天才ロリ(合法)と一般JKの百合   作:( 눈_눈)

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夜更かし、日常

 

2人の締切と締切が重なったある夜のこと。

 

紫音の案件の締切は、明け方四時。

優里のレポート提出期限は、翌朝のホームルームまで。

 

時刻は、午前二時を少し回っていた。

 

リビングの照明は、もうとっくに間接照明だけになっている。

画面の光と、机の上のスタンドライトだけが、夜の底に小さな島みたいな明かりを落としていた。

 

机の片側では、優里がレポートの参考文献とにらめっこしており、

反対側では、紫音がヘッドホンを片耳に引っ掛けたまま、DAWの画面と睨み合っている。

 

キーボードの打鍵音と、ペンの走る音。

時々だけ鳴る、シンセの確認用のフレーズ。

 

集中の音だけが、静かに部屋を満たしていた。

 

ーーはずなのに。

 

「……ん」

 

紫音の側から、不意に間延びした声が漏れた。

 

モニターの光に照らされた横顔は、いつもより少しだけ幼くあどけない。

ヘッドホンを外して、机に肘をついて、こめかみを押さえる仕草も、どこか猫のように緩慢だ。

 

「紫音さん、眠いなら、少しだけ横になっても……」

 

そう言いかけた瞬間。

 

紫音が、ひどく珍しいほど甘えた、掠れた声で呟いた。

 

「……こーひー……淹れて……」

 

言葉が、ほんの少しだけ溶けている。

ろれつが怪しい。いつもの無機質な抑揚ではなく、眠気で端々が丸くなっていた。

 

「……」

 

優里は一拍置いてから、ペンをそっと置いた。

 

(ずるいなぁ、その声……)

 

心の中で苦笑しながら、椅子から立ち上がる。

 

「……分かりました。飲み物淹れてきますね」

 

「……ん……?」

 

「この時間にカフェイン入れたら、明日の朝絶対後悔しますからね」

 

返事の代わりに、小さく「むぅ」としたような唸り声が聞こえた。

甘えた声のくせに、駄々っ子みたいで可愛い。

 

キッチンに立ち、棚からいつものマグカップを二つ取り出す。

紫音の分は、白い陶器に銀のラインの入ったもの。

優里の分は、文化祭の時にクラスメイトから貰った、安っぽい花柄のもの。

 

インスタントのカフェインレスコーヒーを少しだけ。

そこに温かいミルクを多めに注いで、蜂蜜をひとさじ落とす。

 

カップの中で、静かに混ざる茶色と白。

湯気の向こう側で、紫音の方を振り返る。

 

彼女は画面の前で、ペンを持ったまま、完全に停止していた。

 

「……紫音さん?」

 

「……ぅん……起きてる…よ…」

 

まったく起きているようには見えなかった。

 

マグカップをそっと机に置き、紫音の背後に回る。

 

「はい、出来ましたよ紫音さん」

 

声をかけると、紫音はゆっくりと顔を上げた。

 

「……ありがと」

 

両手でカップを包み込むみたいに持つと、ふぅ、と小さく息を吐く。

湯気が白銀の前髪の隙間にふわりと揺れて、ほんの少し頬が赤く見えた。

 

一口、そろりと口に含んで。

 

「……甘い」

 

「蜂蜜いっぱい入れましたから」

 

「……こーひーがよかった」

 

「だめです、生活リズム崩れちゃいますよ」

 

眠気でフィルターが外れたせいか、いつも以上にストレートな物言いだった。

抗議しつつも、そのストレートさがほんの少し嬉しい自分がいる。

 

「……で」

 

優里は紫音の背中を見下ろしながら、声を少しだけ低くした。

 

「飲んだら、十五分だけちゃんと作業して、無理そうだったら寝てください」

 

「……締切」

 

「締切より命が大事です。これは前にも言いました」

 

「……むぅ」

 

不満そうな唸り声。

しかし、完全な拒否ではない。

 

優里は両手をそっと紫音の肩に置いた。

 

「……肩、触ってもいいですか?」

 

「……うん」

 

小さな返事を合図に、指先にほんの少しだけ力を込める。

 

固い。

まるでずっと座りっぱなしの石像みたいに、肩から首にかけてあるかも怪しい筋肉が凝り固まっている。

 

「……石みたい」

 

「……そう、ここの音…固めすぎた、…どうしよーかな……」

 

「……曲の話じゃないです」

 

苦笑しながら、親指で、寝ぼけ眼を擦る紫音の肩甲骨のあたりをゆっくりほぐしていく。

 

紫音は最初こそ微かに身じろぎしたが、すぐに力を抜いた。

 

「…… んぁ…っ………あー…」

 

喉の奥から、堪えきれないみたいな小さな吐息が漏れる。

 

それはいつもの「ふぅん」とか「なるほど」とか、理性的な相槌とは全然違う音だ。

 

肩を揉みながら、優里は内心で軽く頭を抱えた。

 

(期待してなかったといえば嘘になるけど、そんな声、深夜二時に聞かせないでほしいんですけど……)

