天才ロリ(合法)と一般JKの百合   作:( 눈_눈)

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なんかね、百合にほのぼのしてる最中の読者のね
涙腺を引きちぎると変な汁が出るんです!
その汁をピタパンに塗って食べるのが大好きなんですよね。私。
懐かしいなぁ。星10評価は私のモノだなぁ。
感想貸してくれませんか?
あなたを泣かせます。




名雪紫音.2

 

優里がキャリーケースを引いて玄関のドアを開けたとき、廊下の奥から足音が近づいてきた。

 

スリッパの底が床を擦る、柔らかい音。

顔を上げると、いつもの黒いパーカー姿の紫音が、少しだけ乱れた前髪をかき上げながら姿を見せた。

 

「……おかえり」

 

「ただいまです」

 

ほんの数日離れていただけなのに、優里の胸の奥にはどこか、家に帰ってきたときのような緩みがあった。

 

「実家、どうだった?」

 

キッチンの方へ歩きながら、紫音が何気ない調子で尋ねる。

 

「…ふつうでした。お節の残り物とお雑煮と、あと親戚の相手して……。…あと、『また背伸びた?』って何回も…」

 

「……それは、伸びてるから」

 

「そうなんですけど」

 

ソファに腰を下ろす前に、優里はふと振り返った。

 

「紫音さんは……いいんですか」

 

「……なにが」

 

「実家です。……お正月とか」

 

少しだけ空気が止まる。

 

紫音は、キッチンのカウンター越しに優里を見た。

その瞳の奥には、いつもの淡々とした静けさと、ほんの僅かな波紋が重なっている。

 

「……帰る家、ないから」

 

あまりにもあっさりした言い方だった。

 

「…えと…お父さんとお母さんは…」

 

「もう、いない。十五のときに、両方」

 

優里は息を呑む。

 

紫音が、自分の家族のことをこうして口にするのは珍しかった。

今まで、何度かそれらしい話題に触れそうになっても、いつも自然と別の話にすり替えられていた。

 

「事故、って聞いてる。詳しいことは、あんまり」

 

紫音は、冷蔵庫からペットボトルを取り出して、グラスに注ぐ。

その動作はいつも通り淡々としているのに、指先の力だけがほんの少し強いように見えた。

 

「……実家自体は、まだ残ってる。税金払ってるだけの箱、みたいになってるけど」

 

「…行ってないんですか?」

 

「うん。……一人暮らし初めてからは、ずっと」

 

グラスの縁に、白い指が軽く触れている。

たわいもない、ただのガラスのコップ。

 

優里は、しばらく言葉を選ぶように黙ってから、ゆっくりと口を開いた。

 

「……今度、一緒に行きませんか」

 

紫音が、ほんの少しだけ目を瞬かせる。

 

「優里と?」

 

「はい。紫音さんひとりで行くよりは、多分……」

 

言い切る前に、紫音は視線を落とした。

 

テーブルの端で、左手の薬指が、小さく一周するように動く。

細いリングの上を、指がなぞる癖。

 

少しだけ迷う仕草のあと、紫音は短く頷いた。

 

「……じゃあ、今度の週末なら…」

 

その声は、怖がっているというよりも、覚悟を決めるときのそれに近かった。

 

ーーー

 

週末。鈍い雲に覆われた冬の空の下、優里と紫音は電車を乗り継いで、小さな駅に降り立った。

 

吐く息が白い。

駅前のロータリーには、人影もまばらで、商店街の看板だけが昔の賑やかさを名残のように訴えている。

 

「……こっち」

 

紫音が短く言って歩き出す。

優里はキャリーバッグではなく、軽いショルダーバッグだけを肩にかけて、その背中を追った。

 

歩道のタイルに、冬枯れの街路樹の影が細く伸びている。

遠くで、踏切のベルが鳴る。

 

十分ほど歩いて、住宅街の奥まったところで、紫音は足を止めた。

 

そこにあったのは、ごく普通の二階建ての家だった。

 

白い外壁は、ところどころ薄く色あせている。

小さな庭には、しっかりとした手入れをしていないはずの低木が、意外なほど素直に冬を越える支度をしているように見えた。

門扉の前のポストには、郵便受けの隙間からいくつかのチラシが顔を覗かせている。

 

「……ここ」

 

紫音は、ポケットから鍵を取り出した。

長いこと使っていないはずなのに、金属の先はそこまで錆びてはいない。

 

鍵穴に差し込んで、ゆっくりと回す。

鈍い音を立てて、鍵が開いた。

 

玄関のドアを押すと、長いあいだ閉じ込められていた冷たい空気が、ふっと外へ流れ出した。

 

埃の匂いと、少し古い木材の匂い。

それでも、どこかに微かに残る生活の匂い。

 

優里は、靴を脱ぎながら、そっと周囲を見回した。

 

小さな靴箱。

壁に掛けられた、フレーム入りのいくつかの絵画。

見覚えのない人の写真ではなく、抽象的な色の塊。

 

「……そんなに汚れては、ないですね」

 

「最低限は、業者に。…放置すると、家ごと傷むから、って」

 

