音は、プライスカードを読む。
顔を少し近づけた拍子に、冷気が頬を撫でて、うっすら火照っていた肌が一瞬だけ引き締まる。
「『濃厚バスクチーズ』……」
「それ、わたし食べたことあります。美味しかったです」
「じゃあ、それ」
「プリンはどうします?」
「……半分こなら」
何でもないように言って、紫音はプリンとチーズケーキを両方カゴに入れた。
カップどうしが軽くぶつかり、小さなプラスチックの音を立てる。
優里も、目についたティラミスをひとつ、そっと仲間に加える。
カカオパウダーの写真が印刷されたその蓋を見ているだけで、抗えない誘惑に手が動いた。
「……これも半分こしましょう」
「……スイーツの山」
「いいじゃないですか。今日くらい」
デザートの次は、お菓子コーナー。
袋菓子の棚は、色とりどりのパッケージが縦横無尽に並んでいた。
透明な窓から中身の形が見えるものもあれば、完全に印刷だけで勝負しているものもある。
ポテトチップス、チョコレート、クッキー、グミ。
どれも、誰かの夜更かしや、勉強や、ゲームや、残業に付き合ってきた味たちだ。
紫音は、棚の一番上の、少し高級感のあるパッケージのチョコレートを手に取った。
マットな紙に金の箔押しでロゴが入り、小さなナッツの写真が控えめに添えられている。
「これ、前にドラムの人が食べてて、気になってた」
「ナッツ入りのやつですね」
「……一人で一箱は多いから、いつもやめてた」
「じゃあ、今日は一緒に食べましょう」
優里がカゴを差し出すと、紫音は少しだけ迷ってから、そのチョコレートをそっと入れた。
その一瞬の逡巡がどこか可愛らしくて、小さく胸が締め付けられた。
「ポテチもいきます?」
「……塩だけのやつなら」
「了解です」
塩味のポテトチップスを一つ。
山ほどあるフレーバーの中から、定番の青い袋を選んでカゴに滑り込ませると、少しだけ安心したような気分になる。
最後に、レジ横のホットスナックコーナーの前で二人とも立ち止まる。
ガラスケースの中で、肉まん、ピザまん、からあげ棒、フランクフルトなどが、ほんのりと湯気を立てている。
ライトに照らされた衣の表面が、じんわりと油を浮かせて光っていて、深夜の胃袋には抗えそうもない。
「……肉まん」
「……からあげ棒」
同時に違うものを呟いて、互いの顔を見る。
「……」
「……」
数秒の沈黙。
どちらかが譲るか、それとも両方取るか、そのたった二択に、少しだけ可笑しいほどの真剣さが宿る。
…そして、
「「……半分こにします?(する?)」」
…合言葉みたいになった免罪符に、顔を見合せたまま、吹き出すように、ふっとふたりで少しだけ笑う。
ケースの内側の湯気が、二人の笑い声に合わせて揺れたような気がした。
「……今日くらい、いい」
「……そうですね、今日くらい、全部いっちゃいましょうか」
レジ前で、店員が一瞬だけ二人を見て、すぐにいつもの接客の顔に戻る。
カゴの中の量と、二人の年齢と、時間帯を一瞬で考えたような視線が、すぐに事務的な手つきに戻っていく。
「お弁当、温めますか?」
「お願いします。両方」
「肉まんとからあげ棒も……」
店員が、少しだけ目を丸くして、それから淡々と操作を続ける。
トレーの上に並べられた弁当が、電子レンジの中に吸い込まれていき、銀色の扉が閉まる。
電子レンジが唸る音と、レジのピッという音が、深夜のコンビニを埋める。
レジ横のレシートロールが、くるりと一周だけ紙を送り出す乾いた音も、やけにくっきりと耳に残った。
支払いを済ませ、温かいビニール袋を受け取ると、指先まで一気に熱が行き渡る。
袋越しに伝わる弁当の直線的な熱と、肉まんの丸い熱が、掌の中で混ざり合う。
「……いい匂い」
紫音がお腹を押さえて小さく呟く。
袋の口の隙間から、ふわりと肉まんの甘い香りと、ソースと油の匂いが漏れ出して、二人の間の空気をあっという間に満たした。
「早く帰りましょう」
ホテルまでの帰り道は、さっきよりも少しだけ足取りが軽いようで、
ビニール袋が歩調に合わせて小さく揺れ、そのたびに中から立つ湯気と匂いが、寒い夜気の中で尾を引いていった。