 

さらに数分揉んだところで、今度はホットタオルを作りにキッチンへ向かう。

タオルを濡らしてレンジで少しだけ温め、軽く絞る。

 

「失礼しますね」

 

そう断ってから、紫音の首の後ろにそっと当てた。

 

「……ぅぁー…………あったかい…」

 

紫音の肩が、ふにゃ、とほんの少し落ちる。

 

「しばらくしたら冷たくなっちゃうので、その前にちゃんと区切りつけてください。いいですね?」

 

「……はい、……んぁ……?」

 

素直な返事に、思わず笑ってしまう。

 

「じゃあ、わたしも頑張ってレポート書きますね」

 

自分の席に戻ろうとして、ふと、もう一度だけ紫音の方を振り返ってしまう。

 

両手でマグカップを包み込んで、ふぅ、と息を吹きかけて。

そのまま、猫舌のくせにそろりと口をつけて、熱さを確かめるみたいに少しずつ飲んで。

飲み込みきる前に、ほんの少しだけとろん、とまぶたが落ちる。

 

その一連の動きが、どうしようもなく可愛らしくて、

ステージの上でビッグスターを演じている時よりも、配信の最中のそっけない彼女よりも、ずっとずっと幼くて無防備だった。

 

世界中のファンは、きっと誰もこの顔を知らない。

夜中の二時に、締切と眠気と戦いながら、蜂蜜ミルク片手にふにゃふにゃしてる名雪紫音なんて。

 

ヘッドホンを片耳に引っかけたまま、前髪が少しだけ崩れて。

こめかみを指で押さえる仕草も、いつもの無機質なクールさなんてどこにもなくて。

それでもカップの縁にそっと触れている親指のあたりで、薬指のリングだけがちいさく光っている。

 

(こんなの、誰にも見せたくないに決まってるじゃないですか)

 

自分でも笑ってしまうくらい、独占欲丸出しの感情が胸の奥で転がる。

 

本当は、この眠たげな横顔を、三百六十度、ありとあらゆる角度から写真に撮ってしまいたい。

まぶたの落ちる瞬間と、頬が少し赤くなる瞬間と、飲み終わったあとのほっとした表情と、

全部まとめて保存して、いつでも取り出して眺められるようにしておきたい。

 

ステージの紫音も、配信の紫音も、きっと誰かに共有するために作った顔だ。

でも、こうして締切前に溶けかけてる紫音や、蜂蜜ミルクでごまかされている紫音や、

半分寝言みたいな声を出す紫音だけは、どうか、最後まで自分だけのものだと思っていたい。

 

リングを嵌めてしまった指を見ていると、なんだかその欲張りな願望すら、どこか許されているような気がしてしまうから、たちが悪い。

 

(……こんな顔見せてくれるくらいには、ちゃんと信頼されてるって、思ってもいいですよね……きっと)

 

甘えた声も、眠そうな目も、世界一かわいい駄々っ子みたいな「むぅ」も。

その全部を、誰よりも近くで受け止める役目を、自分が引き受けられているのだとしたら。

 

締切に追われる夜すら、たぶん、わたしにとってはご褒美みたいな時間なんだ。

 

ーー

 

ホットタオルの熱がすっかり引いた頃、時刻はさらに三十分ほど進んでいた。

 

外の世界はとっくに深夜の静けさに包まれているが、この部屋だけはまだ、ペンの音とキーボードの音で微かに震えている。

 

ふと、リビングの時計を見上げた紫音が、小さく息を吐いた。

 

「…うそ……………にじはん……?」

 

「ですねぇ……」

 

優里も画面から顔を上げる。

 

「……ねぇ」

 

紫音が、今度は少しだけ声を落として呼びかけてきた。

 

「……すこし、話す?」

 

唐突な提案だった。

 

たしかに、作業の詰まりを解消するには、時にはちょっとした休息も必要で、それはまさに今必要に思えた。

 

それにーー

 

(夜中の囁き声で、ちょっとだけくっついたまま話するの、絶対楽しい)

 

自分の中のどうしようもない本音が、すぐに答えを出した。

 

「……じゃあ、少しだけ雑談タイムということで」

 

椅子を少しだけ紫音の方へ寄せる。

互いの肘掛けが触れ合う程度の距離。

 

紫音も、椅子をほんの少しだけ回転させて、優里の方へ身体の向きを変えた。

 

あとは、お互いの顔を少し寄せれば、耳元で囁ける距離。

 

「……もし」

 

紫音が、小さな声で口を開く。

 

「いつか、仕事、落ち着いたら」

 

「はい」

 

「どこ、行きたい?」

 

ストレートな問い。

 

普段なら、「落ち着く前提で話さないでください」とか、「仕事はきっと一生続きますよ」とか、何かしら理屈っぽいことを言ってしまいそうになる。

 

でも、今は深夜で。

囁き声で。

お互いに、少しだけ理性の輪郭が溶けている。

 

「……紫音さんは?」

 

