さすがにそろそろ頻度落ちます。
その日、紫音は朝からそわそわしていた。
いつもの大きめパーカーではなく、少しだけきちんとした襟付きのシャツに黒いパンツ。髪も気のせいかいつもより丁寧に梳かれていて、白銀にも見える艶毛はサラりと流れていた。
「……珍しいですね、その服」
トーストをかじりながら優里が言うと、紫音は淡々と答えた。
「今日は、外でレコーディングだから」
「レコーディング、ですか?」
「他のアーティストと弾くのと、アレンジの手伝いと」
「あ……なるほど」
言われてみれば、いつもより少し緊張した空気がある。
テーブルの端には、鍵盤入りのケースと譜面ファイル。その横に、小さなペットボトルと、タブレット。
紫音がパンをかじりながら、ちらりと指を見下ろす。
薬指のリングは、いつも通りそこにあった。
「帰り、遅くなるかも」
「そうですよね……スタジオって、拘束時間長いって聞きますし」
「でも、日付変わる前には帰る」
言ってから、小さく首をかしげ、まるで懇願するように、子供がねだるようにして言う。
「……待っててくれる?」
「え」
一拍遅れて、意味を理解する。
一瞬だけ視線をテーブルの端に落としてから、紫音はごく小さく足先を揺らした。
椅子の下で、ぺたんと床に触れているつま先が、こつ、こつ、と無意識みたいなリズムで上下する。
膝の上に置かれた片手は、シャツの裾をきゅっとつまんでいて、もう片方の指先は、さっきから何度もリングの縁をなぞっている。
顔は相変わらず無表情に近いのに、耳の先だけ、うっすら赤い。
いつもは真っ直ぐこちらを見てくる青い瞳が、今日はほんの少しだけ、視線の置きどころに迷っている。
優里の顔を見そうになってはリングに逃げ、リングを見ているうちに、またそっと優里の方へと戻ってくる。
その仕草の一つひとつが、置いていかないでと玄関に座り込む子犬みたいで、理性に悪い。
(ずるいなぁ、ほんとに)
お願いなんて言葉はひとつも口にしていないのに、それよりずっと直接的なねだりが、指先から足元まで、全身からこぼれている気がして。
こんな顔と仕草で「待ってて」と言われて、断れる人間がこの世にいるものだろうか、などと、くだらないことを真剣に考えてしまう。
胸の奥で、きゅう、と何かが縮む音がした。
「あの、…あんまりわたしの理性を削らないでもらえます?」
抗議の声を上げながらも、胸の奥が、くすぐったくて仕方ない。
「待ってますから、どれくらい長くてもいいですから、ちゃんと帰ってきてくださいね」
「……うん」
「わたし、今日の夕飯、帰ってきてから温めなおせるようにしておきますから」
紫音は、いつもよりすこしだけ長くリングを見つめ、それから立ち上がった。
玄関で靴を履きながら、振り返る。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい、紫音さん。気をつけて」
ぱたぱたと小さく手を振って、紫音は扉の向こうへ消えた。
ーーその瞬間。
部屋から、音がひとつ、するりと抜け落ちた気がした。
静かだ。
エアコンの送風音と、冷蔵庫のかすかな唸り声だけ。
いつもなら、防音室から小さく漏れてくるピアノの音とか、鼻歌とか、椅子のきしむ音とか。
紫音が「そこにいる」と分かる物音が、どれか一つはしていたはずなのに。
「……行こ」
制服のリボンを結び直しながら、優里は靴を履いた。
学校までの道を歩きながらも、妙な違和感が胸のあたりにずっと残っている。
ーー授業中。
(スマホ、机に出しておくのはまずいよね……)
そう思って、かばんの中にしまったはずなのに。
休み時間になるたび、無意識のように、かばんの口に手が伸びる。
着信も、通知もない。
画面には、今朝「行ってきます」に返すみたいに送った「いってらっしゃい、がんばってくださいね」のメッセージだけが残っている。
(別に、返事がほしいわけじゃ……いや、欲しいけど……)
そんな自己弁護を頭の中で繰り返しながら、金属みたいに冷たいスマホを握りしめる。
教室の騒がしさの中で、紫音のいない静かな部屋を想像してしまう。
(いつもは、わたしが学校に行ってる間も、あの部屋で紫音さんが仕事してるんだよな)
