天才ロリ(合法)と一般JKの百合   作:( 눈_눈)

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試験、看病

 

期末テスト一週間前の午後、紫音の部屋のテーブルの上は、いつもの譜面やオーディオインターフェースではなく、優里が持ち込んだ教科書とノートと問題集で埋まっていた。

 

「……うぅ、試験やだなぁ…」

 

数学に世界史に地学やら化学やら、

参考書の背表紙がずらりと並んだ光景を見て、優里は思わず小さく呻く。

 

紫音は、いつものパーカーの上からカーディガンを羽織り、椅子に膝を抱えて座っていた。

見慣れた姿勢のはずなのに、暇つぶしのように問題集をパラパラとめくる姿は新鮮で可愛らしい。

テーブルの端には、タブレットではなく、優里の試験範囲表が並んでいる。

 

授業で使ったプリントと問題集を交互に眺めていた紫音は、突然顔を上げて遠慮がちに口を開いた。

 

「……ねぇ」

 

「…どうしました?」

 

紫音の指先が、迷いなく問題集のページをめくる。

 

「これと、これと、…あとこれ、出そう」

 

「……なんで分かるんですか」

 

「授業プリントの出題傾向」

 

さらっと言われて、優里は肩を落とした。

 

(あぁ…やっぱりそうかぁ、紫音さんはそっち側だよねぇ……)

 

紫音は、教科書をぱらぱらと一度通し見ただけで、試しに解いてもらった小テストで軽々と満点を叩き出した。

授業を欠席しても、課題を出し忘れても、結果だけはちゃんとついてくるタイプだ。

 

「とりあえず、この大問、一通り解いてみた方がいい」

 

「はい……」

 

問題集をくるりと回され、優里はシャーペンを握り直した。

 

「時間は、10分くらいかな」

 

「…タイムアタック方式なんですか」

 

「本番も、時間ないでしょ?」

 

「ないです」

 

即答した自分が悲しい。

 

紫音は、タイマーアプリを静かに起動すると、そのまま隣の椅子に座り直した。

膝にノートPC、横には小さなMIDIキーボード。

ちらりと画面を覗けば、新規プロジェクトのウインドウが開かれている。

 

「……紫音さんも仕事、いいんですよ?」

 

「うん。どうせなら、隣で作業する」

 

さらりと言われて、言葉に詰まる。

 

(普段わたしがご飯や生活を管理してるぶん……今日は完全に立場逆転だなぁ)

 

そう苦笑しながらも、優里は問題集に向き直った。

 

隣では、紫音の指先がキーボードの上を軽やかに走る。

マウスホイールを回す音、ピアノロールを打ち込む打鍵音。

そして、極小さな音量で流れるシンセのアルペジオ。

 

彼女の作る音と、自分のシャーペンの走る音。

 

同じテーブルの上で、まったく違う種類の集中が並んでいる。

 

「……詰まった?」

 

五分ほど経ったところで、ぼそっと問われる。

 

「…バレました?」

 

「書く音でわかる」

 

音楽家らしい気づき方に小さく感嘆しつつ、優里は素直に白状した。

 

「この三番、途中までは分かるんですけど、最後の処理がぐちゃぐちゃになっちゃって……」

 

「見せて」

 

すっとノートを引き寄せ、紫音は数式をさらっと眺める。

 

「ここまでは合ってる。で、この変形が、ちょっと遠回り」

 

「遠回り?…えと、」

 

「こう」

 

シャーペンを取り上げると、最短距離の解法を、ためらいなく書き込んでいく。

定義からちゃんと書き始めるあたりが、妙に真面目で、そしてたった数行で、きれいに答えに辿り着いてしまう。

 

「…なんでそんなに多才なんですか……」

 

「音楽と一緒、だよ」

 

「一緒?……ですか?」

 

「頭の中にゴールが先にあって、途中を埋める感じ」

 

脳の構造が根本的に違うことをさらりと告げられて、優里は苦笑する。

 

(ほんと、かっこいいなぁ……)

 

試験前の切羽詰まった状況で、かっこいいだの可愛いだの思っている場合ではないと分かってはいるが、感情は遠慮なく仕事をする。

 

「もう一回、自分でやってみて」

 

「はい」

 

「今度できたら、ご褒美」

 

「ご褒美?」

 

つい、条件反射で聞き返してしまう。

紫音は、何でもない声音で言った。

 

「頭、撫でてあげる」

 