紫音は、玄関マットの上に足を置いたまま、少しだけ立ち止まる。

その横顔は、懐かしさとも悲しさとも違う、どこか現実感の薄い表情をしていた。

 

「軽く、掃除しよ。……埃、すごいと、しんどい」

 

「はい」

 

二人でスリッパを履き、まずは窓を開けて空気を入れ替える。

 

優里はキッチンとリビングを担当し、紫音は廊下の奥の部屋へと向かった。

 

キッチンの戸棚には、古い調味料や食器がそのまま残っていた。

賞味期限がとっくに切れているものをいくつかゴミ袋に移し、シンクを軽く磨く。

 

リビングのローテーブルには、古い雑誌が数冊積まれていて、その下からコースターが乾いた音を立てて転がり出てきた。

 

テレビの横には、小さなスピーカー。

たぶんどこかに接続機器があったのだろう。

 

優里が雑巾でテーブルを拭きながら、ふと目をやると、リビングの隅に置かれた扉が少しだけ開いていた。

ほんの隙間から、黒いものが見える。

 

近づいて、そっと扉を開ける。

 

そこは、小さな防音室になっていた。

 

壁には吸音材がびっしりと貼られ、

中央にグランドピアノが一台。

静けさ溢れるその鍵盤には布がかけられている。

 

その奥の壁際に、小さなデスクと椅子。

デスクの上には、薄いノートパソコンが一台、閉じられたまま置かれていた。

 

中に入ろうとして、優里はやめた。

不用意に踏み込みすぎるのは違う気がして、扉をそっと半分閉め、リビングに戻った。

 

しばらくして、廊下の向こうから足音が近づいてくる。

 

紫音が、少しだけ埃をかぶったマスクを片手に戻ってきた。

 

「……こっちは、だいたい終わった」

 

「…防音室、ありました」

 

「ああ……うん。父さまの、仕事部屋。音楽家で、画家で、小説家だったから」

 

答えながらも、紫音の視線は、そちらに向かったままだった。

 

「…入っても、大丈夫ですか?」

 

「……うん」

 

二人で、ゆっくりと防音室に入る。

 

ピアノの上の布を、紫音がそっとめくる。

鍵盤は、少し黄ばんではいるものの、まだきちんとそこにあった。

 

紫音は、鍵盤には触れず、代わりに奥のデスクの方へ歩いていった。

 

薄いノートパソコンの前で立ち止まり、少しだけ指先を滑らせる。

 

「これが……」

 

「父さまの。……亡くなってから、一度も開けてないけど」

 

画面には、うっすらと埃が積もっている。

紫音はそれを袖で軽く拭い、電源ボタンを押した。

 

しばらくして、古い起動音が防音室の中に小さく響く。

ロゴが表示され、やがてパスワード入力画面が現れた。

 

「……やっぱり、ロックかかってますよね」

 

優里が苦笑混じりに言う。

 

紫音は、しばらく無言で画面を見つめていた。

その沈黙を、優里は知っている。

 

「……音、覚えてるかも」

 

「音?」

 

「…うん」

 

紫音は、そっと椅子に腰を下ろした。

指先が、キーボードの上に浮かぶ。

 

「子どもの頃、よくここで遊んでて……。後ろで、ずっとキーボードの音、聞いてた。……覚えてるかもしれない」

 

優里は息を飲んだ。

 

紫音の才能は、音楽だけに限らない。

 

世界にあるあらゆる音は、彼女にとって数字であり、再現性のあるものだ。

 

その才能が異常なまでの記憶力と分析力に繋がっていることを、優里は何度も間近で見てきた。

 

紫音は、目を閉じた。

 

静かな防音室の中に、呼吸の音だけが響く。

 

やがて、指先が動き始めた。

 

一度、ゆっくりと。

今度は、もう少し速く。

 

まるで、鍵盤の運指を確かめるかのような慎重さで、同じパターンを何度か繰り返す。

 

「……こんな、感じだった。はず」

 

紫音は、最後にもう一度、今度は打鍵音のリズムをそのまま、エンターキーまで含めてなぞった。

 

画面が、一瞬だけフリーズする。

 

次の瞬間。

 

デスクトップが開いた。

 

「……え…?」

 

声が裏返った。

 

「開いた……」

 

紫音は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

 

「まじですか……?」

 

「……思ったより簡単。…まぁ、何回か聞けばできるかな」

 

肩をすくめる仕草は淡々としているのに、指先だけがわずかに震えていた。

 

デスクトップには、アイコンがいくつか並んでいる。

古い音楽ソフトや資料フォルダに混ざって、テキストファイルが三つ、目立つ位置に置かれていた。

 

「……」

 

紫音の視線が、そのファイル名に吸い寄せられる。

 

『to_shion_from_touji.txt』

『koharu_to_shion.txt』

『note_.txt』

 

嫌な予感というより、そこに何かがあるとしか言いようのない直感が、優里にも伝わってきた。

 

「……どうするかは、紫音さんが決めていいと思います」

 

優里は、そっと言う。

紫音は、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。

 

「……せっかく開けたし」

 

そう言ってから、マウスを動かす。

 

