シン・ヒカルの碁『声が聴こえる』   作:懸想

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第3話 六畳一間の戦場

和谷義高が自分の碁に嫌気が差したのは、九月の手合が終わった直後だった。

相手は同世代のプロで、段位も棋力も自分とほぼ互角の男だった。互角、というのは「どちらが勝ってもおかしくない」という意味であり、すなわち「どちらも飛び抜けてはいない」という意味でもある。結果は和谷の白番二目半勝ち。手堅いヨセで逃げ切った。盤上に派手な場面はひとつもなかった。

勝ったのに、胸の中に鉛が沈んでいるような気分だった。

対局を終えて棋院の廊下を歩く。掲示板の横を通りかかった時、足が止まった。壁に貼られた棋譜速報。韓国の新鋭が中国のトップ棋士を破った一局の解説が載っている。序盤の構想力が圧倒的で、中盤の戦闘は凄惨と言っていいほど激しい。石が生きているように見える、と記者が書いている。

和谷はその棋譜をしばらく眺め、それから自分が今日打った碁を思い返した。

比べるまでもなかった。

向こうは十九路の盤面を戦場にしている。こっちは帳簿をつけているようなものだ。間違いはない。計算も合っている。でも、こんな碁を百局打ったところで、韓国の若手にも中国の若手にも届きはしない。

五月の若獅子戦で見た、進藤とアキラの碁が頭をよぎった。あの二人の碁は帳簿ではなかった。一手ごとに火花が散り、盤面全体が呼吸しているようだった。同い年——いや、進藤は自分より一つ下だ——の人間が、あんな碁を打っている。

和谷は掲示板から目を逸らし、エレベーターに向かった。下唇を噛んでいることに、自分では気づいていなかった。

 

 

伊角慎一郎が和谷のアパートを訪ねてきたのは、その三日後の夜だった。

手土産は缶コーヒーの六本パックと、中国の囲碁雑誌の束。雑誌はすべて中国語で、和谷には一文字も読めない。

 

「これ、何て書いてあるんですか」

 

和谷がページをめくりながら聞くと、伊角はちゃぶ台の向かいに座り、缶コーヒーのプルタブを開けた。

 

「韓国と中国の若手棋士の研究体制についての特集だよ。向こうでは十代の院生が毎日八時間、集団で棋譜の検討をしている。一人で打って一人で復習する日本式とは、根本的に違う」

 

伊角の声は穏やかだったが、言葉には重みがあった。中国に留学していた頃に見た光景が、まだ鮮明に残っているのだろう。和谷は雑誌の写真を見た。広い部屋に碁盤がずらりと並び、若い棋士たちが向かい合って石を打っている。壁には大きなホワイトボードがあり、定石の変化図がびっしりと書き込まれていた。

 

「……集団で研究して、意味あるんですか。碁って結局、盤の前に座ったら一人じゃないですか」

 

和谷の問いに、伊角は少し考えてから答えた。

 

「一人で打つのは対局の時だけだ。でも、対局に持ち込む『武器』は、一人で作るより大勢で作った方がいい。向こうの若手は、布石の新手を試す時、まず仲間にぶつけて穴を探してもらう。穴が見つかったら修正して、また試す。それを何十回も繰り返して、やっと実戦に投入する」

 

和谷は黙った。缶コーヒーをひと口飲んで、天井を見上げた。

日本では、そういうことをやっている若手はいない。強い人間はみんな一人で勉強している。塔矢アキラは塔矢門下の閉じた研究会で鍛えられた。進藤ヒカルに至っては、誰に師事しているのかすらよくわからない。あいつの碁の中に時々見える異質な大局観は、いったいどこから来ているのか。

一人でやっていては、追いつけない。

その思いは、ここ数ヶ月ずっと和谷の中にあった。ただ、どうすればいいのかがわからなかった。伊角の話を聞いて、輪郭がぼんやりと見え始めている。

 

「……伊角さん。俺、一つ聞いていいですか」

「何だ?」

「伊角さんは、中国で強くなったと思いますか。留学して」

 

伊角はコーヒーを置いた。

 

「強くなったかは、わからない。でも、一つだけ確実に変わったことがある」

「何です」

「自分一人の頭で考えられることには限界がある、ってことを知った。碁は一人で打つけど、碁を『磨く』のは一人じゃできない」

 

和谷は、その言葉を反芻した。碁を磨く。一人じゃできない。

師匠の森下九段が先週の稽古の後に言った言葉が、不意に蘇った。飲みかけの湯呑みを置きながら、独り言のように呟いた一言だ。

——塔矢家みたいにはなれんでも、おまえらなりのやり方はあるだろう。一人で強くなれる時代はもう終わったぞ。

あの時は聞き流してしまった。だが今、伊角の言葉と重なって、はっきりとした像を結び始めている。

 

「……伊角さん。来週の火曜、空いてますか」

「空いてるけど、何だ?」

「ここで棋譜検討しませんか。俺と伊角さんと、あと何人か呼んで。越智とか、本田とか」

 