逆に問い返すと、紫音は少しだけ視線を彷徨わせた。

 

「……海の近く」

 

「海?」

 

「音が、好き」

 

波の音。

潮騒と風と、遠くの人の声。

そういう雑多な音を、たぶん彼女は「素材」としても、「風景」としても好きなのだ。

 

「……じゃあ、海の見える宿、とか行きたいですね」

 

優里は、囁きながら言葉を選ぶ。

 

「紫音さん、朝弱いですけど……無理やり起こして、一緒に朝焼け見たいです」

 

「むりやり……」

 

紫音の口元が、ほんの少しだけ緩む。

 

「……優里は?」

 

「……わたし、ですか?」

 

「うん」

 

少しだけ迷ってから、優里は正直に言った。

 

「……温泉、行きたいです」

 

「温泉」

 

「一緒に、お風呂入れるじゃないですか」

 

「……」

 

紫音の視線が、一瞬だけこちらに向き、そのままそっと逸れた。

 

照れの反応が、囁き声越しでも分かる。

 

「……そんなに、一緒に入りたい?」

 

「そ…その……」

 

思わず変な声が出そうになったのを、慌てて飲み込む。

 

「………………はい、一緒がいいです…」

 

「大浴場で、優里と露天風呂……」

 

「想像しないでください今は」

 

囁き声だけなのに、どんどん顔が熱くなるのが分かる。

 

「……あとは」

 

苦し紛れに話題を変える。

 

「紫音さん、海外はどうですか?」

 

「ツアーで、少しだけ行ったこと、ある。でも、空港と会場とホテルの往復ばかり」

 

「じゃあ、ちゃんと観光で行きたいです。どこか、行ってみたい国とか、あります?」

 

「……寒いところ」

 

「寒いところ?」

 

「コート着て、マフラーして。

外は寒いけど、室内はすごく暖かい、みたいなの、好き」

 

なんとなく、分かる。

 

外の空気で冷えた頬が、室内でじんわり解けていく感じ。

手袋を外して、室内のマグカップに触れたときの温度差。

 

「それも、いいですね……」

 

囁きながら、優里はそっと視線を落とした。

 

紫音の左手。

キーボードの上に、軽く置かれている薬指のリングが、スタンドライトの光を小さく跳ね返している。

 

(……この人の、隣の席が、いつでも私の指定席でありますように)

 

世界中どこへ行っても。

どんなホテルで寝ても、どんなスタジオで泊まり込んでも。

同じフロアの、同じ空気の中に自分がいて、同じ鍋を覗き込める関係でありますように。

 

そんな、祈りに近い願望が、言葉にならないまま胸の中で膨らんだ。

 

「……それで」

 

紫音が、また囁く。

 

「仕事、落ち着いたら。……一日、なにもしない日も欲しい」

 

「なにもしない日」

 

「ライブも、締切も、レポートも、何もない日」

 

「いいですね……」

 

「ソファで、一日中だらだらして。音楽流して。

たまにキッチン行って、優里が作るスープ飲んで……」

 

「……想像が具体的ですね」

 

囁き声だけの会話は、どこか夢の中みたいだった。

 

その夢の中で描かれる未来が、あまりにも甘くて、静かで、沈み込むほど優しかった。

 

(……本当にそんな日が来たら、わたし、きっと逃げられないな)

 

束縛だとか、依存だとか、そういう名前のつく感情を全部引き受けてしまっても。

彼女のソファとキッチンとベッドの半径数メートルの世界に、例えずっと閉じ込められてしまっても。

 

それでもいいと、心のどこかが本気で思ってしまう。

 

「……ねむい」

 

不意に、紫音がぽつりと言った。

 

「……それは、そうでしょうね」

 

「コーヒー……効かない……」

 

「蜂蜜ミルクですからね……」

 

紫音のまぶたは、もう半分以上落ちている。

画面に映る波形も、十五分前からほとんど動いていなかった。

 

「……紫音さん。ソファに移動しますよ」

 

「ここで……」

 

「ここで寝たら、起きたとき身体バキバキですよ」

 

「……ん」

 

半分寝ている人を立たせるのは、なかなか骨が折れる作業だったが、

肩を支えて立ち上がらせ、リビングのソファまで連れていく。

 

ふかふかのクッションに背中を預けた瞬間、紫音の身体から、ふっと力が抜けた。

 

「毛布、持ってきますね」

 

ベッドの背もたれにかけてあったブランケットを引き下ろし、紫音の膝から肩にかけてそっとかける。

 

それで一件落着……のはずだったのに。

 

自分の机に戻るために振り返ろうとしても、ソファの端に空いたスペースが、やけにこちらを誘ってくるように見えた。

 

(……ダメだって分かってるのに)

 

レポートの残りは、あと結論と参考文献の整理だけ。

ここまで来れば、少しだけ休憩しても間に合うだろう。

 

それくらいの言い訳を、自分に向けて用意するのは、簡単だった。

 

「……ちょっとだけ」

 

