初めはただの気まぐれだった。
面倒なしがらみから逃げるように、自分の才能だけを元手に一人暮らしを初めて。
しかし数年もしない内に、それすらも億劫になったからだった。
音楽は好きだ。作るのも歌うのも弾くのも。
楽しくて、ワクワクして、晴れやかになれる。
けれど、それを人に共有することに関しては、心底どうでもよかった。
正確には、ある時からどうでもよくなった。
才能とは残酷なもの。
それは理解していて、自分の異常なほどの才能をわざわざ呪いだと言うつもりもない。
それは血反吐を吐いてでも努力して成り上がろうとしている尊敬すべき凡人達への冒涜になるだろうから。
それでも何を作っても同じように絶賛だけをされていれば、他人からの評価を気にするという価値観はするすると希薄になっていく。
誰かからの評価も気にせずに、ひたすらに一人。どこにもない音を探す。
最低限のご飯を食べ、八つ当たりするように音楽を作り、風呂に入って眠る。
それを憂鬱に感じたと言うと、少し語弊がある気がする。
一人の時間は何よりも好きで、誰にも邪魔されずに音楽のその先を探求し続けることの出来る生活は、普通に楽しい。
それでも、変化を求めて行動したことは事実で、それが全てだった。
一瞬で数千もの応募が来ていたバイト募集のページが残っている以上、それは否定できない。
気まぐれで出した一枚の紙切れみたいな求人広告。
「家事・その他雑用」とだけ書いて、報酬は適当に相場より良くして。
宣伝するつもりもなく、ただ手持ち無沙汰を埋めるみたいにフォームを埋めた。
なのに、気づけばメールボックスが埋まるくらいの応募が来ていて。
いつも応援していますとか、何でもしますとか書き連ねられたそれら。
本来なら、その数の多さに浮き足立つべきなのだろうけど、わたしはただ通知がうるさいなと思っただけだった。
だからあえて言うならば、
「……お腹すいた…」
「…ふふっ………もう…、…もうすぐ出来ますよ」
そう、お腹がすいたんだ。
血糖値とかカロリーとか、そういう意味の空腹だけじゃなくて。
味も匂いも、他人の気配も、会話も、全部まとめて、身体のどこかがごそっと空いているみたいな、あの妙な空洞感。
自分で自分のことを、長いこと栄養失調みたいに扱っていたのだと思う。
良く似合うエプロンを付けて、フライパンを自然な動作で揺する少女の後ろ姿をぼんやりと眺めた。
朝の冷たい空気はその後ろ姿だけで、或いは調理の火がやわらかく包み込んだのか、ふわふわと蒸発するように緩く薄れていく。
換気扇の低い音と、油がじゅっと鳴る小さな音と、菜箸がフライパンの縁に触れる乾いた音。
目を閉じて耳だけ澄ませても、今が「朝で」「家で」「ここに優里がいる」ことが簡単に分かる。
いつからだろうか。
あの背中を見ると安心するようになったのは。
…あの背中を、愛おしいと思うようになったのは。
初めて会った時は、見た目についての印象は特になかった。背が高いなとは思ったけれど、それ以上の印象は何もなかった。
鏡を見れば何時でもわたしが写ってしまう以上、美醜については人よりも感覚がかなりおかしくて、故に当然のことだと思う。
それでも、
ただ綺麗な声だと、…そう思った。
あの子は少しだけ緊張した顔で息を吸って。
まだ線の細い、でも変に背伸びしていない声で、まっすぐに話した。
その時は、この声が家のなかで鳴っていたら、きっと静かで楽しいだろうという予感だけがあった。
数日一緒に過ごして、色々なことが見えるようになった。
わたしの些細な行動や言動を随分注意深く観察していること。
そしてそれが、気付かれてないと思ってること。
高校生とは思えない暴力的な体型も、母性も。
そして、料理に込められた、紛れもない愛情も。
フライパンからお皿に移る音で、その日の優里のコンディションがなんとなく分かるようになってしまった。
疲れている日は、盛り付けがほんの少しだけ下手になる。
嬉しいことがあった日は、気づけないくらいに少しだけ彩りが良い。
わたしが収録で外出する日は、おかずがひとつ増えている気がする。
たぶん本人は、そこまで意識していないのだろう。
でも、そういうばれないと思っている工夫が、全部分かってしまうくらいには、わたしはあの背中を見てきた。
指輪を渡された。
音楽への報酬ではなくて、ただわたしがわたしであることに対してのプレゼント。
今までの関係性に感謝を込め、そしてこれからの関係への祈りが込められた、初めて渡された愛情の形。
どう表現したら良いかは分からない。
どんな感情なのか、自分でもよく分からなくて、しかし意図せず頬が緩んでしまうこの感情は、長々しく飾る必要もきっとない。
嬉しかった。
