熱に浮かされた夜は、いつもより静かだった。
その静けさを、ひとつひとつ確かめるように壊していくのは、時計の針の音と、時々喉の奥から漏れる咳だけだ。
ソファの上、薄手のブランケットにくるまった優里は、ひゅうひゅうと少し荒い呼吸をしていた。
額には冷えピタを貼り、頬は不自然なほど赤く、目尻だけが妙に潤んでいる。
「……ごめんなさい……本当に平気だったんですけど……」
最初に「ちょっとだるいかもです」と言ったときさえ、優里は苦笑していた。
けれど、紫音はその額に手を当てた瞬間、即座に表情を変えた。
指先に伝わる熱が、冗談で済ませていいものではなかったからだ。
「三十八度八分」
紫音は体温計を確認し、そのままキッチンの方へすっと向かった。
いつもならこの時間、仕事のデータが乱立するはずのデスクの画面は真っ暗なままだった。
「……おかゆ、作る」
「え、あの、それは……」
淡々と。けれど、どこか決意めいた固さを含んだ声。
紫音が炊飯器の蓋を開ける音がする。
残っていたご飯をよそい、水を足して、鍋の中へ。
かき混ぜる木べらの音と、水面を撫でるしゃばしゃばという感触の音だけが、静かなキッチンで小さく響いた。
優里はブランケットを掴んだまま、それをぼんやりと聞いていた。
(……紫音さん、おかゆなんて作れるかな…)
当たり前で当然だが、紫音は料理をしない。
デリバリーと優里の献身で生きてきた人だ。
そんな人が、真夜中に、鍋の前で火加減に悩んでいる。
想像しただけで、罪悪感と、…それからたまらない愛しさが一緒くたになって胸をぎゅうっと掴んでくる。
「……ごめん、なさい……」
ぐちゃぐちゃの心情を軽くせんと思わず小さく漏れた声に、キッチンからすぐ「なんで?」と返ってくる。
紫音は振り返らないまま、弱火に落としたコンロのつまみを見つめていた。
その後ろ姿に、紛うことなきある感情を抱いたと言ったら、流石に盲目的すぎるだろうか。
ーー
十五分ほどして、やっとそれらしいとろみのついたおかゆが出来上がった。
「……ちょっと、かき混ぜすぎたかも」
木べらの先端でそっとすくってみて、紫音は小さく呟いた。
少し粘度が高くなりすぎた気もするが、ともかくも粒はちゃんと残っている。
鍋の中に卵を割り入れて、白身がふわりと散るくらいだけざっと混ぜる。
火を止めて、余熱で少しだけ固めてから、器によそう。
リビングへ持って行く前に、紫音は一瞬だけ立ち止まり、スプーンを握ったまま小さく深呼吸した。
人の世話をするのは苦手でも、今この時だけはそうも言っていられないんだと、言い聞かせるみたいに。
「……優里」
ソファの側まで戻ってくると、優里は半分目を閉じて、天井をぼんやり見ていた。
「……起きられそう?」
「……はい……多分……」
身体を起こそうとして、思った以上に力が入らない。
ぐらりと視界が揺れた瞬間、背中にそっと手が回った。
「ゆっくりで、いいから」
紫音が、片手で器を持ったまま、もう片方の腕で優里の上体を支えてくれる。
背中に触れる手は思ったよりも細いのに、驚くほど安定していた。
クッションを背もたれに当てて、半分座ったような姿勢を作ると、紫音はそのまま優里の隣に腰を下ろした。
「……あーん、する?」
「っ……自分で、食べれます……」
反射的にそう答えてしまったが、腕を伸ばそうとした瞬間、力が抜けてスプーンがかちゃりと鳴りながら器に落ちた。
紫音は一瞬だけ目を瞬いて、すぐに何も言わずスプーンを持ち直す。
「……じゃあ、今日は、わたしが」
匙に少しだけおかゆをすくって、ふう、とゆっくり息を吹きかける。
白くて柔らかい湯気が、紫音の吹く息に揺れて優里の顔の前でふわりと揺れた。
「……どう?」
「……大丈夫、そうです」
「じゃあ……」
スプーンが、そっと優里の唇の前に差し出される。
どこかで見たことのある構図。
けれど……
(扱いが、完全に幼児か何かでは……)
心の中で抗議しながらも、喉は正直だった。
おかゆの匂いが、空腹を静かに刺激する。
「……いただきます……」
諦め半分で口を開けると、紫音は慎重にスプーンを口の中へ滑り込ませた。