誰にともなくそう呟いてから、優里はソファの反対側に腰を下ろした。

 

毛布の端を少し引き寄せ、自分の膝にも掛かるように調整する。

 

夜中のリビング。

時計の針の音と、冷蔵庫の微かな駆動音だけが聞こえる。

 

横を見ると、紫音はもうほとんど眠りに落ちていた。

 

前髪が少しだけ崩れて、額にほんの小さな影を作っている。

長いまつげが、頬に薄い影を落としていた。

 

左手は、胸のあたりでゆるく握られていて、リングだけがそこから小さく顔を覗かせている。

 

心の中で、小さく毒づいた。

 

(こんな顔見せてくるの、反則だ)

 

世界で一番好きな人が、世界で一番無防備な顔で、

自分のすぐ横で眠っている。

 

毛布一枚を共有して。

ソファの背もたれに背中を預ければ、肩と肩がそっと触れ合う距離で。

 

手を伸ばせば、簡単に抱きしめられる距離。

実際、少し寝返りを打った紫音の頭が、優里の肩にコトンと寄りかかった。

 

「……っ」

 

慣れることなんてない。

いつものように心臓が、妙なリズムを刻み始める。

 

逃げるように身を引こうとしたけれど、

紫音が完全に自分を枕代わりにして寝てしまっている以上、動けば起こしてしまう。

 

(……動けない……)

 

完全に、捕まってしまっていた。

 

紫音の髪からかすかに香る甘い匂い。

頬に触れる体温。

肩越しに伝わってくる、かすかな呼吸。

 

全部が、優里の理性をじわじわと溶かしていく。

 

ほんの数秒だけ、躊躇した。

 

頭のどこかが、冷静に。

けれど、それとは別の場所で、もっと原始的でどうしようもない欲求が、小さく、しかし執拗に鳴り続けていた。

 

(触れたい。ちゃんと、抱きしめたい)

 

気づけば、右手がそっと動いていた。

肩に凭れかかっている紫音の、さらに腰の方へと回り込んでいく。

 

細い腰にそっと腕を回す。

パーカーの上からでも分かる、華奢なライン。

ほんの少し力を込めただけで折れてしまいそうなほど脆く見えるのに、実際に抱き寄せてみれば、確かな重みと温度が、しっかりとそこにある。

 

反対側の手も、ゆっくりと紫音の背中へ滑らせる。

肩甲骨の少し下あたり、ちょうど自分の胸の前に来る位置で、両腕をそっと組むようにして回す。

 

力任せではない。

壊れ物を包むみたいに、でも決して離れないように確かめるみたいに、少しずつ力を増していく。

 

紫音の身体が、腕の中でわずかに沈み込んだ。

 

やわらかい。

けれど、ところどころで骨の硬さが指先にふっと触れる。

肩甲骨の丸み。背骨の細いライン。薄い布越しに伝わる肋骨の起伏。

 

呼吸に合わせて、胸がゆっくり上下しているのが分かる。

その動きが、そのまま優里の腕に伝わってくるたび、生きているという事実だけが、いやになるほど露わになった。

 

頬には、紫音の髪が触れていた。

さらさらとした銀色の束が、動くたびに静かに擦れて、細い糸の束を撫でているみたいな感触を残していく。

鼻先には、髪の甘い匂いと、布と肌が混ざったような、紫音そのものの匂いが、淡く、しかし確かに立ちのぼっていた。

 

腕の中の紫音は、最初こそほんの僅かに身じろぎをしたが、それきり完全に力を抜いた。

逃げようとするでもなく、身構えるでもなく、ただ優里の胸元に、自分の体重を預けてくる。

 

左手の甲のあたりで、ひやりとした小さな感触がした。

見なくても分かる。布団の上ではなく、今は自分の腕に預けられている、そのリングだ。

 

薄いスウェット越しに感じる体温。

指先に触れる金属の冷たさ。

頬をかすめる髪の感触。

胸元で、紫音の心臓が、とく、とく、と規則正しく刻むリズム。

 

それら全部が、一度に押し寄せてくる。

 

心の中で、観念したように息を吐いた。

 

世界で一番好きな人を、犯したいのに犯したくない線の手前で、ただ、優しく抱きしめる。

 

その矛盾だらけの行為を、優里は、腕の中の重さごと静かに受け入れた。

 

(このまま、世界が止まればいいのに)

 

本気で、そう思った。

 

時計の針も、外の車の音も、スマホの通知も。

締切も、レポートも、朝のアラームも。

 

全部まとめて凍りついて、

このソファの上だけが、永遠みたいに続いてくれたら。

 

きっと、わたしは喜んでこの人に沈んでいく。

 

(……でも)

 

腕の中で眠る顔を見つめながら、優里は、深く、ゆっくりと息を吐いた。

 

(わたしが、それを望んだら、この人の未来を丸ごと握り潰すことになる)

 

ライブハウスも、ツアーも、新しいアルバムも。

知らない街のステージも、まだ出会っていない誰かの涙も。

 