最初にクリックしたのは、『to_shion_from_touji.txt』だった。

 

心の準備をする暇もなく、画面いっぱいに、テキストエディタの白い画面が開く。

 

そこには、意外なほど丁寧な文字が並んでいた。

 

ーーー

 

紫音へ

 

これを読んでいるということは、

俺はたぶんもう、お前の近くにはいないのだろう。

 

そういう前提で書くのは、縁起でもないし、性に合わない。

でも、嫌な予感としか形容できないなにかが頭から離れない。

…だから、もし何かあったときに、俺の口下手な説明の代わりになるものがひとつくらいあってもいいだろうと思って、こうしてキーボードを叩いている。

 

まず、言っておく。

 

お前は、俺と来春の娘で、俺たちがこの世界に残せた、いちばんの作品で、いちばん大事な子どもだ。

それは、何があっても変わらない。変わってはいけない。

 

……と、こういう大事なことを正面から書こうとすると、急に指が止まるから困るな。

 

日常のことから書こう。

 

ご飯は、ちゃんと食べろ。

曲が煮詰まってくると、平気で一日二日、食事を忘れる癖があるだろう。

あれは、見ていて本当に心臓に悪い。

お前の脳は人よりずっとよく回るから、誤魔化しがきいてしまうだけで、身体の方はそんなに特別製ではない。

ちゃんと米を食え。野菜も食え。たまにジャンクなものも食べていいが、たくさんは控えるんだ。

 

寝るのもだ。

音楽のことを考え始めると、朝も夜も分からなくなるのは、俺も来春もよく知っているし、よくわかる。

でも、さっさと寝て、さっさと起きて、それから続きを作るようにしなさい。

 

それから、身長を気にするのもわかるけれど、来春みたいにならなくてもお前は世界で1番可憐だ。

成長期の頃から、毎年、健康診断の結果を見てはため息をついているのを、俺は何度も見てきた。

来春はたまたまスタイルが良いだけだ。それは来春の長所のひとつであって、決してお前の欠点ではない。

鏡に向かって眉をひそめている時間があったら、その分だけ、ピアノの前か、誰かと笑っている時間に使ってほしい。

 

こういうことばかり書いていると、来春に「説教じみている」と笑われそうだな。

 

次に、お前の音楽のことだ。

 

紫音。

お前の音楽は、ただ「人の心を動かす」なんて生易しいものじゃない。

人の心の形そのものを、別の形に組み替えてしまうほど力がある。

 

お前の音を聴いて、色が見える人がいる。

味を感じたと言う人がいる。

昔の記憶を突然思い出して泣き出す人がいる。

 

何もかもどうでもいいと思っていた人が、いきなり「明日からちゃんと生きよう」と言うようになる。

 

偶然ではない。

音を通じて、お前が世界をどう見ているか。その見え方が、そのまま人の中に流れ込んでしまう。

 

その気になれば、共感覚どころか、幻痛だって見せられるだろう。

怒りも、恍惚も、偽りの記憶すらも。

お前の音は、世界をやさしく照らすことも、世界ごと焼き払うこともできてしまう。

 

これは、誉め言葉でもあり、呪いの宣告でもある。

 

芸術家としての俺は、その力に震えるほど興奮している。

父親としての俺は、その力が、お前自身をどこへ連れていってしまうのかが怖くてたまらない。

 

それでも俺は、信じたいと思っている。

 

お前の音は、誰かの心を壊すためではなく、ほどくために鳴っていると。

世界を終わらせるためではなく、いつか世界のどこかの、だれかの朝を救うために鳴っていると。

 

来春とは、ここでよく喧嘩をする。

あいつはあいつで、お前の才能を誰よりも理解しているからこそ、世界から隠すべきだと言う。

封じて、生涯、慎ましく、普通に生きさせるべきだと。

 

俺も、その考えを理解しないわけじゃない。

 

お前の才能は、誰かに悪用されれば、本当に世界を狂わせかねない。

国家も、企業も、宗教も。

「名雪紫音」という名前に群がるものが、何をしでかすか想像するだけで、背筋が冷たくなる。

 

だから、これだけは約束してほしい。

 

お前自身の意思を無視して、お前の音を使おうとするやつがいたら、逃げろ。

それがどんなに立派な看板を掲げていても、どんなに有名な誰かの口から出た話でも、迷わず逃げろ。

お前は、世界のための道具じゃなくて、まず一人の人間だからだ。

 

逆に、お前の音が、お前自身を壊しそうになったときも、逃げていい。

音楽から離れてもいい。

鍵盤の前に座れなくなる日が来たとしても、それは敗北じゃない。

 

そのときは、誰かにちゃんと、助けてと言え。

もしかすると、その誰かは、できれば俺や来春じゃない方がいいのかもしれない。

 

だから、紫音。

 

必ず、俺にとっての来春みたいな人を見つけるんだ。

 

お前を作品としてではなく、人間として見てくれる人を。

お前の音に震えながら、それでも「ちゃんとご飯を食べて」「ちゃんと寝て」と頭を撫でてくれる人を。

お前が世界を壊そうとしたら、本気で怒って止めてくれる人を。

 