「……それ、わたしの集中力に良くないタイプのご褒美だと思うんですけど」

 

「あんまり、欲しくなかった?」

 

「いや欲しいです」

 

思わず即答してしまった。

聞いていた紫音の目尻が、ほんの少しだけ緩む。

 

「じゃあ、頑張って」

 

再びタイマーの数字が動き始める。

優里は、さっき教えられた手順を思い出しながら、もう一度同じ問題に向かった。

 

ゴールの音が先にある、という感覚は分からない。

でも、紫音が書いてくれた数式の流れは、見ていてわかる程には確かに美しかった。

その美しさを思い出して、何とかしてなぞるみたいに、鉛筆を走らせる。

 

「……できました」

 

二回目は、十分もかからなかった。

 

ノートを差し出すと、紫音はぱらりと目を通す。

 

「うん。正解」

 

そして、予告通り、優里の頭にそっと手を伸ばした。

指先が、前髪をかき分けるようにゆっくりと撫でる。

 

「……よくできました」

 

「う、うぅ……」

 

嬉しさと恥ずかしさと、試験前の緊張がごちゃごちゃに混ざって、変な声が漏れた。

 

紫音の手が離れても、頭のてっぺんに残った感触がじんわりと熱を保っている。

 

「……じゃあ、次」

 

「次?」

 

まだ撫でられた余韻でふわふわしている頭では、とても勉強モードに戻れそうにない。

そんな優里の動揺などお構いなしに、紫音は新しいページを開いた。

 

「さっきより、ちょっとだけ難しいの。これ、全部一人で解けたらーー」

 

そこで、ほんのわずかに言葉を切る。

いつもなら淡々と条件だけ告げるはずの紫音が、珍しく視線をノートと優里のあいだで泳がせた。

 

「……もう一個、ご褒美」

 

「えと……?」

 

喉の奥が、わずかに乾く。

 

「な、何くれるんですか。まさか、頭撫で放題とか……」

 

紫音は小さく息を吸って、いつもの平板な声のまま、しかしどこかだけ音程を慎重に選ぶみたいに告げた。

 

「……全部できたら」

 

左手の薬指で、リングの縁をそっとなぞる。

くるりと一度回してから、視線を落としたまま続けた。

 

「わたしの、頬に」

 

「…………はい?」

 

「…キス、していい、よ?」

 

時間が一瞬だけ止まった。

 

耳が、あり得ないくらい熱くなる。

心臓が、胸の中で新記録でも狙っているのかという勢いで暴れだした。

 

「……き、き、きき、キス……!?」

 

「……やめる?」

 

紫音が、少しだけ不安そうに瞬きをする。

「嫌なら取り下げるよ」と言いたげな、微細な揺れ。

 

その動きを見た瞬間、千載一遇のチャンスを逃すものかと喉の奥に詰まっていた声が、勝手に飛び出した。

 

「やめません。やめたくないです。やらせてください。全力で解きます」

 

自分でも引くくらい早口で即答だった。

それを聞いた紫音の耳の先が、ぴくりと震えてほんのりと赤くなる。

 

「……そう」

 

タイマーが再びスタートする。

数字が刻む一秒一秒が、さっきまでと質を変えていた。

 

(落ち着け、落ち着け白百合優里……)

 

ペンを持つ指が震えないように、意識して力を込める。

 

問題はたしかにさっきより難しい。

けれど、「ここでミスったら頬へのキス権が遠のく」という、どうしようもなく個人的な動機が、普段以上に脳を回転させてくる。

 

途中で詰まりそうになるたび、さっき紫音が見せてくれた最短ルートの数式が頭をよぎる。

あの美しい流れみたいに、自分の解答もできるだけ無駄なく進むように、と願いながらペンを走らせる。

 

「……できました」

 

タイマーが鳴る、ほんの少し前。

 

ギリギリのタイミングで最後の行を書き終えて、シャーペンを置いた。

 

「見せて」

 

紫音がノートを受け取る。

真剣な目で、一行一行を追っていく。

 

喉が、からからだ。

自分の心臓の音が、紫音に聞こえてしまうのではないかと思うくらい、うるさい。

 

数十秒後。

紫音が、ぺたんとノートを閉じた。

 

「……全部、合ってる」

 

「っ」

 

肺に溜め込んでいた空気が、一気に抜ける。

 

「じゃあ、ご褒美」

 

紫音は、少しだけ身体の向きを変えた。

椅子をきゅっと引き寄せ、優里の方へと半歩にじり寄る。

 