二人並んで歩くその距離は、さっきよりもわずかに近かった気がした。
ーー
部屋に戻ると、テーブルの上に戦利品を並べるだけで、小さな宴会の準備が整った。
紙袋から次々と取り出されるお弁当やスープ、スイーツ、お菓子たち。
プラスチックの容器どうしが軽くぶつかってカタカタと鳴り、そのたびに湯気やソースの匂いがふわっと立ち上る。
ビジネスホテル特有の少し乾いた空気のなかで、コンビニのジャンクな香りだけがやけに生々しくて、二人の胃袋を同時に刺激してくる。
コンビニのロゴ入りの割り箸やプラスチックのスプーンでさえ、今はどこか愛おしい。
「……けっこう買いましたね」
テーブルの上のラインナップを見て、二人して少しだけ眉を上げる。
量だけ見れば、普通の人間二人には少し多いかもしれない。
けれど、あんなことがあったライブの後だと思えば、これくらいはきっといいだろう。
「残ったら、明日の朝に、食べればいい」
紫音はそう言いながら、鮭弁当のフタをペリペリと剥がした。
フィルムが空気を裂くような音を立ててめくれ、まだ熱の残る白いご飯と、素朴なオレンジ色の鮭が姿を見せる。
湯気がふわっと立ち上り、ほぐした鮭の塩気と、タレの甘辛い香りが混ざって鼻をくすぐった。
「いただきます」
「いただきます」
二人揃って小さく頭を下げて、それぞれ箸をつける。
紫音は、白いご飯の縁と鮭の境目あたりを、慎重に少しだけすくい取るようにして口に運んだ。
ほんの一口なのに、噛むたびに頬の内側がわずかに動いて、喉の奥で小さく飲み込む音がする。
「……おいしい」
最初に声を上げたのは紫音だった。
言葉自体は短いのに、その言い方は少しだけ緩んでいる。
「塩加減、ちょうどいい」
鮭の身と白米を一緒に噛みしめながら呟く紫音の横顔は、さっきステージ上で歌っていた人と同じとは思えないくらい、ふにゃりと柔らかい顔をしていた。
「良かったです」
優里も、自分のハンバーグ弁当のハンバーグを一口食べる。
プラスチックの容器の端を軽く押さえながら、ソースをたっぷりまとったハンバーグを持ち上げると、とろりとしたブラウンのソースが少し垂れて、ご飯の上に丸い染みを作った。
コンビニのハンバーグ特有の柔らかさと、ソースの濃い味が、噛むたびに口いっぱいに広がる。
脂と塩分と甘味がまとめて舌に押し寄せてきて、疲れた身体にすっと染み込んでいく。
二口目を運ぶころには、疲れや緊張がじわじわと背中から抜けていくのが自分でも分かった。
「どう?」
「……安心する味です」
「コンビニのご飯に、安心感なんて、ある?」
「ありますよ。それに、想像できる味って、料理においてはけっこう大事ですから」
優里は、ご飯とハンバーグを一緒に口に運びながら答える。
こういう味だろうな、と思っていた通りの味が、きちんと期待を裏切らずにやって来てくれる。
何が起こるか分からない一日だったからこそ、舌の上くらいは予想通りの味が欲しかったのかもしれない。
温めたスープのフタを開けると、コーンの甘い香りと、オニオンの香りがふわっと立ち上る。
紙カップから立ちのぼる白い湯気がゆらゆらと揺れた。
紫音は、コーンスープを一口啜って目を細めた。
とろみのある液体が舌の上をなでていき、コーンの粒がときどき歯に当たる。
ほんのり甘くて、塩気は控えめで、喉を通ると胸の奥のほうまでじんわりと温度が落ちていく。
なにかに対抗するみたいに、無言でオニオンスープをそっと差し出した。
カップの縁を持つ指先が少しだけ触れ合い、紙越しにスープの熱が二人の手に伝わって。
紫音がオニオンスープを少しだけ口に含み、「あ、これも好き」と呟いた。
結局、代わりに、優里もコーンスープをひとくちもらう事になって。
ふたりとも、同じスープを飲みながら、それぞれの好みの違いを小さく確認し合うように微笑み合う。
そんな、甘いやりとりをしながら、弁当を平らげる。
プラスチック容器の隅々まで箸を滑らせ、最後の一粒まできれいにすくい取って口に運ぶたびに、胃のあたりがじんわりと重たくなっていき、逆に頭の中はふわっと軽くなっていく。