とろりとした米粒と、半熟の卵と、ほんのちょっとだけの塩気。
特別な味付けがあるわけではないのに、その温かさだけは、今まで食べたどんな高級料理よりも沁みるような温度だった。
「……美味しい、です」
「……よかった」
紫音の声が、ほんの少しだけ緩む。
「まだ食べられそう?」
「はい……」
何口か繰り返すうちに、ようやく胃が働き始めた気がした。
熱で朦朧とする頭の中にも、じんわりとした温かさが身体に広がっていく。
器の底が見え始めた頃、紫音がふと時計の方へ視線をやった。
「……薬」
傍らのローテーブルには、すでに市販の解熱鎮痛剤と水の入ったグラスが用意されている。
「ご飯、ちょっと入ったから。……飲める?」
「……はい」
紫音は箱を開け、錠剤を一錠だけ取り出した。
一度だけグラスに口をつけさせ、優里の唇を軽く湿らせた。
次に、錠剤を指で摘まんで、優里の唇の前にそっと持っていく。
「……口、あけて」
「……っ、」
このシチュエーションに既視感しかない自分が嫌になる。
さっきから受動の連続だ。スプーンに続き、今度は薬まで。
それでも、熱に浮かされた身体は、変なプライドより必要なものを優先してくれる。
そっと口を開けると、錠剤が慎重に舌の上に落とされた。
すぐにグラスが差し出される。
「一回で、飲める?」
「……頑張ります……」
喉の奥で水と一緒に薬を流し込む。
飲み込む瞬間、紫音の指がほんの一瞬だけ顎を支えた。
「……えらい」
ぽつりと漏れたその一言が、変に胸のどこかに刺さる。
抗議したい気持ちもあったが、もう声にする力が残っていなかった。
薬を飲み切ったのを確認すると、紫音はグラスをテーブルに戻し、少しだけ息を整えてから立ち上がった。
「……汗かいてる、ね」
言われてみれば、パジャマの襟ぐりが肌に張り付く感覚がある。
熱が高いせいもあって、全身がじっとりと湿っていた。
「……気持ち悪い、でしょ」
「……まぁ……」
言葉を濁すことも出来たが、ここまで世話を焼かれてしまった以上、見栄を張る気にもなれなかった。
「タオル、もってくる」
紫音はそう言って、バスルームの方へ向かう。
その背中を見送りながら、優里は何となく嫌な予感を覚えた。
(まさか……)
まさかとは思う。でも、紫音は「汗をかいている」と言った。
そして今からタオルを持って戻ってくる。
つまりーー
(わ、わたしの身体、拭く気、ですよね……)
結論に辿りついた瞬間、熱とは別種の体温が一気に首筋まで駆け上がってきた。
ーー
濡らして絞ったタオルを数枚持って、紫音は静かにリビングに戻ってきた。
手には、たたまれた清潔なバスタオルも一枚。
「……ベッド、行こ」
ソファの上で腰を起こしているだけでも一苦労だ。
紫音はそれを読みとったのだろう。
支えられながら立ち上がり、ふらつく足取りのまま寝室へ移動する。
その手つきが妙に丁寧で、かえって不安になる。
「……優里」
「……はい」
「パジャマ……脱がす。……上だけ」
淡々とした声。
必要以上に揺らぎがなくて、それが余計に心臓に悪い。
「……じ、自分で……」
「大丈夫」
反論の隙がなかった。
…実際、パジャマのボタンを触ろうとしても、指先がうまく言うことをきいてくれない。
熱と脱力で、動作全部がひどく緩慢になっている。
「……見ない、ようにする」
「そういう問題じゃ、ないんですけど……」
紫音は、少し息を整えてから、そっとパジャマのボタンに指をかける。
ひとつ、ふたつ。
上から順に外していく指先は、驚くほど器用で、無駄な動きが全くない。
けれど、肌に触れる空気の感覚は、やけに鮮明だった。
大好きな紫音に服を脱がされているというシチュエーションが優里の単純な煩悩を唆し、しかし熱持った頭はぼんやりとしていて、なんだかそれが勿体なくも感じるようで、心の中で「重症だなぁ」とただ呟く。
鎖骨のあたりがひやりと冷える。
胸の上のあたりまで開いたところで、紫音は一度手を止めた。
「……このくらいで、いい」
その状態で、服の下に手を滑り込ませるようにして、湿った布を肌に当てた。
「冷たかったら、ごめん」
「だ、だいじょぶ……です」
覚悟していたほどには冷たくなかった。