それら全部を見ないまま、

紫音を自分だけの狭い世界に閉じ込めることになる。

 

それは、きっと、名雪紫音という天才に対する裏切りだ。

 

(……だから、止まらないで)

 

心の奥で、さっきとは正反対のことを願う。

 

(どうか、進んでほしい。遠くへ行ってほしい)

 

そのうえで。

その遠い世界から、毎回ちゃんと帰ってきてくれるなら。

 

このソファに、キッチンに、わたしの傍に、

「ただいま」と一緒に戻ってきてくれるなら。

 

そのとき初めて、

世界が一瞬だけ止まってくれたらいい。

 

(……わたしも、きっと…結構ずるいな)

 

自嘲気味に笑ってから、優里はそっと紫音の頭を支えた。

 

自身の胸に沈み込む頭をゆっくりと外し、ソファの背もたれのクッションへ移動させる。

 

「……紫音さん」

 

小さく名前を呼んでみる。

 

返事はない。

代わりに、細かな寝息だけが返ってきた。

 

「ごめんなさい。ちょっとだけ、動かしますね」

 

囁きながら、優里は紫音の身体を慎重に抱き起こす。

 

細い肩の下に腕を滑り込ませ、膝の裏にもう片方の腕を通す。

いつか高熱の夜にもやったお姫様抱っこ。

 

軽い。

抱き上げるたびに、この人の身体の脆さと、それを支えている自分の腕の重さを、嫌でも意識させられる。

 

だからこそ、危うくて。

だからこそ、ちゃんと守らなきゃと思う。

 

寝室のベッドまで運び、そっとシーツの上に降ろす。

部屋の明かりを落として、枕元の小さなスタンドだけ点けた。

 

毛布をかけ直し、肩のあたりまで優しく引き上げてから、

最後に、リングの嵌まった左手を、そっと布団の上に置いてやる。

 

眠りを邪魔しない程度に、その指先に自分の指を軽く絡める。

 

「……おやすみなさい、紫音さん」

 

囁いて、一拍置く。

 

胸の奥で、さっきから燻り続けている熱が、喉のあたりまでじわりとせり上がってきた。

 

眠り姫のように穏やかな寝顔を眺め、ある思いつきが我慢ならぬと飽和する。

 

今なら。

今だけなら。

 

この人は、絶対に起きない。

どれだけ近くで何を言っても、きっと気づかない。

 

ひたすらに耽溺してたまらない想い。

どんなに言い訳したってきっと逃れられない想いを、押し付けてぶつけるように、刷り込むように。

ただ、ゆっくりと。

 

 

 

「…………………………大好き、です」

 

 

 

自分でも驚くくらい、か細い声だった。

 

それでも、言葉になった瞬間、胸の奥のどろりとした感情が、少しだけ形を変えた気がした。

苦くて、重くて、どうしようもなく甘い塊が、喉を通って外に出ていく。

 

「……紫音さんのことが、大好きです」

 

今度は、ほんの少しだけはっきりと。

指先に絡めた手に、そっと力を込める。

 

そこまで言って、苦笑がこぼれる。

 

こんなこと、起きている紫音にはとても言えない。

 

変わってほしい自分と、

変わってほしくない自分が、同じ胸の奥で喧嘩している。

 

返事はない。

あるのは、規則正しい寝息のリズムだけ。

 

その沈黙に、優里は勝手に甘える。

 

「…………本当に………大好きですよ、紫音さん」

 

もう一度だけ、同じ言葉を重ねる。

 

それは、告白というにはあまりにも片側だけの祈りで、

でも、心の底に溜め込んでいた澱をすくい上げるには十分な、一滴の音だった。

 

絡めていた指を、そっとほどいた。

 

本当は、そのまま手を握っていたかった。

本当は、隣に潜り込んで、一緒に眠ってしまいたかった。

 

でも、それをやってしまったら、何かの境界線が曖昧になってしまう気がして。

 

リビングに戻り、ソファの毛布を自分の膝にかけ直す。

スタンドライトを少しだけ暗くして、レポートの画面を再び開く。

 

苦笑しながら、キーボードを叩き始めた。

 

胸の奥では、まださっきの「世界が止まればいいのに」という感情が、ほの暗い熱を保ったまま燻っている。

 

それでも、指は現実の締切と向き合うべく、淡々と文字を紡いでいく。

 

何も起こらない夜更かしの夜。

起承転結のどこにも紡げやしない当たり前の一幕は、しかし甘くて暖かい。

 

自分の感情が綺麗なものではないことは自覚していて、だからこそ、 ただ高潔たらんとする。

 

敢えて言おう。

傍に居れるだけで、きっと十分幸せなんだ。

 

ーーー

 

ーー翌週の土曜日。

 

珍しく、カレンダーに何の予定もない日が、二人分ぴたりと重なった。

 

当たり前のように前の日から荷物を抱えて転がり込んで。

成人女性の部屋で寝落ちした女子高生の顔に、冬の陽がゆっくり差し込んでいく。

 

