その日、紫音は、珍しく昼過ぎから配信をしていた。
薄暗い防音室の中、モニターの光が彼女の美しい横顔を浮かび上がらせる。
膝の上にキーボードとMIDIコン、傍らには見るからに高級そうなマイクがずらりと並んでいて、
画面の端には、チャット欄が途切れることなく流れている。
「……こんにちは」
定刻通り、淡々とした挨拶。
それだけで視聴者数のカウンターは一気に跳ね上がる。紫音は反応を特に気にした様子もなく、ピアノの前に座り、そうして当たり前のようにどんなピアニストですら追いすがれないような次元の演奏を始める。
いつもの光景――のはず、だったのだけれど。
今日の紫音の左手には、細い銀色のリングが光っていた。
鍵盤の上を滑るたびに、ライトを拾ってさりげなく輝くその指輪に、
チャット欄はすぐさま敏感に反応する。
『今日、指輪してる?』
『光ってるの何?』
『おしゃれアクセ?』
『左手の薬指……だと……?』
『えっ結婚してるの?????』
画面の右側があっという間にその話題で埋まっていく。
紫音は、しばらく気づかないふりのまま、適当にフレーズをいじり続けていたが、
やがて、ちらりと視線だけチャットに向けた。
「……指輪、そんなに気になる?」
問いかけた瞬間、コメントが一斉に「気になる」に染まる。
『初めて見た』
『常に付けてるタイプじゃないよね?』
『オシャ指?それともそういう?』
『そういう???』
紫音は、ほんの一瞬だけ指先を見下ろし、それからごく当たり前のような口調で言った。
「大切な人から、もらったから」
それだけ。
余計な装飾も、含みもない。
いつも通りの平板な声だったのに、チャット欄は一瞬で固まり、
次の瞬間爆発したように流れ始めた。
『大切な人!?』
『それって…どういう…』
『あの、その、大切の度合いを詳しく聞きたいんですが!?』
『さらっと爆弾投下しないで?』
『え、普通に泣いたが?』
紫音は、画面の端で暴れ回る文字列を横目に、気にした様子もなく思いついたように立ち上がる。
「……ちょっとだけ、音消す」
配信の音声をミュートにすると、防音室の扉を開けた。
そこから覗くリビングに、エプロン姿の優里がいた。
黒髪のロングストレート。
腰のあたりまでまっすぐに落ちる髪は、光の加減でほんの少しだけ青みを含んで見える。
前髪は目にかからない程度に揃えられていて、ぱっちりとした目元をきれいに縁取っている。
身長もそれなりにあるせいか、雰囲気はどこか「可愛いお姉さん」だ。
制服の上から付けたエプロンが、胸元のラインを柔らかく包み込んでいる。
華奢というより、女性らしいカーブがはっきりと分かる肉付きのいい体つきで、
エプロンの紐の結び目が、腰のくびれを遠慮なく主張していた。
ゆるく結んだポニーテールが、動くたびにふわりと揺れる。
鍋の様子を見ようと覗き込めば、胸元の布地がはち切れんばかりに膨らんでいるのが強調され、「お姉さん感」に拍車をかけていた。
「紫音さん? どうかしました?」
フライパンを振っていた手を止めて、優里が振り返る。
エプロンの裾には、さっき跳ねたらしいソースが小さくついていて、
それすら台所に立つ人間の生活感を補強していた。
「配信中じゃありませんでした?」
「してる。……優里、ちょっと来て」
「え、わたしですか? あの、今手が――」
言い終わる前に、紫音はずい、と近づいてきて、優里のエプロンの裾をちょん、と引っ張った。大いに悩み、結局、ギリギリのところで火だけを何とか止めて、弱々しい牽引に従うことにした。
「……紹介する」
「ちょっ、ちょっと待ってください!?」
防音室の近くまで、半ば引きずられるように連行される。
モニターの向こう側の視聴者数は、さっきまで以上に跳ね上がっていた。
紫音が、カメラの角度を少し上に向ける。
防音室の扉の隙間から、キッチンと優里の姿が画面に収まるように。
「さっきの指輪。くれた人」
「いや言わなくていいですから!!?」
優里が慌てて手を振る。
チャット欄は、わかりやすく爆発した。
『え!?めっちゃ可愛い子出てきた!?』