そう思った途端、よく知っている音が次々頭の中に流れ込んでくる。
タブレットをなぞる指の音。
鍵盤を軽く試しに叩く音。
コーヒーカップがソーサーに触れる小さな音。
そして、自分の作ったスープの鍋をかき混ぜる音。
授業の前の一瞬で、ふと我に返る。
(わたし、もしかしてーー)
スマホの画面を伏せながら、胸の奥で苦笑する。
(……依存しすぎなんじゃないかな)
連絡を催促したいとか、そういうのではない。
ただただ、紫音が居るところに帰る、という行為が、自分の中で想像を遥かに超える意味を持ってしまっていた。それも自分では全く気付かぬうちに。
帰れば、玄関にスリッパがあって。
防音室のドアの隙間から、いつだって何かしらの音楽が漏れていて。
キッチンには、紫音の甘い匂いと、自分の作った夕飯の匂いが混ざっている。
それが全部「当たり前」になっていた。
(……いない一日って、こんなに落ち着かないんだ)
自分の当たり前の中に、いつの間にか紫音が深く入り込みすぎていることを、嫌でも思い知らされる。
ーー夕方。
部活を早めに切り上げて、いつもより少し急ぎ足で紫音のマンションへ向かう。
玄関の鍵を開けて中に入ると、部屋はやっぱり静かだった。
「……ただいま戻りましたー」
一応声をかけてみる。
返事はない。
当たり前だ。今日は誰もいない。
靴を揃えながら、苦笑する。
エプロンをつけて、冷蔵庫を開ける。
朝のうちにある程度下ごしらえしておいたデミグラスの鍋が、ひっそりと佇んでいた。
「……よし」
鍋を火にかけ、軽くかき混ぜる。
やることはいつも通り。
肉の火のとおり具合を確かめて、味を見て、塩で調える。
でも、ふとした瞬間に、今この瞬間、防音室は真っ暗なんだという事実が頭をよぎる。
(はー……)
小さく息を吐いて、リビングのソファに座った。
テーブルの上には、紫音のタブレットが置きっぱなしになっている。
電源は落とされていて、黒い画面が部屋を映しているだけ。
(今日の現場、うまくいってるといいなぁ……)
そう思いながら、スマホを手に取る。
『今日のご飯、煮込みハンバーグです。温め直すので、遅くなっても大丈夫ですよ』
送信してから、「重いかな」と少しだけ眉を寄せる。
でも、もう送ってしまったものは戻せない。
既読がつく気配はない。きっと今、スタジオの中なのだろう。
ソースの匂いが部屋に広がる。
紫音のいない部屋で一人、その匂いを嗅いでいると、妙な寂しさがじわじわと胸に染みてくる。
「……早く、帰ってこないかな」
口に出してしまってから、「ああやっぱり依存してるなぁ」と苦笑するしかない。
ーー夜。
時計の針が、10時を少し過ぎたころ。
玄関の鍵が、かちゃ、と小さな音を立てた。
「……!」
反射的にソファから立ち上がる。
扉が開いて、冷たい外気が一瞬流れ込み、すぐに暖房の空気に飲み込まれる。
その境目に、小さな影が現れた。
「……ただいま」
紫音だった。
いつものパーカーではなく、朝のままのシャツにジャケット。
髪は少し乱れていて、肩は目に見えて落ちている。
でも、その薬指には、ちゃんと銀色が光っていた。
「おかえりなさい、紫音さん」
言いながら、自分でも驚くくらい自然に笑えていることに気づく。
(……ああ、わたし。これが言いたかったんだ。……ずっと)
一日中、胸の奥に溜まり続けていた言葉が、ようやく口から出た。
紫音は、靴を脱ぎながら、ほんの少しだけ顔を上げる。
「……ただいま、優里」
その一言に、全身の力が抜けそうになった。
さっきまで肩にまとわりついていた外気の冷たさが、その一言でふっと溶けていく。
玄関マットの上で揃えられた靴のつま先が、ほんのわずか内側に向いていて、片手は壁に手をつき、もう片方はショルダーバッグのストラップをぎゅっと握りしめていて、その指の根元で、銀色のリングが小さく、頼りなく光っていた。
ジャケットの裾が少しだけ乱れているのに、それを気にする余裕もなさそうに、紫音は入口に立ち尽くしている。わずかに下がっていた肩が、優里という名前を口にした瞬間だけ、ほっと緩んだ。
その刹那、胸の奥から長く吐き出された息が、白く見えた気がした。
安心したみたいに、ふわりと微笑む姿。
たったそれだけで、日常の輪郭が一気に戻ってくる。
