五月の日本棋院は、どこか水族館に似ている。
薄暗い廊下を曲がると、いくつもの対局室がガラス越しに並んでいて、その中では棋士たちが押し黙ったまま石を置き続けている。声を出す者はいない。感情を表に出す者もいない。ただ、石が盤に触れる乾いた音だけが、硬質な魚の跳ねる音のように廊下まで漏れてくる。
若獅子戦の二回戦。
その日、四階の対局室のひとつだけが、明らかに異質な空気を帯びていた。定員をとうに超えたギャラリーが入口に溢れ返り、対局者の呼吸すら聞こえそうな静寂の中に、数十人ぶんの好奇心と緊張がぎっしりと詰まっている。
進藤ヒカル、二段。
塔矢アキラ、四段。
二人の名前が読み上げられた時、廊下の奥から覗き込んでいた若手棋士のひとりが、隣の同僚の袖を引いた。
「おい、あの二人が公式戦で当たるの、初めてか?」
「いや、何度かあるだろ。……でも、北斗杯の後は初めてだ」
北斗杯——その名前が出ると、周囲の空気が微かに変わった。日中韓の若手が激突した国際団体戦で、進藤と塔矢は敵同士ではなく「日本代表」としてともに戦った。それまで追いかけ追いかけられの関係だった二人が、初めて同じ方向を向いた。あの大会が二人の関係をどう変えたのか——それを確かめたくて、こんなに人が集まっているのだ。
壁際に寄りかかるようにして、和谷義高が腕を組んでいた。すぐ隣には伊角慎一郎がいて、小さな声で「和谷、少し下がれよ」と注意しているが、和谷は聞いていない。視線は盤面に釘付けだった。
もう少し離れた位置に、緒方精次が立っていた。壁に背をつけ、吸えない煙草を指先で弄びながら、細めた目で二人の少年を見つめている。彼がわざわざ若獅子戦の観戦に来ること自体が異例だった。
「お願いします」
「お願いします」
二人の声が重なった。ヒカルの声はいつもより低く、アキラの声はいつもより静かだった。互いに正座し、互いの目を見て、頭を下げる。その所作だけで、二人の間に張り詰めた糸のようなものが見えた気がした。
ニギリの結果、ヒカルの黒番。
ヒカルは碁笥に手を入れた。那智黒石の冷たさが指先に触れる。握る。持ち上げる。盤の上に運ぶ。
右上、星。
パチリ——と、石が盤に吸いついた。迷いのない、まっすぐな着手だった。中指と人差し指に挟まれた石が盤面に触れる瞬間、ヒカルの右手には自分でも説明のつかない確信があった。佐為と打ち続けた何千局もの残響が、指先に染みついている。同時に、北斗杯の大将戦でヨンハに食らいついた時のあの獰猛な集中力が、背骨の芯にくすぶっている。その二つが、いつの間にか溶け合って、ひとつの手になっていた。
アキラが即座に応じた。白石が盤に置かれる音は、ヒカルのそれよりもわずかに硬い。指先に力が入っている証拠だった。
〇
中盤に入った頃から、対局室の温度が変わった。
比喩ではない。人が息を詰めて見守っている閉じた空間では、緊張そのものが熱を持つ。ギャラリーの誰かが鼻をすする音がして、隣の人間が睨みつける。
原因は、ヒカルだった。
右辺での折衝。定石通りに収まるはずの局面で、ヒカルは型を外した。穏やかに手を打ち合うはずの場所に、力尽くでねじり合いを持ち込んだのだ。碁盤の上に目に見えない火花が散り、局面は一気に複雑怪奇な戦場へと変貌した。
アキラの眉がかすかに動いた。
強い——と、アキラは思った。
北斗杯の時よりも、明らかに進化している。あの時のヒカルには、まだどこか別の誰かを探しているような焦りがあった。手の方向がぶれることがあった。自分の碁なのか、それとも「彼の奥にいた誰か」の碁なのか、その境界があやふやだった。
