シン・ヒカルの碁『声が聴こえる』   作:懸想

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第4話 青き春の定石

「だーかーら! そこはノビだって言ってんだろ進藤!」

 

和谷の怒鳴り声が六畳一間に響いた。秋の午後。窓は少しだけ開いていて、外から金木犀の甘い匂いが入り込んでいる。だが部屋の中の空気はそれどころではなく、若い男の汗とスナック菓子と、ほんのりと碁石のカチカチいう音で飽和していた。

 

「うるせーな和谷。ノビたら重いだろ。ここは軽く飛ぶんだよ」

 

ヒカルがポテトチップスの袋に手を突っ込みながら言い返す。指についた油を気にもせずに黒石を摘むので、碁石がうっすらと光っている。和谷はそれを見るたびに「石に油つけるなっつってんだろ」と怒鳴るのだが、もう何十回目かなので怒鳴る方も受け流す方も手慣れたものだった。

 

「軽いってなんだよ。お前の碁は最近、軽すぎて浮ついてんだよ」

「ハァ? 柔軟って言えよ」

「柔軟と薄いは違う! ここでノビを打たないと右辺が——」

「右辺はあとでいいんだって。全体のバランスを先に——」

「バランスバランスって、お前最近それしか言わねーだろ!」

 

その横で、伊角が急須を傾けながら苦笑していた。彼の前には湯呑みが五つ並んでいて、全員分のお茶を淹れている。もう二十一になる伊角は、この部屋では最年長で、自然と世話役が回ってくる。本人は嫌がっているわけではなく、むしろこの騒がしい時間を楽しんでいるようだった。

少し離れた位置では、越智康介がもう一面の碁盤に向かい、一人で詰碁を解いていた。和谷とヒカルの口論には参加しない。ただ、二人の議論が佳境に入ると手が止まり、盤面をちらりと見る。そして何も言わずに自分の詰碁に戻る。興味がないのではない。聞いた上で、自分の結論を内側で組み立てているのだ。それが越智のやり方だった。

本田は窓際で胡座をかいて、和谷とヒカルの検討を首を傾げながら追いかけている。手元のノートにはメモが走り書きされているが、字が汚くてたぶん本人にも読めない。

 

「……でもさ、進藤の手、なんか異質じゃないか?」

 

本田がぽつりと言った。

和谷とヒカルの口論が止まった。五人の間に、一瞬だけ静かな空気が流れた。

 

「え。そうか?」

 

ヒカルが首を傾げた。本気で怪訝そうな顔をしている。自覚がないのだ。

 

「なんつーか、人間離れしてるっていうか……俺たちが読みで追いかけてる時に、お前だけ別の地図を見てる感じがする」

 

本田の言葉に、伊角がお茶を配る手を止めた。越智の視線がちらりとヒカルに向いた。和谷は何も言わず、盤面を見つめたままだった。

 

「へっ。俺には師匠がいたからな」

 

ヒカルが得意げに鼻を鳴らした。

師匠。ヒカルがときどき口にするこの言葉を、この場の誰もまともに取り合わない。聞くたびに「また出た、進藤の脳内師匠」と笑い飛ばされるだけだ。どこの誰なのか、実在するのか、それとも碁の本か何かのことなのか。問い詰めてもヒカルは曖昧に笑ってはぐらかす。

和谷は最初の頃こそ気になっていたが、今はもう追及しない。進藤には進藤の事情がある。それを掘り返しても碁が強くなるわけではない。それより目の前の変化図だ。

 

「師匠がなんだか知らねーけど、このノビが正しいかどうかは師匠関係ねーだろ。盤面で証明しろ」

「じゃあ打つか? ここから実戦で」

「望むところだ」

 

二人が石を握り直し、検討の盤面がそのまま早碁に移行した。伊角が淹れたお茶は、結局誰にも飲まれないまま冷めていった。

 

 

研究会が終わったのは五時過ぎだった。

伊角と越智と本田が帰り、和谷が「片付けろよ」とぼやく声を背中で聞きながら、ヒカルはアパートの階段を駆け下りた。自転車に跨がり、千駄ヶ谷から市ヶ谷へ向かう。十分ちょっとの道のりだ。

向かったのは、碁会所だった。

行洋が経営する、市ヶ谷のこぢんまりとした碁会所。常連はほとんどが年配の愛好家で、プロ棋士が来ることは滅多にない。だからこそ、ヒカルとアキラにとっては都合がよかった。棋院で顔を合わせれば衆目を集める二人が、ここでは誰にも気づかれずに打てる。

ガラス戸を開けると、煙草の煙と古い畳の匂いがした。カウンターの向こうでは市河さんがお茶を淹れている。ヒカルが入ってくると、彼女はにこりと笑って奥を指差した。

奥の席に、学生服姿の塔矢アキラが座っていた。

碁盤の前で背筋を伸ばし、石を並べている。何かの棋譜を一人で再現しているようだった。ヒカルの足音が近づくと、アキラは顔を上げずに時計を見た。

 