目覚ましをかけないまま夜を越えて、

カーテンの向こうから差し込む光で自然に目を覚ましたのは、朝の八時過ぎだった。

 

冬のはじまりの陽光は、やわらかくて、どこか低い。

白いカーテン越しの光が、部屋の輪郭をゆっくりと起こしていく。

 

隣の布団からは、規則正しい寝息が聞こえていた。

 

少しだけ乱れた前髪。

布団の中に隠れた左手のあたりで、小さく光るリング。

 

しばらくそのまま眺めていたい衝動を、何とか飲み込んで、優里は静かに布団を抜け出した。

 

キッチンで水を飲み、顔を洗う。

鏡に映る自分は、寝癖こそ少し残っているものの、思ったほど疲れてはいなかった。

 

「……よし」

 

気合を入れ直して、リビングに戻る。

 

休日の朝。

テレビも点けず、スマホも触らないままの静けさは、平日の朝とはまるで空気が違う。

 

(せっかくだし、ちゃんとした朝ごはん、作りたいな)

 

心の中で決めて、冷蔵庫を開ける。

 

卵。ベーコン。チーズ。

昨日の夜に仕込んでおいた野菜の下ごしらえ。

食パンも、紫音が「いつか使う」と言って買っておいたままになっている。

 

「……ふふ」

 

時々、頑なに変なこだわりを見せる紫音を思い出し、一人で少し笑ってから、優里はエプロンを結んだ。

 

トーストと、スープと、サラダ。

ついでに、目玉焼きも。

 

完全に、休日の朝の「ちゃんとした朝ごはん」だ。

 

まな板の上でレタスの葉をちぎっていると、背後から足音がした。

 

「……ん」

 

少し掠れた声。

振り返ると、寝癖をそのまま引きずった紫音が、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらキッチンに入ってきていた。

 

パジャマ代わりのゆるいTシャツとスウェット。

完全に、ステージの上の「名雪紫音」とは別種の生き物だ。

 

「おはようございます」

 

「……おはよ」

 

まだ完全には覚醒していない瞳をこすりながら、紫音は冷蔵庫の方へ歩いていく。

 

「なに、作ってるの?」

 

「スープとサラダとトーストと、目玉焼きです」

 

「……朝ごはん、みたい」

 

「朝ごはんですからね」

 

鍋にオリーブオイルを落とし、玉ねぎのみじん切りを入れて炒め始めたところで、

紫音がぼんやりと食パンの袋を手に取った。

 

「トースト、やりたい」

 

「…できますか?」

 

「焼くだけ、だから」

 

そうは言うが、この人は油断すると平気で炭を生成するタイプの人間だ。

とはいえ、せっかく申し出てくれているのを断るのも惜しい。

 

「じゃあ、見てますから。焦がさないでくださいよ?」

 

「……努力する」

 

トースターに食パンを入れ、ダイヤルを回す紫音。

その後ろで、優里は鍋の玉ねぎをゆっくりと炒め続けた。

 

じゅう、と音を立てて、玉ねぎの水分が飛んでいく。

しんなりして甘い匂いが立ち上がる頃には、紫音の方からちょっと焦げた匂いが漂ってきた。

 

「紫音さん……」

 

「……まだ、セーフ……」

 

慌ててトースターのレバーを上げる音。

出てきたトーストは、端がほんのりと色濃くなっていた。

 

「……ギリギリですね」

 

「……香ばしい」

 

「ポジティブですね……」

 

そんなやり取りすら、休日の朝の空気だと妙に楽しい。

 

スープには、炒めた玉ねぎにベーコンとコンソメを入れて、少しだけ煮込む。

サラダには、レタスとトマトとゆで卵を散らす。

 

コンロの空いたスペースで、フライパンに油を落とし、卵を割る。

 

優里は完全半熟派だ。

黄身がとろとろに流れて、パンにしみこむのが好き。

 

一方、紫音は、黄身の表面がちゃんと白くなっていて、でも中は柔らかいくらいが理想らしい。

 

フライパンの上で卵がぷくぷくと広がっていく。

白身が固まり始めたところで、優里は紫音側の卵にだけ蓋を乗せた。

 

数分後、テーブルには、トースト、目玉焼き、サラダ、スープが揃って並んだ。

 

休日の朝の光を受けて、白い皿とカップが淡く光る。

 

「では」

 

椅子に腰掛けた二人は、顔を見合わせる。

 

「……いただきます」

 

声を揃えて言っただけなのに、本当に、何か別の名前の生活をしているみたいだった。

 

新婚とか、夫婦とか、そういう言葉を冗談でも口に出したら、

きっと恥ずかしすぎて逃げ出したくなる。

 

だから、何も言わない。

言葉にしない代わりに、一つ一つの動作を噛みしめる。

 

スープを一口飲む紫音が、「……美味しい」と呟くのを聞いて、胸の奥がじんわり温かくなる。

黄身をパンに絡めて食べる優里を見て、紫音が「……それも美味しそう」と小さく呟くのも嬉しい。

 

「紫音さんの目玉焼き、どうですか?」

 

