天才ロリ(合法)と一般JKの百合   作:( 눈_눈)

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最初に書きたかったものは全部書けたので、ここからはシチュエーションが思い浮かび次第書きます。ので間隔はかなり長くなると思います。



文化祭

 

期末テストが終わった学校は、早くも文化祭準備の熱気でむせ返っていた。

 

教室の黒板には当番表と進捗表がびっしりと貼られていて、休み時間になれば誰かが段ボールを運び、誰かがペンキの缶を抱えて走る。

優里のクラスの出し物は、ほぼ満場一致で「メイド喫茶」に決まっていた。

 

「……はぁ」

 

放課後の教室で、優里はカッターナイフを握ったまま、思わず小さく息を吐いた。

 

「なに、そのため息。看板の字、そんなに失敗した?」

 

机の上でメニュー表のデザインを描いていた葵が、ペンを止めてこちらを見る。

 

「いや、字は……まぁ、そこそこ……。ただ、最近ちょっと、紫音さんに会う時間が減っちゃってて……」

 

「うわー、…そっちかぁ…」

 

半分呆れたような声。

その隣で、風船係の真央も顔を上げる。

 

「でもさ、毎日朝は寄ってるんでしょ? 十分じゃない?」

 

「全然十分じゃない」

 

即答してから、優里は自分で自分に苦笑した。

 

「こういう時に限って、紫音さんも案件が重なってるみたいで。配信も少し減ってるし、スタジオでの作業が多いから……帰るのもいつもより遅くて、……全然そばに居る時間が…」

 

紫音の家で晩ご飯を作る時間も、最近は少し圧迫されている。

文化祭準備で学校に残る日も増えたおかげで、「おかえりなさい」と「ただいま」を交わせない日が続いた。

 

(……いや、普通の高校生なら逆に、今までの生活がおかしいんだろうけど)

 

学校終わりに毎日のように年上の音楽家の家に行って、家事をして、朝も起こしに行って。

そこまでしておいて、「最近会えなくて寂しい」とか言っている時点で、我ながらかなり末期だ。

 

「ちょっと休憩しよっかー。肩凝った」

 

葵がペンを置いて伸びをする。

クラスメイトたちも、それぞれの持ち場で「ちょっと水飲んでくる」「換気しよー」などと、工具や筆を置いていた。

 

優里は、机の引き出しに手を伸ばす。

そこには、細長いケースに入れた、小さなフォトプリントが数枚。

スマホで撮った数千枚の写真から厳選した数十枚を、こっそりコンビニで印刷したものだ。

 

紫音の後ろ姿。

キッチンでシチューの鍋を覗き込んでいるところ。

寝起きで髪をぼさぼさにしたまま、マグカップを抱えているところ。

クリスマスに焼いたチキンにかぶりついているところ。

 

そしてーー

薬指のリングを何気なく撫でている横顔。

 

それらを、こっそりと眺めて深く嘆息する。

 

「……うん」

 

それだけで、胸のざわめきが少しだけ落ち着いた。

 

(ちゃんといる。帰れば、そこにいる)

 

当たり前のことを、何度でも確認したくなる。

指先で写真の端をなぞりながら、優里は深く息を吸った。

 

「……あのさ」

 

ぽつり、と、葵の声が落ちてくる。

 

「それ、さっきから何回目?」

 

「え?」

 

「休憩のたびに、引き出しから同じやつ出して、じーっと眺めてるけど」

 

横から覗き込んだ葵の顔には、明らかに若干引いてる毛色があった。

 

「うわ本当だ。え、これ全部紫音さん?」

 

真央も身を乗り出してくる。

写真に写る銀髪の女性を見て、即座に目を丸くした。

 

「なになにー?例の同棲疑惑のお姉さん?」

 

「疑惑じゃないです、同棲じゃないです。ただの……まぁ、生活を共有している人です」

 

「それを世間一般では同棲って言う気がするんだけど」

 

「違います」

 

即座に否定するが、説得力はないだろう。

真央は一枚の写真をそっと指でつまんで、光に透かすように見つめた。

 

「ご飯食べてるところ撮るのはまだ分かるとしてさー……」

 

そう言いながら、別の一枚に指を移す。

 

「寝癖ついてるところとか、洗い物してる背中とか、これ完全に観察記録じゃない?」

 

「記録って言わないでください。思い出です」

 

「いやでも……画角がさ」

 

葵が半眼になって指摘する。

 

「この前さ、放課後にカラオケ一緒に行こうって誘ったときも、今日は紫音さんの新しいマグカップが届く日だからって理由で断ったじゃん」

 

「……だって、ちゃんと最初に温かい飲み物入れてあげたいじゃないですか」

 

「いや、かわいいんだけどね、言い方はね。やってることは完全にストーカーのそれなんだよね」

 

「違います。わたしは許可を得て家にいるので」

 

そう言うと、葵は腕を組んで考え込むようなポーズを取った。

 

「でもさぁ、許可を得て毎日生活を隅から隅まで眺めてるストーカーって、それはそれでなかなかの……」

 

「言い換えが悪意ありすぎません?」

 

真央がくすくす笑いながら、写真の中の紫音の横顔を眺める。

 

「でもさ、まぁ、危ういのは分かるよ。優里、信じられなくらい幸せそうな顔で見てるもん」

 

そう言われて、優里は自分の頬に手を当てた。

指先に触れた肌は、想像よりも熱くなっている。

 

(……そんなに顔に出てたんだ)

 

写真の中の紫音は、それぞれ違う日常の瞬間を切り取っているけれど、

どれを見ていても、不思議なほど心が落ち着いた。

 

「……ごめんなさい。引きました?」

 

思わず弱気にそう言うと、葵は肩をすくめて笑う。

 

「正直、ちょっと引いた」

 

「正直っていうの効くのでやめてください」

 

「でもまぁ、嫌いとか怖いとかではないよ。ただ……」

 

葵は少しだけ真面目な顔になった。

 

「そこまで依存してる相手に、ちゃんと返してもらえてるならいいけどね」

 

「……返して、もらってますよ」

 

思わず口が、言い返すみたいに自然に動いていた。

 

