駅の改札でアキラと別れた後、ヒカルは来た道を戻らず、一本裏の通りへ折れた。
理由はない。ただ、まっすぐ帰る気分ではなかった。腹は膨れている。味噌チャーシュー大盛りと餃子六個のおかげで、胃の底がずっしりと重い。頭の中にはまだ今日の碁が残っていて、中盤の変化図がぐるぐると回り続けている。家に帰ってもどうせ眠れない。だったら少し歩いて、頭を冷やしたかった。
五月の夜は思いのほか涼しい。市ヶ谷の住宅街を抜けると、外堀の水面が街灯の光を受けてぼんやりと光っていた。車の通りは少なく、ときおり風が吹いて、歩道の桜の葉を揺らした。花はとっくに散っている。あるのは青々とした若葉だけだ。
ヒカルは立ち止まった。
堀に沿った遊歩道のベンチに腰を下ろし、空を見上げる。東京の夜空は明るすぎて、星はほとんど見えない。かろうじて一等星がひとつ、ビルの隙間に瞬いていた。
ポケットの中の扇子に触れた。
別に意味はない。癖だった。対局の前に触る。終わった後にも触る。何かを考えている時、無意識に指がそこへ伸びる。お守りのようなものだ。
扇子は何も言わない。当たり前だ。竹と紙でできた、ただの道具だ。昔は違ったけれど、今はただの扇子だ。それ以上のことは、考えないようにしている。考えたところで、何も変わらない。
携帯が鳴った。
ズボンの反対側のポケットから、安っぽい電子音がする。画面を開くと、和谷からのメールだった。
『今どこ。見てたぞお前の碁。来い。伊角さんもいる。うちのアパート。ビール買ってこい』
句読点も改行もない、和谷らしいメールだった。ヒカルは鼻で笑い、すぐに返事を打った。
『未成年だろバカ。ジュースならいいぞ』
送信ボタンを押してから、ベンチから立ち上がった。最寄りのコンビニの場所を思い出しながら歩き出す。和谷のアパートまでは歩いて二十分くらいだ。堀沿いの道を外苑方面に向かえばいい。
足取りは自然と速くなった。さっきまで頭の中を占めていた変化図が、いつの間にか遠ざかっている。代わりに浮かんできたのは、和谷の声と、伊角の苦笑いと、狭いアパートに充満するスナック菓子の匂いだった。
〇
和谷のアパートは、千駄ヶ谷の駅から五分ほど歩いた住宅街の中にある。築年数の古い木造二階建て。六畳一間の、いかにも独り暮らしの若者が住んでいますという風情の部屋だ。
ドアは開いていた。鍵をかける習慣がないのか、あるいは来客を見越してのことか。たぶん前者だろう。
「おー、来た来た」
和谷がちゃぶ台の向こうから顔を上げた。胡座をかいて、碁盤の上に今日の若獅子戦の棋譜を並べている途中だった。碁笥の横にはポテトチップスの袋と缶ジュースが散乱している。
伊角は窓際に座っていた。背中を壁につけて、手元の棋譜用紙に何か書き込んでいる。ヒカルが入ってくると、顔を上げて穏やかに笑った。
「お疲れ、進藤」
「おう、伊角さん」
ヒカルはコンビニの袋をちゃぶ台に放り、靴を脱いで上がった。袋の中には缶のコーラが三本と、柿の種の大袋が入っている。
「ビール買ってこいって言ったろ」
「だから未成年だって。お前もだろ和谷」
「うるせーな、気持ちの問題だよ。……コーラかよ」
和谷はぶつぶつ言いながらプルタブを開けた。炭酸が弾ける音がして、泡が少し指にかかった。ヒカルは和谷の隣に座り、盤面を覗き込んだ。
自分の碁が並んでいた。今日のアキラとの一局。白と黒の石が、記憶通りの配置で盤上に乗っている。
「この六十八手目」
和谷が、盤面の一点を指差した。右辺での折衝。ヒカルが定石を外して力勝負に持ち込んだ、あの場面だ。
「ここ、なんでこう打ったんだ」
和谷の声にはいつもの喧嘩腰の調子がなかった。純粋な疑問が込められていた。
ヒカルはコーラを一口飲み、缶を置いて、しばらく盤面を眺めた。
「……こっちの方が、面白かったから」
「は?」
「定石通り受けても打てるけど、それだとつまんないっていうか。塔矢が一番嫌がる形にしたかったんだよ。あいつが本気で悩む碁じゃないと、打ってる意味がねえから」
和谷は黙った。盤面を睨み、何かを確かめるように石を一つ二つ動かし、それから元に戻した。
「……お前さ、変わったよな」
和谷が言った。盤から目を離さないまま。
「そうか?」
「変わった。前はもうちょっと……何ていうか、迷ってた。一手一手に確信がないっていうか、正解を探してるみたいな打ち方だった。でも今日の碁は違う。全部自分で決めてる感じがした」