だが、今は違う。
目の前のヒカルの碁には、迷いが一切ない。重心が低く、足が地についている。それでいて、どこからでも飛びかかってくるような肉食獣の気配がある。佐為から受け継いだ「大局観」——盤面全体を一枚の絵として捉える感覚と、ヒカル自身が対局の中で培ってきた「勝負勘」——局所的な戦いで相手の急所を嗅ぎ当てる嗅覚。その二つが完全に溶け合い、一つの碁として成立している。
パチッ——。
ヒカルが石を置いた。白の大石の、薄い一点を突く手だった。
壁際で、和谷が息を飲んだ。隣の伊角の腕を思わず掴んでいた。
「……あいつ、あんな手いつ覚えたんだ?」
それは、アキラが最も嫌がる角度からの踏み込みだった。鋭く、深く、しかも読みの裏づけがある。相手の最も得意な形を正面から食い破りにいく——ある意味で「塔矢アキラらしい」手。それを、進藤ヒカルが打っている。
アキラは唇を噛んだ。
知っている、とアキラは思った。この手を打つ人間を、僕は知っている。
かつてネット碁で、「sai」という正体不明の打ち手に同じ角度から叩きのめされた。あるいは、「あの時」の進藤。あの時の感覚が蘇る。理屈ではなく、石の温度で分かる。同じ匂いがする。同じ風が吹いている。
だが——違う。
saiの碁は優雅だった。流れる水のように自然で、一点の淀みもなかった。人間離れした、というよりも、そもそも人間ではないもの——超越した何かが打っている感触があった。
今のヒカルの碁は、そうではない。もっと泥臭い。汗の匂いがする。生身の人間が歯を食いしばって、必死に石を握っている手触りがある。佐為の遺した大局観を、ヒカル自身の勝負勘が包み込み、まったく別のものに変えている。
これはsaiではない。
これは——進藤ヒカルだ。
アキラの胸の奥で、恐怖と歓喜が衝突した。怖い。こいつは自分が思っていたよりもずっと先にいる。だが同時に、嬉しくてたまらない。僕が追い求めてきたライバルは、幻ではなかった。ネットの画面の向こうに消えた亡霊でもなかった。今ここに、同じ空気を吸い、同じ盤の前に座って、生意気な顔で石を握っている。
アキラは応手を打った。逃げない。かわさない。真正面からぶつかっていく。これが塔矢アキラの碁だ。どれだけ相手が強くても、背筋を伸ばして受けて立つ。父から受け継いだ、それだけは譲れない矜持だった。
緒方は、腕を組んだまま微動だにしなかった。
指先の煙草は、いつの間にか折れていた。
二人の対局を見ながら、緒方の脳裏に浮かんでいたのは、塔矢行洋——アキラの父であり、自分の師匠であるあの男の背中だった。
行洋先生が引退して以来、この棋院に「本物の対局」と呼べるものが存在しなくなったと、緒方は思っていた。自分を含め、誰もが惰性で打っている。頂点のない山を登り続ける虚しさの中で、碁を打つことの意味を見失いかけていた。
だが——今、目の前で繰り広げられているこの碁は、違う。
十五歳の二人が、全身全霊で互いの急所を突き合っている。碁がこんなにも美しく、こんなにも暴力的なものだったことを、緒方は久しぶりに思い出した。
〇
終盤。
形勢は黒のヒカルがわずかにリードしていた。ヨセに入り、盤面の大きな争点は出尽くしている。あとは一目、半目を巡る正確な計算勝負だ。
アキラのヨセは精密だった。秒読みの中で、一手も間違えずに差を詰めていく。まるで外科医のメスのように、盤面の余剰を削り取り、白の地を増やしていく。