「ご飯を美味しいって言ってくれるし、おかえりも行ってきますも言ってくれるし。勉強も見てくれるし……わたしのために曲まで作ってくれましたし」

 

Pages。

Study loop。

紫音の音と声。

 

それらを思い出すだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。

 

「……なら、まぁ、いっか」

 

葵は納得したように頷く。

 

「ただし、もしそのお姉さんに振られたら、わたしがその写真全部燃やしに行くからね」

 

「燃やさないでください!? わたしの人生の一部なんですけど!」

 

「だからこそ燃やすんだよ。失恋の未練は早めに処分しないと」

 

からかい半分、本気半分の声。

真央も笑いながら、写真をそっと揃えて優里に返してきた。

 

「でもさー、文化祭当日、来たりしないの? その人」

 

「どうでしょう……忙しい人ですから。来てくれたら……嬉しいですけど」

 

そう言って、写真を大事にケースに戻す。

 

(来てくれるかな……)

 

期待すると、胸が痛くなる。

期待しないふりをすると、それはそれで苦しい。

 

カッターを握り直して、看板用の厚紙に向き直る。

 

(準備が終わったら、今日こそは紫音さんの夕飯に間に合うように帰ろう)

 

そう心の中で決めて、ペンキの匂いの中、優里はまた日常へ戻っていった。

 

ーーー

 

文化祭当日。

 

秋の空は高く、校門には色とりどりのアーチと看板が立てられている。

模擬店の煙と、焼きそばのソースの匂い。

体育館から流れてくる音響チェックのドラム。

 

優里のクラスのメイド喫茶も、午前中からそこそこ盛況だった。

 

「白百合さーん、お客さんあと二人入りますー!」

 

「はーい、今案内しますね」

 

フリルのたっぷり付いたエプロンドレスに、レースのカチューシャ。

慣れない黒タイツとストラップシューズ。

 

(……この格好で紫音さんに見られたら、確実に死ねるなぁ)

 

そんなことを考えながら、優里は笑顔を作る。

 

「お帰りなさいませ。ご主人様、お嬢様」

 

「わー、本格的」

 

入ってきたのは、近所の親子連れだった。

座席に案内し、注文を聞き、厨房へ伝える。

 

忙しさに任せて動き回っていると、

ふと、教室の外から妙なざわめきが聞こえてきた。

 

「ねぇなんか人だかり増えてない?」

 

同じメイド服のクラスメイトが、廊下側のカーテンをちらりとめくる。

その顔が、見る見るうちに強張った。

 

「ちょ、白百合さん」

 

「はい?」

 

「……来てる。多分、来てる」

 

わけが分からないままカーテンに近づき、そっと隙間から廊下を覗く。

 

ーー人だかりの中心に、見慣れた銀色が見えた。

 

白銀の髪を、いつもより少しだけまとめて。

シンプルなシャツに、黒いロングスカート。

薬指のリングは、もちろんそこにある。

 

ただ、それ以上に目立っているのは、その存在感そのものだった。

 

『え、あれ、本当に紫音じゃない?』

『黎明とかPrimaの人?』

『え、やば……本物?』

『写真いいですか!? 握手してもらっていいですか!?』

 

あっという間に人の輪が出来ている。

紫音は明らかに戸惑っていた。

 

紫音は自身の有名さに無頓着だ。きっとここまで近い距離で大人数に囲まれることは想定していなかったのだろう。

片手でショルダーバッグのストラップを強く握りしめ、もう片方の手は、胸の前でぎゅっと拳を作っている。

 

足元は、わずかに後ろへ下がろうとしているのに、輪がそれを許さない。

 

「すみません、一枚だけ!」

「ファンなんです! サインーー」

 

「あのーー」

 

気づいたら、優里はもう教室を飛び出していた。

 

廊下のざわめきの中に飛び込む。

人垣の隙間から手を伸ばす。

 

「すみません、少し道を開けてください!」

 

最初は誰も気づかなかった。

もう一度、少し声を張る。

 

「すみません! この人、体力そんなにないので、詰め寄るのだけはやめてもらえますか」

 

キリッとした声が、自分の喉から出ていた。

周囲の視線が、ようやくこちらを向く。

 

「え……?」

「誰?」

「なに……?」

 

紫音の視線と、優里の視線が、一瞬だけぶつかった。

 

その瞬間、紫音の表情が、目に見えてほっと緩む。

ショルダーバッグを握る指先から、力がすこし抜けた。

 

「彼女、こう見えてすごく繊細なので。写真を撮るのは、きちんと列を作って、学校側の許可を取ってからにしてもらえないでしょうか」

 

あくまで冷静に、

でも一歩も引かない声で言う。

 

「でも、せっかく……」

「一枚だけ……」

 

「気持ちは分かります。わたしだって、紫音さんのファンですから」

 

そう言って、優里は正面から群衆を見た。

 

「でも、今は客として来てくれているんです」

 

数人の顔色が変わる。

 

「なので、事前に出ている学校側の案内に従ってもらえないでしょうか?」

 

自分で言いながら、少し手のひらが汗ばんだ。

でも、ここで引き下がったら、紫音を守れない気がした。

 

数秒の沈黙のあと、

一番前にいた男子生徒が、気まずそうに頭をかいた。

 

「あー……ごめん。ちょっとテンション上がりすぎた。先生にも怒られるし、一旦散ろうか」

 

「……あとで、ステージとか出たりしないんですか?」

 

誰かが未練がましく訊ねる。

 

紫音は、群衆と優里のあいだで一瞬視線を泳がせ、

それから申し訳なさそうに、ほんの少しだけ頭を下げた。

 

「……今日は、優里の学校を、ちゃんと見たい」

 

その一言で、空気が決定的に変わった。

 

「……そっか」

「じゃあ、マジでプライベートなんだ」

「ごめんなさい。変なふうに騒いじゃって」

 

人垣が、少しずつ解けていく。

 

できる限り柔らかく頭を下げてくれる人もいれば、照れくさそうに目をそらす人もいる。

それでも、何人かは名残惜しそうに振り返りながらも、別の教室へと流れていった。

 

