感想欄が暖かくて、心ポカポカです。
エビ好きと百合好きに悪いやつは居ない。
その夜のリビングは、いつもより少しだけ緊張していた。
照明は柔らかく落として、代わりにリングライトとモニターの光が、白銀の髪を淡く縁取っている。
いつもの作業机の向こう側に、今日はカメラ用の三脚と、小さなミキサーと、オーディオインターフェイス。
ピアノの横にはギタースタンド。その足元には、ケーブルが一本も絡まないよう、優里がさっきまで這いつくばって整えたラインテープがある。
「マイクの位置、これで大丈夫ですか?」
「……うん。ありがとう」
紫音は、ヘッドホンを耳に半分だけ掛けながら、いつもの無表情に見える顔で小さく頷く。
けれど、その指先だけは、かすかに落ち着きなくマグカップを撫でていた。
「そんなに緊張してます?」
「……海外の人と、リアルタイムで一緒に弾くの、はじめて」
「でも、音源は何度か一緒に作ってるんですよね?」
「うん。でも今日は、生で、配信で、同時に」
言葉を区切りながら、紫音はモニターの一角に映っている海外側の配信画面を見つめる。
カウントダウンオーバーレイの下、チャット欄には英語のコメントがすでに流れ始めていた。
“Can’t believe we’re getting Shion x Ethan LIVE?!”
(紫音とイーサンの生コラボとか信じられないんだけど!?)
“It’s 6am here but worth it.”
(こっちは朝6時だけど、それだけの価値ある)
日本側の配信画面にも、コメントがぽつぽつ現れ始める。
『ついに海外勢とがっつりコラボか……』
『時間帯えぐいけど絶対観る』
優里は、ノートPCを膝に乗せたまま、二つの配信画面を行ったり来たりする。
カメラのプレビュー、音量調節、すべて、今日に限っては紫音のための現場監督だった。
「……そろそろ、始める」
紫音がマウスに手を伸ばし、「Start Streaming」のボタンをクリックする。
カウントダウンがゼロになる直前、優里はそっと紫音の肩に触れた。
「大丈夫です。いつも通りやるだけで、きっと世界中が惚れ直しちゃいますから」
紫音は、ほんの一瞬だけこちらを見て、小さく、けれど確かに微笑んだ。
「…うん…がんばる」
その一言を合図のように、配信が始まった。
ーー
「Hi, everyone. This is Shion, streaming from Tokyo, Japan.」(皆さんこんばんは。東京から配信している、紫音です)
紫音の英語は、優里が聞いても「もう日本人じゃない」と思うくらい滑らかだった。
母音の伸び方も、子音の切り方も、驚くほどクリアに聞こえる。
「Thank you so much for tuning in this late… or this early, depending on where you are.」(こんな夜中……あるいは朝早くに来てくれて、ありがとう)
日本側のチャットがすぐに反応する。
『英語スラスラで草』
『発音よすぎて逆に聞き取れないやつ』
『なんで当然のようにバイリンガルなんだ?』
海外側のチャットも一気に加速した。
“Her English is so smooth??”
(英語めちゃくちゃ滑らかなんだけど??)
“That accent is adorable and deadly at the same time”
(アクセントが可愛いのに致命的なんだが)
“Tokyo represent!”
(東京代表!)
画面が二分割され、もう片方に海外のギタリスト——Ethanの姿が映る。
金髪を無造作に結び、大型のセミアコースティックギターを抱えた青年が、カメラに向かって笑った。
「Hey, hey! What’s up everyone, this is Ethan from Berlin. So hyped to finally play with Shion live.」
(やあやあ、みんな元気?ベルリンからのイーサンだよ。ついに紫音と生で一緒に演奏できてマジで興奮してる)
紫音も、ほんの少しだけ表情を和らげて応じる。
「Thank you for inviting me, Ethan. I’ve been a fan of your tone for a long time.」
(呼んでくれてありがとう、イーサン。あなたの音色、ファンだった)
「Oh, come on, you’re gonna make me blush on my own channel.」
(やめてよ、自分のチャンネルで照れさせないで)
海外チャットがすぐさまざわつく。
“Shion said his a fan, I’M SCREAMING”
(紫音がファンって言ったんだけど、叫ぶ)
“Collab of the year already”
(今年一番のコラボ)
“I love how polite she is omg”
(この礼儀正しさほんと好き)
セットリストの簡単な紹介が英語で交わされる。
「So tonight we’re gonna play a few songs we both love, right?」
(今夜は、お互いが好きな曲を何曲かやるんだよね?)