以前のヒカルなら、ここで焦っただろう。リードを守ろうとして手が萎縮し、安全策に走ったあげくに読み抜けが生じる——そういうパターンが、かつてはあった。佐為がいなくなった直後のヒカルは、とりわけその傾向が強かった。強気に出るべき場面で一歩引いてしまう。怖がっているわけではない。ただ、自分の判断に自信が持てなかったのだ。盤面の奥に「正解」があるはずなのに、それを指し示してくれる声がもう聞こえない。その不安が、指先を鈍らせていた。
だが——今のヒカルは違った。
背筋を伸ばしたまま盤面を見つめるその横顔は、静かだった。頭の中には北斗杯の大将戦の記憶がある。ヨンハに一目足りず負けた夜、ホテルのベッドで天井を見つめながら、腹の底がひっくり返るような悔しさで眠れなかった。あの悔しさが、今は骨になっている。背骨の一本一本に溶け込んで、ヒカルという棋士の骨格を形作っている。
もう、離されない。
塔矢がどんなに正確に走っても、俺はもう追いつける。追いついたら、並走する。並走しながら、もっと先に行く。
ヒカルは最後のアタリを継いだ。一目の損もなく、半目の隙もなく。その一手は、アキラに投了を告げる、静かで重い宣告だった。
アキラの手が止まった。
盤面を見渡す。右下から左上にかけて走る黒の厚い壁。石と石の間に隙間はない。白が入り込む余地は、もうどこにもなかった。
ゆっくりと顔を上げた。
目の前にヒカルがいる。前髪の金色のメッシュ。少し日焼けした頬。鼻の頭に薄っすらと汗が浮いている。目が合った。ヒカルはまっすぐにこちらを見ていた。勝者の優越もなく、同情もなく、ただ——ここにいるぞ、という目だった。
初めて会った日のことを思い出す。碁会所に現れた素人の少年。「囲碁って知ってるか?」と聞いてきた、あの間抜けな第一声。あの日から何年が経ったのか。あの少年が今、僕の正面に座り、僕の石を封じ、静かに勝利を手にしている。
悔しい。内臓を鷲掴みにされるような悔しさだった。
だがそれ以上に——。
「……ありません」
アキラは静かに頭を下げた。
「負けました」
その声に、震えはなかった。
ギャラリーの間からかすかなざわめきが起こった。記録係がペンを走らせる音。誰かが息を吐く音。対局室の空気が、張り詰めていた糸がふっと弛むように、ゆるやかにほどけていった。
〇
感想戦は、短かった。
二人とも多くを語らなかった。石の手順で互いの読みを確かめ合い、二、三の変化を並べ直し、それで終わりにした。和谷が「おいおい、もうちょっとやれよ」と野次を飛ばしたが、二人は聞こえていないようだった。言葉で語るべきことは、すでに盤上で全部言い尽くしてしまったからだ。
碁笥の蓋を閉めた。パチン、と小さな音がした。それが今日という一日の、句点のように響いた。
対局室を出ると、廊下は静まり返っていた。他の対局はとっくに終わり、ギャラリーも散っている。窓から差し込む西日が、リノリウムの床をオレンジ色に染めていた。空調の風だけが、かすかに耳の奥で唸っている。
エレベーターホールに向かって歩く。二人は自然と並んでいた。示し合わせたわけではない。ただ、同じ方向に歩いているだけなのに、肩の高さがほとんど同じで、歩幅もほとんど同じで、気がつけば隣にいた。
「……強かったよ、進藤」
アキラが前を向いたまま言った。その声にはもう悔しさの色はなく、ただ事実を述べるような平坦さがあった。
「北斗杯の時より、ずっと」
「へへっ。当たり前だろ」
ヒカルは照れくさそうに鼻の下を擦った。前髪のメッシュが揺れる。
「いつまでも、お前の背中ばっか見てるわけにはいかねーからな」
エレベーターが到着した。低い電子音が鳴り、銀色の扉がゆっくりと開く。箱の中は無人で、蛍光灯の白い光だけが二人を迎えた。