足元が見えるほどに人が引いた瞬間を逃さずに、

優里は一歩踏み出した。

 

「紫音さん、こっち」

 

手を伸ばす。

細い指が、おそるおそる絡んでくる。

 

ぎゅ、と。

 

そのまま人の流れの逆方向へと歩き出す。

体育館へ向かう通路とは別の、小さな階段の方へ。

 

背中に視線はまだ感じるけれど、

もう誰も追いかけてはこない。

 

踊り場まで来たところで、ようやく足を止めた。

 

「大丈夫ですか?」

 

息が少し上がっているのは、自分の方だ。

 

紫音は、手を繋いだまま、ゆっくりと瞬きをした。

 

「……大丈夫。優里が、引っ張ってくれたから」

 

そう言ってから、

珍しく、目尻を少しだけ赤くした。

 

「……かっこよかった」

 

「え」

 

言葉を選ぶように、ひとつひとつ区切って話す。

 

「怖かったけど。優里がいてくれて、助かった」

 

そこまで言って、ふい、と視線を逸らした。

始めてみるような、自身の照れをひた隠すような可愛らしい仕草。

 

「……その、ありがとう」

 

「っ」

 

顔が熱い。

か細く告げられた言葉にときめく自分の鼓動が、握った手のひら越しに紫音に伝わってしまいそうなくらい、早い。

 

(でも……)

 

ほんの少しだけ、手を握る力を強くする。

指輪の感触が、静かに指先に返ってきた。

 

(守れた、のかな)

 

さっき葵に「危うい」と言われた、自分の依存。

それでも、守るために動けたことが、ひどく誇らしく感じられた。

 

ーーー

 

「で、そっちの超絶美少女さんが、噂の紫音さん?」

 

教室に連れ戻すと、メイド服姿のクラスメイトたちが、一斉にこちらに視線を向けた。

 

「はじめまして。いつも優里がお世話になってます」

 

葵が、妙に保護者っぽい挨拶をする。

紫音は少しだけ首をかしげながら、小さく会釈した。

 

「……優里が、いつもお世話になってます」

 

「いやいやいや……」

 

思わずツッコむ。

 

「せっかくだし、座っていきませんか? うち、メイド喫茶なんで」

 

クラス委員がすかさず勧誘に入った。

 

「時間、大丈夫?」

 

紫音が優里を見る。

 

「……少しくらいなら。あとでちゃんと仕事戻りますから」

 

そう言うと、クラスメイト達から「真面目~」という小さな笑いが漏れた。

 

紫音は、窓際のテーブルにそっと腰掛ける。

日差しが髪に淡く反射し、リングが小さく光った。

 

「では、ご注文をお伺いします、お嬢様」

 

メイド服を着た優里は、できるだけプロ意識を装ってメニューを差し出す。

 

「……お嬢様?」

 

紫音が、きょとんとした。

 

「こ、ここでは、そういう設定なので……」

 

「優里は、わたしのメイド?」

 

「やめてください言い方」

 

クラスメイトたちがくすくす笑う。

葵がすかさず囁いた。

 

「いやでもさ、見た目だけなら、完全に深窓のお嬢様と専属メイドなんだよね。距離感もさ、ほら」

 

「距離感?」

 

「普通さ、そこまで自然にずぅーっと目合わせて喋れないよ? お互いに」

 

そう言われて初めて、自分と紫音の距離の近さに気づいて、優里は少し肩をすくめた。

 

「ご注文は……ケーキセットがおすすめですけど」

 

「優里、おすすめは?」

 

「……チーズケーキです。ちょっと自信作です」

 

「じゃあ、それ」

 

迷いなくそう言って、紫音はメニューを閉じた。

 

「あと、優里も、一緒に座ってて」

 

「えっ、仕事がありますので」

 

「今、わたし以外にお客さんいない。……命令」

 

教室を見回すと、確かに他のテーブルは一旦会計を終えて、入れ替えのタイミングになっていた。

 

(……ほんと、こういうときだけ見てるんだよなぁ)

 

心の中で苦笑しつつ、優里は端っこの椅子に腰掛けた。

 

チーズケーキを運び、紅茶を注ぐ。

紫音は、フォークで一口だけ切り分け、静かに口へ運んだ。

 

「……美味しい」

 

そのひと言で、疲労が一気に報われる。

 

クラスメイトたちは、遠巻きにその様子を眺めながら、ひそひそと囁き合っていた。

 

「可愛いっ……!」

「なにあれ、尊い」

「身分違いの恋みたい」

「今の美味しいの言い方、破壊力やばくなかった?」

 

葵がため息をつく。

 

「ねぇ優里」

 

「はい?」

 

「プロポーズしたりしないの?」

 

「しません!………………………………多分…」

 

ーーー

 

昼過ぎ。

人の波が少し落ち着いたころ、クラス委員がふと思いついたように言った。

 

「ねぇ、名雪さんって……メイド服、着てみたりとか……」

 

「却下です」

 

優里が即座に割り込む。

 

「なんで優里が答えるの」

 

「紫音さん忙しいし、そういうの慣れてないし」

 

「……慣れてないのは見れば分かるけどさ。本人の意思聞いてみないと」

 

クラスの視線が一斉に紫音へ向かう。

 

「……メイド?」

 

紫音は、自分の服の裾を少しつまんで見た。

 

「そう。ほら、うちのクラスの衣装、予備もあるし。良かったら記念に着てみませんかって話で」

 

「記念」

 

その言葉に、紫音の指がリングをそっとなぞる。

 

「……優里にだけ、見せるなら」

 

さらっと言われた条件に、教室の空気が一瞬止まった。

 

「え、ずるくない!?」

「……それはありだ」

「写真撮らせてくれたら、なんでもいいです」

 

結局、優里以外に写真を保存されないように、優里だけに見せたうえで、優里の撮った写真を見せるという条件で、話はまとまってしまった。

 

ーーー

 

「本当に、いいんですか?」

 

校舎の一番端、小さな準備室。

普段は掃除用具や予備の机が詰め込まれているだけの部屋を、クラス委員が今日だけ片付けてくれていた。

 

