思春期症候群は正式な学名などではないし、世の中に市民権を得ている用語でもない。思春期に「誰かと人格が入れ替わっていた」「他人の心の声が聞こえる」など、不思議な現象が起きるとされるオカルト的現象で、ネットを中心に都市伝説として話題となっているのみだ。精神科医などには、多感な思春期の心が見せる思い込みなどと言われることもある。
「つまり?」
「お前の―――この場合『異世界転移』と名付けるべきだろう、この現象は、お前自身の経験や不安といった事象から引き起こされている可能性が高いということだ」
結局、麻衣さんが帰った後、夕方までトウカイテイオーは眠り続けた。俺はのそりと起き上がってきた彼女をリビングに座らせ、思春期症候群についての説明をするとともに、麻衣さんと議論した内容を伝えた。
「と言われてもなー。ボクにはイマイチ、ピンと来ないよ」
「だろうな。だが、そんなお前に聞きたいことがある」
トウカイテイオーは「何?」と不思議そうな顔をした。
「12戦9勝。主な勝ち鞍は皐月賞、日本ダービー、ジャパンカップ、産経大阪杯、有馬記念―――これ、お前のことか?」
「何でボクの戦績を知ってるの!? この世界にはウマ娘がいないんじゃないの!?」
驚くトウカイテイオーに麻衣さんに見せてもらったデータベースから書き写したメモを見せる。《WEB KEIBA》に載っている情報はだいたい書き写させてもらった。
「これ……ボクのトゥインクルシリーズの成績だ……どうしてこれが?」
「俺たちの世界には『馬』と呼ばれる4本足の動物がいるんだ。俺たち人間は、その『馬』という動物を生産し、育成し、レースを走らせる。それをするところがお前が見た『競馬場』だ。調べてみると平成初期、今から30年ほど前に『トウカイテイオー』という競走馬が実在した。このメモはその競走馬のデータだ」
「つまりこれは……この世界の……ボク……?」
「そうとは限らないが、何らかのつながりがある可能性は高いだろうな」
「でも、ここまで一緒だなんて! 馬!? 動物!? 一体どういう―――」
「落ち着け。だから言っただろう、トウカイテイオー。俺に、君のことを教えてくれ。大丈夫だ、必ず力になるから」
涙を浮かべながら混乱するトウカイテイオーを宥めながら俺は自身のマグカップに口を付けた。とうに冷めたカフェオレの微かな苦みが妙に気になる。
トウカイテイオーは目を閉じて何度か深く呼吸をすると、少し落ち着きを取り戻した。感情の起伏はあるがコントロールする術を持っているようだ。まるでトップアスリートのようだな。
「―――聞いたことがある。ボクたちウマ娘は、別世界の名前と魂を受け継ぎ、走る存在だって」
「本当か!?」
「そういう学説もあるっていうだけ、でも信ぴょう性はあると思っていた。じゃなきゃ可笑しいじゃん。ボク、女の子だよ? それなのに『帝王』だなんて」
「確かにな。こんな可愛らしい子が『帝王』なら、俺はチワワだぜ」
あえて軽口をたたくと、トウカイテイオーは「何訳わかんないこといってるのさ」と言いながら軽く笑ったが、メモの続きを見て再び驚愕した。
「……って、えぇぇぇぇ!? 何なのさこれ!!」
「これは……トウカイテイオーの両親だな。父・シンボリルドルフ、母・トウカイナチュラル」
「カイチョーがボクのパパなの!?」
「『会長』というのはよくわからんが、シンボリルドルフという
「た、種……変なこと言うな!!」
「事実だろ。それに、お前のことじゃない。そもそも競走馬のトウカイテイオー自体、
「そ、それはそうかもしれないけど……複雑ぅ……」
「なんだ、その会長とやらが嫌いなのか?」
「大好きだよ! 何なら一番尊敬してる! でも……そうかぁ……カイチョーがね……」
「お前の世界のシンボリルドルフはどういう存在なんだ?」
「ボクの憧れ。最強にして最高。『レースに絶対は無いが、シンボリルドルフのレースには絶対がある』とまで言われた超凄いウマ娘だよ」
「お前の実際の両親は?」
「パパとママは普通の人間の夫婦だよ。トレセン学園に入ってからはあんまり会ってないけど……そう言えば咲太のご両親は? 今日、土曜日でしょ?」
事情を説明すると少し申し訳なさそうな顔で「ごめん」と言い、トウカイテイオーは俺から目線をそらした。まぁ、うちの別居とは種類が違うしな。俺は「別に謝る必要はないぞ」と言いながら彼女のコップに水を注ぎ足した。
「―――そう言えばさっき聞きそびれたんだけど、咲太はかえでちゃん以外にもその思春期症候群?をいくつか経験してるんだよね」
「あぁ、俺はこの半年で『世界から自身の存在が消える』『未来をやり直す』『自身が分裂する』『人格が入れ替わる』といった事象を自他で身近に経験している。それ以外にも未解決案件すら抱えているがな。こんな感じで」
俺は自分の胸の傷をトウカイテイオーに晒そうと脱ぐと、彼女は「キャァ!」と叫んで手で顔を覆った。
「何いきなりいたいけな女子の前で脱いでんのさ!」
「実際に見た方が早いだろ。これが俺の未解決案件だ」
「咲太のデリカシー、帰ってきて!」
「心配するな、俺は麻衣さん一筋だから」
「心配と話の方向性が迷子だよ!」
顔を真っ赤にしながらも指の間からは彼女の目がしっかりのぞいている。俺は服を着なおしながら「それで、何を考えてるんだ?」と彼女に投げかけてみた。