防音室にはまだ灯りがついていないのに、紫音がそこにいるだけで、ピアノの残像みたいな音が、空気の中に戻ってくるようで。
「疲れました?」
「ちょっと……。でも、楽しかった」
ジャケットを脱ぎながら、ふらふらとソファに倒れ込む。
その光景が、苦しいほどに嬉しい。
帰ってきてくれたことがこんなに嬉しいのだと、本人に知られたくなくて、胸がぐらぐらと震えた気がした。
「鍋、温めていいですか?」
「うん」
「パンも焼きますね」
「……今日一日、あんまりちゃんと食べてない」
「それは予想してました」
苦笑しながら、キッチンへ向かう。
鍋を火にかけると、朝とは違う、少し深まったデミグラスの匂いが立ち上る。
それだけで、部屋の「空っぽだった感じ」が、少しずつ埋まっていくようだった。
テーブルにハンバーグとパンを並べると、紫音はゆっくりと身体を起こした。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べて、紫音は小さく息を吐く。
「……帰ってきた感じがする」
「ふふっ…ご飯でですか?」
「優里で」
さらりと言われて、フォークを持つ手が止まりかける。
喉の奥がきゅっと詰まる。
何でもないみたいな声音で、とんでもないことを言うのはやめてほしい、と心のどこかで思うのに、口がうまく動かない。
「……変な顔してる」
紫音が、少しだけ首を傾げてこちらを見る。
「へ、変じゃないです……。ただその、急にそういうこと言われると……心臓に悪いだけで……」
耳のあたりがじんじん熱い。
視線を逸らして自分の皿を見つめると、隣で紫音は本当に何でもない顔で、二口目のハンバーグを口に運んでいた。
「事実、言っただけ」
「そういう事実は、もう少し優しく小出しにしてもらえると助かるんですけど……」
「ん?」
心底不思議そうに瞬きをするその様子が、また一段階、優里の理性を削っていく。
(ほんとに、本人は全然自覚ないんだよなぁ……)
胸の中で、甘い悲鳴みたいな溜息をひとつつく。
(ーーでも、依存してるの、わたしだけじゃないのかもしれない)
そう思った瞬間、昼間の自嘲が、少しだけ和らいだ。
当たり前だと思っていたものを、一度失ってみて初めて、その重さを知る。それはありがちで、でも的を射た真理だ。
今日一日、「いない」部屋を味わったからこそ。
今「おかえりなさい」と「ただいま」が交わるこの瞬間が、日常に決して紛れない宝石みたいに思えた。
優里は、ソースを鍋からもう一杯よそいながら、胸の奥でそっと呟く。
(……やっぱり、ここで紫音さんの傍に居る時間が、いちばん好きだな)
そう気づいてしまう自分の依存すらも、どうしようもなく愛おしかった。
ーーー
小さな騒ぎが起きたのは、その数日後のことだった。
「……優里」
リビングで食器を片づけていたところに、浴室の方から、小さな声が飛んできた。
「はい?」
「リング、見なかった?」
「え?」
振り向くと、扉のところに紫音が立っていた。
濡れた髪からまだ水滴が落ちていて、肩にかけたバスタオルの端が少しずれている。
その左手、ーー薬指は、からっぽだった。
「あれ……?」
胸がひやりと冷える。
「シャワー中、ずっとつけてたんじゃないんですか?」
「最近、外すようにしてた。泡が溜まると、手が気持ち悪くなるから」
「それは分かりますけど……」
「で、さっき外そうとして、たぶん……洗面台の上に置いた」
そこで言葉が途切れる。
「今、見たら、なかった」
紫音の声が、いつもよりほんの少しだけ、低く揺れた。
優里の背中を、冷たい汗がつう、と伝う。
「と、とりあえず、落ち着きましょう。絶対ここから外には出てないはずですから」
自分に言い聞かせるみたいにそう言って、キッチン用の小さな懐中電灯を引き出しから取り出した。
「まず洗面所ですね。排水口のところとか」
「流れていったら、どうなる?」
「それを今考えるとわたしの心が死にます」
半分本気の声で返しながら、洗面所へ向かう。
洗面ボウルの縁、蛇口の根元、石鹸置きの下。
排水口のフタを外して、髪の毛やら何やらを慎重に取り除いてみる。
まるで宝探しみたいに、辺りを何度も懐中電灯で覗き込む。
銀色の影は、ない。
「……ないですね」