「……優里が、見たいなら」

 

メイド服を抱えた紫音は、少しだけ首をかしげる。

 

「見たいか見たくないかで言えば、見たくないわけがないですけど……」

 

声が勝手に小さくなる。

紫音は、何でもない顔で続けた。

 

「優里にだけなら、平気」

 

そう言われると、断れるはずがなかった。

 

「……じゃあ、わたし、外で待ってますので。着替え終わったら、呼んでください」

 

「うん」

 

準備室のドアを閉めて、優里は廊下側に立つ。

ドアの向こうから、かすかな布擦れの音が聞こえてくる。

 

シャツのボタンを外す音。

ハンガーにかける金属の小さな擦れる音。

布が肌を滑る、微かな気配。

 

(……あ、やば)

 

頭のどこかが、スイッチを切り忘れたみたいに妙な想像を始める。

 

(これ、他人から見たら完全に、好きな人を人気のない部屋に連れ込んで、コスプレさせて、一人で鑑賞しようとしてるヤバいやつでは……?)

 

自覚すればするほど、心拍数が上がる。

 

ドア一枚隔てた向こうで、紫音がメイド服に着替えている。

布の擦れる音が、やけに鮮明に耳に届くたびに、理性が削られていく。

 

紫音の白い肌。

肩の細いライン。

腰の骨ばったくびれ。

控えめな、ふにふにとした胸。

そして、未だ見たことも触れたことも無い、下腹部のその先。

 

(考えるなって言ってるのに……!)

 

頭の中の自分と、自分が喧嘩する。

 

しばらくして、ドアの向こうから小さく声がした。

 

「……優里」

 

「は、はいっ」

 

「……変、じゃない?」

 

「……変じゃないかどうかは見ないと分からないので、開けていいですか?」

 

「……うん」

 

そっとドアを開ける。

 

そこには、紺色のメイド服を着た名雪紫音が立っていた。

名雪紫音だ。天使でも女神でもない。

「名雪紫音」という固有名詞はそれらの比喩すらも軽く凌駕する、最上級の可愛さと美しさの象徴なのだから。

 

白いフリルのついたエプロン。

肩で少しだけ膨らむパフスリーブ。

裾は膝下までの落ち着いた長さで、それでも日常より少しだけ白い足首が見える。

 

いつもの無造作なパーカーと違って、胸元はきちんとボタンが留められていて、

首筋から鎖骨にかけてのラインが、控えめに、しかしはっきりと強調されていた。

 

髪型はいつものように神様みたいな艶と質感によるゴリ押しなのに、レースのカチューシャが乗るだけで、

どこか物語から抜け出してきたキャラクターのように見える。

 

そして、左手の薬指には、いつも通りのリング。

 

メイド服とリングという組み合わせが、想像を軽々と飛び越えてきて、

優里の理性を一気に吹き飛ばした。

 

「……どう?」

 

「……」

 

声帯が機能しない。

 

「優里?」

 

「……あの」

 

「うん?」

 

「世界で一番かわいいです」

 

ようやく絞り出した言葉がそれだった。

紫音は、少しだけ困ったように笑う。

 

「大げさ」

 

「大げさじゃないです。というか、これはもう、可愛すぎてなんかしらの罪状がつくレベルです」

 

思わず近づいてしまう。

フリルの端をそっとつまんで、生地の質感を確かめる振りをしながら、無意識に紫音のことを囲い込むように手を伸ばす。

 

「……似合ってます。似合いすぎてます」

 

「よかった」

 

紫音は、少しだけ頬を赤くした。

 

「じゃあ……」

 

そう言って、ふいに一歩近づく。

距離がさらに、一気に縮まる。

 

優里の目の前まで歩み寄った紫音は、

ほんの少しだけスカートの裾をつまんで、優雅に会釈した。

 

「お待たせしました、お嬢様」

 

「っ」

 

超のつく至近距離で、その言葉を直撃で浴びた。

 

「本日は、どのようなご奉仕をご希望でしょうか?」

 

「ちょ、ちょっと待ってください……!ご、ごほっ……ご奉仕……!?」

 

思わず頭を抱える。

紫音は、くすりとも笑わないまま、しかし明らかにいつもより楽しそうな気配を纏っていた。

 

誰よりも近くでその特別を享受していることが、

嬉しくて、怖くて、どうしようもなく誇らしい。

 

舌がもつれる。

耳まで一気に熱が上がるのが分かった。

 

(ご奉仕って……そんな、ストレートな単語をメイド服で言わないでほしいんですけど……)

 

とはいえ、「何も思いつきません」では終われない。

ここで黙り込んだら、紫音に深く触れるチャンスと理由を逃してしまう。

 

「……え、えっと」

 

視線をさまよわせる。

レースのカチューシャ。白いエプロン。きれいに揃えられた足先。

そして、左手の薬指の銀色。

 

(せっかくだし……ちょっとだけ、いつもの主従逆転ごっこを………………言い方きしょいけど)

 

喉がひとつ鳴った。

 

「あの……では、一つ目のご奉仕、お願いしていいですか」

 

「うん」

 

「わたしの、手の甲に……キスしてもらっても、いいですか?」

 

言った瞬間、自分で自分の言葉にくらっとする。

 

(なに言ってるんだろう、わたし)

 

けれど紫音は、ほとんど瞬きもせずに、小さく頷いた。

 

「お嬢様の、ご命令なら」

 

そう言って、すっと一歩近づく。

 

視界が、メイド服の紺色と白いフリルでいっぱいになる。

紫音は、優里の前で自然に片膝をついた。膝をつく動作すら、どこか儀礼的で美しい。

 

「失礼します、お嬢様」

 

そっと、優里の手を取る。

指先が触れた瞬間、びくりと肩が跳ねた。

 

(だめだ……心臓の音、絶対伝わってる……)

 

紫音は、そんな優里の動揺をからかいもしない。

細い指で、優里の手の甲をやさしく支え、そのままゆっくりと顔を近づけた。

 

吐息が、かすかに肌に触れる。

次の瞬間、柔らかな温度が、手の甲にそっと押し当てられた。

 