「五分遅刻だ」

「わりぃわりぃ。和谷がしつこくてさ」

 

ヒカルはアキラの向かいに腰を下ろした。碁盤を挟んで向かい合う。これがもう何十回目になるのか、数えていない。

アキラはまだ研究会には参加していない。和谷たちの集まりの存在は知っているはずだが、自分から入りたいとは言わないし、ヒカルも誘わない。アキラには塔矢門下の研究があり、父親の行洋という絶対的な指標がある。和谷の六畳間でポテトチップスを食べながら口論する場所に、アキラは似合わない——と、少なくとも今のヒカルは思っている。

代わりに、こうして碁会所で落ち合う。公式戦でもなく、研究会でもない、二人だけの対局。誰に見せるためでもない、ただ互いの碁をぶつけ合う時間。

 

「昨日の手合、勝ったらしいな」

 

アキラが石を並べながら言った。情報が早い。棋院の結果速報を毎日チェックしているのだろう。

 

「おう。ギリギリだったけどな」

「君の碁は荒い。見ていてハラハラする」

「うるせー。勝てばいいんだよ、勝てば」

「美しくない勝ちは、勝ちじゃない」

 

会話の端々で火花が散る。だが、そこに殺気はなかった。研究会の和谷との口論とも質が違う。和谷との議論は本気の怒鳴り合いだが、アキラとのやり取りは、互いの碁の輪郭をなぞり合うような作業に近い。お前はここが甘い、お前こそここが硬い、と指摘し合いながら、二人はそれぞれの碁を研いでいく。子犬がじゃれ合っているようにも見えるし、刃物を砥石にかけているようにも見える。

 

「行くぞ、塔矢」

「ああ。来い」

 

石音が響き始めた。窓の外は秋晴れだった。西日が碁盤の端を赤く染め、白石と黒石の影が長く伸びている。常連の老人がちらりとこちらを見たが、すぐに自分の対局に戻った。二人の碁が尋常でないことには気づいているだろう。だが、この碁会所では誰もそれを大げさに騒がない。それがここの良さだった。

碁会所を出た時には、空がすっかり暗くなっていた。

結果はヒカルの二目半勝ち。際どい碁だった。中盤でアキラに主導権を握られ、終盤のヨセでなんとかひっくり返した。アキラは唇を引き結んだまま石を片付けていたが、盤を離れると表情が少し緩んだ。悔しいのだろうが、それを長く引きずるタイプではない。

 

「ラーメン食おうぜ」

 

ヒカルが言うと、アキラはため息をついた。

 

「また? 先週も行っただろう」

「うまいからいいだろ。おばちゃんが待ってるって」

「待ってはいないと思うけど」

 

碁会所から歩いて五分ほどの場所に、小さなラーメン屋がある。カウンター八席だけの、どこにでもある町のラーメン屋だ。壁には色褪せたメニューの短冊が貼られ、換気扇がごうごうと唸っている。ヒカルとアキラの「行きつけ」になったのはここ半年ほどのことで、碁会所の後はだいたいここに寄る。

 

「おばちゃん! 味噌チャーシュー大盛り! 餃子も!」

 

ヒカルがカウンターに座るなり叫んだ。厨房の奥から「はいよー」と威勢のいい声が返ってくる。アキラはメニューをじっと見つめて——毎回同じものを頼むくせに、毎回メニューを確認する——「塩ラーメン、ネギ抜きで」と静かに注文した。

 

「お前さあ、もっと食えよ。細すぎんだよ」

「君が食べ過ぎなんだ。太るぞ」

「碁打ちは頭使うからカロリー消費すげーんだって。テレビで言ってた」

「それ、信じてるの?」

 

丼が運ばれてきた。湯気が二人の間に立ち上る。ヒカルの味噌チャーシューは脂が浮いて琥珀色に輝いており、アキラの塩ラーメンは澄んだスープに細い麺が沈んでいる。注文から碁の棋風が見えるようだ、と思ったが、ヒカルはそんなことは考えず、割り箸を割ってさっそく麺を啜った。

ズルズルと音を立てる。アキラは音を立てずに食べる。この違いも、もう慣れた。

 

「なあ、塔矢」

 

ヒカルがレンゲでスープを掬いながら言った。目は丼の中を見ている。

 

「俺たち、いつか世界に行くのかな」

 

唐突な問いだった。アキラはナプキンで口元を拭い、少し考えてから答えた。

 

「……行くさ。父さんが行った場所に。いや、それ以上に高い場所に」

 

アキラの声は静かだったが、確信に満ちていた。行洋の息子として生まれ、物心ついた頃から世界の碁を見てきた彼にとって、「世界」はいつか必ず到達する場所であり、それ以外の選択肢を考えたことがない。