むしろ、火照った肌にはちょうどよい温度で心地よい。
首筋から肩へ。
タオルがゆっくりと滑っていくたびに、そこだけひととき熱が持っていかれる。
優里の肩甲骨付近を、紫音の指がなぞるように動いている。
(なんで、わたしの方が緊張してるんですか)
当の本人は、変わらない調子で「腕上げて」とか「もう少し」とか、ごく事務的なコメントを挟んでくるのみだ。
それが逆に、優里にとっては拷問に近かった。
タオルの下にいる自分の身体と、それを拭く紫音の手の位置を、頭の中で勝手に追跡してしまう。
(今、鎖骨のところで……次、肩……うしろ……背中……)
背中を拭くときには、一度身体を横向きにされる。
タオル越しとはいえ、紫音の手が肩甲骨の内側を通り過ぎるたびに、くすぐったさと妙な電流が同時に走った。
背中を拭き終えたあと、紫音は一度タオルを折り直し、今度はお腹の方へと手を伸ばした。
「おなか、少しだけ」
「っ……」
パジャマの裾が少しだけ持ち上げられる。
おへその少し上あたりから、下腹の手前まで。
タオルがそこをなぞるたびに、腹筋が勝手にぴくぴくと収縮する。
いや、お腹も汗をかいているのだから、拭く必要がある。
理屈では分かっている。
分かってはいるのだがーー
…紫音の指がタオル越しに下腹の境界線すれすれで止まっているのを、敏感すぎるほど鮮明に感じてしまう。
「……これくらいで、大丈夫かな」
その一言に、心臓が変な意味で解放された。
けれど、安心する暇もなく、次の言葉が落ちてくる。
「……首も、拭いた方がよさそう、あと、腕も」
袖口を少しまくりあげて、二の腕から手首にかけて、丁寧になぞっていく。
指先に絡まるほどの汗ではないが、それでもじっとりとした不快感が消えていくのが分かる。
拭かれている感触は、単純に気持ちいい。
それなのに、その気持ちよさの半分が「くすぐったい」と「恥ずかしい」に変換されている気がする。
(紫音さんは……絶対、全然何も考えてないんだろうなぁ……)
ちらりと目をやると、本当にその通りだった。
紫音の表情には、照れも羞恥もほとんど浮かんでいない。
ただ、真剣に「作業」に集中している、いつもの仕事中の顔だ。
かえってそれが、下心や劣情なんかではない心からの愛を感じてしまい、優里の頬をさらに熱くさせる。
首筋を拭くときには、顔が近くなる。
タオルを当てた指が、耳のすぐ下あたりをそっとなぞる。
髪の毛を避けるために、紫音が自然と優里の顔の近くに身体を寄せる。
息が頬にかかる距離。
湿ったタオルと、甘い匂いとが混じって、妙な頭のくらくらと一緒に鼻の奥まで届いた。
(だめ……この距離で顔、見れない……)
視線の行き場に困って、とりあえず天井を凝視する。
そうしている間にも、首筋を撫でるタオルの動きが、じりじりと意識を削っていった。
「……終わり」
ようやくその声が聞こえたとき、優里は内心ひっそりと安堵した。
紫音はタオルを戻し、バスタオルで軽く水気を押さえてから、パジャマのボタンを留め直していく。
さっきとは逆の順番で、ひとつ、ふたつ。
整えられていく布地の感触が、熱に浮かされた感覚を少しずつ現実に戻していく。
「……ありがと、ございます」
「ううん」
紫音は首を小さく振った。
「少し、楽になった?」
「……はい。汗のべたべたは、ずいぶん……消えました」
「よかった」
そう言って、紫音はふと、優里の額にそっと手を伸ばす。
指先が前髪を避けるように滑り、さらりと肌に触れた。
「……さっきより、少しさがってる」
熱を確かめる手つきが、柔らかい。
それだけで、心のどこかがふわりと解けた気がした。
「……水、枕元に置いとく」
サイドテーブルにペットボトルを置き、照明を少しだけ落とす。
ベッド脇のスタンドライトだけが、柔らかく光っていた。
「少し、寝て。……見てるから」
その一言に、思わず笑いそうになる。
「……ずっと起きてるつもりですか?」
「起きてる、つもり」
「…眠くないですか?……」
「……大丈夫」
ぜんぜん大丈夫そうではなかった。
だが、彼女が虚勢を張る理由が、紛れもなく自分なのだと思うと、言いようの無い幸福感に満ちて、真剣そうな顔すらも、ただただ愛おしい。