「Yes. Some you might know, some are from my own catalog. And one… special one we’ve never played together before.」
(うん。みんなが知っている曲もあれば、わたしのオリジナルも少し。それから……まだ二人で弾いたことのない特別な曲も)
「Ooooh, mystery. I like that.」
(おぉ、ミステリーだ。いいね)
優里には、ところどころしか聞き取れない単語がある。
「mystery」とか「special」とか、意味が分かる単語だけ拾って、何となくの意味を推察するしかない。
「……最初は、バラードから始める」
紫音がカメラに向き直り、日本語で補足する。
「わたしの曲の中でも、柔らかめのやつを。イーサンさんが、すごく素敵なギターを入れてくれるので、楽しみにしてて」
『同時通訳助かる』
『柔らかめのやつってどれだ……』
『オリジナルからか、最高』
紫音は一度深呼吸してから、鍵盤の上にそっと指を置いた。
ーー
一曲目が始まった瞬間、空気が変わった。
ピアノの最初の一音が鳴る。
静かな夜の部屋に、信じられないほど澄んだ音の粒が、均一に、しかし冷たすぎない温度で広がっていく。
力任せに叩くのでもなく、やたら感情に寄せるのでもなく。
鍵盤の重さと速度を、まるでミリ単位で測っているみたいなタッチだった。
そこに、少し遅れてイーサンのギターが重なる。
海外のプロギタリストの音も、当然のように上手い。
けれど、優里の耳には、紫音のピアノの方が、明らかに世界の中心で鳴っているように聞こえた。
指が動く。
それはもう、鍵盤の上を滑っている、という表現では足りない。
音符ひとつひとつが、ちゃんと重さと輪郭を持っているのに、
それらが流れていくと、まるで一枚の布のように継ぎ目なく繋がっていく。
日本のコメントが一気に流速を上げる。
『最初の一音でもうやばい』
『音が綺麗すぎて』
『タッチどうなってるんだこれ……』
海外のコメントも、ほとんど同じタイミングで爆発した。
“Her dynamics are INSANE”
(ダイナミクスが狂ってる)
“The control… every note is intentional”
(コントロールがやばい……すべての音が意図的)
“How is her tone this clean AND emotional at the same time??”
(なんでこんなにクリーンで、しかも感情まで乗ってるの??)
紫音の表情は、ほとんど変わらない。
ただ、まぶたの動きと、息を吸うタイミングだけが、僅かに音楽とリンクしている。
右手と左手が、まるで別々の人格を持っているみたいに絡み合う。
低音は決して濁らないのに、薄くもならない。
高音は鋭すぎないのに、ちゃんと天井を突き抜けていく。
(やっぱり……)
優里は、モニターを一通り確認してから、そっとヘッドホンを片耳だけ当てた。
(この人の音楽は、世界のどこに出しても恥ずかしくないどころか、きっと簡単に、てっぺんに届いちゃうんだ)
誰一人として追いすがれやしない演奏を見せつけるような一曲が終わると、イーサンが笑い混じりに息を吐いた。
「Okay, okay, I knew you were good, but… this is illegal.」
(いやいや、知ってたけどさ……これは反則でしょ)
「I’m just playing my own song.」
(…自分の曲を、普通に弾いただけ)
「Yeah, and that’s the problem.」
(ああ、それが問題なんだよ)
海外コメント欄がそれに乗って笑う。
“PROBLEM: she’s too good”
(問題:上手すぎること)
“I need that as a quote on a T-shirt”
(その台詞Tシャツにしよう)
“Shion illegal in 72 countries confirmed”
(紫音、72か国で違法演奏確定)
日本側も負けていない。
『イーサンさんド正直で好き』
『違法演奏で草』
『72か国は足りない』
次の曲では、紫音が歌う番だった。
マイクスタンドの高さを少しだけ調整する必要がある。
優里はすっと立ち上がり、カメラフレームの端ぎりぎりを通って、紫音の前へ回り込む。
「ちょっとだけ、上げますね」
「……うん」
日本側のチャットが即座に反応する。
『サポート優里きた』
『このマネージャー感よ』
『彼女さんお疲れさまです』
海外側も、突然現れた黒髪の女子高生にざわついた。
“Who’s that girl adjusting the mic?”