そういう人は、この世界にちゃんといる。

俺と来春が出会えたように、お前もいつか必ず出会えると、俺は信じている。

 

その人の前では、天才であろうとしなくていい。

ただ、紫音でいればいい。

 

……ここまで書いても、やっぱり言い足りない。

 

伝えたことは、もうとっくに伝わっているのかもしれない。

いや、そうであるように育てたつもりだ。

 

それでも本当は、横に座ってコーヒーでも飲みながら、何度でも同じ話をしたい。

 

でも、もしそれが叶わなくなったとき、少なくともこの文字たちが、お前を少しだけ支える杭になってくれたらと思う。

 

どうか、よく食べて、よく眠って、よく笑ってくれ。

音楽を続けるのも、やめるのも、お前が決めていい。

どんな選択をしても、俺はお前の父親であり続ける。

 

紫音がこれから見る世界が、残酷さと同じくらいの優しさを持っていますように。

 

そして、いつか、お前が「幸せだ」と静かに言える日が来ますように。

 

冬二

 

ーーー

 

スクロールバーが、ほとんど一番下まで来たところで止まる。

 

優里は、知らない人の手紙なのに、胸の奥が苦しくてたまらなかった。

 

「……紫音、さん」

 

隣で椅子に座る紫音の横顔を、そっと覗き込む。

 

紫音の視線は、画面の最後の行に釘付けになっていた。

 

「……父さま、案外、ちゃんとお父さんだったんだな」

 

ぽつりと漏らされた言葉は、冗談みたいな形をしているのに、声の底は震えていた。

 

優里は、どうしていいか分からず、ただそっと、紫音の手の甲に自分の手を重ねた。

 

紫音は、ほんの一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから、重ねられた手から逃げなかった。

 

しばらく、二人とも黙って画面を見ていた。

 

やがて、紫音は小さく息を吸い、ウィンドウを閉じる。

 

かわりに、寄り添うように隣にあるファイルにカーソルが動く。

 

『koharu_to_shion.txt』

 

クリックする指先が、さきほどよりもゆっくりだった。

 

新しいテキスト画面が開く。

 

ーーー

 

紫音へ

 

これを書くのに、何日もかかりました。

何度も消しては書き直して、それでもきっと、ちゃんとは伝えられないと思います。

 

それでも、書かずにはいられなかったから、ここに残しておきます。

 

まず、謝らなければいけないことが山ほどあります。

 

冬二を、あなたのお父さんを、この手で奪ってしまったこと。

あなたの才能を、誰よりも恐れてしまったこと。

そして今、この手紙を書いている時点で、あなたを置いて楽になろうとしていること。

 

全部、言い訳のできない、わたしの罪です。

 

紫音。

 

あの日のことを、書きます。

 

あなたが十歳を過ぎた頃から、あなたの音に変化が出始めた。

わたしは、ずっとそれを間近で見てきました。

 

小さなピアノの前に座って、指を置くだけで、部屋の空気の色が変わる。

あなたの弾く曲を聴いた人が、泣いたり、笑ったり、立ち上がったり、黙り込んだりする。

 

それは、ただの音楽の力と片付けるには、あまりにも濃かった。

 

母親としてのわたしは、怖くなりました。

 

あなたの才能そのものが怖いのではなくて、

その才能が、世界に見つかってしまったときに起きることが、怖かった。

 

あなたが道具にされること。

あなたが偶像にされること。

あなたが誰かの欲望を叶えるために扱われる

こと。

 

そして、そんな世界に触れて、もしかしたら、あなた自身が、世界をどうでもよく思ってしまう日が来るかもしれないこと。

 

冬二は、違う見方をしていました。

 

あの人は、芸術家として、あなたの才能を誰よりも理解していた。

「怖い」と言いながらも、「それでも信じたい」と言っていました。

 

わたしは、最初のうちは、それでも一緒に考えようと思っていました。

あなたを守りながら、あなたの音楽をどこまで外に出すか、慎重に決めていこうと。

 

でも、ある日、わたしは限界でした。

 

あなたが、スタジオで試しに弾いた曲を聴いた少年が、その場で母親のことすらも忘れたように、呆然としながら泣き出したのを見たとき。

 

学校で孤立しかけていた子が、あなたの動画を見て、翌日から明るく振る舞い始めたと聞いたとき。

 

それ自体は、とても美しいことでした。

 

けれど同時に、これはもう、個人の範囲では済まなくなっていく、と直感しました。

 

世界が、本気であなたを欲しがるようになる。

そして、世界は、優しくない。

 

あの日。

冬二とわたしは、あなたの将来について、いつも以上に激しく言い合いになりました。

 

冬二は、「紫音の才能を封じようとするな」と言いました。

わたしは、「封じなければ、この子も世界も壊れる」と言いました。

 

その言い合いは、何も悪いことではなかったはずです。

二人とも、あなたのことを思っていただけだった。

 

でも、わたしは、途中で、言葉が足りなくなった。

 

冬二が、「お前は紫音を信じていない」と言ったとき。

わたしは、自分でも驚くくらい、感情的になりました。

 