乗り込む。扉が閉まる。狭い金属の箱の中に、二人きりになった。
アキラがヒカルの方を向いた。
笑っていた。
アキラの笑顔を見ること自体は珍しくない。だがこの笑い方は初めてだった。勝負師の鋭さも、名家の子息らしい品の良さもない。ずっと待ち合わせをしていた相手がやっと来た——ただそれだけの、年相応の少年の笑顔だった。
「やっと、来たな」
「あ?」
「僕の隣に」
ヒカルは目を丸くした。
数秒、言葉が出なかった。こういう台詞を、こいつは何の照れもなく言う。昔からそうだった。真正面からぶつかってくる言葉に、ヒカルはいつだって後手に回る。碁では追いついたつもりでも、こういう場面ではまだ敵わない。
だから——ヒカルはヒカルらしく返した。
ニカッと笑った。馬鹿みたいに大きな、子供の笑顔で。
「遅くなって悪かったな。——これからは、置いてかねーぞ」
チン、と小さな音がして、一階に着いた。
扉が開く。五月の風が吹き込んできた。日本棋院のエントランスの向こうに、夕日に染まった市ヶ谷の街並みが広がっている。自動ドアの向こうでは、帰宅途中のサラリーマンたちが足早に歩いている。誰もこのビルの四階で今日何が起きたかなど知らない。
二人は並んで外に出た。
五
ヒカルはポケットに手を突っ込んで歩いた。
右手の指先が、ポケットの底にある硬いものに触れた。佐為の扇子だった。
薄い竹の骨。使い込まれて角が丸くなった五骨の扇子。かつて佐為が——あの、笑うと目が三日月になる、のんきで泣き虫の幽霊が——いつも手にしていたもの。もう開いても、あの声は聞こえない。「ヒカル、ここです! ここに打つのです!」と興奮して叫ぶ声も、「ヒカル、碁を打ちたい……」と目を潤ませる声も、永遠に聞こえない。
だけど、とヒカルは思った。
今日の碁の中に——佐為はいた。
一手一手の奥の、もっと深い場所に。目には見えないけれど、盤面の呼吸の中に、たしかに佐為の気配があった。ヒカルが迷いそうになる度に、石が自然と正しい場所に吸い寄せられるような感覚。それは佐為の遺してくれたものだった。千年分の棋譜の重みが、ヒカルの指を通して、今日の盤面に流れ込んでいた。
ヒカルは扇子を握りしめた。少しだけ、強く。
「なあ塔矢、このあとラーメン食わねえ?」
「……碁聖戦の棋譜、並べようと思っていたんだけど」
「それ明日でいいだろ。腹減ったんだよ!」
「……仕方ないな」
アキラがため息をついた。だがその口元はわずかに緩んでいて、それを隠そうともしていなかった。
二人は駅に向かって歩いた。夕日を背に受けて、長い影が二本、アスファルトの上に伸びている。歩幅は同じだった。肩が触れるか触れないかの距離。たまにヒカルが何か言い、アキラが呆れたように返し、ヒカルが笑う。対局室の殺気が嘘のように、二人は十五歳の少年に戻っていた。
二〇〇二年、五月。
進藤ヒカルは塔矢アキラに追いついた。
そしてこの日から、後に世界を揺るがし、一つの時代を丸ごと塗り替えることになる「二人の天才の並走」が、本当の意味で始まった。
もちろん、そんなことは二人とも知らない。
ヒカルの頭にあるのは味噌チャーシュー大盛りの湯気のことだけだし、アキラはアキラで、今日の中盤の変化がどうしても気になって、ラーメン屋でも棋譜を広げるつもりでいる。二人の未来に待ち受けているものすべてを、五月の夕暮れはまだ何も知らせてはくれなかった。
ただ、空が赤かった。
少年たちの影が長かった。
それだけが、この日の記憶として、後々までヒカルの中に残った。