シン・ヒカルの碁『声が聴こえる』   作:懸想

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第5話 嫉妬の定跡

負けた。

手合が終わった瞬間、和谷義高の頭にはその二文字だけが浮かんだ。相手は同期入段の三段で、名前を挙げても棋院の外では誰も知らないような男だった。その男に、二目半足りなかった。

感想戦は早々に切り上げた。相手が何か話しかけてきたが、耳に入らなかった。頭を下げて、対局室を出て、廊下の自販機でスポーツドリンクを買って、一気に半分飲んだ。甘い液体が喉を通っていく感触だけが、自分がまだ生きている証拠のようだった。

敗因はわかっている。中盤の勝負手が裏目に出た。読みの精度が足りなかったのではない。読みの「方向」が間違っていた。石の流れを一手分先まで見通せていれば、もう少しましな手があったはずだ。だが、対局中にはそれが見えなかった。終わってから見えた。いつもそうだ。対局中に見えなくて、あとから見える。その「あとから」の繰り返しが、和谷の棋士人生そのものだった。

一階に降りて、棋院の玄関を出た。十月の風は冷たかった。コートを持ってくるべきだったと思ったが、今朝は天気予報を見る余裕もなく家を出た。昨夜、研究会で並べた韓国の棋譜の変化が気になって、明け方まで碁盤に向かっていたからだ。

寝不足のまま手合に臨み、中盤で判断を誤り、負けた。言い訳にもならない。プロはコンディション管理まで含めて実力だ。師匠の森下九段なら「自業自得だ」と一蹴するだろう。

 

棋院の掲示板の前を通りかかった時、足が止まった。

今日の手合結果の速報が貼り出されている。自分の名前を見るのが嫌で目を逸らそうとしたが、その隣の行に、見慣れた名前があった。

進藤ヒカル 三段 ○ 中押し勝ち。

相手は五段の中堅だった。和谷が負けた三段よりも、二段も上の相手だ。それに中押し勝ち。つまり圧勝だ。

和谷は、しばらくその文字列を見つめていた。別に驚くことではない。進藤は最近ずっとこの調子だ。格上に勝ち、格下にも取りこぼさない。手合の星が着実に積み上がっている。三段から四段への昇段も時間の問題だろう。

掲示板から目を離し、歩き出した。駅に向かう道すがら、胸の底にあるものの正体を、和谷は考えないようにした。考えなくても、わかっている。名前をつけたくないだけだ。

 

 

翌日。研究会の日。

和谷のアパートには午後三時にはもう全員が揃っていた。ヒカル、伊角、越智、本田。いつもの五人だ。碁盤を二面並べ、先週から持ち越しの棋譜検討を始める。今日の題材は中国甲級リーグの一局。

検討は順調に進んだ。伊角が全体の構想を読み解き、越智が変化のツリーを頭の中で組み立て、和谷と本田がそれぞれの読みをぶつける。いつもの手順だ。和谷が仕切り、議論が行き詰まると伊角が助け舟を出し、越智が結論を出す。そのサイクルが回っている限り、検討は生産的に進む。

問題は、進藤だった。

ヒカルはちゃぶ台の端に座り、ポテトチップスを食べながら四人の議論を聞いていた。時々盤面に目をやるが、口は挟まない。話を振ると「うん」とか「まあ」とか曖昧に返す。退屈しているわけではなさそうだが、議論に参加する気配もない。

そして、四人の検討がひと段落したタイミングで、ヒカルが石をひとつ置く。それまでの議論を全部聞いた上で、四人の誰も見ていなかった場所に。

 

「ここじゃないかな」

 

軽い口調だった。考え込んだ末に絞り出した結論、という風ではない。棚の上の菓子を取るような、ごく自然な手つきで石を置いた。

和谷はその石を見た。

一目見て意味がわからなかった。三秒後に、ぼんやりと輪郭が見えた。十秒後に、四人が三十分かけて辿り着けなかった場所が、ヒカルのたった一手で突き破られていたことを理解した。

越智が眼鏡を外してレンズを拭いた。伊角がペンを止めて盤面を凝視した。本田が「あー」と間の抜けた声を出した。

和谷は何も言わなかった。石を見つめたまま、黙っていた。

 

わかっている。

進藤は研究会の中で、別の高さにいる。同じ盤面を見ているはずなのに、見えている範囲が違う。和谷たちが地上から山を見上げているとすれば、進藤は上空から山を見下ろしている。だから死角がない。登山道を懸命に探している四人の頭上を、ヘリコプターが通過していくようなものだ。