『でっっ……可愛い……』
『黒髪ロングのエプロンお姉さん……』
『シルエットが完全にお嫁さん』
『胸……』『でっっっっっっ……』
『ご飯係さんだ……ありがとうご飯係さん……』
コメントの流れが早すぎて読めなくなっていく中、
紫音は、当然のように優里の横まで歩いていった。
そして、画面の中で、優里のエプロンの端をつまんだまま、
彼女の脇にぴたりと身体を寄せる。
「……今日のご飯、何?」
「え、えっと……その、配信中なんで、あんまり近すぎない方が……」
「ん……?なんで?」
紫音が、きょとんと首をかしげる。
そのまま、優里の腕にこてん、と頭を預けた。
黒髪と銀灰色の髪が、カメラのフレームの中でふわりと交わる。
『距離感!!!』
『突然致死量のてぇてぇを浴びたが??』
『これは……』
『嫁……』
『完全に嫁……』
『やっぱり結婚指輪ってこと?』
暴走気味のコメントに、優里は顔から火が出そうだった。
「し、紫音さん、あの、カメラ…!配信、見てる人が……!」
「知ってる」
「いやあの、知ってるならもうちょっと恥じらいという概念をですね……」
ガクガクと震える声で抗議しながらも、
優里の手は、つい癖で、腰に柔らかく抱きつく紫音の頭に乗せられていた。
柔らかい髪を、そっと撫でる。
つい、いつものように撫でてしまう。
画面の中で、紫音の薬指のリングが、きらりと光った。
『ああああ頭なでてるあああ』
『えっこれ完全に結婚生活では?』
『夫婦??』
『結婚指輪で草』
『あ~これがKitchen Orbitの相手か~』
コメントは、もう止まらない。
優里は、ようやく自分が何をしているか自覚して、慌てて手を引っ込めた。
「っ、ご、ごめんなさい!つい……!」
謝る方向がおかしい。
けれど、もうパニックだった。
紫音は、撫でられた髪をくしゃりと指でなぞりながら画面を見つめる。
「……結婚指輪って、言われてる」
「ち、違いますからね!?」
「違うけど」
さらりと言い切ってから、ほんの少しだけ首をかしげる。
「でも、優里がくれたから、同じくらい大切」
淡々と告げられた一言に、チャット欄が一斉に阿鼻叫喚で埋まる。
『プロポーズ???』
『大切な人からもらった指輪を左薬指に付けてそれは結婚してると言っても過言ではない』
『籍入っててくれ。』
『ご飯作ってくれて指輪くれて頭なでてくれる人って世間では配偶者と言うのでは?』
優里は、エプロンの裾をぎゅっと握りしめる。
(やめて……そんな風に言われたら、本当に……)
胸の奥が、じわじわと熱くなっていく。
恥ずかしさと、くすぐったさと、そして――
(……嬉しい、って思っちゃう)
誰よりも近く紫音の食事を眺め、
誰よりも早く紫音の寝ぐせを見て、
誰よりも先に紫音の新曲を聴く。
そのうえで、今。
当の本人は世界中に向けて、「この指輪は大切な人からもらった」とか言っているんだ。
恥ずかしさで倒れそうになりながらも、
どこかで、とても冷静な声が囁いていた。
(配信の向こうにいる人達は、紫音さんを好きでいてくれる人達で。
その人達が、紫音さんとわたしを見て、「結婚指輪」とか「嫁」とか言ってる)
まるで、世界に向けて「名雪紫音の生活を支えているのは、この人です」と宣言されているみたいで。
その事実が、たまらなく甘美だった。
同時に、自分の心の重さも、はっきり突きつけられる。
(ああ、やっぱりわたし……思っていたよりずっと、紫音さんのこと、独り占めしたいんだな)
紫音の頭を撫でた自分の手のひらが、まだ熱い。
優里は、もう一度だけ紫音のリングを見て、
そっと視線を逸らした。
(……重いなぁ、わたし。自分でもちょっと引くくらい)
そう苦笑しながらも、その重さを手放す気は、さらさらなかった。
――だって、そうやって彼女の傍に居られることが、どうしようもなく幸せだったから。
―――
優里が紫音の家に泊まることになったのは、少しだけ現実的な事情のせいだった。
「――だから、今夜だけは、家に帰らないでって親から言われて」
紫音のソファに座りながら、優里は事情を説明した。