…つくづく自分は相当な「名雪紫音中毒」なのだと、今更ながら思う。
「……じゃあ、ちょっとだけ……寝ますね……」
「うん」
掛け布団を肩まで引き上げてくれる手が、やさしく背中を撫でる。
その感触を最後に、優里の意識は静かに沈んでいった。
ーー
次に目を開けたときには、すでに窓の外が淡く白んでいた。
カーテンの隙間から差し込む冬の朝の光が、部屋の輪郭をゆっくりと起こしていく。
喉の痛みはまだ少し残っている。
けれど、昨夜のような頭の重さは、だいぶ薄れていた。
「……」
ぼんやりと天井を見上げてから、優里はゆっくりと視線を横へ向けた。
…………当たり前のように、すぐ隣に紫音が眠っていた。
同じ布団。
同じ枕ではないけれど、ほとんどくっつくような距離。
昨夜、「見てるから」と言ったはいいものの、眠くなってしまい、そのまま目の前のベッドに潜り込んだのだろう。
シンプルなTシャツの襟元から、細い首筋が少しだけ覗いている。
前髪がほんの少しだけ乱れて、長いまつげが頬に薄く影を落としていた。
左手は、胸のあたりでゆるく握られている。
そこから顔を覗かせるリングが、朝の光を小さく跳ね返した。
(……寝てる紫音さん、可愛いなぁ…)
ひと晩水分を奪われたはずの肌なのに、ほんのり赤みが残っていて、反則級の可愛さだ。
いつものクールな無表情とも、仕事モードとも違う。
深夜二時のふにゃふにゃした顔とも、似ているようでまた少し違う。
完全に無防備な、「名雪紫音」という人間の素の顔が、そこにある。
紫音の呼吸は、規則正しい。
胸元がふわりと上下するたびに、Tシャツの布地がほんの少しだけ引っ張られる。
一瞬、手を伸ばしたくなる。
その衝動を、胸の奥で必死に飲み込んだ。
……求めれば、彼女はきっと戸惑いながらも応えてくれるだろう。
それくらいには、大切に思われている自覚はある。
もし優里が、今ここで理性を投げ捨てて、「欲しい」と言ってしまったら。
紫音は、迷いながらも手を伸ばしてしまうくらいには、きっと優しい。
でも本質的には、名雪紫音という人間の愛情は、どこまでも高潔だ。
自分の欲より、相手の体調や、未来や、仕事や、自尊心を大事にしてしまう。
独占欲はちゃんとあるのかもしれないが、それでも自分のためだけに誰かを縛ることだけは、嫌がるんだ。
(……だからこそ、好きなんですけど)
世界一不器用で、世界一まっすぐな愛のかたち。
その透明さに、何度も救われてきた。
だから、本当はーー
その透明な愛を、自分の手で濁らせてしまうのが怖かった。
もし、この人と本当の恋人になってしまったら。
今こうして、何も知らない顔で眠っている名雪紫音の、高潔さごとこちら側へ引きずり込んでしまう気がする。
紫音さんの愛は、ちゃんと綺麗なままでいてほしい。
心のどこかでは、本気でそう願っているのに。
同じくらい強く、むしろそれ以上に強く、
いつか、その綺麗な愛を、わたしだけのものにしたい。
とも思ってしまう。
他の誰でもない、自分のためだけに、理性を外してほしい。
世界中のどんなステージよりも、どんな喝采よりも、優里だけを選んで、優里だけを求めて、二人だけの夜に腕の中で名前を呼んでほしい。
そうやって、身体の関係なんて一言では到底言い切れないほど深いところまで、二人で触れ合って、探りあって、沈みあってしまいたい。
けれど、心の中でさえ、それを望めば望むほど、
紫音の愛の透明さに、こちらの手のひらの方が汚れている気がしてならない。
答えは、とっくに分かっていた。
高熱でぼんやりした頭でも、確かにこの衝動だけはごまかせない。
この距離で、腕を伸ばせば、それだけで簡単に。
今、胸の前でゆるく握られたその左手ごと、乱暴に引き寄せてしまえば、それだけで。
でも、それをやってしまった瞬間に、
「名雪紫音の高潔な愛」を、自分の欲望で上書きしてしまう。
(……だから、我慢、しなくちゃいけない)
わたしが手を伸ばしたせいで、紫音の未来や音楽や誇りが、どこか別の色に染まってしまうのだけは、それだけは絶対に嫌なんだ。
高潔な愛を守りたいのに、