キスというより、祈りのような、ほんの一瞬の触れ方。

けれど、そこに乗っている紫音の体温も、かすかな呼吸も、全部まとめて、優里の頭の中を真っ白にするには十分だった。

 

唇を離した紫音が、上目遣いに優里を見上げた。

 

メイド服のレース越しに覗く首筋と、赤くなっている頬のコントラストが、どうしようもなく綺麗だ。

さらりと落ちてくる銀の髪が、手の甲のすぐ近くで揺れて、サラサラとした感触を訴える。その全部が同時に襲いかかってきた。

 

「……どうでしょうか?」

 

見上げる紫音が首を傾げる。

 

「あっ…わた、わたし…あのっ…」

 

声が上ずる。

手の甲に残った熱が、ゆっくりと脈と一緒に心臓へ登っていくみたいだった。

 

 

それでも、欲は際限なく顔を出す。

 

「……………あっ…あの、では……二つ目の、ご奉仕をお願いしてもいいでしょうか」

 

「二つ目…」

 

紫音が、少しだけ目を丸くする。

 

「……あの、その」

 

言い淀んでから、覚悟を決めて口を開いた。

 

「メイドさんのお嬢様の特権として……後ろから抱きしめさせて、いただけませんか」

 

「……むぅ」

 

自分で言っていて、もうよく分からない理屈になってきた。

 

紫音は、ほんの少しだけ考えるように視線を落とし、

それからくすっと小さく笑った。

 

「……お嬢様は、わがままですね」

 

「ごめんなさい調子乗りました忘れてくだーー」

 

「一回だけ、ですよ?」

 

そう言って、紫音はくるりと背を向けた。

紺色のスカートがふわりと揺れる。

 

細い背中。

白いうなじ。

そこから流れるように続く肩のライン。

 

(……本当に、やるんだ)

 

ごくりと息を飲む。

 

「……失礼、しますね」

 

細い腰にそっと、腕を回した。

 

メイド服の生地越しに伝わる、華奢な身体の温度。

思ったよりも柔らかくて、思ったよりも骨ばっていて、

そこにちゃんと「名雪紫音」という一人の人間がいることを、いやというほど実感させられる。

 

この機会を逃さずに、少しでも合法的に欲望を発散させるべしと、強く身体を押し付けると、胸の前で、自分の手の甲と紫音の指輪がかすかに触れ合った。

 

「……くすぐったい」

 

腕の中で囚われている紫音が、少しだけ肩をすくめる。それでも、もっと抱き寄せる振りをして、紫音の腰周りや脇下の柔らかな感触を味わう。

 

逃がさないように。

誰にも触れさせないように。

 

自分の心臓の音が、紫音の背中越しに伝わってしまうのが恥ずかしくて、

それでも、伝わってほしいと思ってしまう自分も同時にいる。

 

「今だけは、わたしが主ですから」

 

耳元でそう囁くと、紫音の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなる。

その変化が可愛くて、危険だと分かっていながら、優里はもう一度だけ、ぎゅう、と腕に力を込めた。

 

「……ちょっと…優里?」

 

淡々とした声のはずなのに、どこか音程が一段だけ低い。

 

耳元すぐ近くで、紫音の吐息が静かに触れる。

香ってくるシャンプーの匂いと、吐息に混じる紫音そのものの甘美な匂い、

布の擦れる小さな音。

トクトクと、全身で感じる弱々しい心音。

 

(ああ、だめ。本当に、だめ)

 

このまま力任せに押し倒してしまいたい。

だって力では負けるはずもなく、この部屋にしばらく人は来ないのだから。

喉の奥までせり上がってきた衝動を、必死に飲み込む。

 

「……お嬢様」

 

「は、はい」

 

「そろそろ、戻らないと。クラスの人、心配する」

 

「……っ……そうですね」

 

現実に引き戻される。

 

慌てて腕をほどきながら、優里は心の中で、何度も何度も深呼吸をした。

 

(危なかった……もう少しで、本当にラインを踏み越えるところだった)

 

それでも、腕の中に確かにあった重さと温度は、簡単には消えてくれそうになかった。

 

「……ありがとうございます。生きる糧、30年分くらいチャージされました」

 

「そんなに?」

 

「そんなにです」

 

ちゃんと全身を目に焼き付けてから、

優里は深呼吸をして、メイド服のリボンが崩れていないかをそっと直した。

 

「じゃあ、写真撮って戻りましょうか。これ以上2人っきりでいたら、……本当に我慢できなくなりそうなので」

 

「……?我慢?何を?」

 

「……内緒です」

 

数枚だけ、慎ましく、と自分に言い聞かせながら写真を撮る。

本当は百枚でも千枚でも撮りたかったが、それをやると本当に一線を越えてしまいそうだったので、泣く泣く五十枚程度に抑えた。

 

紫音は何も言わず、ただカメラの方を見て、小さく礼のように会釈をしてくれる。

 

「……じゃあ、着替えてくる」

 

「はい。あの、ボタンとかリボンとか、分からなかったら呼んでくださいね」

 

紫音の素肌を見る口実を作りたいだけの自分に苦笑しながら、再びドアを閉める。

さっきよりもあっさりと済んだ布擦れの音がして、数分後にはいつものシャツとスカート姿に戻った紫音が出てきた。

 

メイド服は丁寧に畳まれて腕に乗っている。服は未だ僅かに暖かく、

それだけで十分に「秘密の遊び」を共有した余韻があって、優里は頬の熱が引かないのを誤魔化しきれなかった。

 

ーーー

 

午後。

メイド喫茶のシフトがひと段落したところで、ようやく外に出る余裕ができた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ他のクラス回ってきます。紫音さん、良ければ一緒に」

 

「……うん」

 

校内は、屋台と教室企画でにぎわっていた。

焼きそば、フランクフルト、クレープの甘い匂いが混ざる。

 

「お化け屋敷、人気らしいよ」

 

真央がパンフレットを指差す。

 

「えっ、ホラー系ちょっと……」

 

「行ってらっしゃい」

 

葵が悪い笑みを浮かべた。

 