自宅の給湯器が故障して、急遽夜間工事が入ることになったらしい。
ついでに電気配線のチェックもするので、作業が終わるまで家の中には入らないようにとのこと。
「ビジネスホテル取るか、親戚の家に行くかって話だったんですけど……」
「うちに泊まって」
説明の途中で、紫音が即答した。
あまりにも何でもない提案みたいに言うから、
逆に、心臓の準備が追いつかなかった。
「と、とま……っ!? とま……」
「いやだった?」
「いえその、そういうわけじゃないんですけど……っ」
頭の中で、ものすごい勢いで何かが走り回る。
片想い中の相手の家に泊まる。
同じ屋根の下で夜を過ごす。
朝起きたら、隣に紫音が――
(落ち着け、落ち着け、落ち着け白百合優里)
自分で自分の肩を掴みたくなるのを我慢する。
ソファに座る。
テーブルの上には、二人分のコップ。
テレビはついていない。
間接照明だけが、柔らかく部屋を照らしている。
(……泊まり、かぁ)
現実感のない言葉を反芻する。
修学旅行とか、合宿とか、そういうのとは全然違う。
ただの二人きりの部屋。
ここが、紫音の「生活の場」だということを、改めて意識する。
そこに、今夜だけ、自分も混ざっている姿を想像する。
(……やばいなぁ)
妄想の暴走をどうにか抑え込んで、なるべく冷静を装い言葉を紡ぐ。
「……実はお母さんには、もう聞いてあります。紫音さんのところに泊めてもらうかもって」
「それで問題ない」
即答だった。
そのまま当然のように、押入れの方へ歩いていく。
「布団、二つ出す」
「あ、あ、わたし手伝います!」
慌てて追いかける。
リビングの一角に敷かれた二組の布団。
紫音は、いつものパーカーのまま、ごろりと転がった。
「紫音さん、パジャマは?」
「適当に着てる」
「適当って……。お金あるんだからちゃんとしたの買いましょうよ」
とは言いつつ、優里の方も、荷物の中から持ってきたジャージとTシャツを取り出す。
「……えっと、その。紫音さん」
「なに?」
「お風呂って、その……借りてもいいですか?」
聞きながら、我ながら何をいまさら、という気もする。
けれど、どうしても口にすると妙に照れくさかった。
「もちろん。使って」
紫音は本当に、「冷蔵庫開けていいよ」と同じテンションで頷いた。
「あ、でも先に紫音さんが使ってください。いつも通りの生活リズム崩しちゃうのも悪いですし」
「…最近、シャワーだけでちゃんと湯船に浸かってないから、気にしなくても…」
「じゃあ、なおさら先に入ってください」
軽くタオルを畳みながら促すと、紫音は控えめに頭を降った。
「優里が先、年下だし」
「なんですかその謎理論は」
割と平坦な胸を自慢げに張っている状態で、謎の理論を振りかざす様はどこか奇妙な可愛らしさと滑稽さがあって、特に否定する理由もなく優里は受け入れた。
「分かりました。じゃあ、下ごしらえだけ先にやって、わたしが先に入ります。そのあと紫音さんがゆっくり浸かってください」
「うん」
そう決めてしまえば、あとは段取りだ。
冷蔵庫から食材を出して、下味をつけて、火を通す前の状態まで整えてから、エプロンの紐をほどく。
「紫音さん、タオルお借りしてもいいですか?」
「その棚」
指さされた先には、新品のバスタオルが綺麗に積まれていた。
きちんと畳まれているのに、どこか使われずに眠っていた気配がある。
(もったいないなぁ……)
一枚をおそるおそる手に取る。
「このバスタオルと……フェイスタオルもお借りしますね。あと、シャンプーとかボディソープも、同じの使っていいですか?」
「うん。匂い、合わなかったらごめん」
「全然、大丈夫です」
むしろ、紫音の使っているものと同じ匂いに包まれるのだと思うと、胸の奥がすこしだけむず痒い、…はっきり言ってしまえばとても興奮している。
浴室の扉を開けると、ほんのりとした湿気と、シャンプーの甘い香りが漂ってくる。
タイル張りの床と、簡素だが広めの浴槽。
棚には、ほとんど減っていないボトルが数本。
(きっと、忙しくて、シャワーだけで済ませちゃう日が多いんだろうな)