(マイク直してるあの子だれ?)
“Assistant? Manager? Girlfriend??”
(アシスタント?マネージャー?ガールフレンド??)
“She just appeared like a wholesome ninja”
(忍者みたいにスッと現れた)
優里は、英語の流れが速すぎて、半分も拾えない。
とりあえず、スタンドのネジを締めながら、小さく「失礼します」とだけ呟く。
帰り際、紫音がマイクに向かって英語で補足した。
「By the way, that was Yuuri you just saw. She helps me with… basically everything off-camera.」
(さっき見えたのは優里です。配信の裏側のこと、ほとんど全部手伝ってくれてる)
海外チャットが再び沸く。
“Yuuri!! Cute name.”
(ユウリ!可愛い名前)
“Off-camera girlfriend energy”
(画面外ガールフレンド感)
“They look so good together, what the heck”
(あの二人めちゃくちゃお似合いなんだけど)
日本側も、すぐさまそれを拾って楽しんでいる。
『off-camera girlfriend energy は草』
『お似合い言われてるよ優里ちゃんw』
『海外ニキ達にもバレてる』
紫音が、ふっと横目で優里を見て、日本語に切り替えた。
「……『すごくお似合い』って、言われてる」
「っ……は、はい!?」
優里は、マイクスタンドから手を離した体勢のまま、硬直した。
紫音はいたずらっぽく笑いながら、そっと囁く。
「お似合いの…カップル、みたい、って」
「やっ、違いますからね!? そういうんじゃ……!」
思考より先に、口が動いた。
頭の中は真っ白だが、なぜか「否定しなきゃ」という義務感だけが先行する。
気づけば、話せもしない英語を口走っていた。
「N-no! We are just… just… housemate. I only… support, yes? Support friend! Not, um… girlfriend…」
日本側チャットが一斉に爆笑する。
『housemate出てくるのすごい』
『Support friend?ww』
『否定がたどたどしくて逆に怪しいやつ』
海外側も、それをちゃんと拾っている。
“SUPPORT FRIEND LMAO”
(サポート・フレンド笑う)
“Girl that’s exactly what a girlfriend would say”
(いやそれ完全に彼女の言い訳なんよ)
“Her accent is killing me, this is too cute”
(このアクセントだけで死ねる、可愛すぎ)
紫音は、そんなチャットを一瞥してから、わざとらしく咳払いをした。
「She says that, but… I don’t really mind, you know.」
(本人はそう言ってるけど……わたしは、別に言われても気にしてないから)
「え、今なんて言いました?」
「……『優里の英語、かわいい』って」
「絶対違うこと言いましたよね!?」
日本語で抗議する優里を横目に、紫音はマイクに向かって、さらりと続ける。
「I kind of have an exclusive deal on her, so don’t get any ideas.」
(優里とは専属契約みたいなものだから……変な気は、起こさないで)
優里には、「exclusive」と「deal」と「idea」が、バラバラの単語としてしか認識されない。
(え、なに、契約……?取引……? なんの話……?)
頭の上に疑問符を浮かべている間に、海外チャットは完全に盛り上がっていた。
“EXCUSE ME???”
(ちょっと待ってくれませんか??)
“Exclusive deal LOOOOL”
(専属契約は笑う)
“Did she just soft-claim her on stream??”
(今、普通に配信で彼女宣言しなかった??)