「カップルの文化祭と言えばお化け屋敷でしょ」

 

「え、いや、その、あの……」

 

「……お化け、怖がれない」

 

紫音がぽそりと言った。

 

「けど、優里となら、きっと楽しいかも」

 

「……」

 

結局、ずるさに負けて、お化け屋敷の列に並んでしまった。

 

暗幕をくぐると、廊下はほぼ真っ暗で、足元だけぼんやりとライトが灯っている。

曲がり角ごとに、クラスメイト扮する幽霊やゾンビが飛び出してきた。

 

「ひっ」

 

分かっていても声が出る。

反射的に、優里は隣の紫音の腕にしがみついた。

 

それに対して、紫音はほとんど無反応だった。

 

「…なんでだろ、動き、全部予測できる」

 

「ずるいですそんな特殊能力発動しないでください」

 

「それに、暗いところは、ステージ裏で慣れてるし…」

 

淡々と言いながら、幽霊役のクラスメイトに軽く会釈までしている。

 

(やばい、わたし一人だけ普通に怖がってる……)

 

出口を抜けた瞬間、眩しいくらいの光が目に飛び込んできた。

胸の高鳴りは、恐怖のせいなのか、隣にしがみついていた腕の感触のせいなのか、分からない。

 

「……ちょっ……ごめんなさい……!」

 

廊下の隅で立ち止まり、紫音の腕からそっと手を離す。

 

「……痛くなかったですか?」

 

「ううん。むしろ……嬉しかった」

 

紫音は、いつもの調子で淡々と答えた。

 

「優里が、怖いとき、わたしを掴んでくれるの、結構好き、かも」

 

「…そういうこと、真顔で言うのやめてください……!」

 

さっき自分がどれくらい必死で抱きついていたかを思い出して、

優里の顔は、暗闇の中にいた時よりも熱くなっていた。

 

ーーー

 

そのあと観たのは、演劇部有志の恋愛劇だった。

 

舞台上で交わされる告白シーン。

夏の終わりで、疎遠になっていた幼馴染がやっと素直になる、という、よくある筋書き。

 

けれど、ラスト近くの台詞が、不意に胸を刺した。

 

『君がどこに行っても、

君がどれだけ遠くを目指しても。

ここに帰ってきてくれるなら、

私はずっとここで待ってる』

 

そんな趣旨の台詞だった。

 

喉の奥が少し痛む。

 

(紫音さんなら、本当にどこにだって行けちゃうんだろうな)

 

世界ツアーも、海外のフェスも、知らない街のスタジオも。

わたしの知らない場所で、わたしの知らない誰かに、新しい世界を見せるみたいに音楽を以て人々を魅了して、同じように胸を震わせてしまうのかもしれない。

それを想像するだけで、誇らしさと、どうしようもない寂しさが同時に胸の奥を掻き回してくる。

 

(それでも……帰ってくる場所くらいは、わたしでありたい)

 

どんな遠くのステージに立っても、どれだけ眩しいスポットライトを浴びても、

最後に肩の荷を下ろして「ただいま」って言う場所は、いつものキッチンと、いつものテーブルであってほしい。

あの台詞の「待ってる」の位置に、自分を重ねてしまった時点で、きっともう逃げられないんだろうな、と優里はひそかに思った。

 

『……好きだよ』

 

舞台の先輩役が、告白する。

 

その一言が、自分の口から出ることを想像してしまって、

優里は膝の上でぎゅっと手を握りしめた。

 

(……ちゃんと、言いたいな)

 

いつかじゃなくて、本当は、今すぐにでも。

紫音の横顔を盗み見ながら、

胸の奥でそっと、そう認める。

 

観客席で隣に座る紫音の横顔を眺めて。

優里は自分の胸の奥から、何かが静かに浮かび上がってくるのを感じた。

 

ーーー

 

屋台の並ぶ中庭では、焼きそばとフランクフルトの匂いが混ざり合っていた。

二人で少し列に並び、適当に見繕ってテーブルに腰を下ろす。

 

「こういうの、食べるの久しぶり」

 

紫音が紙皿の焼きそばを、箸で持ち上げる。

 

「味、どうですかね……。正直、舌が肥えてる紫音さんには、文化祭の屋台とか物足りないかなって」

 

「……そうかな?」

 

紫音は少しだけ考え込むみたいに視線を落とした。

 

「たしかに、すごく美味しい、とは言えないかも」

 

「ですよね……」

 

「でも」

 

そこで、ふっと目を細める。

 

「優里と食べるなら、なんでも美味しい」

 

「……っ」

 

箸が止まる。

 

「それは、…反則では……」

 

「事実を言っただけ」

 

あくまで真顔なのが、逆に致命的だった。

胸の奥がじわじわ熱くなる感覚を誤魔化すように、

優里は焼きそばをひと口頬張る。

 

(塩分多めで、味も濃すぎるのに)

 

今だけは、そのジャンクさですら、甘く感じるようだった。

 

紙コップのジュースを飲みながら、

校庭を走り回るクラスメイトたちをぼんやり眺める。

 

自分の隣で焼きそばを食べているのが、

世界的に有名なミュージシャンだなんて、

ここにいる誰も思っていないだろう。

 

仕事で見せる顔も。

配信で見せる顔も。

メイド服を着て、お嬢様にご奉仕してくれる顔も。

 

全部まとめて、自分だけが知っているつもりでいるこの感覚が、

どうしようもなく甘くてしょうがない。

 

ーーー

 

夕方。

文化祭のクライマックスは、体育館での学生バンドのライブだった。

 

大きなステージの前には人だかりが出来ていて、

熱気とアンプの低音が、床から直接伝わってくる。

 

「人、多い」

 

「ですね……後ろの方からだと、あんまり見えないかも」

 

そう呟きながら、優里は体育館の隅へと紫音を連れていく。

 

「こっち、来てください」

 

「?」

 

体育館の二階には、古びた観覧スペースのようなうろがあった。

普段は開放されていないが、今日は人が溢れたせいで、ここも静かな観客席として開けられている。

 