そんな光景がありありと浮かんで、つい溜息が漏れた。
制服を脱いで、脱衣かごに丁寧に畳んで入れる。
鏡に、湯気で少し曇った自分の顔が映る。
頬が、普段より少し赤い。
(……落ち着けってば)
蛇口をひねると、柔らかい湯の音が浴室に広がる。
シャワーを浴びると、紫音のシャンプーの香りがふわりと立ち上った。
(これが、いつもの紫音さんの匂いなんだ……)
いつも、隣で鼻歌を聴いているときに感じていた、あの淡い甘さと同じで。
少しだけ目を閉じる。
――自分がいないときも、この浴室で同じ匂いに包まれて、
彼女は髪を洗って、湯船に浸かって、眠い目をこすりながらベッドに潜り込むのだろう。
その一連の生活の流れの中に、
今夜だけ、自分も混ざっているのだと思うと、
ちょっとだけ、世界に対して得をしている気分になる。
(……ダメだ。こういうこと考えるから、どんどん重くなるんだよ、わたし)
苦笑しながらも、全身を洗い終え、お湯に肩まで沈む。
少し熱めの温度が、今日一日の疲れと一緒に、胸のざわめきまで溶かしていくようだった。
十分に温まってから浴槽を出て、タオルで身体と髪を拭く。
借りたバスタオルはふかふかで、肌触りが良い。
(……このタオル、ファンからの差し入れとかだろうけど、紫音さんにもちゃんと使ってほしいな)
そんなことを思いながら、持ってきたTシャツとジャージに身を包む。
ドアを開けると、廊下に蒸気が少しだけ流れ出した。
「紫音さん、お風呂、どうぞ」
リビングから顔を出すと、ソファでタブレットを見ていた紫音が、ぱち、と瞬きをした。
「……濡れ髪」
「変じゃないですか?」
「きれい」
あまりにも迷いのない一言に、思わず足元がふらつきそうになる。
「お風呂、ちゃんと浸かってくださいね。肩まで」
「うん」
立ち上がった紫音に、着替えと一緒にタオルを一枚手渡す。
「これ、さっきわたしが使ったのとは別の、新しいやつです」
「同じのでよかったのに」
「ダメです。それはちょっと、いろんな意味で」
「……いろんな意味?」
きょとんと首をかしげられて、慌てて視線を逸らした。
(そこは深く突っ込まないでほしい……!)
紫音はタオルと着替えを抱えると、素直に浴室の方へ向かっていった。
「溺れないでくださいねー」
「溺れない」
最後まで声色が変わらないのが、かえって不安だった。
――数分後。
浴室の方から、シャワーの音と、湯舟にお湯が落ちる音が聞こえてくる。
その日常的な音に、どうしていいか分からないくらい胸がざわついて、
優里は、その気持ちをごまかすように、キッチンへ戻った。
火をつけ直して、下ごしらえを済ませておいた鍋に具材を投入する。
暖かなシチューの匂いが、じわじわと部屋に広がっていく。
(……同じ屋根の下で、お風呂に入ってて。わたしはキッチンで夕飯作ってて)
まるで、何年も一緒に暮らしてきた夫婦の夜みたいだ、とか、
そんなことを懲りずに思いついてしまって、慌てて頭を振る。
(本当に、考えることがいちいち重いなぁ、わたし)
自嘲と一緒に、木べらが鍋の底をなめる音だけが静かに鳴った。
やがて、浴室の音が止まり、
少し遅れて、廊下の床を踏む軽い足音が近づいてくる
風呂上がり、髪をタオルで拭きながらリビングに戻る紫音はだぶだぶのTシャツと短いパンツ姿になっていた。
大きめのTシャツが、その小さな身体をすっぽりと飲み込んで、余計に子供っぽく見える。
けれど、薬指のリングだけは、ちゃんとそこにあった。
「…なんか、変かな…?」
「す、すみません……!そういう訳じゃ……!」
視線を逸らした先に、今度は窓ガラスに自分の姿が映る。
黒髪を緩く一本にまとめた、自分。
Tシャツにジャージという、どう見ても色気のかけらもない格好のはずなのに、
濡れた前髪のせいで、やけに生々しく見える。
(……やっぱり、同棲してるみたいだなぁ)
思ってしまった瞬間、慌ててその言葉を頭の隅に蹴り飛ばす。
そんな妄想をしている暇があったら、まず夕飯を完成させなければならない。
「紫音さん、ご飯、もうすぐ出来ますよー」