左側の頬を、少しだけ差し出すみたいに傾けて。

視線をテーブルの端に落としたまま、小さな声で繰り返した。

 

「……して、いい」

 

その仕草が、声音が、反則だった。

 

頬を少しだけ突き出す形のまま、まぶたを伏せた美麗な横顔。

白い肌の上で、珍しくうっすらと赤みが広がっている。

耳の先まで染まっているのに、本人はきっと自覚していない。

 

(ずるいなぁ……ほんとに)

 

喉の奥で、小さく笑いそうになってしまった。

 

「……じゃあ、その、ご褒美、いただきますね」

 

椅子を少しだけ引き寄せる。

距離が縮まるたび、紫音のシャンプーの匂いと、柔らかい体温が濃くなる。

 

テーブルの上で、ノートと問題集とシャーペンが、妙に場違いな静物画みたいに目に入る。

期末勉強会のはずが、何をやっているのだろうと、どこかで冷静な声が突っ込む。

 

それでも、身体は止まらない。

 

紫音の頬に、そっと手を添える。

抱き寄せるみたいに肩に手を回す。

指先が触れた部分から、じわじわと熱が伝わってきた。抱きしめたこと自体は何度かあるというのに、指先から伝わる紫音の呼吸や、それに伴って上下する小さな肩がかつてないほど心臓を唸らせる。

 

思っていたよりも、ずっと柔らかい。

肌のきめ細かさと、緊張でわずかにこわばった表情。

 

その全部が、愛おしい。

 

「……失礼します」

 

囁くように言って、

そっと顔を寄せる。

 

キスというより、触れる。

けれど、その触れるまでの数センチが、とんでもなく遠かった。

 

紫音の吐息が、頬にかかる。

自分の呼吸も、きっとぐちゃぐちゃになっている。

 

ほんの一瞬、ためらいそうになってーー

それでも、諦めたくない気持ちが僅かに勝った。

 

唇を、紫音の頬に、ゆっくりと押し当てる。

 

熱い。

思っていた以上に、紫音の頬は熱を持っていて、

それがじかに伝わってくる。

 

キスをしているはずなのに、

むしろ自分の方が何かを奪われているみたいだった。

 

指先に力が入る。逃がさないようにと、頬に添えた手を後頭部にのばし、肩に回していた手も「逃げないでね?」と脅すように力がこもる。

離したくない。

いっそこのまま、ほんの少しだけキスする場所をずらして、そのまま唇を奪ってしまいたい、という衝動が、喉元までせり上がってくる。

 

けれど、そこを越えたら戻れない気がして、

ぎりぎりのところで堪えた。

 

ゆっくりと、唇を離す。

 

「……っ」

 

紫音のまつげが、ぱちりと震える。

頬に触れていた手の下で、心臓の鼓動が少しだけ早まったのが分かった。

 

頬の肌に残った自分の体温が、不思議なほど意識にこびりつく。

 

「ご褒美……ありがとうございました」

 

自分でも信じられないくらい、声が掠れていた。

 

紫音は、そっと頬に指を当てる。

そこに残った熱を確かめるみたいに、一度撫でてから、小さく呻いた。

 

「……むぅ…」

 

「え……?」

 

「集中、できなくなる」

 

「そっちが、…提案したんじゃないですか……」

 

疲れ果てたような情けない声で返すと、紫音は視線を逸らしながら、ノートPCの画面を開いた。

 

耳まで真っ赤に染めたまま、

それでも何事もなかったかのように、トラックのミュートボタンをいじり始める。

 

さっき頬を預けてくれた横顔と、

指先で確かめていた銀のリングの映像が、

優里の頭の中でぐるぐるとループしていた。

 

鉛筆もペンも、しばらくまともに握れそうにない。

胸の内側で、何かがとろりと溶ける感覚があった。

 

紫音は、その横で、恥ずかしさを忘れるようにプロジェクトファイルを弄っていた。

 

画面には、「Study Loop - y」と仮タイトルが付けられている。気恥しさを吐き出すように聞いてみる。

 

「……何作ってるんですか?」

 

「優里用BGM」

 

「え?」

 

「問題を解くときに、邪魔にならないテンポと帯域で」

 

「わ、わたしのために?」

 

「うん。ここしばらく、机の前で静かにしてると、逆にソワソワしてるから」

 

図星だった。

 

「集中しやすい曲、作ってあげる」

 