悔しい、と和谷は思った。

だが、その感情を口に出すわけにはいかない。研究会を立ち上げたのは自分だ。進藤を呼んだのも自分だ。こいつがいるから検討の質が保たれている。こいつが「答え」を出してくれるから、自分たちはその答えを持ち帰って研究できる。それはわかっている。頭ではわかっている。

だが、胸の底にある重たいものは、頭で処理できる類いの感情ではなかった。

 

 

研究会が終わり、全員が帰った後、和谷は一人で部屋に残った。

畳の上に碁石がいくつか転がっている。空き缶が三つ。柿の種の袋が破れて、欠片がちゃぶ台の上に散らばっている。窓の外はもう暗い。開けっぱなしの窓から秋の冷気が入り込み、部屋の温度が急速に下がっていた。

和谷は碁盤の前に座った。

さっきヒカルが置いた一手を、もう一度並べてみた。

手順を追って変化を読む。一つ目の変化を最後まで追い切るのに五分かかった。たしかに、ヒカルの言った通りだ。ここに打つと右辺と中央が連動して、白に受けの余地がなくなる。四人で見落としていたのは、中央の石の「利き」が下辺まで波及するという読みだった。局所的な検討に没頭するあまり、全体の繋がりを見失っていた。

進藤には、それが一目で見えていた。

 

和谷は石を片付け、碁盤を空にした。

そして、今日の自分の手合の碁を並べ始めた。負けた碁だ。

中盤の勝負手。読みの方向が間違っていた場面。石を置いて、じっと見る。もしここで進藤なら、どこに打つだろう。

考えても答えは出ない。進藤の頭の中は、進藤にしかわからない。あいつが何をどう見ているのかを、外から推測することはできても、完全に再現することはできない。そこには「才能」という、努力では埋められない溝がある。

和谷は碁盤から手を離し、天井を見上げた。

古いアパートの天井には、前の住人がつけたらしいシミがある。雨漏りの跡だろう。茶色い染みが、へんな形に広がっている。

 

院生だった頃のことを思い出した。

進藤がプロ試験を受けた年。あの頃は自分の方が格上だった。進藤は強かったけれど、まだ荒削りで、手合で負けることもあった。互いに「同期のライバル」だと思っていた。同じ地面に立って、同じ速さで走っている感覚があった。

いつから変わったのか。

たぶん、はっきりとした境目はないのだろう。進藤が少しずつ速くなり、自分がそれについていけなくなり、気がついたら背中が見えなくなっていた。それだけのことだ。急に突き放されたわけではない。ただ、毎日ほんの少しずつ、差が開いていった。走っている本人にすら気づかないくらい、静かに。

 

和谷は冷蔵庫を開けた。缶ビールが一本だけ残っている。まだ十八だから飲めない。飲めないけれど、缶を手に取って、掌の上で転がした。冷たい。この冷たさを頬に当てたら気持ちいいだろうなと思ったが、やめた。

缶を冷蔵庫に戻し、代わりに麦茶を注いだ。

ちゃぶ台に戻り、麦茶を一口飲む。ぬるい。

 

何が悔しいのかを、和谷は正確に言語化できなかった。

進藤が強いことは受け入れている。あいつに才能があることも認めている。自分がそこに届かないことも——半分くらいは、わかっている。残りの半分は、まだ認めたくない。認めてしまったら、盤の前に座る理由がなくなりそうで怖い。

嫉妬という言葉を使いたくなかった。嫉妬は醜い感情だ。仲間の成功を妬むなんて、器の小さい人間のすることだ。

だが、もしこれが嫉妬でないなら、何なのだろう。

進藤の一手を見た時に胸を突く、あのどうしようもない重さ。すごいと思う気持ちと、自分はあそこに行けないと思う気持ちが、同じ瞬間に押し寄せてくる。すごいと思えば思うほど、自分との距離が鮮明になる。相手を認めることが、そのまま自分を否定することに繋がってしまう。

これを嫉妬と呼ぶのだとしたら、嫉妬というのは、思っていたより複雑なものだった。憎しみとは違う。進藤のことが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。あいつと碁の話をしている時間は楽しいし、研究会であいつが答えを出してくれると、視界が広がる。それは紛れもない事実だ。