肉まんのふかふかの生地を割ると、中から熱い蒸気と甘い肉汁の匂いが一気に溢れ出る。
指先に伝わる生地の柔らかさと、かじった瞬間に唇に触れる熱が、妙に幸福だった。
からあげ棒一本を、二人で交互にかじれば、揚げ物の油と、衣の香ばしさが、口の中に広がった。
衣がサクッと小さく音を立てて、すぐに歯の圧力でしんなりしていく。
中から出てくる鶏肉の塩気が油と混ざり合って、噛むたびにじゅわりと味が染み出す。
串を持つ手が何度も相手に渡されるたび、指と指が擦れ合って、ほんの僅かな接触がくすぐったかった。
肉まんも、からあげ棒も、どちらも想像通りの味で、なのになんだか美味しくてたまらない。
食後のデザートタイムには、プリンとチーズケーキとティラミスがテーブルの上に並ぶ。
乳脂肪と砂糖の匂いが、まだ残っている揚げ物の匂いとゆっくり混ざり合って、部屋の空気を少しだけ重くした。
「どれからいきます?」
「チーズ!」
即答だった。
声のトーンが、さっきの鮭弁当のときより半歩高くて、分かりやすくテンションが上がっている。
バスクチーズケーキは、少しずっしりしていて、表面にほんのり焦げ目がついていた。
スプーンを入れると、表面の焼けた層が薄く抵抗したあと、下の柔らかいチーズの層にすっと沈んでいく。
断面はきめ細かく、照明を受けてわずかに艶めいていた。
「……おいしい」
いそいそと食べ始めた紫音が短く評価する。
チーズの濃さが舌の上に広がって、後からくるほろ苦い焦げ目の香りが、その濃さを少しだけ引き締めてくれる。
飲み込んだあとも、口の中にミルクと焦げの香りがふわっと残り、もう一口欲しくなる。
「濃いですか?」
「濃い。でも重すぎない。これ一人で一個はきついと思ったけど、そんなことない」
軽く頬を押さえるようにしながら、紫音はもう一口、慎重にスプーンを差し込む。
さっきまで少しお腹いっぱいそうにしていたのに、気づけばチーズケーキの半分以上が紫音の胃袋に消えていきつつあって、それが見ていて微笑ましい。
そのまま、流れるようにプリンを前にして、二人でスプーンを手に取る。
プラスチックのフタを開けると、ぷるりとした表面が少し揺れ、その縁にカラメルソースが薄くたまっていた。
最初の一口を紫音が、二口目を優里が。
一つのカップを、当たり前のようにシェアする。
スプーンですくったプリンが、震えながら唇に近づいていき、舌の上に乗った瞬間にとろりと崩れる。
卵とミルクのまろやかさが広がったあと、カラメルのほろ苦さが少し遅れて追いかけてくる。
「やわらかい」
「カラメル、苦すぎないのがいいですね」
ティラミスも、同じように一つのカップを二人でつつく。
上にかかったココアパウダーが少しだけ咽せそうになるけれど、その下のマスカルポーネの層がすぐにそれを包み込んでくれる。
スポンジ部分に染み込んだコーヒーの苦味と、チーズクリームの甘さが混ざり合って、口の中で小さな波みたいに行ったり来たりする。
「……こういうの、家だとあんまりしないけど」
紫音がふと呟く。
もちろん家では、ここまでスイーツを並べて片っ端から味見するみたいなことはまずしない。
学校帰りや収録帰りに、せいぜい一つだけ買って帰る程度だ。
優里は、スプーンを口に運びながら頷いた。
「でも、今日くらいはいいですよね」
「……うん」
チョコレートも、ポテトチップスも、今夜は少しだけ手をつけた。
チョコレートのほうは、一粒を舌の上でじっくり溶かしながら、時折出てくるナッツのカリッという歯触りを楽しむ。
ポテトチップスは、袋を開けた瞬間に広がる油とじゃがいもの匂いが、もうそれだけで信頼あるいつもの美味しさを保証してくれるみたいで。
一枚ずつ、交互に口に運ぶ。
しょっぱいものと甘いものを行ったり来たりしながら、気づけばテーブルの上は空き容器でいっぱいになっていた。
割り箸の袋、ペットボトルのキャップ、スープの空きカップ。
コンビニロゴ入りの小さなゴミたちが、今夜ここで確かに二人が満たされた証拠みたいに散らばっている。