「ない」
紫音の声が、私の声に共鳴するようにさっきよりさらに小さくなる。
(いや、逆に落ち込ませちゃってどうする)
優里は、深呼吸をひとつして、頭を切り替えた。
「リビングに持ってきた可能性は?」
「……ある。シャワーの前に、一度ソファに座った」
「そこですね」
二人でリビングに移動する。
ソファの隙間、クッションの裏。
テーブルの下、ラグの端。
紫音が座っていた場所を中心に、ありとあらゆる「落ちそうなところ」を探す。
普段は彼女の可愛らしさの象徴たる、だらしないコードと譜面の山が、この瞬間ばかりは恨めしい。
「……ここも、ないです」
「ない」
紫音は、ソファの背にもたれかかるように座り込んだ。
普段なら「まあいいか」と言ってしまいそうな場面なのに、
今の紫音は、珍しく、姿勢が崩れたまま固まっている。
「……ごめん」
「謝るのはまだ早いです。見つかってからでも遅くないです」
「でも」
紫音は、左手の薬指を、そっと親指でなぞった。
「優里…」
その弱々しい一言が、想像以上に重く響いてきて、優里は一瞬何も言えなくなった。
(ああ、ちゃんと……紫音さんの中で、意味のあるモノになってたんだ)
ただの指輪が大事なのではなく、優里から貰った指輪だから大事なモノで、だからこそ今の紫音を動揺させているのだと分かる。
「もう一回、洗面所見てきます」
「一緒に行く」
二人でまた洗面所へ戻る。
今度は視線の高さを変えて、棚の隙間や、タオル掛けの上まで全部見る。
ふと、鏡の下の小さな棚の端に、何かがきらりと光った。
「……あ」
指先でそっとつまみ上げる。
こんなところにあったのに、あんなに血眼になって探した時はなんで気づかなかったのだろうか。
細い銀色の輪が、掌の上で、いつも通り、そこにあった。
「見つかりました……!」
思わず声が上ずる。
紫音が、弾かれたように顔を上げた。
「……ほんと?」
「ほんとです。ここです」
掌を開いて見せると、紫音は一歩、二歩と近づいてきた。
「……よかっ……た……」
声が、途切れ途切れになる。
普段、どんなトラブルにも表情をあまり崩さない彼女が、
今は明らかに安心した顔をしていた。
心底ほっとしたように、長く息を吐く。
紫音は、濡れた髪をそのままに、左手を胸の前でぎゅっと握った。
「ほんとうに……!」
その言葉に、優里の心臓が一瞬でかき乱される。
(やめて……それ、そんな顔で言わないで)
泣きそうなのを堪えているみたいに揺れる瞳。
普段は音楽以外のものにここまで感情を乗せない人が、
今、目の前で、指輪一つにここまで動揺している。
胸の奥で、何かがぎゅう、と歪んだ。
(そんな顔、見せてくれるんだ)
独占欲にも似た感情が、鋭く顔を出す。
そしてそれを満たさんとする、悪戯心とも言える感情が我慢できなくなる。
「……紫音さん」
「なに」
「そのまま、じっとしててください」
リングを指先でつまみ直す。
彼女の左手を、愛おしそうにそっと取る。
それから、
薬指にゆっくりとリングを通した。
指先が、わずかに震えた。
濡れた肌の温度と、金属のひやりとした感触が、指越しに同時に伝わってくる。
指の第1関節を越えていく瞬間、紫音のまつげがふるりと揺れた。
視線は、優里の手元に釘付けになったまま動かない。
(……これ、完全に、そういうやつじゃないですか)
頭のどこかで、冷静な自分がツッコミを入れる。
距離が近い。
息をすれば、紫音の吐息が頬にかかる。
その全てを取り込んでしまいたくて、だから、ゆっくりと慎重に指輪を動かした。
指を支えたままの自分の手のひらの中で、彼女の脈が、とくん、とくん、と小さく跳ねる。
あと数センチ顔を近づければ、キスできてしまいそうな距離。
そんなありえないくらい特別な距離の中で、自分は今、彼女の薬指に指輪を嵌めている。貴女はわたしのモノだと宣するように。
(こんなの、どう見たって、そういう意味にしか見えないのに……)
それでも紫音は、「やめて」とは言わない。
抵抗どころか、むしろ受け入れるみたいに指先にわずかに力を入れて、優里の指の動きを受け止めている。
最後に、リングが根元まで「コトン」と収まった感触がした。
最初に渡した日と同じように、
ただ、あの日よりずっとゆっくりと、慎重に。