嬉しくて、少し怖かった。
左薬指のこの小さな輪が、思っていた以上に重くて。
録音ブースの中でも、レコーディングの合間にも、気づけば指先がそこを撫でている。
あの日から、わたしは、わたしの音楽に対して以上に、わたし自身に対する期待と視線を感じるようになった。
優里の視線も、スタッフの冗談めいた冷やかしも、ファンの推測も。
それら全部が、一気に現実味を帯びて押し寄せてきて、それが恐ろしくも、嬉しくもあった。
今や、ほとんど同棲状態になってしまって、わたしの家に泊まらない日の方が少ないけれど、初めて優里が自分の家に泊まった時、久しぶりに感じる懐かしい感覚が確かにあった。
居心地が良くて、自然体で、そして暖かい。
ひとりで済ます日常の作業が、
ふたりで過ごすとなんだか明るくて。
ふと、自分が優里と家族を重ねていることに気づく。
コンロの火をいじる音で母を思い出し、
洗濯物を干す背中で、遠い記憶に居る父を思い出す。
テーブルに並ぶ味噌汁の湯気で、もう二度と戻らない食卓を想うようになった。
そのどれもと違うのに、なぜか同じ懐かしさがあって。
そして、その懐かしさの中心にいるのが、血の繋がらない高校生だという事実に、最初の頃のわたしは少し戸惑っていた。
優里の文化祭を見に行った。
こっそり行って脅かそうとしたら早々に失敗した。
再生回数程度は気にしていたが、それ以上に他人からの評価を気にしたことはなくて、10億再生という言葉の意味を深く考えていなかった。
…いいや、これは今でも続く悪癖だ。
ついこの間も、1万人以上が見る配信上で優里について随分ディープな内容を話してしまった。
肩の痕とか、洗濯カゴとか、本来なら世に出すべきではない話を、わたしは平然とマイクの前で口にした。
幸いにもわたしが寝落ちしたせいで配信は非公開になったが、この悪癖はしばらく直せそうにないかもしれない。
それでも、怪我の功名と言うべきか、そんな悪癖のせいで、ひとつだけ自分が変わった事に気づいた。
10億だろうが100億だろうがどうでも良くて、
なのに、優里がどう思うかが、…少しだけ気になるんだ。
アーカイブを後で見て、あの子がどんな顔をするか。
嬉しそうに笑うのか、耳まで真っ赤にして枕に顔を埋めるのか。
どちらにせよ、きっとわたしの言葉ひとつで、あの子の一日が少しだけ変わる。
数字の桁は、わたしの中ではもう意味を失っている。
でも、たった一人がどう思うかは、情けないほど重くなった。
クリスマスライブのことを思い出す。
祝祭の名前をつけられた、ただの仕事。
そう割り切って臨んだはずなのに、ステージ袖に優里の姿を見つけた瞬間、胸の奥のスイッチがひとつ入った。
本番前の楽屋で、終わったらケーキ買って帰りましょうね、と笑っていた顔。
あの笑顔を、何があっても曇らせたくないと思った。
興奮冷めやらぬまま楽屋にもどれば、押し付けるように手渡された、初めて贈られる独占欲が、紛れもなく嬉しかったんだ。
マイクが壊れたソロライブ。
あの長い長い時間稼ぎ。
予定外の三時間を、ピアノひとつで埋めたあの夜も、結局は同じだった。
観客を失望させたくないとか、プロとしての責任とか。
そういう立派な言葉も、きっと嘘ではないのだろうけど。
鍵盤の上で指が勝手に走りながら、脳のどこかはずっと袖の方を気にしていた。
「今、あの子はどんな顔で見てるんだろう」と。
わたしが無茶をすればするほど、きっと心配して、きっと誇って、きっと怒る。
その全部を想像しながら、じゃあ、もう少しだけやってみようと、何回も、何十回も。
終演後、袖で見た優里の顔は、想像以上に危うくて。
泣きそうで、笑っていて、どこか壊れそうで。
その視線がまっすぐこちらに向けられた瞬間、わたしは少しだけ自分を呪った。
こんな顔をさせるぐらいなら、もっと適当にサボればよかったのにとすら思い、
でも、サボっていたら、たぶんこの子はもっと別の意味で悲しそうな顔をしたのだろうとも分かってしまうから、結局どこにも逃げ道はなくて。
ライブが終わって、終電を逃して、ビジネスホテルに連れて行かれた夜。
一部屋に泊まることになるという事務的なトラブルでさえ、今思えば、わたしたちには出来すぎた段取りだったのかもしれない。
部屋の鍵が閉まる音と同時に、優里の腕が背中から回ってきたとき、
ああ、正直今日は、もう我慢してくれとは言えないな、と少しだけ思ってしまった。
襟元に落ちる熱と、息の乱れと、震える指先。
そこから先は、理性と約束と、色々なものが、どうにか二人をベッドの上に留めてくれた。
「これ以上は明日に響くから」と口にしたのは、どちらだっただろう。