その愛の矛先が、誰でもない自分の身体にまで届いてしまう未来を、諦めきれない。
そんな矛盾を抱えたまま、優里は、伸ばしかけた手をいったん胸の上で握りしめた。
代わりに、ほんの少しだけ。
自分の手を、紫音の握りしめている左手のあたりまで、ゆっくりと、ゆっくりと近づけていく。
布が擦れる小さな音すら、やたらと大きく聞こえた。
指先が、ほんの少し冷たいものに触れる。
リングではなく、その少し上。薬指の根本あたり。
そこでいったん動きを止めてから、ごく自然を装って、自分の指を紫音の掌にそっと絡めた。
握り込むのではなく、「そこに置く」程度。
でも、布団の中の自分にとって、その差はほとんど意味をなさない。
実際には、これはほとんど「手を繋いでいる」に等しい。
(……っ)
想定していたより、ずっとひんやりした温度が伝わってきた。
昨夜はずっと看病をしてくれていたのだから、紫音だって疲れているはずだ。
それなのに、優里の手に触れる指先は、まるで力を抜いたまま寄りかかるみたいに、そのまま何も変えずそこにいてくれた。
(ごめんなさい……起こしたくないのに……)
罪悪感と、どうしようもない喜びが、同じ胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざる。
今度は、布団の上からそっと紫音の肩に腕を回した。
陽だまりみたいな温度が、すぐそこにある。
ほんの少し身体を寄せるだけで、二人の距離は簡単にゼロになりそうだった。
少しだけ身体を押し付けるような姿勢になってしまうのを、自覚しながらも止められない。
紫音の肩の硬さと、そこに重なる筋肉の薄い感触が、布越しに伝わってきた。
さらに欲をかいて、ほんの少しだけ腕の力を強める。
抱きしめる、というより、逃がさないような腕の回し方だった。
(だめ……これ以上は、本当にだめ……)
頭のどこかで冷静な自分が、危険信号を鳴らし始める。
それでも、紫音は起きない。
あるいは、起きる気配がまだない。
そこで、頬に触れる髪の毛が、微かに動いた気がした。
紫音の呼吸が、すこし深くなった音がする。
(起きる……?)
一瞬焦ったが、紫音のまぶたはまだ閉じたままだった。
それなら、と、もうほんの少しだけずるをする。
肩に回した腕を、背中の方へ滑らせていく。
肩甲骨のあたりで手を組むようにして、少しだけ引き寄せる。
完全に、抱きつく形になっていた。
……でも、紫音の方から抗議の一つも飛んでこない以上、今のところは、寄り添って寝ている人たちとして扱ってもらえるはずだ、と、意味の分からない理屈で自分を慰める。
紫音の心臓の音が、顔を埋める控えめな胸越しにかすかに伝わってきた。
自分の心臓が、それよりずっと速いテンポで鳴っていることも、自覚する。
息を潜めたまま、何度かゆっくり瞬きをした。
(これ以上動いたら、さすがに、起きちゃう……)
それが分かっても、やめられない。やめられる気がしない。
世界で一番好きな人を、超えたくない線の手前で。
それだけで、身体の中でどうしようもない何かが、じりじりと膨らんでいくのを感じた。
そのときだった。
「……ん……」
紫音の喉から、小さな寝息とも、声ともつかない音が漏れた。
まつげがぴくりと震える。
(やば、)
反射的に、優里は目を閉じた。
さっきまで見上げていた紫音の寝顔が、まぶたの裏にそのまま焼き付いて、逆に頭の中で鮮明になってしまう。
(どうしようどうしようどうしよう……)
腕を解くべきか、このまま固まるべきか。
パニックの中、選んでしまったのは後者だった。
抱きついているのが不自然にならないように、ほんの少し腕の力を緩める。
それでも、完全には離さない。
「寝ぼけて掴んだまま」という設定に、全力で自分を寄せていく。
紫音のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる気配がした。
距離が近すぎて、目を開けていたら確実に目が合ってしまう。
だから、どうしても開けられない。
「……優里…?」
寝起きの掠れた声が、すぐ耳元で落ちた。
心臓が、一瞬止まる。
(バレてな……い?)