そう言って、紫音はヘッドホンを半分片耳にだけ当てる。

もう半分の耳は、テーブルのペンの音を拾うために開けておく。

 

優里の勉強を監督しながら、自分は優里のための曲を作る。

その二重仕事を、何でもない作業みたいにこなしてしまう。

 

(……ほんと、この人、すごいな)

 

素直にそう思った。

 

ーーー

 

夜。

二人で遅めの夕飯を食べ終えて、テーブルを片づけたあと。

 

「これ」

 

紫音が、さっきまで弄っていたプロジェクトの書き出しを完了させて、タブレットを差し出してきた。

 

そこには、「Kitchen Orbit」のときと同じアカウント名と、見慣れないタイトル。

 

『Study loop - for Y』

 

「名前……」

 

「分かりやすい方がいい」

 

再生ボタンを押すと、静かなピアノの分散和音と、深い位置で揺れるシンセのパッドが流れ始めた。

一定のテンポで刻まれるハイハットのような音が、脈拍みたいに、落ち着いたリズムを刻んでいる。

眠ってしまいそうな程に柔らかくて、だというのに疲れている身体を支えてくれそうな骨の太さもある。

 

メロディはほとんど主張しない。

ただ、コードがゆっくりと揺れ続ける、いわゆるLofi hip hopと言われる曲調。

 

紫音の持つタブレットを一緒に覗き込む。

 

画面には、簡単なメロディラインとコードネームが並び、その余白に、小さな字で何かが書き込まれていた。

 

『Like handwriting in the margins of your notebook,

quiet enough not to break your concentration,

yet clear enough that you always know I’m here.

(ノートの余白と同じくらいの声で

君の集中を邪魔しない程度に

それでも、そばにいると分かる音で)』

 

それは、歌詞というより、譜面に書かれるような楽曲のコンセプトメモだった。

けれど、優里には十分すぎるほど、言葉として刺さってくる。

 

目元がじんわり熱くなる。

 

(……ずるいなぁ)

 

胸の奥で、さっきとは別の意味で同じ言葉が浮かぶ。

 

勉強用のBGMといえば、ネットで拾ってくればいくらでもあるはずだ。

「Lofi」と検索すれば、いくらでもそれっぽいものが出てくる。

それなのに、この人はわざわざ、自分の耳と、自分の手で、一から作ってくれる。

 

それは、「頑張れ」と口で言うよりもずっと、

具体的で、実務的で、

どうしようもなく優しい行為だった。

 

ノートの余白。

その表現が、妙に胸に残る。

 

ノートの本文でもない。

目立つ見出しでもない。

でも、そこに小さく書き込まれたメモのおかげで、内容が頭に残ることもある。

 

きっとこの曲もそうなのだろう。

 

ライブのための曲でもなく、

世界中のリスナーのための曲でもなく、

まず最初に優里用として作られた音。

 

その事実だけで、頑張り方の質が変わってしまう。

 

(テストの点数なんて、本当は紫音さんにとってどうでもいいはずなのに)

 

にもかかわらず、彼女はこうして優里が少しでも楽に戦えるようにと、

自分の得意分野を当たり前みたいに差し出してくる。

 

それは優里が鍋を作ってあげるみたいに。

或いは薬指に指輪を嵌めてあげるみたいに。

 

そんなふうに、さらりと「音楽」を差し出してくる。

 

(……好きだなぁ、本当に)

 

勉強を見てくれることも、

頭を撫でてくれることも、

頬にキスさせてくれることも。

 

どれももちろん嬉しい。

 

でも、こうして自分の生活のために一曲わざわざ作ってくれる、その在り方が、

白百合優里の胸のど真ん中に、一番深く刺さっていく。

 

スマホのプレイリストの一番上に新しい音楽が追加される。

その文字列を見ているだけで、

少しだけテストが楽しみになる自分がいて、優里は思わず苦笑した。

 

ーーー

 

試験前日。

夜遅くまで勉強して、さすがに切り上げようとしたとき、スマホに通知が来た。

 

『Shion - New Song 「Pages」』

 

「……新曲?」

 

タイトルを見て、胸の奥がきゅんと鳴る。

 

発表のタイミングも、名前も、あまりにも露骨だった。

 

再生すると、今度はアップテンポなビートが飛び込んでくる。

朝焼けみたいなシンセの音と、軽く跳ねるドラム。

その上に、紫音の声が乗っていた。

 