「……しあわせ」
ソファ代わりにしているベッドの端に座って、紫音がぽつりと漏らす。
お腹はほどよく重く、身体の芯はまだ少し火照っている。
それでも、さっきまでの張り詰めた神経はすっかり解けて、まぶたの裏まで柔らかくなったようだった。
「わたしもです」
優里も、同じように呟く。
テレビはつけていない。
窓の外の景色も見ていない。
ただ、白い壁と、ビジネスホテルの小さなテーブルと、コンビニの袋と。
そのどれもが、今はやけに満ち足りて見えた。
「……お風呂、どうします?」
空き容器を片付けながら、優里が問う。
「先、入ってきて」
紫音は、少し眠そうに瞬きをしながら順番を決めて、優里はバスルームへ向かった。
ーー
シャワーを浴びてさっぱりしたあと、優里は備え付けのバスローブに袖を通した。
柔らかい白い生地は、少しだけ大きくて、腰のところで紐をきゅっと締めると、グラマラスな体型も相まって、ふわりとしたシルエットになる。
髪をざっと乾かして部屋に戻ると、紫音がちょうど立ち上がるところだった。
「……じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃいです」
「……なんか、家みたい」
紫音が苦笑しながらバスルームに入っていく。
その背中を見送ってから、優里は一度だけ深く息を吐いた。
(さっき、ほんとにぎりぎりでしたね)
自分の手のひらを眺める。
その手で紫音の首筋や頬を撫でていた感覚が、まだ生々しく残っている。
(これ以上は、さすがに……)
そう自分に言い聞かせながら、ベッドの上のシーツを整えた。
…さりげなく、二台のベッドのうち、片方の枕を、もう一方のベッドの方へ近づける。
「…くっつけちゃおうかな……?」
小さく呟きながら、さすがに完全にベッドを動かすのは控えて、枕だけを寄せておく。
やがて、シャワーの音が止まり、数分後。
バスルームのドアが開く音と、中から溢れてくる湯気が、部屋の空気を少しだけ温かくする。
「……」
優里は、思わず息を止めた。
風呂あがりの紫音は、当然、バスローブ姿だった。
ホテルのロゴ入りの白いバスローブ。
明らかに少し大きめで、袖が手の甲のあたりどころか、指先まで隠す勢いで余っている。
髪はタオルである程度水気を取っただけのようで、まだ少ししっとりと濡れていた。
それが肩にかかって、襟元の白い布地をところどころ暗く染めている。
足もとは、素足のまま。
バスローブの裾から覗く足首からふくらはぎにかけてのラインが、照明の色でやわらかく照らされていた。
「……なに、その顔」
紫音が、わずかに首を傾げる。
優里は、言葉を失っていた。
「……反則では?」
やっと出てきた言葉が、それだった。
「反則?」
「…サイズが……」
紫音は、自分の姿を見下ろす。
「……大きい」
「大きいですね……」
その大きさが、とにかく危うかった。
肩がすこしだけ落ちていて、鎖骨のあたりがちらりとのぞく。
腰の紐をきつく締めているせいで、そこから下の布地がふわりと広がっているのに、逆に身体の細さが強調されていた。
「……変?」
「綺麗です」
「…………………………えと、…」
「可愛いです」
「…………………」
魅了されたみたいに、視線を逸らすことができない。
髪の先から落ちた水滴が、バスローブの襟元に小さな濡れた点を作る。
そのすぐ近くに、さっきつけたばかりの薄い痕が、うっすらと浮かんでいるのが見えた。
紫音が、バスローブの袖口から覗く手を胸元で組みながら、目を逸らす。
優里は、思わず額を押さえた。
(……ほんとに、今日だけは)
さっき部屋に入ったときよりも、よほど危険な光景だった。
さっきまでのライブステージの、完璧な衣装でもなく。
家で見るパジャマ姿とも違う。
ただのビジネスホテルの、少し安っぽいバスローブなのに。
それだけで、どうしようもなく胸をかき乱される。
「……紫音さん」
名前を呼ぶと、紫音は足もとを気にしながら、トコトコとベッドの方へ歩いてきた。
バスローブの裾が、足首のあたりでふわりと揺れる。