言葉にしたのはわたしの方だった気もするし、心の中では、優里の方が先にブレーキを踏んでいたような気もする。
正直に言えば、あの夜、ほんの一歩間違えていたら、わたしたちはもう少し先まで行っていたかもしれない。
そしてそれは、たぶん、とても甘くて、…とても後悔しただろう。
踏みとどまったその代わりに手に入れたのは、添加物だらけのささやかな宴だった。
ビジネスホテルの小さなテーブルの上に並べたそれは、誰がどう見てもただのジャンクフードだったけれど、
わたしには、どんな高級レストランのフルコースよりも美味しかった。
ライブの後の乾いた身体に、塩分と油と砂糖が染み込んでいく感じが心地よかった。
「おいしいね」と言い合いながら、同じカップのプリンにスプーンを差し込む距離は暖かくて。
食べ終わって、散らかったコンビニのゴミを眺めて、「しあわせ」と呟いてしまった自分。
あの夜、ベッドをくっつける代わりに、枕だけを寄せて眠ったこともよく覚えている。
バスローブ同士が触れ合って、布越しにお互いの体温が伝わってきて、
少しだけずらした照明の下で、横向きになった優里の顔を、眠る直前まで眺めていた。
「今日が、今までで、一番しあわせかもしれないです」と言ったのは、優里の方だった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがきゅっと締め付けられて、
同じ言葉をそのまま返した自分の声が、少しだけ震えていたことを鮮明に覚えている。
言葉にするのは、やっぱり苦手だ。
歌詞なら平気で人を泣かせるような文章を書けるのに、
自分の口から出る心からの想いは、どうしてこんなに不器用なのかと、自分でも呆れる。
あの配信の最後に寝落ちしたとき、
ドアの向こうから入ってきた足音を、半分だけ夢の中で聞いていた気がする。
おでこに触れた柔らかい感触と、抱き上げられたときの、ふわりとした浮遊感を。
あの夜のアーカイブは非公開になった。
わたしの告白も、すぐに世界からは消された。
それでいいと思う自分と、
なぜだかちょっとだけ残念だと思う自分がいて、
少しだけ、…困る。
…いつからだろう。あの背中がわたしの一部になっていたのは。
初めはただの気まぐれで募集したはずのバイトは、
気づけば、わたしの生活そのものを作り変えてしまっていた。
ひとりで音楽を作る時間は、今でも好きだ。
鍵盤の前で、譜面と向き合って、世界のどこにもない曲を探り、組み立てていく作業は、何度やっても飽きない。
でも、鍵盤から離れたあと、
リビングに行けば「おかえりなさい」と迎えてくれる優里がいて、
「今日はどうでした?」と聞かれて、
いい加減な返事をしながら、
食卓につく。
それだけで、新しい音を見つけたみたいな気持ちになれる。
ライブのセトリを組むときも、
無意識に、優里が聞く時のこととか、
このMCのあとに、あの子がきっと笑うだろうとか、余計な推測が入り込んでくる。
それをプロ意識が邪魔だと怒る日もあるけれど、
結局のところ、わたしはその余計な推測がこれっぽっちも嫌いになれない。なれそうにない。
フライパンの音が少し大きくなる。
卵を割る音と、菜箸がボウルを叩く音。
味噌汁の匂いと、焼けていくソーセージの匂いと、
ほんの少しだけ焦げたパンの匂い。
「紫音さん、朝ご飯、できましたよー」
キッチンから飛んでくる声は、相変わらず少しだけ甘い。
…きっとこの声に対して感じているものを、
単に「助かる」とか「ありがたい」で片付けてしまうのは、もう紛れもなく嘘なのだろう。
それはもっと、手触りのある、そしてわたしの生活そのものに食い込んだ何かで……
そして名前をつけるのが怖いくらい、いつもわたしの近くに、今までも、これからもそこにある。
高校生のくせに、やたらと落ち着いていて、
でもときどき、年相応に子供っぽくて。
その声が、姿が、可愛くて、暖かくて、
そしてきっと、…好きだ。
…好きなんだ。
ソファから立ち上がってダイニングテーブルに向かう、そのほんの数歩のあいだ。
左薬指のリングを、わたしは無意識に一度なぞる。
未だに恋愛感情と親愛の違いは分からない。
それでも、きっとこれは本物なのだという、どうしようもない予感があって、
…そして、そうであって欲しいと、わたしは祈ろう。
凍てつく冬暁。
尾を引くコーヒーの湯気とトーストの香りが、鼻の先を擽るように揺れて漂っていた。
窓ガラス越しの光の中を泳ぐように、黒と葵の混ざる長髪が楽しげに動く姿を眺めながら、揺蕩うような眠気を擦り、柔らかな少女の顔をただ見つめる。
頬は少し赤く染まり、だらしなく歪んだ口元からは、きっと今更言葉にするまでもない感情が分かりやすく滲んでいた。
…今日も、食卓につく。