言い返す代わりに、

わたしは、冬二の胸を、突き飛ばしました。

 

ほんの、軽い力のつもりでした。

すぐ背後に、階段の段差があることを、わたしは一瞬、忘れていました。

 

冬二の身体が、ふっと後ろに傾いて、

次の瞬間には、鈍い音とともに、下の踊り場に倒れていました。

 

頭の下から、赤いものが広がっていくのを、わたしは呆然と見ていました。

 

救急車を呼んで、必死で名前を呼んで、それでも冬二は戻ってきませんでした。

 

あのときから、わたしの時間は止まっています。

 

もう彼の書く小説は読めないし、彼の描く絵は見れないし、彼の弾く音楽を聞くこともできない。

 

紫音。

わたしは、あなたのお父さんを殺しました。

 

誰がどう言おうと、事故だと慰められても、

わたしは、あの瞬間の自分を許せません。

 

そのあと、わたしがしたことも、全部間違いでした。

 

あなたの前では、平静を装いました。

「事故だった」と説明しました。

泣きたいのに泣けなくて、泣かせるべきなのに泣かせられなくて、

母親として最低の選択を、一つずつ積み重ねました。

 

あなたの才能が、怖かった。

冬二を失ったショックで、さらに過敏になったわたしは、

あなたの弾くどんな音すらも、耳を塞ぎたくなってしまった。

 

あなたが何も悪くないことは、頭では分かっていました。

でも、心が追いつきませんでした。

 

それからのわたしは、母親でいる資格を失っていました。

 

仕事に逃げました。

美術品の取引は、感情を考えなくても済む。

そうやって、あなたと距離を置こうとしました。

 

でも、家に帰れば、あなたがいる。

いつか冬二が書いた絵と、あなたのピアノの音が、同じ家の中にある。

 

そのことが、わたしには、どうしようもなく耐え難いものになっていきました。

 

あなたを愛しているのに、そのあなたの存在そのものが、冬二の不在を突きつけてくる。

そんな自分が、嫌で嫌でたまらなかった。

 

そして今、わたしは、こうして、この手紙を書いています。

 

これを書き終えたあとに、わたしが何をするのか。

きっと、あなたなら想像がつくでしょう。

 

母親が、いちばんやってはいけないことです。

あなたをひとり残して、逃げることです。

 

それでも、わたしはもう、自分を支えられません。

 

本当にごめんなさい。

 

あなたのお父さんを奪ったこと。

あなたから、母親を奪うこと。

あなたの才能を、最後まで信じ切れなかったこと。

 

全部、わたしの弱さです。

 

でも、弱さだけで終わらせたくないから、

最後に、醜い自己満足だとしても、

お願いを書かせてください。

 

紫音。

 

あなたの才能を、怖がらなくていいと言うつもりはありません。

それは、きっと一生、何かしらの形であなたを悩ませるでしょう。

 

それでも、あなた自身を怖がらないで。

 

あなたは、世界を壊せるかもしれない存在ではなく、まず一人の、人間です。

よく笑って、よく食べて、よく眠る権利のある、ただの女の子です。

 

どうか、自分を道具だと思わないで。

 

あなたの音が、あなたを傷つけそうになったとき、

止まってもいい。逃げてもいい。誰かに助けを求めてもいい。

 

その「誰か」にもなれなかったことが、とても情けないけれど。

 

いつかあなたが、あなたをちゃんと抱きしめてくれる誰かに出会えますように。

 

あなたの音に震えながら、それでも、「今日はちゃんと食べた?」と笑ってくれる人に。

あなたが間違えたら、「違うよ」と怒ってくれる人に。

あなたの才能ではなく、あなたを見て笑ってくれる人に。

 

わたしと冬二の罪や弱さとは関係なく、

あなた自身の人生を、一緒に歩いてくれる人に。

 

その人が、どうか、あなたの隣に長くいてくれますように。

 

そして、あなたがいつか、

「わたしは幸せだ」と、胸を張らなくてもいいから、小さな声で言えますように。

 

わたしには、それを見届ける資格がありません。

だから、祈ることしかできません。

 

本当に、ごめんなさい。

 

どうか、紫音だけは、わたしたちのようになりませんように。

 

紫音の未来が、わたしたちの罪と切り離されて、

ただ、あたたかいもので満ちますように。

 

来春より

 

ーーー

 

読み終わった瞬間、優里の視界がぼやけた。

涙は、静かに、勝手に零れた。

隣に座る紫音は、ほとんど動かなかった。

 

「……紫音さん」

 

優里は、耐えきれずに、椅子ごと身体を寄せた。

 

そのまま、紫音の肩にそっと腕を回す。

 

紫音は、一瞬だけ身を強張らせ、それから、力を抜いた。

 

「…かあさま……」

 

掠れた声が、胸元のあたりで震える。

 

「…………知ら、…なかった」

 

紫音は、画面から目を離さないまま言う。

 

「事故だって、言われた。弁護士さんも、親戚も、みんな同じことを言ってた。……だから、考えるのやめてた」

 

「……」

 

「父さまと母さまが、わたしのことで喧嘩してたのは、何となく分かってた。……でも、…」

 