手すりまで出ればステージが見え、

少し奥まった場所には、古いマットやパイプ椅子が積まれていて、人目も少ない。

 

優里は、その半分影になっているスペースに腰を下ろした。

紫音も隣に座る。

 

照明の光が、遠くのステージを塗り替えるたび、

薄暗いこの場所にも、色違いの影が落ちる。

 

バンドの演奏が始まる。

拙いところもあるが、それでも真剣に音を鳴らしているのが伝わってきた。

 

紫音は、腕を組むでもなく、ただ静かに音を聴いている。

隣からその横顔を眺めていると、ふと、彼女の指が膝の上でわずかにリズムを取っているのが見えた。

 

(ちゃんと、聴いてくれてるんだ)

 

それだけで、何故か自分が褒められたみたいに嬉しい。

 

曲が数曲進み、

最後の方の、少しゆっくりしたバラードが始まった。

 

歌詞は、ありふれた恋の歌だ。

それでも、今の優里には突然、妙に刺さる。

 

『ずっと言えなかった言葉を、今、この音の上に乗せてしまいたい』

 

そんなニュアンスのフレーズが、

体育館の天井に向かって伸びていく。

 

(……言うなら、今なのかもしれない)

 

喉の奥が、きゅう、と鳴る。

 

ここは人目から少し外れた場所で。

ステージの音に紛れれば、自分の声なんて、そうそう誰かに聞こえることはない。

 

隣には、

肩先が触れそうなくらいの距離で、紫音が座っている。

 

リングの光が、ステージ照明の反射で一瞬だけ強く光った。

 

(言いたい)

 

初めて、本気でそう思った。

 

「ずっと一緒にいたい」とか、

「あなたのことが好きだ」とか。

 

そういう、

分かりやすくて逃げ場のない言葉を、

今すぐこの場で、紫音にだけ届く声で、吐き出してしまいたい。

 

息を吸う。

胸の中の空気が、ひりひりする。

 

「……あの、紫音さん」

 

自分でも驚くくらい、小さな声が出た。

 

紫音が、ちらりとこちらを見る。

 

瞳の中に、ステージの光と、体育館の雑多な景色と、そして自分が混ざり合って映っていた。

 

「なに?」

 

いつも通りの、静かな問いかけ。

それが、今だけはひどく重く感じる。

 

「えっと……」

 

言葉が、喉元まで上がってくる。

 

「……紫音さんと一緒にいると、わたし、…なんていうか、その」

 

そこまで言って、

舌が、ぴたりと止まった。

 

当然のことだが、吐き出してしまえば、もう戻れない。

関係性に名前が付いてしまう。

 

紫音の生活の中で、自分の占める位置が、

どこか別の名前に変わってしまうかもしれない。

 

それが怖い。

あまりにも、怖い。

 

今、名前のつかないこの関係でさえ、

こんなにも幸福で、

こんなにも危ういのに。

 

好きという一語を乗せた瞬間、

何かが壊れてしまう未来も、

くっきりと想像できてしまう。

 

「……すごく、楽しいです」

 

代わりに、情けないほど安全な言葉が、口をついて出た。

 

「文化祭、一緒に回れて。……来てくれて、本当に嬉しいです」

 

それはそれで嘘ではないけれど、

本音の何割かを削り落とした、加工済みの感情だった。

 

紫音は、一拍置いてから、小さく頷く。

 

「……わたしも、楽しい」

 

それから、ほんの少しだけ目を伏せる。

 

「優里がそばに居てくれると」

 

「……っ」

 

胸の奥が、また痛くなる。

 

ここで、もう一歩踏み込めればいいのに。

「好きです」とか、「付き合ってください」とか。

 

その一線を越える勇気は、

最後まで、優里の喉を通らなかった。

 

ステージの最後の曲が終わり、

体育館が歓声と拍手で埋まる。

 

手すり越しに拍手を送る紫音の横で、

優里は、自分の膝の上で拳を握り締めながら、

 

(また、逃げた)

 

と、小さく自嘲した。

 

ーーー

 

文化祭が終わるころ、

空はすっかり夕方の色になっていた。

 

片付けの手伝いを一通り済ませてから、

優里は校門で紫音と合流する。

 

「お疲れさまでした」

 

「優里も、お疲れさま」

 

ふたりで並んで歩く帰り道。

校舎の明かりが遠ざかっていく。

 

駅までの道は、

朝とは違う、少しだけ冷たい空気に包まれていた。

 

街路樹の間を抜ける風が、紫音の髪をそっと揺らす。

夕焼けはもう終わりかけで、

代わりに、街灯がひとつ、またひとつと点り始めていた。

 

白銀の髪が、その光を拾って、

時々ほのかに色を変える。

青みがかったり、金色がかったり、

瞬間ごとに別の天体みたいに表情を変えて。

 

この人は、同じ地面を歩いているはずなのに、

どこか現実から半歩だけ浮いているかのような、現実離れした美しさをしている。

 

それでいて、

今日一日、自分の学校の廊下を歩き、屋台の焼きそばを食べ、

自分のクラスの端っこの席で紅茶を飲んでいた。

 

(そんな人が、今わたしの隣を歩いてて、しかも、わたしが案内した文化祭のことを「楽しい」って言ってくれるんだ)

 

それだけで、

喉の奥が少し熱くなる。

 

「……どうでした?…今日」

 

思い切って訊ねてみる。

紫音は、少しだけ考えるように空を見上げた。

 

「優里が笑う声、沢山聞けた」

 

「わたし、そんなに笑ってました?」

 

「いつもより、少し多かった」

 

そう言われて、今日一日を振り返る。

たしかに、気づけば何度も笑っていた気がする。

 

ストーカー呼ばわりされて苦笑いしたときも。

メイド喫茶で「お嬢様」と呼ばれて赤面したときも。

お化け屋敷で悲鳴を上げながら、

結果的に紫音の腕にしがみついてしまったときも。

 

その全部に、紫音は静かに付き合ってくれた。

 

「……今日は忙しいのに、来てくれてありがとうございました」

 

あらためて言う。

 

「本当は、来れないかなって思ってました。だから、廊下で見つけたとき、本気で心臓止まるかと思いましたよ」

 