“Protective Shion is my new religion”
(新しい信仰対象を見つけたぜ)
日本側も、英語に強い勢が即座に日本語訳を投下する。
『『私のものだから諦めて』って言ったぞ今』
『世界に向けて独占宣言で草』
『優里ちゃんだけ気づいてないの最高か』
優里は、その日本語コメントまでは見えていない。
肝心な時に、自分の英語で死にそうになっているからだ。
(うわぁぁぁ……なんでわたし、よりによって“support friend”とか言っちゃったんだろ。意味分かんないし……)
顔の熱を誤魔化すように、そそくさとカメラの外へ退散する。
紫音は、その背中を目だけで追いながら、マイクに向かってほんの少しだけ口角を上げた。
「Alright, let’s go to the next song.」
(さて、次の曲に行こうか)
ーー
二曲目は、有名なジャズスタンダードのボーカル曲だった。
イントロはイーサンのギターから始まる。
ウォームなトーンが、軽く歪みながらも、決して耳を刺さない音量で空間を満たす。
紫音は、マイクの前に座り直し、目を閉じて、息を一度深く吸い込んだ。
歌い出しの一音目。
その瞬間、優里は、配信の存在すら忘れかけた。
ただ声が、まっすぐに出る。
余計なビブラートも、変なクセも一切ない。
それなのに、単純な真っすぐではなく、音程は機械のように正確で、それでいて、聞こえる印象は柔らかい。
揺らさないところはまったく揺れず、ほどきたいところだけ、糸の端をそっとほどくみたいにかすかに震える。
その配分があまりにも的確で、一本一本の音は真っ直ぐなのに、並んだ瞬間に、やわらかいカーブを描いて紫音さんの思い描く光景を幻視すらさせる。
高音域に上がっても、声は細くならなず、かといって、力んで張り上げる感じもまるでない。
喉を使っているのではなく、体全体で音を押し出しているのが、聞いているだけで分かる。
フレーズの終わりで、ほんの少しだけ息を抜く。
そのタイミングも、息継ぎの音の大きさも、すべて計算されているみたいに自然だった。
『音の精度どうなってんの……』
『毎回思うけど、音源より安定してない?』
『生でこれってバグでしょ』
“That pitch is LASER tight”
(ピッチがレーザーみたいに正確)
“Her control on sustained notes is unreal”
(ロングトーンのコントロールが人間じゃない)
“No tuning, no effects, just raw and perfect”
(チューニングもエフェクトも無しでこれってどうなってんの)
喉元に余計な力が入っていない。
顎も、眉も、どこも歪んでいない。
ただ、目尻と、指先だけが、歌詞に合わせてごく僅かに揺れていた。
(ああ、ずるいな)
優里は、モニターのコメントを追いながら、胸の奥で静かに思う。
(こんなに完璧に歌うくせに、歌ってないときは、生活力のせの字もないんだから)
サビに差し掛かったところで、イーサンがハモりを入れる。
その上に乗る紫音のメロディラインは、微塵もブレない。
“Their blend is ridiculous”
(二人の声のブレンドが異常)
“Her vowel shape is so consistent, I can’t”
(母音の出し方が一貫しすぎててすごい)
“I was here for the guitar but I’m staying for Shion’s voice”
(ギター目当てで来たけど、紫音の声の沼に沈みました)
日本側も、冷静でいられない。
『ギタリストのチャンネルなのにボーカル持ってくなぁ』
『イーサンさんが完全にサポートに回ってるの草』
『海外ニキ達が紫音さんに惚れる瞬間見てるの誇らしすぎる』
曲が終わると、画面の向こうでイーサンが呆れたように両手を挙げた。
「Chat, I don’t know about you, but I am officially retiring from singing.」
(みんな、俺はもう正式に歌から引退するわ)
「No, no, no.」
(やめて)
「You sound like a studio recording even through Discord compression, this is unfair.」
(圧縮越しなのにスタジオ音源みたいってどういうことだ。おかしいって)
紫音は、小さく首を振った。
「I just… practiced a lot. That’s all.」
(ただ、たくさん練習しただけ。それだけ)
海外コメントがまたしても爆笑と賞賛で埋まる。
“Classic Shion: ‘I just practiced’”
(紫音「練習しただけ」)
“This is not ‘just’ practice, this is a life style”
(これは“ちょっと練習”じゃなくて人生をかけた練習だろ)
“Marry me Shion”
(結婚してくれ紫音)
その「Marry me」の文字を、優里の視界は奇跡的に拾ってしまった。
(……プロポーズまでされてる)
胸の奥に、ちくり、と小さな嫉妬が刺さる。
けれど、それ以上に、誇らしさが勝っていた。
(それだけの人と、一緒に暮らしてるの、わたしなんだよなぁ)
キッチンで洗ったマグカップを持ってきて、そっと机の端に置く。
紫音は、ほんの一瞬だけ視線を落とし、小さく囁いた。
「…ありがとう」
その一音は、マイクには乗らない程度の小ささで。
それでも、優里には聞こえるように。
ーー
配信は、その後も順調に続いた。
紫音はピアノからギターに持ち替え、イーサンとユニゾンで速いフレーズを弾く。
指の動きは見ているだけで目が滑りそうな速度なのに、音は一つも潰れない。
ピッキングの角度すら揃っているのでは、と錯覚する。
速いフレーズに入った途端、手元の映像だけなら、完全に別世界の生き物の動きだった。
けれど、音だけを聞くと、不思議なほど「速さ」の印象が薄い。
粒が崩れていないからだ。