歌詞は、受験生や学生たちに向けたものだった。

 

試験会場に向かう足音。

問題用紙をめくる音。

ノートの端で擦り切れそうになっている鉛筆。

全部が淡く描かれている。

 

その中に、一瞬だけ、聞き覚えのある情景が紛れ込んでいた。

 

朝のキッチン。

トーストの匂い。

エプロンの紐を結ぶ音。

 

『毎日の行ってらっしゃいと行ってきます。

当たり前の日常が、

君を支えてくれますように。

冬尽くいつかへ君支える私の歌』

 

そんなふうな意味のフレーズが、さらっと歌い流される。

 

(……完全に、わたしじゃないですか)

 

胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。

 

期末前夜。

不安で胃がきりきりするはずの時間帯に、

紫音の声と音が、ゆっくりと背中を撫でていく。

 

窓の外は、冬の夜の冷たい空気に満ちている。

それでも、イヤホンの中では、朝焼けのような光が鳴っていた。

 

その歌は、誰に向けたものでもあるのだろう。

表面上は受験生全員、試験に向かう人全員に向けた応援歌だ。

 

けれど、優里には分かってしまう。

 

その歌の一番奥底に沈められた「君」だけは、

世界の誰でもなく、自分だということ。

 

毎日ご飯を作ってくれること。

帰ってくる場所を守ってくれること。

薬指に、小さな輪っかを嵌めてくれたこと。

 

その全部への感謝が、歌詞の行間に静かに滲んでいて、

それと同時に、わたしの未来へのエールが重ねられている。

 

高校の三年間。

その全部が、数値として記録されていく。

 

冷たい教室の窓ガラスに反射する、自分の顔。

震える指先。

それでも、答案用紙の最初の一行に、名前を書き込む勇気。

 

紫音の曲は、それらを格好良いと言ってくれていた。

 

優里は、試験当日の朝、

電車の揺れの中でそっと目を閉じる。

 

イヤホンの向こうから、紫音の声が響く。

日常の台所を鳴らすような音と、

試験会場で鳴るようなシャーペンの音が、

一瞬だけ同じトラックに重なる。

 

(わたしのこれからを、こんなふうに歌ってくれる人がいるなら)

 

怖さも、不安も、

全部抱えたままで、前に進んでいいのだ。

 

答案の数字がどうであれ、

この「いってきます」と「行ってらっしゃい」と、

キッチンと教室を繋ぐ音の往復がある限り、

少なくとも自分の人生は、紫音の譜面の端っこに、小さく書き込まれ続けるのだ。

 

胸の奥にそう刻み込んで、

優里は机の上の問題用紙に向かう。

 

鉛筆の音は、

あのアップテンポなビートと、

きっちり同じテンポで、静かに進んでいった。

 

ーーー

 

期末が終わり、少しだけ気が抜けた頃。

季節は、冬から春への境目に差し掛かっていた。

 

その朝、教室に向かう途中で、優里のスマホが震えた。

 

『頭痛い。ちょっと熱っぽいから、今日は外出なしで作業する』

 

紫音からのメッセージは、いつも通り淡々としている。

 

(風邪かな……)

 

『無理しないでくださいね。何かあったらすぐ連絡ください』

と返しつつも、どこか胸の奥がざわついた。

 

一時間目、二時間目と授業は進み、

休み時間にスマホを確認しても、それ以上の連絡はない。

 

(大丈夫、だよね?……)

 

自分に言い聞かせるようにペンを握る。

授業内容は頭に入っているのに、黒板の文字がどこか遠く感じられる。

 

三時間目の途中。

机の中で、スマホが小さく震えた。

 

『ごめん。ちょっとやばいかも。寝る』

 

短い一文。

それだけなのに、教科書の文字が一気に霞んだ。

 

先生の声が遠ざかる。

クラスメイトの笑い声や、椅子を引く音が、薄い膜の向こう側の音みたいに聞こえる。

 

(やばい、って……)

 

考えたくない想像が頭をよぎる。

喉の奥が、きゅっと締めつけられる。

 

(授業中にスマホのぞいてる場合じゃないのは分かってるんだけど……)

 

その葛藤ごと、ぐちゃりと握り潰したくなる。

結局、チャイムが鳴ると同時に、優里は立ち上がっていた。

 

「すみません、保健室行ってきていいですか。ちょっと気分悪くて」

 

嘘ではない。

胸のあたりが、別の意味で気持ち悪い。

 