「話を元に戻すけど……ボクが聞きたいのは、どうやったらこの『異世界転移』が解決するかってこと」
「そうだな……俺が経験した中での話だが、お前に関係のありそうなのは朝も言った通り『世界から自身の存在が消える』ということだ。その時は俺じゃなくて、麻衣さんの存在が消えかかっていた」
「あの美人のお姉さんが……?」
「ああ。ざっくり言うと、彼女を無視する空気が蔓延して、結果として世界からその存在が抹消されるところだった」
「空気……確証性バイアスみたいなものかな」
「なんだその確証性バイアスって」
「人の脳は見たいものしか見ない、認識できるものしか認識しない、ていうこと。詳しくは京極夏彦の小説でも読んで」
「お前、意外と博識だな」
「『意外と』は余計! ……で、どんな風に解決したの?」
「ともかく麻衣さんが無視されるという空気を何とかしたかったからな。全校生徒が注目する学校の校庭のど真ん中で麻衣さんに告白した」
トウカイテイオーは一瞬驚いた目を作ると、腹を抱えながら笑い転げた。さっきまで泣きそうだったくせに喜怒哀楽の激しいやつだ。
「笑いすぎだろ」
「いや、まさか、咲太がそんなことするタイプだとは思わなかった」
「うるさい、それくらいしか思いつかなかったんだ」
「不特定多数の確証性バイアスを壊す必要からすれば、うん、確かに効果的だろうね」
なおも顔をにやけさせる彼女を見て、俺は話を変えるために問いかけた。
「……で、お前自身の話はどうなんだ?」
「ボク自身?」
「さっきも言った通り、『異世界転移』はお前自身の経験や感情によって引き起こされた可能性が高い。転移してくる前、1ヶ月前くらいまでの間に何かなかったのか?」
「1ヶ月かぁ……そう言えばウインタードリームトロフィーがあったなぁ」
「なんだそれは?」
「一言でいえば、トゥインクルシリーズで活躍した強いウマ娘たちが一堂に会する、オールスターマッチみたいなものかな」
「すまん、トゥインクルシリーズというと?」
「うーん……天皇賞とか有馬記念とかのG1レースは知ってる?」
「それくらいなら」
「トゥインクルシリーズに所属しているとそういったレースで走ることが出来る。ドリームに移籍するとG1とかで走れなくなる代わりに、さっき言ったみたいなオールスターマッチに出場できるようになる。ほとんどの場合は、トゥインクルシリーズを走り抜けた子たちが、引退後に移籍するの」
「まぁ、何となくは言いたいことはわかった。それでそのウインタードリームトロフィーとやらで何かあったか?」
「その時は……初めてカイチョーに勝ったんだよね」
「カイチョーというと、さっき言ってたシンボリ……」
「シンボリルドルフ生徒会長。ボクの憧れで、最強のウマ娘。カイチョーに初めて勝てたんだよね。場所は―――東京レース場だった」
「良かったじゃないか」
「うん、その日はすっごく嬉しかった。カイチョーも一杯褒めてくれてさ。でも―――」
「でも?」
問いかけるとトウカイテイオーは少し表情に影を落とした。
「なんて言うか、その、燃え尽き症候群みたいになっちゃって、次の日から空っぽになっちゃったんだよね。それまでは負けちゃっても『次こそは!』って気持ちが溢れてきてたんだけど、いざ勝っちゃうと―――」
「目標を見失ってしまったということか」
言葉に詰まったトウカイテイオーのその先の言葉を引き取ると、彼女はコクリと頷いた。
「だから昨日――転移したと思われる日――は、少し遠くまでジョギングしようと思ってさ。気づいたら別世界になってたってワケ」
「なるほどな」
わかったような相槌を打ったはものの、そのことがどう異世界転移に影響しているのかはわからない。こんなとき双葉がいたら俺を罵る言葉のついでにアドバイスの一つでももらえるのに。
「他に気づいたことは無いか?」
「うーん、言いたいことは色々とあるけど、特にこれと言っては……カイチョー以外にもいるのかなぁ? 咲太はメジロマックイーンとか、ビワハヤヒデとか知らない?」
「悪いが馬の名前なんてほとんど知らんな……。俺が知っている競走馬なんて、昔の何といったか……オグラ……オグリ……」
「オグリキャップ?」
トウカイテイオーのアシストに「それだ、それ」と答えると、彼女は驚いたような苦笑いのような何とも言えない微妙な顔を作った。
「そうかぁ……やっぱり、他の娘もいるんだ。見てみたいなぁ、レース」
「じゃあ、見に行ってみるか」
「えぇ!?」
「麻衣さんとそんな話をしていたんだ。明日は日曜だろ? 今はちょうど府中で開催しているみたいだからさ、行ってみようぜ」
「でも……」
「どうせここに居たって帰る手掛かりが見つかるかどうかわからん。なら、少しでも可能性のあるものにすがるしか無いじゃないか」
「それはまぁそうだけど……ちなみに、
「何年か前に亡くなっているそうだ。もともと馬の寿命自体、20年あるかないかくらいらしいからな」
「えぇ……もっと複雑ぅ……」
「まぁ、お前とは別人……別ウマ……何と言えばいいんだ? ともかく、別の存在なんだから」
そうして俺たちは次の日である日曜日、東京競馬場へ向かうことにした。
秋の天皇賞が、俺たちを待っていた。
更新遅くなってすみません、シングレオグリとステイゴールドが悪いんです。