一音一音が、同じ大きさと明るさのビーズみたいに、均等な間隔で糸に通されていく。
なのに、それを指でなぞると、ちゃんと強弱と温度の差がついているのが分かる、そんな不思議な並び方だった。
右手のストロークは、まるでメトロノームの中にもう一つ小さなメトロノームを入れて二重に刻ませているみたいに、リズムの揺れどころがまったく見えない。
左手は、その土台の上で、指板の上に細いレース模様を編み込んでいくみたいに、無駄な移動を一つも挟まず音を並べていく。
「頑張って速く弾いている」感じがどこにもなくて、
ただ彼女の中にあるフレーズの形に、指が黙々と追いついているだけ。
そう言われても納得してしまいそうな、そんな自然さだった。
『手元アップで見ても全然参考にならないレベルの速さ』
『ユニゾンなのに紫音さんの方が音の粒揃ってるの、どういうこと?』
『世界のトッププロと横並びにしても浮かないどころか目立つのすごすぎ』
“Her right-hand technique is so clean, no extra noise at all”
(右手のピッキングがクリーンすぎて余計なノイズが一切ない)
“They’re locked in like they’ve been touring for years”
(何年も一緒にツアーしてるバンドみたいなシンクロ具合)
“Is she a robot or an angel, I need answers”
(ロボットなのか天使なのかだけ教えてくれ)
休憩のタイミングで、紫音は一度マイクをミュートにし、ヘッドホンを少し持ち上げた。
「……平気?」
「わたしは平気です。紫音さんの方こそ、疲れてきてません?」
「……楽しいから、まだいける」
そんなやりとりの間にも、チャットは二人を見逃さない。
『ミュート中の口元の動きだけで尊い』
『優里ちゃんがちょこちょこドリンク持ってきてあげてるの良すぎる』
『完全に現場マネージャー兼彼女』
“The way she looks at Yuuri when she brings the tea…”
(お茶持ってきたユウリを見る目がさ……)
“I repeat: GIRLFRIEND ENERGY”
(もう一度言う、ガールフレンド感)
“Yuuri best support class, S-tier”
(ユウリ、つよつよサポート職)
“Protect this support at all costs”
(このサポートは全力で守れ)
紫音はちゃっかりそれを読みながら、マイクをオンに戻す。
紫音は、マイクの前で少しだけ首を傾げた。
「She’s… more than support, though.」
(優里は、サポート以上の存在だけどね)
そこで一拍置いて、ほんの少しだけ声を落とす。
「She’s basically my whole safe zone. So yeah, exclusive deal.」
(わたしの帰る場所そのものだから。だから、さっき言った通り、専属だよ)
“I’M CRYING”
(泣いた)
“Safe zone… I’m gonna lose it”
(セーフゾーンって表現はずるい)
“Yuuri has NO idea and that’s even better”
(優里がこれ全然分かってないのがさらに良い)
優里は、「safe」と「zone」くらいは拾えたものの、そのニュアンスまでは完全には理解できない。
(……安全?領域? なんの話だろ……)
ただ、紫音が少しだけ優しい顔をしているのは分かったので、それだけで胸の奥がじんわりした。
ーー
ラストの曲が終わると、配信は名残惜しいエンディングに入った。
「Alright, I think that’s all we have time for today.」
(さて、今日はそろそろ時間みたいだね)
「Thank you so much, Shion. This was honestly one of the most inspiring sessions I’ve had in years.」
(本当にありがとう、紫音。ここ数年で一番インスピレーションをもらったセッションだったわ)
「Thank you, Ethan. It was… very special for me too.」
(こちらこそ、イーサンさん。わたしにとっても、とても特別な時間だった)
海外チャットが、別れを惜しむように流れる。
“Thank you for the beautiful music”
(美しい音楽をありがとう)
“Please collab again, I’m begging”
(もう一度コラボしてください、お願いだから)
“Shion, you gained a new fan today”
(紫音、今日で新しいファンになりました)
日本側も負けずに、愛情たっぷりのコメントを送る。
『世界中に紫音さんのヤバさがまたバレた日』
『誇らしすぎてしばらく寝れない』
『優里ちゃんもお疲れさま!』
紫音は、マイクに向かって静かに頭を下げる。
「Thank you, everyone. I’m really happy you were here… and I hope tonight’s music can stay with you for a while.」
(今日は来てくださって、本当にありがとうございました。今夜の音楽が、しばらく皆さんのそばにいてくれますように)
その横で、優里は、二つのチャット欄を交互に見ながら、胸の奥が熱くなるのをどうしようもなく感じていた。
(……ほんとに、世界中の人が、紫音さんの音に惚れてくれてる)
海外の視聴者たちは、技術のことを細かく言語化してくれていた。
ダイナミクス、ピッチ、アーティキュレーション、ブレンド、トーン。
自分が「なんかすごい」としか言えない部分を、彼らは具体的な単語で讃えている。
そして、同時に。
“Also… is it just me or is she like, stupidly cute?”