保健室で先生に事情をぼかして話し、

「少し顔色が悪いね」と言われて体温を計る。

数字は平熱だったが、明らかに顔色が悪かったのだろう。

 

「今日は無理しない方がいいかもしれないね。早退する?」

 

そう問われた瞬間、

優里は一瞬だけ迷い、そして小さく頷いた。

 

「……はい」

 

自分のためというより、

紫音のところに行くための早退。

 

それが、多少ずるい判断だということは分かっている。

でも、あの人が高熱で倒れているかもしれないときに、

普通に一日授業を受けて帰るほど、

自分は器用に割り切れない。

 

ーーー

 

紫音のマンションに着く頃には、昼下がりの光が廊下を斜めに切り取っていた。

 

玄関の前まで来て、

いつもと同じようにインターホンを押す。

 

……反応はない。

 

「紫音さん?」

 

合鍵を使い、ドアノブに手をかける。

いつものように、優里が使えるように内側からチェーンだけ外しておいてくれていた。

ゆっくりと扉を開けると、部屋の空気がふわりと漏れ出てきた。

 

暖房の熱、少しの淀んだ空気。

 

「……っ」

 

嫌な予感が、背骨をぞくりと駆け上がる。

 

リビングは薄暗い。

防音室の扉も、今日は開いたままになっている。

いつもなら、何かしらの音楽が漏れ聞こえてくるはずの空間から、音という音が消えている。

 

「紫音さん?」

 

呼びかけながら、寝室の方へ向かう。

ドアをそっと開けると、そこには、布団に沈み込んだ小さな身体があった。

 

額に貼りつく汗で、白銀の髪がところどころ濃い色に変わっている。

頬は赤く、呼吸は浅く速い。

パーカーもTシャツもぐしゃぐしゃに乱れていて、胸元が心許ない。

 

「紫音さん!」

 

慌てて駆け寄り、肩に手を添える。

 

「……ん、ゆ…………り……?」

 

掠れた声が、かすかに名前を呼びかける形をした。

 

体温計を脇に挟むと、数字はあっさり三十八度の後半を超えてくる。

 

「……なんでここまで上がるまで、誰にも連絡しないんですか」

 

思わず声に怒気が混じる。

 

(わたしが、朝の時点で押しかけてれば……)

 

後悔が胸の中で膨らむ。

でも、今できることは、悔やむことではない。

 

「とりあえず、おでこ冷やしましょうか」

 

洗面所でタオルを水に濡らし、きつく絞ってから持ち帰る。

紫音の額にそっと乗せると、微かに眉が動いた。

 

「……冷たい」

 

「我慢してください」

 

手のひらで、熱い頬に触れる。優しく頭を撫でる。

いつもは冷え性気味な指先が、今は信じられなくなるほど、彼女の体温は高い。

 

枕元のテーブルには、飲みかけのペットボトルと、開けっぱなしの解熱剤の箱が置かれている。

 

「ちゃんと飲んだんですね」

 

「さっき……一回」

 

途切れ途切れに答える声。

その細さが、いつもの「唯我独尊の天才」とは別人みたいで、胸が軋んだ。

 

「スポーツドリンク買ってきます。あと、お粥作ってきます」

 

「……仕事」

 

「仕事は、一旦後です」

 

「締切……」

 

「締切より、命の方が遥かに大事です」

 

きっぱりと言い切ると、紫音は、少しだけ不満そうに眉を寄せた。

 

それでも、何か反論しようとする前に、熱と疲労に負けて、まぶたが落ちる。

 

その瞬間、

優里は、胸の奥で何かが切り替わるのを感じた。

 

(……ああ、今、この人のことを管理できるの、わたしだけなんだ)

 

普段は生活力ゼロの天才を、

ご飯や睡眠や片付けの面でちょこちょこ管理しているつもりだったけれど、

 

今はもっと直接的に。

彼女の体温も、呼吸も、飲む水の量も、

全部、自分が握っている感覚があった。

彼女の生命を、握っている感覚。

 

その感覚は、危ういほどに甘かった。

 

ーーー

 

最寄りのコンビニでスポーツドリンクとゼリー飲料、冷えピタを買い、

家に戻るとすぐにお粥を炊飯器に仕掛ける。

 

キッチンに立つあいだも、頭の片隅ではずっと、寝室の方の気配を探っていた。

 

布団の擦れる音。

微かな唸り声。

タオルがずり落ちる気配。

 