「……こっそり来るつもりだった」

 

「大失敗してましたけどね……」

 

人だかりの中心にいた姿を思い出して、苦笑する。

同時に、あのとき手を引いた自分の掌の感触が、もう一度蘇る。

 

有名人としての紫音じゃなくて。

音楽家としての紫音でもなくて。

 

生活の中で、自分の作った鍋を覗き込んでくれる人を、

朝、一緒に「いってきます」と「行ってらっしゃい」を交換してくれる人を、守りたかった。

 

「……優里?」

 

「はい?」

 

「さっきの、体育館のところで」

 

唐突に、紫音が切り出した。

優里の心臓が、一瞬で跳ね上がる。

 

「なにか、言いかけてた」

 

「……」

 

ごまかせるほど、

わたしは器用じゃない。

 

「……気のせいですよ」

 

とっさに出てきた言葉が、それだった。

 

紫音は、すぐには何も言わない。

しばらく、夜風の音と、車のタイヤの音だけが続く。

 

数歩歩いてから、

紫音は、少しだけ歩幅を合わせるように距離を詰めた。

 

「優里」

 

呼びかける声は、さっきまでより半歩だけ近いところから。

歩みを緩めて、ほんの一瞬だけこちらに身体ごと向き直る。

街灯の光を受けた神秘的な横顔が、何かを決意したみたいにわずかに強張って、そのくせ、瞳の奥だけはおそるおそる様子を伺うみたいに、さざ波のように僅かに揺れている。

 

告白の前に深呼吸をするときみたいな、そんな微かで硬く、しかし柔らかい間を挟んでから、紫音は静かに口を開いた。

 

僅かに朱に染った頬を、隠すようにふわりと微笑んで。

 

 

 

「……言いたくなったときに、言って」

 

 

 

「……っ!」

 

 

 

紫音はそれだけ言うと、ほんの少しだけ足を止めた。

いつもみたいに視線をすぐ逸らしたりはしない。

代わりに、ゆっくりと優里の瞳を見つめる。

 

かすかに震える息をひとつ吐いてから、ふわりと、普段は絶対に外には見せないだろう種類の微笑み。

それは作り物みたいに整った微笑みじゃない。

目尻がくしゃりと下がって、きらきらと涙をこぼす一歩手前みたいな、子どもじみた満面の笑顔のよう。

…その笑顔の奥に、優里の相反するはずの二つの感情が、まるで同じ音階の上で和音になって鳴っている。

 

 

「……ね?」

 

 

そうして、確認するみたいに、けれど甘えるみたいに、その一音だけが添えられる。

いつもの平板な声よりも半音だけ高くて、少し掠れていて、それでも不思議なくらいよく通る声音だった。

この瞬間この場所でだけ鳴るように調整された、

紫音が紡ぐ、たった一人のための声。

 

白銀の髪が、街灯の光を拾って、ゆっくりと色を変える。

さっきまでただの銀色だったはずのそれが、淡い金色と、かすかな藍色を交互に溶かし込んで、まるで夜空から切り取った星屑と月光をひとまとめに編んだようにきらめいている。

 

すれ違う人々の足音も、遠くを走る電車の低い唸りも、すべてが薄い膜越しの音みたいに遠のいていく。

世界がゆっくりとぼやけて、輪郭を保ったまま残っているのは、白銀と街灯の光をまとった名雪紫音という存在だけ。

冷たい夜気に頬を撫でられながら、優里は一瞬、本気で「ここから先の人生ごと、この一瞬に沈んでしまいたい」とさえ思う。

 

それは、

遠回しな「待ってる」という宣言にも聞こえたし、

「無理に言わなくていいよ」という優しさにも聞こえた。

 

どちらにしても、

優里の胸の奥に、静かに沈んでいく。

 

 

「………はい。その時は、きっと…」

 

 

それが、今の自分に出来る精一杯の返事だった。

 

駅から電車に乗り、

乗り換えて、いつもの最寄り駅へ。

 

夜のホームに吹く風は冷たいが、

隣を歩く紫音の体温を思い出すたび、

少しだけ寒さが鈍くなっていく。

 

マンションのエレベーターに乗り、

いつもの玄関の前に立つ。

見た目だけでも、恋人のように寄り添って。

 

「ただいま、ですね」

 

「……うん」

 

鍵を開けて中に入ると、暖房の効いていない寒々しい部屋が、なぜだが暖かくて仕方がない。

 

靴を脱ぎながら、

さっきまでの文化祭の喧騒が、少しずつ現実から遠ざかっていく。

 

けれど、胸の中のざわめきは、

むしろ静かに大きくなっていた。

 

(確かに、結局言えなかった)

 

体育館の二階のうろで、

喉まで出かかって、飲み込んだ言葉たち。

 

「好きです」も。

「付き合ってください」も。

 

全部まとめて、

まだ胸の底に沈んだまま。

 

それでも。

 

エプロンを付けて、

キッチンに立ち、

いつも通りに夕飯の準備を始める。

 

背後からは、

パソコンを起動する小さな音と、椅子に座る気配。

 

鍋の音。

キーボードの音。

生活の音が、またここに戻ってきた。

 

(……告白できなかったことを、いつか、後悔する日が来るかもしれない)

 

そう思いながらも。

 

(それでも、今はまだ、この名前のつかない距離を、もうしばらく抱きしめていたい)

 

自分の卑怯さも、独占欲も、依存も、全部ひっくるめて。

 

名雪紫音という人間の全部を、いつかわたしだけのモノにできるその日まで。

 

薬指のリングが、台所の照明を受けて小さく光るのを横目に見ながら、

白百合優里は、胸の奥でそっと言葉を繰り返した。

 

(好きだ)

 

言葉にしなかったぶんだけ、

心の中で何度でも、何度でも。

 

(好きだ)

 

鍋から立ちのぼる湯気と、

背後から聞こえるタイピング音と一緒に、

その感情だけは、確かにここにあった。

 

恋を秘めたまま、台所に立つ。

それが、白百合優里に与えられた、ささやかで、どうしようもなく甘い使命だから。

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