キッチンに意識を戻して火を少しだけ強めると、シチューの表面が、ぽこぽこと小さく弾けた。
とろみのついた白いソースの中で、じゃがいもとにんじんと鶏肉が、湯気ごしに顔をのぞかせている。
「……いい匂い」
テーブルの方から、小さな感嘆の声がした。
振り向けば、紫音が袖口を指先でいじりながら、椅子にちょこんと座ってこちらを見ている。
「パンも焼いていいですか?」
「焼いて」
短く頷くその仕草が、なぜか少しだけ誇らしげで。
オーブントースターにバケットを並べながら、優里は胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。
テーブルにシチューとサラダとこんがり焼けたパンを並べると、
小さなダイニングが、ささやかなご馳走で埋まる。
「はい、お待たせしました。いただきます、しましょう」
「……いただきます」
二人分の声が重なる。
シチューの皿から立ち上る湯気が、照明に淡く溶けていく。
紫音はスプーンをひとすくいして、ふぅ、と短く息を吹きかけてから口に運んだ。
「……あつ」
「そんな勢いよくいかなくても」
「だって、絶対美味しいから」
眉をわずかに下げながらも、言葉には迷いがない。
二口目、三口目と、スプーンの往復が止まらない。
小さな手がパンを掴んで、シチューに沈める。
とろりとしたソースをまとったそれを、嬉しそうに頬張る横顔に、優里はつい見入ってしまった。
(……ほんとに、可愛いなぁ)
およそ年上に向ける感情とは思えない、庇護欲と、一般的な範疇を超えて重くなり続ける恋愛感情。
それを悟られまいとして、優里は自分の皿をすこし大きくかき混ぜた。
「今日のシチュー、どうですか?」
「今日も、美味しい」
「……嬉しいです」
さらりと言い切る声が、あまりにも自然で。当然のことのような断言の仕方で。
シチューと一緒に喉の奥に押し込めたつもりの感情が、またじわじわと浮かび上がってくる。
食後の皿を流しに運んでいると、背中の方から椅子のきしむ音がした。
「手伝う」
「大丈夫ですよ。紫音さんは、ゆっくりしててください」
「でも、泊まってもらってる」
「いやいや、わたしが泊まらせてもらってるんですよ?」
軽口を叩き合いながら、二人で食器を流しに運ぶ。
紫音にコップをゆっくり拭いてもらい、その横で優里が食器を洗剤で洗っていく。
水の音と、スポンジが皿をこする音。
いつもなら一人で聞いているはずの生活音が、今夜だけはふたり分になっていた。
(……こういうの、本当に暖かいなぁ…)
泡をすすぎ落としながら、ふとそんなことを思う。
シチューの残り香の混じるキッチンも、並んで立つ足元の影も、
一つ残らず記憶に刻みつけておきたかった。
片づけがひと段落すると、時計の針は思っていたよりも進んでいた。
「そろそろ、歯磨きして寝る準備しましょうか」
「うん」
洗面所で並んで歯を磨く。
鏡の中に、自分と紫音が横に並んで映っているのが、妙に気恥ずかしい。
泡をゆすいで顔を上げると、鏡の向こうで、紫音がじっとこちらを見ていた。
「……何かついてます?」
「ない。優里、眠そう」
「まぁ、学校帰りではあるので……」
(紫音さんのせいで、妙な意味で目は冴えてるけど)
飲み込んだ本音の代わりに、小さく肩をすくめる。
リビングに戻ると、さっき敷いておいた二組の布団が、ぽん、と白く並んでいた。
紫音は、さっきよりも少しだけ眠そうにして、その端に腰を下ろしている。
「電気、どうする?」
「天井の明かりは消して、スタンドだけつけましょうか。寝るときに消します」
「……うん」
優里は壁のスイッチをぱちんと押し、部屋の明るさを一段階落とした。
柔らかな橙色の光だけが残って、布団の輪郭を淡く照らす。
「じゃあ……そろそろ、寝ましょうか」
自分で言って、自分でどきりとする。
その言葉は、思っていた以上に一緒に暮らしている人同士の響きをしていて。
紫音は、小さく頷いてから、隣の布団の端をぽん、と軽く叩いた。
その仕草を見届けてから、優里もそっと、自分の布団の前に膝をつく。