声は淡々としているのにガクガクと揺れていて、その指先は、小刻みに震えていた、

 

優里は、紫音の頭にそっと手を置いた。

 

「……紫音さんのせいじゃないです」

 

紫音は、目を伏せる。

 

「もしわたしが、普通の子だったら。……こんな才能、なければ……とうさまも…」

 

「……」

 

優里は、言葉を探した。

 

それでも、適切な言葉なんて、すぐには出てこない。

 

だから代わりに、紫音の肩を抱く腕に、少しだけ力を込めた。

 

「…わたし、は……っ…」

 

涙の気配と、長い時間を閉じ込めてきた感情の熱が、溢れて来た。

 

優里は、紫音の頭を自分の胸元にそっと預けさせるようにして、小さな背中をゆっくり撫でた。一定のリズムで、肩の真ん中から腰あたりまでを何度も何度も撫でた。

 

呼吸の乱れが、肌に直接伝わってくる。吸い込む息は短くて浅く、吐く息ばかりが震えるように長くて頼りない。

胸が上下するたびに、抱き寄せた身体がほんの少し揺れて、その揺れに合わせるように、紫音の呼吸が少しずつ速度を変えていく。

 

紫音の指先が、優里のシャツの裾を掴んでいる。爪が布地に食い込むほどの強さで握られたそれに、優里は、その手ごと包み込むように、自分の手のひらを重ねる。

 

すぐそばで、喉の奥で絡まった息が、小さく震える。声にならない音が何度か喉をさまよい、それでも言葉になる前に消えていく。

 

そのたびに、優里の腕の中の身体がわずかに強張って、そしてまた力を抜く。

 

その波を何度もやり過ごしながら、優里はただ紫音を強く抱き締め、そして背中を撫でる速さを一定に保ち続けた。

 

息は痛いほど近かった。

 

涙が、静かに、じわりとシャツの布を濡らしていく。熱を帯びた小さな染みが、時間差で肌に触れる。その熱が痛ましくて、同時に、確かにここに生きている温度でもあって、優里は目を閉じたまま、その重さを丸ごと受け止めるように腕を回し直した。

 

やがて、紫音の肩の震えが、ほんの少しだけ小さくなる。喉の奥でつかえていた呼吸が、少しずつ胸の方へ下りていき、吸う息と吐く息の長さがゆっくり揃っていく。

 

涙の気配はまだ完全には引かないけれど、布越しに伝わる鼓動が、さっきよりもわずかに落ち着いた速さを取り戻し始めていた。

 

優里は、その変化を確認するように、最後に一度だけ強く抱きしめてから、ほんの少しだけ腕の力を緩めた。離してしまわないぎりぎりの距離で、寄り添う形だけを残す。

 

しばらく、二人の間に、静寂だけがあった。

 

やがて、紫音は、自分で息を整え、母の手紙のウィンドウを閉じた。

 

「……もうひとつ」

 

画面には、『note_.txt』が残っている。

 

「これ、多分、父さんの日記。……か、小説の下書き」

 

紫音は、マウスを動かしてクリックした。

 

テキスト画面が開く。

 

そこには、地の文と独白と、未整理のメモのようなものが入り混じった文章が並んでいた。

 

ところどころに日付があり、その合間に、紫音についての記述が挟まっている。

 

ーーー

 

(中略)

 

俺は、自分の娘を、天才だと思っている。

 

偏見抜きで、世の中の誰よりも。

 

ここ数年で、いろいろな音楽家を見てきたし、俺自身も音楽を書いてきたが、紫音のやっていることは、明らかに異常だ。

 

音を組み合わせて世界を作る、という意味では、作曲家は皆似たようなものだ。

だが、紫音の音は、その世界を聞く人全員に強制する。

 

これは、比喩ではない。

 

俺自身が、何度か、体験してしまった。

 

紫音が作ったあるフレーズを聴いたとき、

俺は目の前に冬の海を見た。

冷たい風、潮の匂い、耳の奥で鳴る遠雷のような波。

 

それは、俺が昔見た海そのものだった。

子どものころ、雪の降る日に、来春と眺めた海岸。

 

後から来春に訊いたら、同じフレーズを聴いて、まったく同じ海を見ていた。

 

二人とも、紫音には言っていない過去の記憶だ。

 

それなのに、音を通して、その記憶が呼び出され、再構成され、まるでそこに連れて行かれたかのような感覚に陥る。

 

これは、偶然ではない。

 

紫音は、意図的にか無意識にか、人の脳内に自分の望む刺激を、音楽を通して与えることができる。

 

そこまで来春に説明したとき、彼女は震えていた。

 

「そんなこと、あの子にさせたくない」と。

 

俺は、そのとき、はっきりと気づいてしまった。

 

紫音の才能は、世界を救うことも、世界を終わらせることもできる。

誇張ではなく、現実として。

 

怒りを、瞬時に増幅させることもできるだろう。

無気力を、世界中に蔓延させることもできるだろう。

 

フレーズを聴かせるだけで、人々に同じ幻覚を見せることもできる。

偽りの記憶を共有体験として埋め込むこともできる。

 