一つでも気になる音がすれば、そのたび見に行って、髪を撫で、タオルを直す。

 

(……これ、やりすぎなんだろうな)

 

頭のどこかが冷静にそう囁く。

 

学校を早退してまで駆けつけて、

ここまで付きっきりで看病するのは、

友達の領域を明確にはみ出している。

 

それでも、手を止める気はなかった。

 

鍋から湯気が立ち上る。

お粥が柔らかく炊きあがる頃、熱はほんの少しだけ下がっていた。

 

「紫音さん、お粥、少しだけ食べれそうですか?」

 

「……ん」

 

スプーンで一口すくって、ふうふうと冷ます。

それをそっと唇に運ぶと、紫音はゆっくりと口を開いた。

 

熱のせいで、咀嚼もぎこちない。

それでも少しずつ飲み込んでくれる。

 

「味、します?」

 

「……優里の味がする」

 

「………………紛らわしい言い方しないでください」

 

「……?……美味しいって、意味」

 

弱々しい声で、しかししっかりとそう言われて、

優里は、鍋をほっぽり出して抱きしめたくなる衝動を堪えた。

 

(ああもう……こういう時ですら、なんでこんなに可愛いんですか……)

 

ーーー

 

夕方になっても熱はなかなか下がらず、

夜になって、ようやく少し落ち着いてきた。

 

それでも、まだ三十七度台の後半。

油断できる状態ではない。

 

「今日は、ここにいますから」

 

枕元の床にクッションと毛布を持ってきて、

そこに腰を下ろしながら優里は告げた。

 

「でも……学校」

 

「今日はもう終わってます。明日は……まぁ、なんとかします」

 

本当はなんとかなるか分からない。

 

けれど、今この瞬間、

紫音を一人にして家に帰る選択肢は、どうしても選べなかった。

 

親には「友達の家で勉強会のまま泊まる」とメッセージを送る。

嘘ではない。

勉強はしないけど、人生の勉強みたいなものはしている。

 

照明を少し落とし、

枕元に置いた水とタオルの位置を確認する。

 

紫音は、時折浅く寝返りを打ちながら、うわごとのように何かを呟いていた。

 

「……いかないで……」

 

耳を疑った。

息を潜めて、耳を近づける。

 

「……行かないで……優里……」

 

掠れた声で、自分の名前を呼んでいる。

 

枕を握る指先に、力がこもる。

 

胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。

 

(……)

 

高熱で意識が朦朧としているときに呼ぶ名前が自分なのだと分かってしまった瞬間、

理性と倫理観が後ろに下がるのを感じた。

 

こんな状態の彼女から「行かないで」と言われて、

どうして喜ばずにいられるだろう。

 

どれだけ綺麗ごとを考えたって、

優里の胸の内側で真っ先に湧き上がった感情は、幸福だった。

 

(……ああ、わたし、本当にダメだな)

 

同時に、自嘲も込み上げる。

 

弱っている彼女の姿に、

「自分だけが触れていい」とか「自分だけが守りたい」とか、

独占欲にまみれた感情を重ねてしまっている。

 

彼女が苦しそうに眉をひそめるたび、

その辛そうな顔ごと自分が抱え込みたくなる。

 

熱で荒ぶる呼吸も、

汗で湿った髪も、

震える指先も。

 

全部、自分の腕の中に収めてしまいたい。

全て、自分のモノにしてしまいたい。

 

そう思ってしまう自分の危うさに、

どこかで冷静な自分が怯えている。

 

けれど、その冷静な自分さえも、その危うさごと、

どうしようもなく彼女を愛しく感じてしまうのも本当だった。

 

「行きませんよ、…どこにも」

 

小さな声で囁きながら、

布団の端からそっと手を差し入れて、

紫音の手を握る。

 

熱で火照った掌が、弱々しく握り返してくる。

 

「どこにも行きませんから。……ずっと傍に居ますから……だから、ちゃんと眠ってください」

 

返事の代わりに、

細い指が、布団の中で優里の手を探るように絡んできた。

 

その夜、優里は全く眠らなかった。

 

何度かうとうとしかけては、

布団の中から聞こえる咳や、息の乱れで目を覚ます。

 

そのたびにタオルを替え、

水を飲ませ、

髪を撫でる。

 

時計の針の音と、

紫音の浅い寝息と、

外の道路を走る車の遠い音だけが、

夜をゆっくりと削っていった。

 

ーーー

 