「……ちょうどいい」

 

「よかったです」

 

「でも、優里のも、一口」

 

「どうぞ」

 

そう言ってから、ようやく「どうぞ」の中身を考えていなかったことに気づく。

 

(あ、これ、どうやって……)

 

自分の皿の方の目玉焼きは、すでに黄身を少しだけ崩して、パンに絡めて食べている途中だった。

白身の端を、さっきまで自分が口をつけていた箸でちょん、とつまんで持ち上げる。

 

(……この箸……わたしの唾液が…)

 

当たり前といえば当たり前の事実が、今さらになって全力で主張してくる。

 

このまま差し出せば、

「さっきまで自分の口に入れていた箸を、手ずから紫音さんの口に入れる」

という構図になるわけで。

 

一度意識してしまうと、もう箸先が妙に生々しく感じられる。

ついさっきまで黄身をすくっていた先端が、光を受けてつやりと光っているような気がして、余計に変な汗がにじんだ。

 

「……あ、の。口、あけて、もらっても……?」

 

自分でも情けないくらい、声が上ずる。

 

紫音は、特に何も気にしていない様子で、素直に顔をこちらに向けた。

 

「……ん」

 

小さく口を開ける。

あくまで淡々とした動作なのに、恥ずかしげもなく晒される、柔らかそうな舌と白い犬歯が妙に艶めかしい。

 

覚悟を決めて、箸をそっと紫音の口元へ運ぶ。

 

唇のすぐ手前で、一度だけ動きが止まった。

さっきまで自分の舌が触れていた場所と、今そこにある紫音の唇の距離が、急に具体的な数字を持って迫ってくる。

 

あと数センチ。

あと、ひと呼吸。

 

「……失礼します」

 

自分でもおかしいくらい、改まった言葉を添えてしまってから、そっと紫音の口に滑り込ませた。

 

柔らかい唇が、箸先をいったん受け止め、それからそっと閉じる。

箸を引き抜くとき、ほんの一瞬だけ、その舌の感触が箸越しに伝わってきた気がして、背筋がぞわりと震えた。

そして自分の唾液混じりのそれを、紫音が咀嚼し、こくりと飲み込む瞬間、形容しがたい感情がじわじわと湧き上がってくる。

 

「……どう、ですか?」

 

「……ん。優里の方も、美味しい」

 

感情を誤魔化すように口に出せば、紫音はいつも通りの、抑揚の少ない声でそう言ってくれる。

けれど、その口元の端がほんの少しだけ緩んでいるのを見てしまったせいで、優里の頭はもうまともに回っていなかった。

 

(落ち着け落ち着け落ち着け……ただのあーんです。ただの……)

 

動揺を誤魔化すように、無意識に、何かを口に運ぼうとする。

 

普通なら何も考えずに、そのまま自分の口へ運んでいたはずだ。

けれど、さっきの一連の流れを見てしまった目は、もう余計なことしか考えてくれない。

 

(この箸、今度は紫音さんの唾液が付いてるんですよね……)

 

「さっきまで自分が口をつけていた箸」から、

「さっきまで紫音さんの口に入れられていた箸」へと、認識が入れ替わってしまっている。

 

持ち上げた卵の端が、箸先で小さく揺れる。

それだけの光景なのに、胸の鼓動がさっきより一段階早くなっているのが分かった。

 

「……優里?」

 

「っ、な、なんでもないです」

 

不思議そうにこちらを見る視線から逃げるように、優里は覚悟を決めて、そのまま箸を口に含んだ。

 

かすかな塩味と一緒に、

舌の上で妙に強い存在感を放つ、ほとんど味のしないなにか。

 

甘くも酸っぱくも、しょっぱくもない。

それなのに、どうしてこんなに胸の奥がざわざわするんだろう。

 

(……なにやってるんですか、わたし)

 

心の中で自分にツッコミを入れる。

 

間接キスなんて、きっと世間一般で見ればたいしたことのない、ただの高校生カップルあるあるだ。

なのに、自分の場合は相手が名雪紫音で、自分たちの関係にはまだ名前がなくて。

だからこそ、たったそれだけの出来事が、まるで何か重大な禁忌を踏み越えたかのように胸に刺さってくる。

 

箸をそっと横に置きながら、優里はこっそりと視線を上げた。

 

紫音は特に何も気づいていないのか、トーストの端をゆっくりと齧りながら、器の中のスープを見ている。

 

さっきまで自分が間接キスに悦んでいたなど、一ミリも認識していないような顔だ。

 

(……ずるい)

 

胸の中で、また同じ言葉が浮かぶ。

 

何気なく求められた「一口」と、

それをきっかけに勝手に暴走する自分の心拍数。

 

誰も見ていないところで、

誰も知らないところで、

二人だけの小さな秘密がひとつ増えたような気がして。

 

それが少しだけこそばゆくて、

それ以上に、どうしようもなく嬉しかった。

 

事件なんて何も起きない、ただの朝ごはんなのに。

 