そのまま、優里の隣に腰を下ろす。
会話をしている間にも、優里の視線は紫音から逸れなかった。
湯あがりの熱を残した頬。
少し赤くなった耳。
首筋から鎖骨にかけてのライン。
バスローブの隙間から覗く、わずかな肌の範囲が、想像を何倍にも膨らませてくる。
「……」
「……」
しばらく、互いに黙ったまま、目だけで相手の様子を窺っていた。
先に動いたのは、優里の方だった。
そっと手を伸ばして、紫音の頬に触れる。
濡れた髪の束を、耳の後ろへ払う。
指先が耳たぶをかすめるだけで、紫音の肩がぴくりと震えた。
「…………ねぇ…」
「……はい」
「さっきから、目が、……ずっとえっち」
「……紫音さんが悪いと思います」
小さく笑い合って、
それから、互いの顔がゆっくりと近づいた。
さっきよりも、落ち着いたキスだった。
さっきのように押し倒すのではなく、ベッドの端に並んで座ったまま、顔だけを寄せ合う。
唇が触れ、離れ、また触れる。
軽く舌先が触れ合うたびに、その穏やかなはずのキスが、じわじわと熱を帯びていく。
…そこで、紫音の手が、そっと優里のバスローブの袖口を掴む。
「……優里」
「……はい」
「……これ以上は、ほんとに、…明日に響くから、……その…」
「……そう、…ですね」
紫音は、唇を離したまま、額を優里の胸に預けた。
「……一緒のベッドで寝たいです」
その一言を口に出せば、優里の心臓がまた跳ねる。
「…………うん」
紫音は手を繋いだまま、猫のようにごろんと横になった。
寄せておいた枕がちょうど良い位置にある。
自然と、優里もその隣に身体を滑り込ませた。
バスローブ同士が触れ合う。
布越しに、体温が伝わってくる。
「……こっち、向いて」
紫音の小さな声に従って、優里は横向きになった。
目の前に、紫音の顔がある。
さっきまでステージライトを浴びていた顔が、今はホテルの間接照明だけで照らされている。
「……」
「……」
互いに何かを言おうとして、結局、言葉にならなかった。
代わりに、腕が自然と動く。
優里は、紫音の腰のあたりにそっと腕を回した。
紫音も、優里の胸元へ自分の腕を滑り込ませる。
二人の身体が、ベッドの上でぴたりとくっつく。
バスローブの布地がクッションになっているはずなのに、その下の体温がはっきりと分かるくらいには、距離が近かった。
「……あったかい」
紫音が小さな声で呟く。
「紫音さんも、あったかいですよ」
「優里も、あったかい」
小さく笑って、それから、紫音は目を閉じた。
優里は、紫音の額の上に、軽くキスを落とす。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
布団の中で、指と指が絡まる。
手のひらの中で、相手の指の細さと、温度を確かめる。
ホテルの空調の音が、かすかに聞こえる。
窓の外の夜景も、カーテンに遮られている。
ここは、高級ホテルではなくて、
食べたのは、コンビニのお弁当とスープとスイーツ。
どれも、特別高級なものではない。
それでも。
「……なんか」
優里が、半分眠りかけながら呟く。
「……うん?」
「今日が、今までで、一番しあわせかもしれないです」
紫音は、目を閉じたまま、少しだけ口元を緩めた。
「……………わたしも」
紫音は、優里の胸元に顔を寄せる。
「……今が、……今までで、一番しあわせ、…………かもしれない」
ビジネスホテルの白いシーツと、
コンビニのジャンクフードの残り香と、
ライブ終わりの疲労と、
湯あがりの体温と。
その全部が混ざり合う、妙にやわらかい夜。
ビジネスホテルの一室で、
ありふれたコンビニのごはんを、おいしいねと言い合いながら食べて、
こうして隣で眠る。
それだけで、どうしようもなく満たされていることが、
少しおかしくて、
そして同じくらい、誇らしくて。
やがて、二人の呼吸は、ゆっくりと同じリズムになっていった。
握った手は、そのままで。
奏でるように過ごす、二人だけの徒然なる日々。
今日は今までで1番幸せで、
そしてきっと、明日は今日以上に幸せだ。