ただ、その「視界が広がる」という快感の直後に、必ず「自分の目では見えなかった」という苦さがやってくる。その二つがセットになっていて、片方だけを味わうことができない。

 

 

携帯が鳴った。

画面を見ると、進藤からだった。メールではなく電話だ。珍しい。

 

「おう、どうした」

「和谷、今日手合だったろ。どうだった?」

 

和谷は一瞬だけ迷って、正直に答えた。

 

「負けた」

「マジか。誰に?」

「堀田三段」

「堀田……あー、あの人か。ヨセ強いもんな」

 

ヒカルの声に同情の色はなかった。プロ同士の手合で負けることは日常だ。いちいち慰め合っていたらキリがない。ヒカルはそういう距離感を持っている。優しくもなく冷たくもなく、ただ事実として受け取る。和谷はそれが楽だった。

 

「で、何の用だよ」

「明日、碁会所行かね? 打ちたいんだけど」

「研究会じゃなくて?」

「研究会は明後日だろ。明日は二人で。たまにはガチでやろうぜ」

 

和谷の手が、麦茶のコップを握りしめた。

ガチ、と進藤は言った。たまにはガチでやろう、と。その言葉にはおそらく深い意味はない。研究会での検討碁ではなく、勝ち負けを本気で争う一局が打ちたい。それだけのことだろう。ヒカルにとって和谷は、気軽に「打とうぜ」と誘える相手なのだ。

それはたぶん、信頼の証だ。

だが同時に、それは「勝てなくても構わない」という無意識の格付けでもある。塔矢アキラには碁会所でこっそり打つ。公式戦での直接対決を意識した、張り詰めた対局。和谷には「たまにはガチでやろうぜ」と電話をかける。肩の力を抜いた、気楽な一局。

その差が、和谷にはわかる。わかってしまう。進藤の中での自分の位置が、言葉の端々から正確に読み取れてしまう。碁の読みでは進藤に勝てないくせに、こういう盤外の機微だけは鋭敏に感じ取ってしまう自分が、和谷は嫌いだった。

 

「……いいぜ。何時だ」

「二時。飯は先に済ませてこい」

「わかった」

 

電話が切れた。

和谷は携帯を閉じて、ちゃぶ台の上に放った。

 

明日、進藤と打つ。負けるだろう。最近の手合成績から見て、勝率は三割がいいところだ。

それでも、打つ。

負けた碁から何かを拾う。拾ったものを研究会に持ち帰る。持ち帰ったものを検討して、自分の引き出しに入れる。その繰り返しでしか、和谷義高は強くなれない。一手で盤面を変える才能はないが、百局打って一つずつ穴を塞いでいく根気ならある。それが自分の武器だと、この一年で少しずつわかってきた。

和谷は碁盤の前に戻った。

さっき並べた自分の敗着の局面を、もう一度見る。中盤の勝負手。読みの方向が間違っていた場面。今度は進藤ならどう打つかではなく、和谷義高ならどう打つべきだったかを考えた。進藤の碁を真似しても意味がない。あいつの目は借りられない。自分の目で見て、自分の手で打つしかない。

 

石を一つ置いた。

さっきとは違う場所だ。進藤が選ぶような鮮やかな一手ではない。地味で、重たくて、効率もあまりよくない手だ。だが、この手なら自分の読みの範囲内で打ち切れる。最後まで自信を持って打てる。自分の足で歩ける道は、ここだ。

和谷はその石を見つめた。

派手さはない。記憶に残るような手でもない。でも、これが和谷義高の一手だった。今の自分が持っているものを全部注ぎ込んだ、嘘のない一手だった。

 

夜が更けていた。窓から入る風が冷たくなっている。隣の部屋からテレビの音が微かに聞こえる。腹が減ったが、冷蔵庫には麦茶しかない。明日の朝、コンビニでおにぎりを買おう。それから碁会所に行って、進藤に負けよう。負けて、何かを拾って、また明日の自分に繋げよう。

碁盤を片付ける気にはなれなかった。明日の朝、この局面をもう一度見たかったからだ。和谷はそのまま布団に潜り込み、碁盤を枕元に置いて、電気を消した。

天井のシミが暗がりに溶けていく。

目を閉じると、今日の研究会でヒカルが置いた石が、瞼の裏にちらついた。鮮やかで、正確で、自分には決して打てない一手。

きれいだな、と和谷は思った。

それから、畜生、と思った。

二つの感情を抱えたまま、いつの間にか眠りに落ちた。

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