そんなものを、「音楽」と呼んでいいのか。

そんなものを、娘に背負わせていいのか。

 

来春は言う。「封じなきゃ」と。

 

俺は言う。「それでも、美しい」と。

 

 

はじめて自分の曲を弾いた日のことを、まだ覚えている。

あのときは、単に「才能がある」と喜んだ。

 

でも今は違う。

 

音が、空気を色に変え、人の心を別の形に変える。

それを、何度も目の前で見てしまった。

 

芸術家としては歓喜し、

父親としては恐怖する。

 

来春とは、連日議論を重ねている。

彼女は、「紫音の才能を封じる」べきだと主張する。

俺は、「封じずに、信じて見守る」べきだと考えている。

 

どちらも間違っていない。

どちらも、紫音のためだ。

 

それでも、選び方ひとつで、この子の人生も、この子の行き先も、大きく変わってしまう。

 

紫音の音は刃だ。

何もかも両断してしまえるほどの鋭さを持った刃だ。

 

刃を持った子どもに対して、世界はどう接するだろうか。

恐れ、祀り上げ、消費して、そして捨てるだろう。

 

俺はそれを知っている。

この業界に長くいるからこそ、嫌というほど知っている。

 

だからこそ、紫音に対して、「自由に生きろ」と言うだけでは、無責任だと思う。

 

来春の思い。

それもまた、一つの愛の形だと、頭では理解している。

 

けれど、封じてしまった才能は、どこへ行くのだろう。

闇の中で腐るのか。

それとも、別の形で、もっと歪んだ形で世界に滲み出してくるのか。

 

答えが出ないまま、日々は過ぎていく。

 

ーーー

 

今日、初めて、紫音の音が「世界を救う」瞬間を見た。

 

駅前のストリートピアノ。

ふらっと座って弾いたあの短い即興で、立ち止まった何人もの表情が明るく変わっていくのを、確かに見た。

 

それでも、世界を壊す可能性は消えない。

 

どちらも同時にそこにあるからこそ、目が離せない。

 

来春は、疲れている。

「もう普通にさせてあげたい」と言う。

 

俺は、彼女のその言葉を、正面から受け止めつつも、どこかで「紫音を信じたい」と足掻いている。

 

この子は、そんなに簡単に、世界を壊したりしない。

むしろ、世界の壊れたところを、治そうと必死に歌ってくれる子だ。

 

俺は、やっぱりそう信じたい。

 

ーーー

 

桜吹雪、驟雨に揉まれてとうに秋風、

やがて木枯らしとなりてさすらい、

朽ちた何時かの青葉をただ攫ふ。

 

紫音。

お前はこの風の先に、何を歌うのだろうか。

 

ーーー

 

そこで、文章は途切れていた。

 

カーソルが、最後の行のすぐ下で瞬いている。

 

「……」

 

防音室の静寂の中に、紫音の呼吸だけが聞こえる。

 

父が残した問いかけ。

 

それは、紫音の才能が向かう先も、世界の残酷さも、全てをひっくるめた上での問い。

 

さっき読み終えたばかりの二通の手紙と、この未完の文章が、ゆっくりと同じ場所へ沈んでいく感覚があった。

 

世界を救うかもしれない刃と呼ばれた自分の音。

封じようとした手と、信じようとした手。

 

そのどちらの願いにも、はっきりと頷けないまま、ただ鍵盤の前に座り続けてきた日々が、薄い層を重ねたように、心の底で揺れる。

 

探る。もう大丈夫だよって安心させる名前ではなく、さようならを告げる別れのことばでもなく、しかしその両方でもある歌。

…ただ、葬送の詩を。

 

紫音は、ゆっくりとキーボードに指を乗せた。

 

優里は、その指先を見つめながら、何も言わずに待つ。

 

画面に、新しい行が刻まれていく。

 

ーーー

 

 

穀雨、青蘆芽吹かせ、

朝焼、鰯雲を呼び、

秋晴、枯野へ渡り、

風花、堅雪と成りて、

また、春が来た冬に、

 

今日も私は、白き百花に謳いて歌ふ。

優しい春風の、ただ先に向け、

ふたりの耳に、いつか届かせんため。

 

 

ーーー

 

 

 

 

 

防音室を出るとき、紫音は一度だけ振り返った。

 

閉じかけた扉の隙間から、黒いピアノの縁と、暗くなったノートパソコンをぼんやりと眺める。

さっきまで画面に浮かんでいた文字たちの残像が、目の奥にまだ焼き付いていた。

 

リビングに戻ると、冬の薄い陽がレースカーテン越しに床を撫でていた。

さっき開けた窓から入った外気が、少しだけ家の匂いを変えている。埃と古い木の匂いに、かすかな冷気の匂いが混ざっていた。

 

テーブルの上には、掃除に使った雑巾と、まとめたゴミ袋。

優里はそれらを手際よく縛り、玄関脇に寄せる。紫音は、開けたままの引き出しを一つずつ確かめてから、静かに閉めていった。

 

キッチンの蛇口をひねり、水が止まっていることを確認する。

ガスの元栓を見て、ブレーカーを一つひとつ目で追う。

 