伊角は少し驚いた顔をし、それからゆっくり頷いた。

 

「いいね。……進藤も呼ぶか?」

 

和谷は一瞬だけ迷った。進藤を呼べば、検討の質は間違いなく上がる。だが同時に、進藤がいるだけで場の空気が変わる。あいつの碁の前では、自分たちの検討がどうしても見劣りする。それが嫌だ、と思う自分がいる。

だが、和谷は頷いた。

 

「呼びます。あいつ抜きでやっても意味ないでしょ」

 

本心だった。嫌なものは嫌だが、それとこれとは別だ。強くなりたいなら、自分より強い人間のそばにいるしかない。その程度の割り切りは、棋士としての最低限の覚悟だ。

 

 

翌週の火曜日。午後三時。

和谷のアパートは、人口密度の問題で崩壊しかけていた。

六畳一間に碁盤が二面。ちゃぶ台の上に一面、畳の上に直置きで一面。そこに五人の若手棋士がひしめき合っている。

伊角は窓際で正座し、持参した棋譜用紙にペンを走らせている。越智康介は入口に近い場所に胡座をかき、眼鏡の位置を直しながら盤面を睨んでいる。本田はちゃぶ台の端に座り、和谷が買ってきた柿の種をぽりぽりと食べている。そして進藤ヒカルは、碁盤の前に寝転がるようにして頬杖をついていた。

 

「狭えな、ここ」

 

ヒカルの第一声がそれだった。

 

「うるせえ。文句あるなら来るな」

「文句じゃねーよ。事実だろ」

「……騒がしいですね」

 

越智が眼鏡越しに二人を一瞥した。声に棘があるが、来ている時点で興味があるのは明白だった。和谷が電話で「中韓の最新棋譜を検討する」と言った時、越智は三秒の沈黙の後に「場所と時間を」と返してきた。彼なりの参加表明だった。

 

「じゃあ始めるぞ。これ、先月の韓国リーグの棋譜。伊角さんが持ってきてくれた」

 

和谷が碁盤の上に石を並べ始めた。韓国の若手トップ同士の対局。序盤から激しい接触戦が続く、力強い碁だった。

石が並ぶにつれて、部屋の空気が変わった。

さっきまでの雑談の緩さが消え、五人の視線が盤面に集中する。コンビニの袋や缶ジュースが散乱した六畳間が、急に戦場の匂いを帯びた。

 

「この三十五手目のツケ、どう見る」

 

和谷が問いかけた。

 

「定石外れですね。ただ、次のハネとの組み合わせで成立している」

 

越智が即座に答えた。盤面をほとんど見ずに、記憶だけで変化を追っている。この男は詰碁の処理速度が異常に速い。頭の中にデータベースがあるようなものだ。

 

「でも、そこで白がこう受けたら?」

 

本田が石を一つ置いて変化を示した。伊角がペンを止めて盤面を見る。

 

「そうすると右辺が薄くなる。黒はそこを突くでしょ。こう、こう、こう」

 

伊角が手順を示す。和谷が「あ、なるほど」と声を上げ、越智が小さく頷いた。五人の視線が交差し、盤上で仮想の変化図が組み立てられていく。一人では十分で行き詰まる検討が、五人いると二十分、三十分と続いていく。誰かが壁にぶつかると、別の誰かが横道を見つける。その繰り返しだった。

 

ヒカルは、ずっと黙っていた。

頬杖をついたまま盤面を見つめ、四人の議論を聞いている。口を挟まない。議論の流れを邪魔したくない、というよりは、四人が辿り着く結論を見届けたいという顔だった。

やがて検討が一段落し、和谷が汗を拭きながら振り返った。

 

「進藤。お前はどう思った」

 

ヒカルは寝転がった姿勢のまま、盤面を指差した。

 

「その三十五手目、俺ならこう打つ」

 

石をひとつ置いた。四人の検討とはまったく違う場所だった。

沈黙が落ちた。

和谷が盤面を凝視する。越智が眼鏡を押し上げる。伊角がペンを止める。本田が柿の種を噛む手を止める。

 

「……なんでそこ」

 

和谷が聞いた。

 

「こっちに打つと、右辺と下辺が同時に見えるから。さっきの変化だと右辺しか見てないだろ。でもここなら、この先の展開で下辺の白にもプレッシャーがかかる」

 

四人が、ヒカルの示した手順を追いかけた。一分ほどの沈黙の後、伊角が小さく息を吐いた。

 

「……本当だ。下辺が連動している」

 

越智が黙ったまま眼鏡を外し、レンズを拭いた。何かを考え込んでいる顔だった。和谷は盤面を睨んだまま、しばらく動かなかった。

悔しいのだ、と和谷自身が一番よくわかっていた。四人で三十分かけて辿り着けなかった場所に、進藤は寝転がったまま十秒で着地した。この差はなんだ。才能の差か。経験の差か。それとも、自分たちには見えない何かが、あいつには見えているのか。