伊角が顔を上げた。メモの手を止めて、ヒカルの方を見ている。
「和谷の言う通りだと思う。序盤の組み立てが以前と全然違う。……進藤、中国にいた頃の碁とも違うし、プロ試験の頃とも違う。何かきっかけがあったのか?」
ヒカルはコーラの缶を指先で回した。きっかけ、と聞かれて、頭に浮かんだのは北斗杯のことだった。韓国の会場の空気。ヨンハの鋭い目つき。あの大将戦で負けた夜の、息ができなくなるような悔しさ。帰りの飛行機で窓の外をぼんやり眺めながら、自分に何が足りなかったのかをずっと考えていた。足りなかったのは技術ではなく、覚悟だったのだと気づいたのは、成田に着いた後だった。
「……さあ。よくわかんねえ。ただ、迷うのやめたんだよ」
ヒカルは、それ以上うまく言葉にできなかった。言語化できないものが自分の碁の中にある。それが強さなのか弱さなのかも、まだわからない。ただ、石を握った時の感覚が、半年前とは明らかに違うのだ。以前は手が止まる瞬間があった。盤面の奥に答えがあるはずなのに、それを指し示してくれる声がもう聞こえなくて、自分一人の判断で石を置くことが怖かった。今は——怖くはない。怖くなくなった理由は、自分でもよくわからないけれど。
和谷がポテトチップスの袋に手を突っ込み、ばりばりと音を立てて食べた。
「ま、強くなったのは認めるよ。……ムカつくけど」
最後の一言に、本音が滲んでいた。ヒカルにはそれがわかった。和谷の中にある複雑なものの輪郭が、なんとなく見える。嫉妬と呼ぶには生々しすぎて、友情と呼ぶには刺がありすぎる、そういう感情だ。
だがヒカルは、それに触れなかった。触れるべきでないことを、本能的に知っていた。
「じゃあ今度打とうぜ和谷。ボコボコにしてやるよ」
「うるっせえ! 返り討ちにしてやるっつーの!」
伊角が苦笑しながら二人を見ていた。そしてメモ帳をぱたりと閉じ、缶コーラに手を伸ばした。
〇
話はいつの間にか碁から離れていた。
和谷が最近観た映画の話。伊角が中国留学時代に食べた激辛料理の話。ヒカルが碁会所で出会った変なおじさんの話。どれも取るに足らない雑談で、盤上の読みとは何の関係もない。
だが、ヒカルにはこの時間が必要だった。
碁を打っている間、ヒカルの世界は盤面の上に凝縮される。十九路の格子の中に宇宙があり、相手との対話があり、自分自身との問答がある。それは途方もなく濃密な時間で、同時に途方もなく孤独な時間だ。対局中、ヒカルの隣には誰もいない。師匠もいなければ、友人もいない。あるのは自分の脳味噌と、相手の思考だけだ。
だからこそ、盤を離れた場所での雑談が、水のように沁みる。どうでもいい話をして、どうでもいいことで笑って、スナック菓子を分け合う。それだけで、碁に張り詰めた神経が少しずつ緩んでいく。
佐為がいた頃は——と、ヒカルはふと思った。思って、すぐに頭を振った。「いた頃」と「いなくなった後」を比べるのは、もうやめたのだ。比べたところで佐為は戻ってこない。戻ってこないものを数え続けるのは、碁で言えば死に石にしがみついているのと同じだ。手放した方がいい。手放して、次の一手を考えた方がいい。
それが正しいことなのか、冷たいことなのか、ヒカルにはまだわからなかった。ただ、そうやって日々を送ることに決めたのだ。北斗杯が終わった後のある朝、顔を洗いながら、なんとなく。
「あ、これ越智が教えてくれた詰碁なんだけどさ」
和谷がノートを取り出して、ちゃぶ台の上に広げた。手書きの碁盤に、黒と白の丸が書き込んである。字が汚くて半分読めないが、問題自体はかなり高度なものだった。
「越智のやつ、これ三十秒で解いたって言い張るんだけど、俺どう考えても解けねえんだよ。伊角さんは?」
「……正直、まだ途中。白が生きる筋が見えない」
「だろ? 進藤、お前やってみろ」
ヒカルはノートを引き寄せ、図面を見た。しばらく黙って石の配置を追い、指先で空中に見えない石を置く仕草をした。十秒、二十秒。
「……ここに打って、次にここ。白が受けたらこっちに回って、ここで劫になる」
和谷が目を剥いた。
「嘘だろ。三十秒かかってねえぞ」
「いや、普通に見えるだろ、これ」
「見えねーよ! 普通は見えねーんだよ!」
和谷がノートを取り返し、伊角と二人で検証を始めた。ヒカルの読み筋を追いかけて、うなったり首をかしげたりしている。ヒカルはその様子を見ながら、コーラを飲んだ。