「……はい、ただいま、ですね」
熱を吐き出す照れ隠しのような声と一緒に指輪が本来の居場所に戻る。
紫音は、自分の指を見下ろす。
銀色が、濡れた肌の上で、小さく光った。
「……うん」
ほんの少し、声が震えている。
「帰ってきた」
リングをつけた指を、光にかざす。
今度は、最初に受け取ったときよりも、少しだけ慎重に指を握り締めているのが分かった。
「よかった……」
紫音は、小さく笑って、そして何の前触れもなく、優里に抱きついてきた。
「わっ」
湿った髪が肩口に当たる。
タオルから、シャンプーの甘い匂いが広がる。
細い腕が、優里の背中に回る。
さっきまでの不安と安堵を全部ぶつけるみたいに、ぎゅっと。
「なくなったら、やだった」
胸元で小さく繰り返す声に、優里は、ひどく乱暴に心を掴まれた気がした。
(……こんなの、独り占めしたくなるに決まってるじゃないですか)
胸の中でだけ、そっと叫ぶ。
優里は、抱きついてきた身体を、ゆっくりと抱き返した。
「もうなくさないでくださいね」
「なくさない。……なるべく」
「なるべくってつけるのやめてもらえます?」
「わたしの生活能力が、信用できない」
「そこは自覚あるんですね」
思わず笑いながらも、腕に込める力だけは緩めず、寧ろ強く、強く抱きしめる。紫音の小さく柔らかな身体を逃がさないように強く。
風呂あがりの、濡れた髪のまま。
距離は、息が触れ合うほどの距離ですら足りず、強く抱きしめる。
恋人でも、家族でもない。
どこにも正式な名前のついていない関係のくせに、
こうして勝手に、二人だけの印を薬指に刻み込んでしまっている。
それも、割と一方的に。
それは世界に向けての宣言でもなければ、誰かに見せつけるための証明でもなくて、
ただ、二人のあいだだけで通じる暗号みたいな小さな輪っかに、
「ここにいて」「ここに戻ってきて」というそれぞれの願いごと、そっと押し込めただけのモノ。
名前をつけてしまえば、きっと何かが変わってしまう。
だから「恋人」だとか「夫婦」だとか、そういう言葉は、まだ喉の奥で丸めたまま飲み込んでおく。
けれどーー
(少なくとも、わたしの中ではもうとっくに、そういう感情になっちゃってるんだよな)
抱きしめた腕の中で、小さな心臓の鼓動が、薄い布越しにはっきりと伝わる。
この温度ごと手放したくない、と願ってしまった時点で、
どんなきれいな言い訳を並べても、きっと手遅れなことには違いなく、
わかるのはただ、天使の薬指で優しく光るリングが、二人の間の距離を、いつもより近づけてくれたという事だけだ。
ーーー
雪が降ったのは、その週の終わりのことだった。
朝、学校前に紫音の家に寄り、いつも通り彼女の寝顔を30分程度堪能してから起こし、
それから、朝を告げるようにカーテンを開けた瞬間、優里は思わず息を呑んだ。
「……わぁ」
窓の外、一面の白。
アスファルトも、街路樹も、駐車場の車も、ぜんぶ薄く雪の毛布をかぶっている。
静かだ。
降り続く雪が、世界の音を全部柔らかく包んでいるみたいだった。
「優里?」
寝ぼけ眼のまま紫音が顔を出す。
「雪、積もってますよ。結構しっかりと」
窓の外を指さすと、紫音はぱちぱちと瞬きをして、それから小さく呟いた。
「……冷たそう」
「すごい一般的な感想ですね」
そんなやり取りをしながらも、ニュースアプリを開くと、案の定「路面凍結」「電車遅延」の文字が並んでいる。
(これは、あんまり外出ない方がいいやつだな……)
気づけば学校からも「始業を遅らせる」連絡が来ていた。
この調子だと、恐らく今日は1日休みかもしれない。
紫音の方を振り返ると、彼女は布団を頭までかぶって、寒いし今日は眠り直させてもらう、と言わんばかりに再び潜り込もうとしていた。
「紫音さん」
「なに」
「今日は学校帰りに買い出しに行こうと思ってたんですけど、やめた方がよさそうですね」
「うん、危険」
「となると、あるもので何とかしなくちゃですね」
冷蔵庫とパントリーの総力戦だ。
エプロンを結びながら、冷蔵庫を開ける。
中にあるのはーー
少し萎びかけた白菜。
半分だけ残っている人参。
しめじがひと袋。
鶏もも肉が少しと、冷凍庫にはうどんがいくつか。
卵が三つ。