返事をしないことに必死になりながら、呼吸だけはなんとかそれらしく整える。
数秒の静寂。
そのあと、ふい、と小さな笑い声が零れた。
「……ふふっ…」
それは、聞いたことのない種類の笑い声だった。
ステージの上でも、配信でも、日常の会話でも出さない、
どこか甘えるみたいないつもの平板な声より、半音だけ低くて、なのに柔らかく可愛らしい。そんな声。
冬の朝、まだ誰も踏んでいない雪の上を、そっと最初に踏んだときの、きゅっ、という感触にだけ許される、あの音みたいな声。
胸の奥が、ぎゅうっと掴まれる。
寝たふりをしている以上、反応してはいけない。
そう分かっているのに、全身の神経が一斉にそちらへ向いてしまう。
次の瞬間、頭の上に、そっと温度が降ってきた。
紫音の手が、まるで壊れ物を撫でるみたいに、優里の髪に触れる。
指先で前髪を少しだけ避け、額から頭頂部にかけて、ゆっくりと撫でていく。
何度も、何度も。
撫でられるたびに、頭皮がじんわりと温まっていく。
それと一緒に、胸の中の何かがぐずぐずに溶けていく。
「……よかった」
ぽつり、と、小さな言葉が落ちた。
さっき夜中に確かめたときと同じように、
でも今度は、看病する人としてだけじゃなく、うんと個人的で優しい響きを含んだ声だった。
頭を撫でる手が、そのまま後ろへ滑っていく。
紫音の反対の腕が、布団の上から優里の背中に回される。
ゆっくり、ゆっくりと引き寄せられる。
今度は、完全に紫音のほうから抱き締め返されていた。
(やば……)
紫音の腕の中に収まる形になる。
いつも自分のほうがしていたことを、今は逆にされている。
紫音の顎が、優里の頭の少し上あたりにそっと触れる。
吐息が、髪を通して微かに伝わってきた。
「……よく、頑張ったね」
耳元で囁くみたいな声。
その一言に、胸の奥の何かが決定的に崩れた。
(…………)
心の中では、何度も何度も叫んでいるのに、
身体はまるで別人のものみたいに、ぴくりとも動けなかった。
目を閉じたまま、紫音の心臓の音を聞く。
背中を撫でる手のひらの、一定のリズムを感じる。
身体は、紫音の腕の中で大人しくしていることを選んだ。
今この瞬間だけは、何も壊さず、何も変えず、ただこの抱擁の中に沈み込むことを許してしまいたかったんだ。
いつか、この胸の奥の熱を、きちんと言葉にする日が来るのだろうか。
その未来のことを考えるには、まだ体温も鼓動も、きっと少しだけ高すぎるから。
世界で一番好きな人の腕の中で、
息を潜めたまま、優里は小さく、自分だけに聞こえる声で心の中に呟いた。
……いつものように。
(……大好き、です)
この人の高潔な愛が、汚れて欲しくないのに、汚れて欲しい。
崇拝と所有欲と罪悪感と救いが、ぐちゃぐちゃに混ざった色のインクになって、胸の中の小さな器から、今にもこぼれ出しそうに揺れている。
もしそれを零してしまえば、名雪紫音という清らかなページの上に、取り返しのつかない染みが広がってしまうかもしれないのに、その染みを「幸せ」と呼んでしまう未来を、はっきりと想像してしまう。想像できてしまう。
わたしの一生はきっと、このどうしようもない矛盾を抱えたまま続いていくのかもしれない。
……いいや、むしろ続いて欲しいんだよ。
だって、その矛盾ごと「幸せ」と呼べる未来を、わたしはまだ手放せずにいるのだから。
冬の陽光。
僅かな寒気と、それから守ってくれるのは、高級そうな毛布と、最愛の人。
言葉にしなくてもきっと伝わる。
形にしなくたってきっと幸せだ。
甘い匂いの中、腕に力を込めて、柔らかな胸に顔を押し付けながら、どろどろに抱える矛盾ごと貴女に伝わりますようにと、ただ願う。
差し込む朝日が、2人のこれからを見守るように、1日の始まりを告げていた。
…今日はどんな紫音さんが見られるのだろうか。