こういう時、以前はもう少し気を遣っていた。自分だけ速く解けてしまうことに、かすかな居心地の悪さがあった。和谷が悔しそうな顔をするのが、申し訳ないような気がしていた。
今は——そうでもない。
和谷は悔しがっているが、目は笑っている。伊角は黙って答えを検証しているが、ペンを走らせる手が速い。二人ともヒカルの読みを「すごい」とは言わない。ただ「本当にそうなるのか」を確かめ、自分の引き出しに入れようとしている。それが、仲間ということなのだろう。
特別扱いされない。神格化されない。ただの、碁が好な同業者として、同じちゃぶ台を囲んでいる。ヒカルにとってこの部屋は、そういう場所だった。
〇
気がつくと、時計は十一時を回っていた。
終電の時間が近い。伊角が「そろそろ」と腰を上げ、ヒカルも続いた。和谷だけは自分の部屋なので動く必要がないが、玄関まで見送りに来た。
「伊角さん、来月の棋聖戦予選、頑張って!」
「ああ。……進藤も、次の手合い気を抜くなよ。今日みたいな碁ばかり打てるわけじゃないんだから」
伊角の言葉には、年長者らしい落ち着きと、経験に裏打ちされた重みがあった。中国での修行から帰ってきた伊角は、以前よりも言葉が少なくなり、その分、一つ一つの言葉に芯が通るようになっていた。
ヒカルは素直に頷いた。
和谷がドアの枠に寄りかかって、二人を見送った。
「進藤」
ヒカルが振り返った。
「……また来いよ。越智にも声かけとくから」
それだけ言って、和谷はドアを閉めた。
伊角と二人、アパートの階段を降りる。錆びた手すりが、握ると冷たかった。
「和谷、嬉しかったんだと思うよ」
伊角が、前を向いたまま言った。
「え?」
「今日の進藤の碁を見て。悔しいのと嬉しいのが半々くらいで、でも誰かに話したくてたまらなかった。だから呼んだんだよ、きっと」
ヒカルは返事に詰まった。伊角はこういうことをさらりと言う。和谷が絶対に自分では言えないことを、代わりに翻訳してくれる。
「……伊角さんは?」
「僕?」
「悔しかった?今日の俺の碁」
伊角は少し考えて、笑った。
「悔しいよ。同い年の人間が、あんな碁を打ってるのを見たら。……でも、それより先に、もっと強くなりたいと思った。進藤の碁を見ると、そう思わされるんだ。困ったことに」
駅で伊角と別れた。改札をくぐる前に伊角が振り返り、小さく手を上げた。ヒカルも手を上げ返した。
〇
ホームで電車を待ちながら、ヒカルは一人になった。
駅は閑散としていた。終電に近い時間帯。サラリーマンが数人、疲れた顔でベンチに座っている。向かいのホームでは、酔っ払いが何か歌っている。
夜風がホームを吹き抜けた。五月の風は乾いていて、ほんの少し甘い匂いがした。近くの街路樹の若葉の匂いかもしれない。
ヒカルはポケットの中の扇子を握った。
佐為——と、心の中で呼びかけた。返事がないことは知っている。知っていて呼ぶ。もう習慣になっている。朝、目が覚めた時。対局が終わった時。夜、寝る前。一日に何度か、心の中で名前を呼ぶ。返ってくるのは沈黙だけだ。
だが、今夜の沈黙は、いつもより穏やかだった。
今日、ヒカルはアキラに勝った。自分の力で。自分の碁で。アキラが「やっと来たな」と笑ってくれた。和谷と伊角が棋譜を囲んで、ああでもないこうでもないと騒いでくれた。碁を打って、勝って、仲間と会って、どうでもいい話をして、コーラを飲んで帰る。それだけの一日なのに、胸の中がちゃんと温かい。
電車が来た。銀色の車体が滑り込み、ドアが開く。ヒカルは乗り込み、空いている席に座った。
窓の外を、夜の街が流れていく。ビルの明かり。道路の信号。歩道橋の上を走る自転車の影。どれもこれも、ありふれた東京の夜景だ。
ヒカルは目を閉じた。
俺、今、すげー楽しいよ——と、心の中で呟いた。
誰に向けて言っているのかは、自分でもよくわからなかった。扇子の持ち主に向けてかもしれないし、今日対局したライバルに向けてかもしれないし、缶コーラを開けてくれた友人たちに向けてかもしれない。あるいは、単に自分自身に言い聞かせているだけかもしれない。
強くなるのが楽しい。碁を打つのが楽しい。明日も打てるし、明後日も打てる。来月には手合があるし、その先にはもっと大きな棋戦がある。まだ見ぬ強敵がいて、まだ見ぬ盤面がある。
時間は無限にあるような気がした。
十五歳の夜は長く、五月の風は心地よく、電車の揺れは穏やかだった。ヒカルはそのまま、うとうとと眠りに落ちた。手はポケットの中で、扇子を握ったままだった。