(ていうか……え、俺だけ?彼女、バカみたいに可愛くない?)
“That silver hair, the little smiles, I’m gone”
(あの銀髪と、たまに見せる小さな笑顔で昇天した)
“Her eyes when she looks at the camera… help”
(カメラを見るときの目がやばい……助けて)
容姿を褒めるコメントが、山ほど流れていた。
「可愛い」とか「beautiful」とか「angel」とか。
その全部が、優里の誇りを少しずつ増幅させていく。
(そうですよ。世界一可愛いんですよ、紫音さんは)
心の中でだけ、誰にも聞こえない声で呟く。
(世界一可愛くて、世界一すごくて、世界一ずるい人なんです)
英単語帳の片隅で見たことのある単語たちが、頭の中でゆっくりと並び替わる。
海外用の配信を切り、マイクとカメラをオフにしたあと。
紫音は、ヘッドホンを外しながら、ふっと息を吐いた。
「……おつかれさま」
「お疲れさまでした。とても、かっこよかったです」
優里は、素直な感想をそのまま言葉にする。
「海外の人たち、みんな紫音さんのこと褒めちぎってましたよ。音も、歌も、顔も」
「……顔も?」
紫音は、少しだけ首を傾げる。
「はい。なんか、“stupidly cute”とか、“angel”とか……」
「……ふふ」
滅多に聞かない種類の笑い声が、喉の奥から漏れた。
それは、配信のマイクにも、録画にも残らない、完全にプライベートな笑い声だった。
「優里は?」
「え?」
「今日のわたし、どう見えた?」
質問の意味を図りかねて、一瞬だけ黙り込む。
鍵盤の上を滑る指。
マイクの前で、一音も外さずに歌う声。
画面の向こうで、プロのギタリストを悪気なく、しかし当然のように黙らせるほどの説得力を持った音。
全部ひっくるめて、ようやく出てきた言葉は一つだけだった。
「……すごく、誇らしかったです」
紫音が、瞬きをひとつする。
紫音は一瞬きょとんとして、それからふ、と肩の力が抜けたみたいに笑った。
さっきまで張りつめていた背筋が、ほんの少しだけ緩む。
モニターの光に照らされた横顔は、どこか優しげで、浮世離れした儚ささえ携えているように見えた。
「……それなら、よかった」
ぽつりと落とされた声は、小さいのに、妙に真っ直ぐ胸に刺さる。
配信ソフトのウィンドウの端で、まだ日本側のチャットが流れ続けている。
モニターの隅で、日本側の配信だけが、まだ細く灯っている。
チャット欄には『おつかれさま』『やばかった』『最高でした』の文字が、名残惜しそうに流れ続けていた。
壁際には、さっきまでただの背景だったアコギのシルエット。
左手の薬指に光るリングが、無意識に小さく揺れた。
「優里が『誇らしい』って思ってくれるなら…」
さっきまでの緊張が嘘みたいに、紫音の目の色が静かに決まっていく。
仕事モードの鋭さとは違う、もっと柔らかいのに、後戻りしない種類の光。
紫音は一度だけ深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「……ねぇ、もうちょっとだけ、付き合ってくれる?」
誰に向けた言葉なのか分からない問いかけに、胸の奥がきゅっとなる。
わたしはただ、ノートPCを抱えたまま、こくりと頷いた。
その頷きを合図にしたみたいに、紫音は再びマイクの方へ向き直る。
モニターの中で、まだ終わりたくなさそうに揺れているチャット欄と、壁際のアコギを、一度だけ順番に見やってーー
まるで自分の中で何かを決定事項として押し固めるように、小さく息を整えた。
「……えっと」
紫音が、マイクに向き直る。
「今日は、遅くまで付き合ってくださって、ありがとうございました。……このまま終わる前に、もしよかったら、もう一曲だけ。日本の配信と……ここにいる人のために、歌わせてほしい」
最後の「ここにいる人」にだけ、視線がほんの一瞬、優里を刺す。
照明を少し落としたリビングの中で、その目の動きは、優里にとっては避けようもないくらいはっきりしたサインだった。
内心で苦笑しながらも、断れるはずがない。
優里はノートPCを抱えたまま、カメラとマイクのメーターを確認して、小さく頷いた。
紫音はスタジオ用の椅子から、少しだけ背の低い椅子に座り替える。