 

「だよな!」

 

ヒカルがニカッと笑った。餃子を一つ口に放り込み、頬を膨らませたまま続ける。

 

「韓国のヨンハとか、中国の奴らとか。全員ぶっ倒して、俺たちが一番になるんだ」

「『俺たち』じゃない。『僕が』だ」

「なんだとコラ」

 

笑い声がカウンターに響いた。隣で食べていたサラリーマンが怪訝な顔でこちらを見たが、二人は気にしなかった。

こうして碁を打って、言い争って、ラーメンを食べて笑っている時間が、ヒカルにとっては何よりの宝物だった。和谷のアパートでの研究会も、伊角や越智との検討も大事だが、この碁会所とラーメン屋での時間には、それとは別の意味がある。仲間ではなくライバルと過ごす時間。互いに一歩も譲らず、だからこそ一番正直でいられる相手。

ヒカルはアキラの横顔を見た。塩ラーメンのスープを静かに啜っている。前髪が少し伸びて、目にかかりそうになっている。もう少しで十七歳になるはずだが、背はヒカルとほとんど同じで、肩幅はヒカルの方がわずかに広い。それでも碁盤の前に座ると、こいつの方がずっと大きく見える。存在感が違う。座っているだけで空気の密度が変わるような男だ。

いつか、こいつと公式戦のタイトルを賭けて戦う日が来るのだろうか。

来てほしい、とヒカルは思った。それも早く。対局室で、大勢の前で、持ち時間をたっぷり使って、互いの碁を全力でぶつけ合いたい。ラーメン屋のカウンターではなく、黒い座布団と和室の静寂の中で。

そう思ってから、少しだけ寂しくなった。タイトル戦で向かい合うということは、こうして並んでラーメンを食べる関係とは、たぶん変わる。碁会所で「五分遅刻」と文句を言い合える距離感とも、変わる。それがどういう意味を持つのか、今のヒカルにはまだわからなかった。

 

 

ラーメン屋を出ると、一番星が見えた。

ビルの谷間から覗く細い空に、ひとつだけ白い光が点っている。さっきまで暖かかった空気が、夜になって急に冷えてきた。吐く息が、かすかに白い。

 

「じゃあな、塔矢。来週の手合、負けんなよ」

「君こそ」

 

駅の改札で別れた。アキラは外苑方面へ、ヒカルは反対方向のホームへ。

ヒカルは夜道を一人で歩いた。

研究会の喧騒も、アキラとの碁の緊張も、ラーメンの湯気も、全部が少しずつ遠ざかっていく。代わりに夜の静けさが肌に染みてくる。住宅街の街灯が等間隔に並び、足元をぼんやりと照らしている。どこかの家から夕飯の匂いがした。テレビの音が漏れている。犬が吠えた。

ポケットの中の扇子に触れた。もう癖だった。考えるまでもなく、指が勝手にそこへ伸びる。竹の骨の感触を確かめて、握って、離す。それだけのことだが、毎晩やっている。

 

佐為、と心の中で呼んだ。

返事はない。もう長いこと返事はない。

だが、今夜はそれでいい。寂しくないと言えば嘘になるが、寂しさの質が変わった。刃物のように鋭かったものが、今はもう少し丸い。触れても血は出ない。温かい記憶としてそこにある。春の陽だまりのような、手放したくないけれど手放さなければ歩けない、そういう種類の温かさだ。

 

俺、今すげー楽しいよ。

強くなるのが楽しい。碁を打つのが楽しい。和谷と怒鳴り合うのも、越智に嫌味を言われるのも、伊角さんにお茶を淹れてもらうのも、アキラと碁会所で打つのも、ラーメン屋で馬鹿な話をするのも。全部。

明日も碁を打てる。明後日も打てる。来月には手合があるし、年が明ければ棋戦の予選が始まる。強い相手がいて、うるさい仲間がいて、ラーメン屋のおばちゃんがいて、帰り道には一番星がある。

十七歳の秋。

時間は無限にあるような気がした。この毎日がずっと続くのだと、根拠もなく信じていた。碁を打って、笑って、食べて、寝て、また碁を打つ。その繰り返しの中に、まだ見ぬ未来への道が真っ直ぐに伸びている。アキラと並んで、その道をどこまでも走っていける。じいさんになっても、こうしてラーメンを食って、碁を打って、笑い合っている。それが当たり前の未来だと思っていた。

ヒカルはスキップでもしそうな足取りで夜道を歩いた。

空には一番星。風は冷たいが、腹は温かい。ポケットの中で扇子が揺れている。

二〇〇三年、秋。

進藤ヒカル、十七歳。

まだ誰も何者でもなく、ただ碁が好きなだけの、どこにでもいる若い棋士の、ありふれた一日の終わりだった。

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