ダイニングテーブルの椅子を揃えたあと、紫音は椅子の背に触れた指先を、ほんの少しだけ止めた。

そこに、何か特別な記憶があるわけではない。

それでも、誰かの笑い声と食器の音が一瞬だけ重なったような気がして、指先が離れづらくなる。

 

「……帰ろうか」

 

小さく呟くように言って、紫音は視線を優里に向けた。

 

「……はい」

 

優里は、コートを手に取る。

玄関で二人並んで靴を履き、マフラーを巻き直す。

紫音のマフラーの端をそっと整えるのは、もうすっかり馴れた手付きだった。

 

紫音は、玄関の内側の壁に掛けられた小さなスイッチを押した。

廊下の照明がふっと落ち、家の奥が柔らかい闇に沈む。

 

最後に、ドアの横の靴箱の上に置かれた古い鍵のトレーに目を落とす。

そこには、もう使われていない合鍵がいくつか無造作に転がっていた。

 

紫音は、自分の鍵だけをポケットにしまい、玄関のドアノブに手をかける。

 

金属の冷たさが、掌に伝わる。

一度だけ深く息を吸ってから、ゆっくりとドアを引いた。

 

外気が、細い隙間から流れ込んでくる。

冬の空気の、刺すような冷たさと、少しだけ乾いた土の匂い。

 

二人が外に出ると、紫音は振り返って玄関の鍵をかけた。

錠前が噛み合う小さな音が、やけにくっきりと耳に残る。

 

鍵穴から指を離したあと、紫音は一歩だけ下がり、家全体を見上げた。

 

色あせた外壁。

二階の窓ガラスに映る、曇天の淡い光。

郵便受けから少しはみ出したチラシの端。

 

どこかで確かに、自分の時間の一部がここに沈殿しているのを感じる。

 

優里は、紫音の少し後ろに立ったまま、何も言わなかった。

ただ、横顔の呼吸のリズムと、マフラーの端が揺れる動きを、静かに目で追っていた。

 

やがて紫音は、小さく会釈をするみたいに頭を下げてから、家から身体を反らせるようにして歩き出した。

優里も、その隣に並ぶ。

 

家から駅へ続く道は、行きと同じはずなのに、少しだけ違う景色に見えた。

 

同じ電柱、同じ舗装のひび割れ、同じカーブミラー。

けれど、自分の足音と並んで、もう一つの足音が一定のリズムで刻まれている。

 

住宅街を抜けるころには、空の雲がわずかに薄くなっていた。

雲の向こうで、陽の位置がじりじりと動いているのが、光の加減で分かる。

 

歩道の端に残った落ち葉が、風に揺れて擦れる。

遠くで犬の鳴き声がして、すぐに静かになる。

 

紫音の左手は、コートのポケットの中で、無意識に薬指をなぞっていた。

冷えた指先に、金属の細い輪の感触が触れるたび、さっき画面に映っていた文字と、自分が打ち込んだ最後の数行が、ほんの少しだけ輪郭を取り戻す。

 

駅が近づくにつれ、車の音と人の気配が増えてくる。

 

コンビニの前に自転車が並び、店先には温かい飲み物の自販機が置かれている。

 

小さな踏切の遮断機が降りかけていて、警報音が短く鳴る。

電車が通り過ぎるまでのわずかな時間、二人は足を止めた。

 

線路の向こう側に、駅の小さなホームの屋根が見える。

待合のベンチには、学生らしき人影が一つ。マフラーに顔を半分埋めたまま、スマホの明かりを見つめていた。

 

遮断機が上がり、警報音が止まる。

信号の変わり目で、ふと風向きが変わった。

 

正面から吹いてきた風が、横から背中を押す風に変わる。

冷たさの中に、ごくわずかに、湿り気のようなものが混じった気がした。

 

冬が完全に終わるにはまだ早いはずの空気の中で、それでもどこか遠くで、次の季節が支度を始めていることを告げるような、そんな少しだけ暖かな風。

 

優里は肩にかけたショルダーバッグを少し持ち直し、紫音の歩幅に合わせて一歩ずつ進む。

肩と肩の間隔は、触れないぎりぎりの距離で、しかしどちらかが少しだけ足を止めれば、すぐに寄りかかれるくらいには近い。

 

駅前の階段を上る手前で、紫音は一瞬だけ空を見上げた。

 

重たげな雲の切れ目から、ごく薄い青がひとかけらだけ覗いている。

それは、今日の天気を劇的に変えるほどのものではないけれど、暗い色彩に新たな色を足したような、そんな空だ。

 

紫音は視線を戻し、駅の階段に足をかける。

 

世界のどこかで、まだ知らない誰かの朝が始まるように。

 

駅の方角から吹いてくる冷たい風の中に、

ほんの僅かに混じった、次の季節の気配を胸いっぱいに吸い込みながら、

寄り添うように、二人は並んで歩いていった。

 

冬ざれ、春の芽吹きを待ちわびる。

寒空に混ざる春の陽気は紫立つ空に。

幾星霜もせずに来たるは、繚乱の春。

 

次の春も、

きっとすぐ傍。

 

 

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