パントリーを開ければ、ストックのコンソメとだしパック、缶詰のツナとトマト缶。
「……うん。いけます」
思わず、ひとりごとのように呟く。
「なにが?」
「鍋です。なんちゃって寄せ鍋というか、あるもので鍋です」
「あるもので鍋」
「はい、まぁ任せてください」
土鍋を取り出し、水とだしパックを入れて火にかける。
白菜の硬い芯から先に煮て、人参を薄く切って、しめじをばらして。
鶏肉は一口大に切って、残りは塩を振っておく。
冷凍うどんは、残った肉と一緒に夕飯用に。
調味料は、醤油、みりん、酒、少しだけ塩。
コンソメをほんの少し足して、和風と洋風の間みたいなスープにする。
こういう「限られた材料で何とかする」のは、妙に楽しい。
(……実家でも、よくやってたなぁ)
給料日前の、なんでも鍋。
母があるもので何とかするのを、横で手伝っていた。
今、自分はこうして紫音の家で、同じことをしている。
それを思うと、胸の奥が少し、くすぐったくなる。
「……いい匂い」
いつの間にかリビングから紫音が椅子を引きずってきて、キッチンの入口に座っていた。
パーカーの上からブランケットをくるりと巻きつけて、足元には毛糸のルームソックス。
完全防寒モードに入った小さな王様だ。
その姿は、恐ろしい程に愛くるしい。
「鍋?」
「鍋です。冷蔵庫救済鍋です」
「名前が、庶民臭いね」
「庶民をバカにしちゃだめですよ?」
「尊敬してる。生活力を交換してほしい」
「それはお断りします」
土鍋をテーブルの中心に置いて、卓上コンロに火を灯す。
ふつふつと、小さな泡が鍋のふちをなぞり始める。
「はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
「いただきます」
二人で鍋をつつく。
白菜の甘さと、鶏肉の旨味。
きのこの香りと、スープに溶けた卵。
本格的な寄せ鍋じゃないけれど、
あるもので何とかしました感が、逆に暖かい。
「……美味しい」
紫音は、スプーンではなく、小さなレンゲでスープをすくいながら呟いた。
「なんで、こんな味になるの?」
「経験ですよ」
「さすが、優里」
鍋の湯気が二人の顔を柔らかく曇らせる。
窓の外では、まだ雪がしんしんと降り続いていた。
紫音が、ふと鍋の縁に肘をついて、外を眺める。
「……雪の日は、音がない」
「たしかに、静かですよね」
「でも今、この部屋には、鍋の音と、優里の音がある」
「暖かい、ね?」
らしくなくふにゃりと微笑んで、
いつもの調子で、さらりと言う。
スープをひとくち飲むたび、肩が小さく上下して、ブランケットの端がふわりと揺れる。
窓の外の雪景色を眺めてから、また土鍋へと視線を落とすまでの、その一連の動きが、ひどく可愛らしい。
(ああもう、こんなの見せられたら)
雪の日の静けさと、部屋の温度と、紫音の吐く息と、「暖かい」という言葉が、全部まとめて、優里の中のどろりとした重たい感情を撹拌していく。
外の音がすべて雪に吸い込まれてしまっても、この小さな鍋の音と、紫音の仕草の一つひとつだけは、自分だけのものみたいにここに残り続けている。その事実が、心地よい罪悪感みたいに胸の裏側を撫でていった。
鍋を一緒につつきながら、生活の音を語る天才。
その指には、今日も銀色のリングがよく光る。
(……寧ろ、買い出し行けなくてよかったかもな)
外に出られないからこそ、ここだけが世界みたいに閉じている。
鍋の湯気と、紫音の匂いと、暖房の空気が混ざったこの空間は、
優里と紫音の2人だけが過ごす小さな世界は、
外の白い静けさとはまったく別の、柔らかい匂いで満ちていた。
雪が溶けてしまっても、外の景色がいつもの灰色に戻ってしまっても。
きっとこの部屋には、しばらくのあいだ、今日の鍋の匂いと、暖房で少し乾いた空気の匂いが、柔らかく残り続ける。
独占欲にまみれた願いを、胸の奥でそっと抱きしめて、そしてすぐに、自分で自分を訂正する。
その風花すら堅雪としてしまうほどの柔らかい笑顔を見て、単純なことを思い出したから。
長々しい叙述も、華々しい形容も、きっと要らない。
シンプルに言い直してみれば、答えはいつだってひとつだけ。
ーー好きだ。
独り占めしたいくらいに、ただ、好きだ。