布団に潜り込むと、紫音も、すぐ隣の布団にごそごそと入った。
天井の照明を消すと、間接照明の柔らかい光だけが残る。
「……寝れそう?」
「たぶん……」
嘘だ。
この心拍数で、まともに眠れる気がしない。
布団と布団の隙間は、拳1つ分もない。
横を向くだけで、相手の気配がすぐそこにある距離だ。
紫音の方を向かないように、必死で天井を見つめる。
「優里」
「……はい」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
「泊まるの、初めて?」
「……修学旅行以外では初めてです」
「楽しい?」
あまりにストレートな問いに、少しだけ笑ってしまう。
「……楽しいですよ。緊張もしてますけど」
「わたしも楽しい」
紫音は、淡々と告げる。
布団越しに、わずかな動きが伝わってくる。
「……優里と一緒に暮らしてるみたい」
そんなふうに言わないでほしい。
心臓が壊れるから。
「……わたしも、同じこと考えてました」
小さな声で、それだけ返す。
きっと同じこと。
含まれている内容物は、きっと少し違うけれど。
数秒の沈黙。
やがて、布団の隙間から、ひょい、と手が伸びてきた。
細い指先が、優里の指を探るように触れる。
「……手」
「っ……!」
握っていい?とは聞かず、ただ、そこにあることを確かめるみたいに、指が絡まってくる。
布団の中で、そっと握り返した。
それは、恋人同士の手の繋ぎ方、というには、あまりに控えめで。
けれど、友達同士がするには、少しだけ距離が近すぎた。
(……だめだ)
胸の奥で、小さく笑いたくなる。
(こんなの、新婚さんごっこみたいなものでしょって、自分でツッコミ入れながら、それでも嬉しいって思ってる時点で、もう重症なんだよね、わたし)
紫音の指は、すぐに力を抜いて、
それでも離れないまま、布団の隙間でぬくもりを共有し続けていた。
その夜、優里は何度も寝返りのふりをして、
隣の布団から聞こえる、規則的な寝息を確かめた。
柔らかな寝息と、あどけない寝顔に胸を撃ち抜かれることになった優里が、まともな眠りに落ちることが出来たのは日付が変わって2時間程度経ってからだった。
―――翌朝。
いつもより少し早めに目を覚まして、朝食を作る。
トーストとスクランブルエッグとサラダ。
普段の和食から少しだけ変えて、紫音の好きそうな洋風プレートにした。
「……いい匂い」
まだ寝ぼけ眼のまま椅子に座った紫音が、皿を眺めて呟く。
大きめのTシャツに、そのままパーカーを羽織っただけの格好。
髪はぼさぼさで、片方だけ跳ねている。
それなのに、薬指のリングだけは、きちんと光っていた。
「いただきます」
「どうぞ」
パンをちぎる小さな指先。
サラダを口に運ぶ仕草。
牛乳を飲んだあと、子供みたいに上唇に白い線がついているのも、いつも通りだ。
そんな何でもない朝の風景が、どうしようもなく愛おしい。
(……ほんと、新婚生活みたい)
思ってにんまりと笑顔を浮かべた瞬間、自分で自分にツッコミを入れたくなった。
(何考えてるの、わたし)
でも、こんなものを見せられてしまったら止められない。
穏やかな朝食を食べ終えて、食器を洗い終えたら、制服の上にカーディガンを羽織る。
鞄を持って、玄関へ向かった。
紫音は、その後ろをとてとてとついてくる。
「見送る」
ほんの少しだけ残念そうに、しかしどこか照れたように笑った。
スリッパのまま玄関の段差まで進んで、ドアのところで立ち止まる。
小さな身体に、少し大きめのパーカー。
パーカーの袖口から覗く手には、銀のリング。
寝ぐせを整えきれていない髪と、まだ眠たげな青い瞳。
その全部が、家で待っている相手の姿そのもので。
(……本気で、新婚生活じゃないですかこれ)
思わず、内心で頭を抱える。
「……じゃあ、行ってきます」
どうにかそれだけ言うと、紫音は、小さく頷いた。
「行ってらっしゃい」
それは、今まで何度も聞いてきたはずの言葉なのに、
玄関で、正面から言われると、まるで違って聞こえる。
ドアの向こうへ送り出す人の声。
帰ってくる場所に残る人の声。