明け方。

窓の外が少しだけ白み始めた頃、

ようやく紫音の呼吸が穏やかになってきた。

 

体温計は、三十七度を少し切っている。

 

「……ふぅ」

 

優里は、深く息を吐いた。

 

床に座っていた身体は軋んでいる。

目の下には、うっすらとクマができていた。

 

それでも、枕元で静かに眠る紫音の顔を見ていると、

その徹夜の疲れさえ、なぜか誇らしくなった。

 

(ーーわたしが、守った)

 

そんな傲慢な言葉が頭に浮かんで、

自分で自分に苦笑する。

 

(守ったなんて、言い過ぎだ。解熱剤と人間の回復力が頑張っただけで、わたしはちょっと横にいただけ)

 

でも、と心のどこかが続ける。

 

(そのちょっと横にいる役目を、わたしが引き受けられたことが、たまらなく嬉しい)

 

指輪の光が、布団の隙間から少しだけ覗いていた。

高熱に浮かされていても、外そうとはしなかったその輪っかに、

自分の独占欲の象徴みたいな意味を勝手に見出してしまう。

 

危うい、と分かっている。

でも、嬉しい。

 

矛盾した感情が、胸の奥で同居していた。

 

ーーー

 

翌日。

紫音の熱は、さらに下がり、

昼頃には平熱近くまで戻っていた。

 

「……優里?」

 

ぼんやりと目を開けて、

枕元に座る優里を見て、紫音はぱちぱちと瞬きをした。

 

「おはようございます」

 

「なんでいるの?」

 

「ひどい聞き方ですね」

 

ほぼ丸1日座りっぱなしだった故に、凝り固まった身体の軋む痛みに苦笑しながらも、優里は状況をかいつまんで説明した。

 

昨日のメッセージ。

そのあと早退してきたこと。

高熱だったこと。

お粥を作ったこと。

ちょっとだけ、看病したこと。

 

「……ごめん、覚えてない」

 

紫音は、申し訳なさそうに眉を寄せる。

 

「お粥の匂いがして、手を握ってくれてたのは、なんとなくーー」

 

「じゃあ十分ですよ」

 

「……でも、夢って思ってた」

 

「紫音さんが元気になったなら、覚えてるとかどうとか、そんなのはなんでもいいんです」

 

笑いながらも、

昨晩の「行かないで」「優里」といううわごとだけは、

そっと心の中にしまい込んだ。

 

あれを伝えるのは、

自分の独占欲を正当化するために利用してしまいそうで、

それが怖かったから。

 

あの高熱の中、きっと自分だって、誰の名前を呼んでも不思議はないのだから。

 

けれど、

自分の名前だったという事実を持っているのは、今のところ優里だけだ。

 

その秘密を抱えていること自体が、

危うい幸福であることも含めて。

 

ーーー

 

その夜、優里は自分の部屋のベッドの上で、

天井を見つめながら、ゆっくりと思考を整理した。

 

(……普通なら引かれちゃうレベルだよね、多分)

 

学校を早退して、

泊まり込みで看病して、

うわごとに幸せを感じて。

 

料理も、掃除も、看病も、

全部、好きだからやっている。

 

その「好き」が、

普通の好意より何段階も濃いことは、自分が一番よく知っている。

 

だからこそ、怖いし、だからこそ、やめられない。

 

鍋の音。

ピアノの音。

ドアのところで交わされる「行ってきます」と「行ってらっしゃい」。

高熱の夜に、布団の中で交わされた「行かないで」。

 

それら全部が、自分の独占欲と結びついて、

ますます離れがたい鎖みたいになっていく。

 

普通なら、危ないから距離を置こうと考えるべきなのかもしれない。

 

けれど、優里はそっと目を閉じて、

自分の中の結論を、静かに言葉にした。

 

(それでも、わたしは紫音さんの傍に居続けたい)

 

そうやって、日常の全部に、

自分の手をかけ続けていたい。

 

それが独占欲だと分かっていても、

危ういと分かっていても。

 

心の中で、もう一度だけ、はっきりと言う。

 

白百合優里は、名雪紫音という人間の全部を、

危うさすら感じるほどに愛している。

 

その事実だけは、

どんなに怖くても、否定すらしたくないんだ。

 

そう決めて、

優里は胸の奥に手を当てたまま、

静かに目を閉じた。

 

逃げることも、薄めることも、分け合うこともできない重さを抱きしめたまま。

 

きっとわたしは、このまま沈んでしまいたいんだ。

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