それでも、優里にはそれがたまらなく尊く感じられた。

 

食べ終わった皿をシンクに運び、簡単に洗いものを済ませる。

そのあとは、自然な流れでソファへ。

 

リビングのスピーカーからは、紫音が最近気に入っている落ち着いたプレイリストが流れ始める。

Lofiとアンビエントのあいだみたいな曲が続いて、部屋の空気をゆっくり撫でていく。

 

「今日、一日どうします?」

 

ソファに並んで座りながら、優里が訊ねる。

 

「どこか、出かけたいところとかあります?」

 

「……ない」

 

「即答……」

 

「外、寒い」

 

「まぁ、たしかに……」

 

窓の外では、街路樹の枝が少しだけ揺れている。

晴れてはいるが、風が冷たそうだ。

 

「じゃあ、映画とかどうですか? 家で」

 

「いい、ね…」

 

紫音は、ソファの背もたれに少しだけもたれかかる。

 

「なに観る?」

 

「紫音さん、気になってる作品とかあります?」

 

「たくさん、ある。忙しかったし」

 

「ですよね……」

 

結局、配信サービスのリストを眺めながら、「少し前に話題になってた恋愛映画」に落ち着いた。

 

映画を流しながら、二人で同じブランケットを膝にかける。

ソファの隙間はほとんどなく、自然に肩が触れ合う距離、どころかまるで腕を組んでいるかのような距離で。

 

途中で、紫音がふと呟く。

 

「……こういうの、苦手だった」

 

「こういうの?」

 

「朝ごはん作って、映画観て……何もしない休日」

 

それはたぶん、本人も自覚しない本音だった。

 

「……できてますよ。今」

 

「うん。……不思議」

 

紫音は、スクリーンの方を見たまま、少しだけ目尻を緩める。

 

「仕事のこと、考えない時間、苦手だった」

 

「そうなんですか?」

 

「何もしないと、不安になって。……でも、今は」

 

そこで言葉を切り、ちらりと優里を見る。

 

「きっと優里がいるから、平気」

 

「……っ」

 

胸の奥が、またひとつ鳴った。

 

映画のストーリーは、たしかに面白い。

けれど、優里にとって一番鮮やかなのは、隣にいる人間の横顔の方だった。

 

(この人とだったら……)

 

映画を観て、ソファで並んで、

時々仕事に戻って、また一緒にお茶を飲んで。

 

そんな生活を、何年、何十年と続けていく未来が、自然に、容易に想像できてしまう。

 

(本当に、結婚生活、できちゃうんだろうな)

 

名前がついていない関係のまま、それを想像してしまう自分は、やっぱりどこか危うくて、ずるい。

 

でも、きっと紫音もどこかで同じことを考えているのだろう、という確信めいたものが、今日の空気には確かにあったんだ。

 

映画を観終わったあとも、結局二人は外には出なかった。

 

お昼は、冷凍ピザをオーブンで焼いて、サラダを添えるだけの簡単なもの。

午後は、紫音が少しラフにフレーズを書き溜める間、優里はその隣で本を読んだり、宿題をしたりした。

 

夕方には、二人でまたキッチンに立って、今度はカレーを仕込む。

煮込み時間のあいだに、ソファで並んでうとうとして、気づいたときにはブランケットを半分こして抱き合ったまま、夕方の薄暗い光の中で少し眠っていた。

 

目を覚ましたとき、紫音の指輪が、カーテン越しの薄い光を拾って小さく光った。

 

(……ああ)

 

胸の奥で、何かが静かに決定事項として形を結ぶ。

 

(わたし、本当に、この人とならやっていける)

 

締切も、ツアーも、疲労も、不安も、全部ひっくるめて。

朝ごはんも、昼寝も、夜更かしも、ソファのうたた寝も。

 

その全部を、一緒に過ごせてしまう。

 

言葉にする勇気は、まだない。

未だに、「結婚」とか、「一生」とか、そういう重い言葉をこの場で投げるほど、優里は大胆ではない。

 

けれど、今日一日の静かな時間が、

その重さを、ひとつひとつ丁寧に手のひらに載せてくれる。

 

事件も何も起きない休日。

それでも、二人の中では確実に何かが進んでしまう休日。

 

キッチンから漂ってくるカレーの匂いを吸い込みながら、

優里はソファの背もたれに頭を預けて、静かに目を閉じた。

 

(……好きだ)

 

まだ、伝えることはできてない。

伝えたくて、分かって欲しくて仕方がないのに、それでも秘める、たった3文字の想い。

心の中で、何度でも繰り返す3文字の想い。

 

(この人と、こういう日を、何度も重ねたい)

 

それがきっと、

白百合優里にとっての「結婚」のイメージそのものなのだろう。

 

リングの光と、鍋の音と、ソファの沈み込み。

その全部の上にそっと積み重ねられていく、未来の感触。

 

何も起きないことほど、恐ろしく尊くて、甘いものはなく。

そのことを、今日一日で、深く理解してしまったのだ。

 

…きっと、二人とも。

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