紫音は、少しだけ腕を上げて、ぱたぱたと手を振った。
その仕草があまりにも可愛くて、胸が苦しくなる。
無防備にパーカーの前を開けたまま、
スリッパの先を揃えて、
小さな体で「行ってらっしゃい」と笑っている。
リビングの方からさっきまで食べていた朝食とまだ洗っていないマグカップの匂いが漂っている。
全部が、「ここが生活の場所です」と言っている。
自分で自分の重症具合に引きながらも、
もう、頭の中のブレーキはほとんど効いていなかった。
「……紫音さん」
「ん?」
ドアノブに手をかけかけて、思い直したかのように優里は、くるりと振り返る。
たった数歩。
その距離を戻るだけなのに、心臓の音は、走った後みたいにうるさかった。
(何やってんの、わたし)
頭のどこかで冷静なツッコミが飛ぶ。
でも、それよりも強く、身体が動いてしまった。
――気づけば、紫音を正面から抱きしめていた。
「……っ!?」
自分でも息を呑む。
腕の中に収まる身体は、やっぱり驚くほど軽くて。
でも、ちゃんと重さがあった。
パーカー越しに伝わる、あたたかさ。
胸の辺りに触れる控えめな柔らかさ。
指先にかかる、細い肩のライン。
(やった、どうするのこれ! ほんとに何やってんの、わたし!!)
頭の中は真っ白だ。
謝るべきか、言い訳を考えるべきか、それともこのまま時間を巻き戻したいと願うべきか。
どれもまとまらないまま、腕だけが紫音を抱きしめ続けている。
紫音は、一瞬だけ固まった。
けれど、すぐに、そっと腕を回し返してきた。
優里の背中に、小さな手が触れた。
ぎゅ、と。
弱いけれど、拒絶とは真逆の力で、抱きしめ返される。
「……優里」
耳元で、低く名前を呼ばれた。
息が、詰まりそうになる。
「行ってらっしゃい」
さっきと同じ言葉。
でも、その甘い声音は、優しい響き方は、
いつものそれよりも直接的な愛情が込められているような気がしてならなくて。
胸のすぐ近くで、紫音の心臓の音がする。
自分の心臓と、どちらが早いのか分からなくなるくらい、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
(だめだ。これ、本当に……)
抱きしめた腕をほどく勇気が出ない。
足りない。もっとずっと近い位置じゃないと。
たまらない。もっともっと紫音が欲しい。
紫音の額が、制服の胸元にこつんと触れている。
そのすぐそばで、彼女の心臓の音が、小さく、しかし確かに鳴っていた。
怖がっているような音ではない。
かといって、過剰に高ぶっているわけでもない。
ただ、「ここにいるよ」と静かに主張する音。
そのリズムが、自分の鼓動と、少しずつ同じテンポに揃っていく。
紫音は、優里の背中に回した手に、ほんの少しだけ力を込めた。
この瞬間だけ切り取れば、
誰がどう見ても、新婚夫婦の朝の一場面みたいで。
(ああ、もう……)
優里は、自分の中の何かが決定的に変わってしまったことを、うすうす悟っていた。
(わたし、ほんとに、紫音さんのこと……)
――好きすぎる。
抱きしめた腕を、ゆっくりと離す。
紫音は、抱き返していた腕をほどいて、
ほんの少しだけ名残惜しそうにぎゅっと指を握ってから、そっと離した。
薬指のリングが、その動きに合わせて、朝の光を小さく、柔らかく跳ね返していた。
「……行ってきます」
今度こそ、ちゃんとそう言って、ドアを開ける。
外の空気は、少し冷たかった。
でも、身体中に紫音の体温が残っている。
階段を降りながら、心の中で、ひとりごとのように呟く。
(ほんと、わたし、どこまで重くなるんだろ)
それでも――
(……その重さごと、引き受けてくれるような気がしちゃうから、ずるいんだよな、紫音さん)
足元の影が、朝日を受けて少しだけ伸びる。
抱きしめた腕のぬくもりも、薬指の銀色も、玄関に残る「行ってらっしゃい」の余韻も、どれも告白の言葉ひとつで簡単に名前がついてしまうのだろうに、わたしだけがその一語を喉の奥で噛みつぶしたまま、毎日をかき混ぜている。
報われずとも、こんなに幸せなのだから。