エレキの代わりに、生鳴りのいいアコギを膝に乗せた。
白い指先が、ヘッドのペグをほんの少しだけ回し、耳で合わせるようにチューニングを確かめていく。
左手の薬指に光るリングが、ヘッドに刻まれたロゴのすぐ上で、ちいさく揺れた。
「……じゃあ」
紫音は、息を整えるように一度だけ瞬きをしてから、低く穏やかな声で告げる。
「“Stand by Me”を」
チャット欄が、一気にざわめいた。
『選曲……』
『これは…これはあかんやつでは?』
『この時間にスタンドバイミーは刺さる』
紫音は、そんなコメントに目だけで微笑みを返し、ピックを使わずに、指で最初のコードを鳴らした。
低く、あたたかい音が、静かな部屋に広がる。
ーー
紫音は、ほんの少し視線を落としたまま歌い出す。
マイクはいつもより口元から遠い。
配信というより、本当にこの部屋だけに向けられた声の距離だった。
『♪When the night has come
And the land is dark』
英語の子音が、普段より少し柔らかい。
レコーディングのときのような完璧な発音ではなく、深夜の囁き声みたいに、ほんの少し丸くなっている。
伏せたまぶたの影が長い。
リングライトの光が弱められているせいで、睫毛が、やけにくっきりと頬に影を落としている。
今日、世界に向けてあれだけ完璧な歌を聴かせておいて、その同じ口が、今はわたしと、ここの人たちだけのために、ごく小さな声で囁くように歌っている。
『ーAnd the moon is the only light we’ll see
No I won’t be afraid, no I won’t be afraid
Just as long as you stand, stand by me』
コードチェンジのたびに、左手の指先が指板を滑る。
短く整えられた爪が、余計なノイズひとつ立てないでフレットに吸い付くように止まる。
その根元に、さっきまでの長時間配信の名残みたいに、うっすらと赤みが残っているのが見えた。
『ーSo darlin’, darlin’, stand by me, oh stand by me
Oh stand by me, stand by me』
「darlin’」のあたりだけ、ほんのわずかに口角が上がる。
白雪のような横顔が、呼吸に合わせて僅かに上を向く。小さな肩が大きく上下する。
英語のリズムに合わせて、その二音を丁寧にほどいていくたびに、どうしても自分の名前がそこに重なって聞こえてしまう。
喉の奥が、少しだけきゅっとなる。
画面越しに見ている日本のリスナーたちも、きっと今、同じところで息を呑んでいるに違いない。
間奏はほとんど入れず、そのまま二番に滑り込む。
猫の横顔みたいな紫音の、どこか物憂げな視線は、少しだけ上がって、どこでもないところを見ている。
『ーIf the sky that we look upon
Should tumble and fall』
語尾が息に溶けて柔らかく転がる。
響きが、耳の奥で日本語よりも先に意味になって迫ってくる。
空を憂う瞳が、僅かに前を向いた。
『ーOr the mountains should crumble to the sea
I won’t cry, I won’t cry, no I won’t shed a tear
Just as long as you stand, stand by me』
高音の部分で、ほんの少しだけ喉が掠れた。
でも、それは崩れる前に、きっちりとコントロールされて澄んだ音に戻っていく。
自分がここにいて、チャット欄の向こうに、受け止めてくれる人たちがいて。
その上で、「泣かない」と歌える紫音の強さが、たまらなく愛しかった。
『ーAnd darlin’, darlin’, stand by me, oh stand by me
Oh stand now by me, stand by me, stand by me-e, …yeah』
ほんの少しだけ笑ったように聞こえた。
歌詞としての「yeah」というより、感情があふれて勝手に滑り込んだ息の音に近い。
横顔のラインが、いつもより柔らかい。
ステージの上の「名雪紫音」ではなくて、夜中のリビングで、蜂蜜ミルクを飲みながら眠そうに眉を寄せていたときと同じ顔だった。