だが——同時に、和谷の中に別の感情もあった。

進藤の一手を見た瞬間、自分たちの検討の「穴」が鮮やかに浮かび上がった。右辺だけを見ていた視野の狭さが、進藤の石によって突き破られた。悔しい。だが、視界が広がった。一人では絶対に気づけなかったことに、こうして集まったおかげで気づけた。進藤を含めて、ここにいる全員の視野を重ね合わせたから、初めて見えた景色がある。

 

「……もう一局やろう。次は中国のやつ」

 

和谷がそう言うと、全員が頷いた。越智でさえ、無言で碁笥に手を伸ばした。

 

 

気がつけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。

時計を見ると夜の八時を過ぎている。五時間近く、棋譜検討とフリー対局を続けていたことになる。

腹が鳴った。誰の腹かは、本人にもわからない。全員が同時に顔を見合わせて、それから笑った。

 

「腹減った」

「俺も」

「……同じく」

 

ヒカルが立ち上がり、大きく伸びをした。

 

「メシ行こうぜ。駅前の定食屋、まだやってるだろ」

 

五人は靴を履いて外に出た。和谷のアパートの階段を降りると、夜風が汗ばんだ肌に心地よかった。秋の虫が鳴いている。住宅街の暗い道を、肩を並べて歩く。

歩きながら、まだ碁の話をしていた。さっきの中国の棋譜の、終盤のヨセが正しかったかどうかで和谷とヒカルが言い争い、越智が「どちらも不正確です」と割って入り、本田が笑い、伊角が「まあまあ」と仲裁する。同じことを棋院の検討室でやったら、もっと整然とした議論になるだろう。だが、ここには棋院にはない空気がある。雑で、うるさくて、スナック菓子の粉が碁石についているような、品のない空気。でもそこには遠慮がない。上下関係もない。あるのは「この局面をどう見るか」という問いだけで、肩書きも段位も関係ない。

 

定食屋に着いた。五人がけのテーブルに無理やり詰めて座る。ヒカルはカツ丼を頼み、和谷は焼き魚定食、伊角はうどん、越智はざるそば、本田はカレーライス。

料理が来るまでの間、和谷は割り箸を弄びながら切り出した。

 

「なあ。来週の火曜も、やらないか」

 

全員がこっちを見た。和谷は少し照れくさそうに、だが目は逸らさずに続けた。

 

「今日やってみて思ったんだけど、一人で棋譜並べるより、何人かで検討した方が見える範囲が広い。それは間違いない。だから——定期的に集まって、海外の棋譜検討と、対局と、あと詰碁のトレーニングをやりたい」

 

伊角が頷いた。「僕も、今日は得るものが多かった」

越智は何も言わなかったが、箸を持つ手が止まっていなかったので、否定ではないのだろう。本田は「俺でよければ」と素直に言った。

ヒカルはカツ丼の卵を箸で崩しながら、

 

「いいんじゃねえの。おれも暇な日は来るよ」

 

軽い調子だった。ヒカルにとっては、和谷の家に集まって碁を打つこと自体が特別ではないのかもしれない。院生の頃からやっていたことの延長だ。だが和谷にとっては、この一言が妙に嬉しかった。進藤が来てくれるなら、検討の質は保証される。それに——こいつが自分の部屋に来て、飯を一緒に食って、碁の話をする。それだけのことが、今は何より心強い。

 

料理が運ばれてきた。

五人はそれぞれの丼や皿に箸をつけ、食べながらも碁の話をやめなかった。ヒカルがカツ丼の肉を持ち上げて「この衣の厚みが緒方先生の碁に似てる」と言い出し、和谷が「意味わかんねーよ」と突っ込み、越智が「比喩として成立していません」と冷たく斬り、伊角と本田が腹を抱えた。

 

店を出る頃には九時を回っていた。

駅の前で解散する時、和谷が思い出したように言った。

 

「火曜の午後三時。場所は俺んち。碁盤は二面しかないから、持ってこられる奴は持ってきてくれ」

 

それが、後に「若手研究会」と呼ばれることになる集まりの、最初の取り決めだった。

もっとも、この時点では誰もそんな大層な名前は考えていない。和谷の頭にあったのは「来週も集まろう」というだけの、ごく単純な話だった。名刺も理念も会則もない。あるのは六畳一間と碁盤二面と、缶ジュースと柿の種だけだ。

だが、それで十分だった。

碁を打つ人間が何人か集まって、互いの碁を見て、言いたいことを言い合える場所。それだけのことが、今の日本の囲碁界には存在していなかった。だから、和谷がそれを作った。天才だからではない。むしろ逆だ。自分が天才でないと知っているからこそ、一人では足りないと正直に認められた。

和谷はアパートの階段を上りながら、少しだけ機嫌がよかった。

部屋に戻ると、畳の上に碁石がいくつか転がっていた。片付けが雑なのは五人全員の責任だが、和谷は拾い集めながら笑った。冷めた缶コーヒーの空き缶と、柿の種の空袋。散らかった六畳間に、まだ五人分の体温が残っている。

汚い部屋だ、と和谷は思った。

でも悪くない。

 

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