世界のどこかでは、さっきまでのアーカイブが再生されているかもしれない。
「天才」「異次元」「illegal」なんて単語で呼ばれているその人が、今こうして、自分の目の前で、「傍にいて」と歌っている。
(そんなの、惚れない方が無理に決まってる)
胸の奥で、何度目か分からない好きが、静かに形になる。
最後のセクションに入るころには、チャット欄のコメントも、少しだけペースを落としていた。
誰もが、それぞれの場所で、ただ画面と声に集中しているのが分かる。
紫音の指は、最初よりもさらに力が抜けている。
ストロークは息をただ吸うみたいにほとんどなぞるだけなのに、ギターがちゃんと歌っている。
『ーWhenever you’re in trouble won’t you stand by me, oh now now stand by me
Oh stand by me, stand by me. 』
最後の音が、かすかに長く伸びた。
完全に消えるまで、紫音はコードを鳴らし続けることはせず、敢えてそこで手を止める。
余韻だけが、部屋に漂う。
アコギの生鳴りと、紫音の息の音と、PCファンの微かな回転音。
それら全部が混ざって、冬の夜の空気の中でゆっくりと沈んでいった。
最後のコードが完全に消えたあと、紫音は、ギターの上で手をそっと組んだまま、しばらく何も言わなかった。
長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。
目の縁が、ほんの少し赤いようにも見えたが、それを確かめる前に、紫音はいつもの淡々とした声色に戻る。
「……聴いてくださって、ありがとうございました」
その一言だけで、チャット欄が一気に溢れる。
『反則』
『今日一日分の感情持ってかれた』
『Stand by Meをあんな顔で歌うのやめてもろて』
『語彙力死んだけど、幸せです』
『こんな夜更けに立ち会えてよかった』
紫音は、それらのコメントを一つ一つ追うように視線を動かす。
その横顔を、優里は横から眺めていた。
(さっきまで、世界に惚れられてた人が)
今は、ここにいるわたしたちだけのために、ギターを抱えている。
リングライトの淡い光を浴びて、銀色の髪が柔らかく揺れている。
左手の薬指のリングが、さっきまで鳴っていた弦の残響をまだ少しだけ覚えているみたいに、ちいさく光っていた。
(……本当に)
優里は、胸の奥で静かに息を吐く。
(この人の「隣」に、いられる人生をいつの間にか選んでしまったんだなぁ、わたし)
そこには、きっと面倒も、不安も、嫉妬も、山ほどくっついてくる。
世界中に愛される天才の隣というのは、そういう場所だ。
それでも。
深夜のリビングで、アコギ一本と一曲のラブソングだけで、こんなにも簡単に心を奪ってくる人の隣を、手放す選択肢なんて、考えられなかった。
紫音が、「それじゃあ今日はこの辺で」と言って配信を切る。
画面のランプが消え、リングライトも落ちると、部屋は一気に現実の暗さに戻った。
「……おつかれさま、でした」
優里がそっと声を掛けると、紫音はギターを抱えたまま、少しだけ首を傾けた。
「うん。……聴いてくれて、ありがとう」
(こちらこそ、聴かせてくれてですよ)
声には出せずに、心の中だけで答える。
さっき聞き入ったばかりのフレーズが、まだどこかでくすぶっている。
世界に数えきれない程ある恋愛ソングの中、彼女に選ばれた一曲は、彼女の愛をそのまま曲にしたみたいに清らかで高貴で高潔だ。
手に入れること。与えること。
例えそれら一切を捨て去ったとして、ただ傍にいて欲しいと闇雲に歌う。
それは彼女の本心ではなく作曲者のものだったとしても、今しがたこのタイミングで捧げてくれた、歌うという行為に込められたその想いは、限りなくそれと等しいほどの純白の愛だったはずだ。
或いは、そう信じたくてたまらないからこそ、こんなにも胸が苦しくなるのだろうか。
このなんとも言えない、くすぶるような想い。
それは夜が完全に明けるまで、或いはきっと夜が明けたとしても、ずっとこの部屋からは消えないまま、
薄く、甘く、いつか空気に溶けていくのを夢見ている。
白百合優里は今日も祈る。
愛おしい人の、ただ傍にいられますようにと。